第26話「迫る赤眼の魔将」

「見えてきました、ギアラ砦です」 護衛兵の声に、俺は馬車の窓から顔を出した。三日間の長旅の末、ようやく目的地に到着する。 霧がかった山々の間に、灰色の巨大な要塞が姿を現す。ギアラ砦——西方国境を守る重要な防衛拠点だ。高い城壁と複数の塔、険しい山道を通ってのみアクセスできる自然の要害。 「難攻不落と言われる砦ですね」 馬車の中でセリシアが地図を広げながら言った。 「確かに地形的には守りやすい。だが、それはラドルフも承知の上で来るということだ」 馬車は砦の大門に到着し、一行は厳重な警備の下、中へと案内された。 砦の中は活気に満ちていた。防衛の準備が急ピッチで進められており、兵士たちが武器や物資を運び、壁の補強作業を行っている。民兵も動員されており、老若男女問わず砦の防衛に参加しているようだった。 「エストガード補佐官、お待ちしておりました」 現地の指揮官、グレイスン大佐が出迎えた。壮年の男性で、風格のある身なりだが、顔には疲労の色が濃い。 「状況を説明していただけますか?」 グレイスン大佐は本部へと案内しながら話を始めた。 「三日前に偵察隊が帝国軍の大規模な部隊移動を確認しました。彼らはギアラ砦に向かっているのは間違いありません」 本部に着くと、大きな作戦テーブルの上に詳細な地図が広げられていた。 「帝国軍の推定規模は?」 「四千から五千。重装歩兵を中心に、騎兵隊と弓兵も含まれます」 「こちらの戦力は?」 「砦の常駐部隊が八百。あなた方と共に到着した増援が三百。そして民兵が約五百」 数で言えば完全に不利だ。しかし、強固な砦を守る側には有利があるはずだった。 「物資の状況は?」 「食料と水は二週間分。矢と投石用の岩石は十分。しかし、医療品はやや不足しています」 セリシアが地図を詳しく調べながら質問を続けた。 「砦の弱点はどこですか?」 グレイスン大佐は少し躊躇したが、正直に答えた。 「西側の壁は他より低く、そこを強化している最中です。また、北側には小さな水路があり、非常時の水の確保に使いますが、敵に発見されれば侵入路になり得ます」 「わかりました」 俺は地図に目を通しながら、頭の中でラドルフの動きを予測していた。彼なら、このような状況でどう攻めてくるか? 単純な正面突破では難しい。彼は必ず何か策を持っているはずだ。 「大佐、民間人の避難は?」 「既に完了しています。砦内に残っているのは志願の民兵のみです」 「良かった」 俺は少し安堵した。少なくとも民間人の犠牲は避けられる。 「では、防衛計画を立てましょう」 作戦テーブルを囲んで、詳細な打ち合わせが始まった。グレイスン大佐の経験、セリシアの分析力、そして俺の戦術——それらを組み合わせて最善の防衛策を練る。 *** 「西側と北側の補強は順調です」 翌朝、砦の壁の上から防衛準備の進捗を確認する。夜通し作業が続けられ、弱点だった部分が着実に強化されていた。 「エストガード殿」 振り返ると、フェリナが立っていた。彼女は情報分析のために同行していたが、昨日は疲労のため休んでいた。 「フェリナ、体調はどうだ?」 「大丈夫です。それより、これを」 彼女は小さな巻物を差し出した。 「偵察隊からの最新報告です。ラドルフの部隊はあと二日で到着する見込みとのこと」 「二日か……それまでに準備を終えなければ」 「それと、もう一つ重要な情報があります」 フェリナの表情が真剣さを増した。 「ラドルフの部隊構成ですが、通常の構成とは異なっています。重装歩兵が多く、包囲用の装備も目立ちます」 「包囲作戦か……」 俺は思案した。ギアラ砦のような要塞に対しては、短期決戦より長期包囲の方が効果的だ。物資を断ち、内部から崩壊させる戦法。 「もう一つ。彼は『特殊部隊』も率いているようです」 「特殊部隊?」 「はい。彼が直々に訓練した精鋭で、普通の兵士とは装備も戦法も異なると言われています」 俺はフェリナの情報に感謝し、即座にセリシアと共有した。 「ラドルフの特殊部隊……聞いたことがあります」 セリシアは記録石を取り出し、過去の報告書を参照した。 「彼らは『影狩人』と呼ばれ、主に潜入や奇襲を得意とします。普通の兵士では太刀打ちできないほど訓練されています」 「北側の水路……」 俺は直感的に理解した。ラドルフは表向きは包囲を仕掛けつつ、特殊部隊による内部からの破壊を狙っているのだろう。 「水路の警備を強化しよう。信頼できる兵士を配置して、24時間体制で監視する」 セリシアは頷き、すぐに命令を出した。 「あと一つ、我々の情報収集体制を見直したい」 「どういうことですか?」 「ラドルフの戦術をより正確に予測するため、タロカ牌を使った『流れ』の可視化を試みたい」 セリシアは少し驚いた表情を見せたが、すぐに理解を示した。 「タロカによる戦術分析……面白い試みですね」 俺は小部屋を用意してもらい、そこに木製のタロカ牌を模した石片を配置した。それぞれの石片はラドルフの部隊や動きを象徴している。 「これで『流れ』を読みやすくなる」 フェリナも興味深そうに見ていた。 「これがあなたの『読み』の秘密なのですね」 「ああ。タロカや麻雀では、『牌』の配置で流れを可視化できる。戦場でも同じことができるはずだ」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第27話「開戦前夜」

急ぎで集められた作戦会議は、夜遅くまで続いた。グレイスン大佐を含め、砦の主要将校と、我々がギアラ砦防衛のために練り上げた最終作戦を確認する場だ。 「西側の壁面は予想通り、敵の主要攻撃目標になる可能性が高い」 俺は石の模型で作られた砦の西側を指差した。 「この正面からの攻撃は、彼らの『表の動き』に過ぎない。真の狙いは、北側の水路を通じた内部侵入だろう」 将校たちは険しい表情で頷いた。特殊部隊「影狩人」の存在は、その危険性をいっそう高めていた。 「北側水路への警備配置を見直しました」 セリシアが資料を広げながら説明を続ける。彼女の声には疲労が混じっていたが、分析は冷静で的確だった。 「兵力の三割を北側に集中させ、水路出口には特に信頼できる兵で固めます。交代のシフトも、前回の案から変更しています」 俺はセリシアの顔を見た。彼女の表情には緊張の色が濃く、額には軽い汗が浮かんでいる。一瞬、彼女の手が小刻みに震えるのが見えた気がした。 「……セリシア」 声をかけると、彼女は一瞬だけこちらを向き、微かな微笑みを返した。その表情は疲労と緊張に満ちていたが、それでも決意を失ってはいなかった。 「では、ここまでの計画で実行に移します」 グレイスン大佐が立ち上がり、将校たちに指示を出した。 「全員、持ち場に戻り、明日に備えよ。夜明け前には彼らの動きが始まるだろう」 将校たちが敬礼して散っていく。最後に残ったのは俺とセリシア、そしてグレイスン大佐だけだった。 「エストガード殿、セリシア少佐」 大佐は疲れた顔に浮かべた微かな笑みで言った。 「少しでも休んでおくといい。明日は長い一日になるだろうから」 「ありがとうございます」 俺とセリシアは部屋を出た。廊下は松明の光が揺らめき、兵士たちの足音が絶え間なく響いていた。明日の戦いに向けた準備は夜通し続くだろう。 「一時間前に確認した際、フェリナは最後の情報収集に出ていた」 セリシアが歩きながら言った。 「彼女なら大丈夫だ。誰よりもラドルフを知っている」 「そうね」 セリシアの歩みが少し遅くなり、壁に寄りかかった。 「大丈夫か?」 「ええ……少し、疲れているだけ」 彼女の顔色は良くなかった。ここ数日、ほとんど休んでいないのだろう。俺も似たようなものだが、彼女の方が情報分析と記録で神経を使っていた。 「休もう。寝る場所はあるのか?」 「大佐が部屋を用意していたはず。この先の……」 セリシアの言葉は、突然響いた警笛で中断された。 「なんだ?」 俺たちは急いで外に出た。城壁の上から、兵士たちが何かを指差している。 「偵察兵が戻ってきたようだ」 門が開き、一人の兵士が息を切らして駆け込んでくる。彼はすぐにグレイスン大佐のもとへと案内された。 「何かあったのか?」 俺の問いに、門を守る兵士が答えた。 「帝国軍の前哨が予想より早く動いているそうです。夜陰に紛れて接近しているとの報告が」 セリシアと顔を見合わせる。予定より早い動きだ。おそらく夜間の奇襲を狙っているのだろう。 「我々の準備は?」 「ほぼ整っています。あとは各部署への最終確認を……」 その時、グレイスン大佐が現れた。 「報告によれば、帝国軍はまだ主力を動かしていない。これは偵察行動か、小規模な撹乱作戦の可能性が高い」 「それでも油断はできませんね」 セリシアが言った。 「ええ。警戒を強化するが、全軍総出動にはまだ早い。エストガード殿、セリシア少佐、予定通り休息を取ってください。明日こそが正念場になるでしょう」 大佐は疲れた微笑みを浮かべた。 「あなた方の知恵が、この砦を救うのですから」 *** 「こちらです」 兵士は俺たちを小さな部屋へと案内した。砦の中層階にある将校用の部屋だが、戦時中のため簡素なものだった。 「申し訳ありませんが、部屋の数に限りがあり……」 兵士は少し気まずそうに言った。確かに部屋は狭く、寝床も一つしかない。 「大丈夫だ、問題ない」 俺は兵士に会釈し、セリシアと二人きりになった。部屋の中央には一つの簡易ベッド。壁には松明が一本だけ灯され、部屋に淡い光を投げかけていた。 「……」 「……」 二人とも言葉が出ない。戦術の話をするのなら自然なのに、こうして二人きりになると急に気まずさが押し寄せてきた。 「私は床で構わないから……」 俺が言いかけると、セリシアが首を振った。 「馬鹿なことを言わないで。明日の戦いのことを考えなさい。きちんと休まなければ」 彼女は実務的な口調で言ったが、僅かに顔を背けるのが見えた。 「それにこの床は冷たすぎる。体調を崩せば、戦術の意味がなくなるわ」 「では、交代で使うか?」 「時間の無駄よ。二人で使うしかないでしょう」 セリシアはそう言うと、武装を解き始めた。剣帯を外し、肩当てを脱ぐ。俺も同じように、最低限の装備だけを残して身軽になった。 ベッドは決して広くはない。二人が眠るには狭すぎる。 「背中合わせで寝ましょう」 セリシアが現実的な提案をした。彼女はベッドの片側に腰掛け、靴を脱いだ。 「ああ、そうだな」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第28話「赤眼の布陣」

夜明け前、遠くから聞こえる太鼓の音で俺は目を覚ました。背中に感じる温もりはすでになく、セリシアはいなくなっていた。彼女は俺より先に起き、すでに持ち場についているのだろう。 急いで装備を整え、俺は最上層の監視塔へと向かった。大勢の兵士たちが右往左往し、重臣兵の整列の声や、弓兵隊の励ましの声が飛び交う。 「エストガード殿!」 塔に辿り着くと、グレイスン大佐と共にセリシアが立っていた。彼女は昨夜の気まずさをすっかり払拭し、冷静そのものの表情で俺を迎えた。 「状況は?」 「見てください」 セリシアが指さす方向に目をやると、そこには壮絶な光景が広がっていた。 砦を取り囲むように、無数の帝国軍が布陣していた。その数は四千を超えるだろう。松明を手にした兵士たちが、朝もやの中で黒い影絵のように見える。そして、中央に一つ、特に大きな赤い旗が見えた。 「ラドルフですね」 グレイスン大佐が呟いた。その声には微かな震えが混じっていた。 「彼らの布陣が……通常と違う」 セリシアが魔導記録石を操作しながら言った。 「三つの集団に分かれている。通常なら単一の主力部隊を形成するはずだが」 確かに帝国軍は三つの集団に分かれていた。西側に最大の部隊、北と南にそれぞれ小規模な部隊。 「三正面作戦か」 俺は直感的に理解した。 「同時に三方向から攻撃を仕掛けてくる。砦の守備力を分散させる狙いだ」 「しかし、それでは各部隊の戦力も分散される」 大佐が疑問を投げかけた。 「ラドルフがそんな初歩的なミスを」 「彼にとっては初歩的ではありません」 俺は砦の全方位を見渡した。 「分散しているように見えて、実は彼の手の内にある。各部隊は独立しているようで、実は連携している」 グレイスン大佐は困惑した表情を浮かべたが、セリシアは理解を示した。 「彼の戦術は『支配』ね。一見すると個別の動きに見えて、実は全体が彼の意のままに動く」 「ああ。そして、我々もその『流れ』に巻き込まれようとしている」 遠くから角笛の音が響き、帝国軍の動きが開始された。西側の主力部隊が動き出す。 「大佐、予定通りの配置を」 俺は命令を出した。 「西側に主力を集中させつつ、北と南にも機動力のある部隊を配置。予備隊は中央に残し、状況に応じて展開できるようにしておく」 「承知した」 グレイスン大佐は伝令兵に指示を出し、準備が整った防衛体制を発動させた。砦の中は一気に活気づき、兵士たちが持ち場へと急ぐ。 「セリシア、右翼を頼む」 「わかったわ」 彼女は魔導記録石を持ち、右翼の指揮を執るべく階段を駆け下りていった。 「フェリナは?」 「昨晩から情報収集に出たままです」 伝令兵が答えた。 「彼女のことは心配いらない。今は目の前の敵に集中しよう」 俺は塔の上から帝国軍の動きを注視した。西側の主力部隊が前進を始め、重装歩兵が最前列で盾の壁を形成している。その背後には弓兵隊と、攻城兵器を引く部隊が続く。 一方、北と南の部隊も動きはじめたが、その速度は西側よりも遅い。まるで様子見をしているかのようだ。 「来るぞ!」 先頭の部隊が射程距離に入ると、砦からの最初の矢が放たれた。空に描かれた放物線は、敵の盾にほとんど阻まれたが、わずかに数人の兵士が倒れた。 敵も応戦し、砦に向けて矢が飛んでくる。しかし堅固な壁にほとんど影響はない。 「こんな通常戦法では砦は落とせない」 グレイスン大佐が安堵の表情を見せた。 「ラドルフにそれがわからないはずがない」 俺は警戒を解かなかった。この攻撃には何か裏があるはずだ。タロカの卓で相手が明らかに損な手を打ってきたとき、それは罠の匂いがする。まるで麻雀で相手が明らかに筋の悪い牌を切ってきたときのように、警戒心が高まる。 西側の攻撃が続く中、突然北側の部隊が急速に動き出した。それまでの緩慢な動きから一変し、全力で砦の北壁へと迫る。 「北側への変化球だ!」 俺は即座に判断した。 「大佐、予備隊の半数を北側へ!」 命令が飛び、兵士たちが北壁へと急ぐ。そのとき、南側からも同様の動きが。 「三正面同時攻撃……!」 一瞬の間に状況が変わった。西側の攻撃はフェイントではなく、北と南からの攻撃と合わせた三正面同時攻撃の一環だったのだ。 「エストガード殿! 南側の壁が!」 伝令兵が駆け上がってきた。 「南壁に登攀用の梯子がかけられています!」 俺は即座に対応策を考えた。 「南側は軽装歩兵が多い。彼らは機動力に優れているが、持久力では我々に劣る。防戦に徹すれば、持ちこたえられる」 伝令兵に南壁への指示を出し、次に北側の状況を確認した。なんと北側では水路の守備が手薄になってしまっている。 「北側の水路は!?」 「監視兵は配置済みですが、援軍はまだ……」 これはまずい。敵の「影狩人」がそこを突破すれば、砦内部からの崩壊が始まる。 「残りの予備隊全てを北の水路へ! 急げ!」 次々と命令を出す中、西側からの攻撃もいよいよ本格化してきた。移動式の投石機が前線に引き出され、巨大な岩が砦の西壁に向かって放たれる。 轟音と共に、西壁の一部が崩れ落ちた。 「壁が破られた! 敵が侵入してくる!」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第29話「見えない一手」

激しい戦闘が続く中、正午を過ぎてもギアラ砦への攻撃は衰える気配がなかった。 「南区画の『影狩人』はほぼ制圧されました」 グレイスン大佐が監視塔に戻り、報告する。彼の鎧には血しぶきが飛び散り、息も荒い。 「被害は?」 「兵士十数名が死亡、二十名以上が負傷。だが、彼らの侵入経路は塞ぎました」 俺は頷き、再び戦場全体を見渡した。西側の攻撃は相変わらず激しく、北側の水路への圧力も続いている。だが、南側からの攻撃は若干弱まっていた。 「南からの攻撃が弱まっているのは、地下侵入作戦の失敗を受けて態勢を立て直しているのだろう」 大佐が分析する。 「いいえ」 俺は首を振った。 「彼らは撤退のための時間を稼いでいるんです」 「撤退?」 グレイスン大佐は驚いた表情を見せた。帝国軍がこの段階で撤退する理由など考えられない。 「ラドルフの真の狙いは別にある」 俺は砦の東側を示した。これまで全く攻撃のなかった方向だ。 「この三正面攻撃は、我々の注意をそらすための陽動なんです」 大佐は困惑の表情を浮かべたが、そのとき伝令兵が駆け上がってきた。 「エストガード殿! 東側の崖下に敵兵が集結しています!」 報告を聞いた大佐の表情が変わる。 「東側? あそこは絶壁だ。攻めようがない」 「どれくらいの規模だ?」 「約五百。『影狩人』と思われる精鋭部隊です」 俺は微笑んだ。 「やはりね」 「ど、どういうことだ?」 大佐が混乱した様子で尋ねる。 「ラドルフの本当の狙いは東側から。絶壁で攻められないと思われている場所こそ、彼の真の侵入経路だったんだ」 東側の崖は確かに急峻で、通常の軍隊が攻め上るのは不可能に近い。しかし、特殊訓練を受けた「影狩人」であれば可能かもしれない。そして、そこを突破されれば、砦の裏側から一気に制圧される。 これは麻雀でいう「カンチャン待ち」のような奇襲戦術だ。最も警戒されにくい場所から攻撃を仕掛ける。「1-3」の形で「2」を待つような、相手が想定しにくい侵入路を選ぶ戦法。 「なぜそれがわかった?」 「彼の『流れ』を読んだんです。三方からの攻撃は強すぎた。本当に砦を落とす気なら、もっと長期的な包囲戦を選ぶはず。これほど露骨な総攻撃には裏があると」 大佐はまだ困惑していたが、次の瞬間、俺は微笑んだ。 「そして——我々の『見えない一手』の時だ」 大佐の混乱はさらに深まる。 「『朔』作戦、実行!」 俺の命令に、伝令兵が砦のさまざまな場所へと走り出した。そして、静かに動き出す車輪の音。 砦の裏門が開き、そこから二十台ほどの荷車が出ていく。それぞれの荷車には兵士が五人ずつ、荷物に紛れて隠れていた。 「あれは?」 「三日前から準備していた伏兵です」 俺は説明した。 「ラドルフが東側から侵入を試みることは予測できた。だから、彼らが動き出す前に、崖裏に我々の伏兵を配置しておいたんです」 大佐は目を見開いた。 「三日前? あの時はまだラドルフが来るという確証さえなかったはずだが」 「確証はなくても、確率はわかります。タロカでも同じです。相手の『待ち』が見えなくても、最も可能性の高い一手に備えるんです」 東の崖下に集結していた帝国軍の「影狩人」たち。彼らが崖を登り始めたその瞬間、崖裏から伏兵が現れた。不意を突かれた「影狩人」たちは、混乱の中で次々と倒れていく。 「見事だ……」 大佐の声には驚嘆が混じっていた。 「だが、これだけで勝てるとは思えない。まだ敵の主力は健在だ」 「これはほんの始まりです」 俺は言った。 「セリシア少佐からの報告です!」 新たな伝令兵が到着した。 「右翼の準備が整いました。『朔』の第二段階に移行可能とのことです」 「伝えてくれ。セリシアは主力部隊を率いて、本作戦を実行せよと」 伝令兵が去り、俺は再び戦場全体を見渡した。 東側での伏兵の奇襲が始まると同時に、北と南からの帝国軍の攻撃が弱まった。それは当然だ。ラドルフの本命だった東側の作戦が頓挫し、計画が狂い始めている。 そして、俺の予想通り、ラドルフは主力を東側に振り向け始めた。西側の攻撃が緩み、一部の部隊が東へと移動し始める。 「今だ」 俺は静かに言った。 「大佐、北側と南側からの一斉突撃を命じてください」 「突撃? 守りを固めるべきではないのか?」 「いいえ、今こそ攻め時です。ラドルフは計画の変更を余儀なくされている。彼の『流れ』が乱れた今が、我々の好機なんです」 これは麻雀でいう「鳴き」の戦術だ。相手の打牌を見てから行動する守りの姿勢から、自ら積極的に牌を取りに行く攻めの姿勢への転換。相手の混乱した隙を突く好機。 大佐は一瞬迷ったが、やがて決断した。 「承知した。北と南からの突撃を命じる」 命令が下され、砦の北門と南門が開く。そこから兵士たちが雄叫びを上げて飛び出していった。予想外の反撃に、帝国軍の陣形が乱れる。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第30話「少年は神子と呼ばれた」

ギアラ砦の戦いから二週間が経ち、王都メイドナルムに凱旋した俺たちを、熱狂的な歓迎が待っていた。 街道には民衆が溢れ、兵士たちに花束を投げかける。「英雄!」「救国の将!」といった歓声が飛び交う中、一行は王城へと向かっていた。 「思っていたより大掛かりな歓迎だな」 俺は馬車の中でセリシアに呟いた。彼女は笑みを浮かべていたが、その目は冷静な観察を怠らない。 「あなたの功績は、想像以上に広まったようね。『タロカの戦術家』『神の読みを持つ少年』——あらゆる噂が飛び交っているわ」 馬車の窓からは、俺の名を叫ぶ市民たちの姿が見える。中には「戦術の神子」と書かれた旗を掲げる者もいた。 「戦術の神子、か……大げさな」 俺はため息をついた。確かにギアラ砦での勝利は大きな成果だった。帝国軍の西進を食い止め、ラドルフの無敗神話に傷をつけた初めての戦いだ。だが、こうして神格化されることには違和感があった。 「王国民の希望が必要なのよ」 セリシアは静かに言った。 「長く続く戦争で疲弊していた民衆に、勝利の象徴が必要だった。あなたは、その役割を与えられたのね」 俺は無言で頷いた。前世の記憶では、こんな注目を集めたことはなかった。麻雀の腕は良かったが、一般人の範疇を出ることはなかった。それがこの世界では、多くの人々の視線を集め、時に崇拝の対象にさえなっている。 「あなたが歓声に照れているとは珍しいわね」 セリシアは微笑んだ。 「俺はただの戦術家だ。持ち上げられるほどのことはしていない」 「謙虚ね。でも、ギアラ砦での采配は本当に見事だった。あなたの『見えない一手』がなければ、勝利はなかったわ」 砦での戦いを思い出す。あの死闘の中で、多くの兵士が命を落とした。勝利を収めたとはいえ、代償は小さくなかった。そして、重傷を負ったフェリナのことも頭から離れない。 「フェリナの容体は?」 俺の問いに、セリシアは表情を緩めた。 「良くなっているわ。今朝の報告では、ようやく意識が戻ったとのこと。あなたのことを尋ねていたそうよ」 「そうか……」 安堵の気持ちが広がる。フェリナは南側の突撃隊に撤退の合図を送るため、自らを犠牲にして東の塔で信号を上げた。多くの矢を受け、一時は生命の危機さえあったという。 「彼女の勇気がなければ、もっと多くの犠牲が出ていただろう」 「ええ。彼女は真の英雄よ」 セリシアは同意した。 馬車は王城の大門に到着した。そこには、アルヴェン将軍をはじめとする高官たちが出迎えに立っていた。 「エストガード、セリシア」 将軍は満足げな笑顔で二人を迎えた。 「見事な戦いだった。王も大変喜んでおられる」 「ありがとうございます、将軍」 俺は敬礼した。将軍の表情には誇らしさが滲んでいた。彼にとって、俺の成功は自らの慧眼の証明でもあるのだろう。 「さあ、王はお待ちだ。謁見の準備をせよ」 *** 王宮の大広間は、華やかな貴族たちで溢れていた。装飾された柱の間に立ち並ぶ彼らは、俺とセリシアが入場すると一斉に視線を向けてきた。 賞賛の目もあれば、妬みや警戒の色を隠さない者もいる。権力の場らしい複雑な空気だった。 広間の奥には王が座していた。フェルトリア王国第十七代国王、ザンクト・フェルトリア。四十代半ばの穏やかな表情の男性だが、その目には鋭い知性が宿っていた。 「エストガード補佐官、セリシア少佐」 王は二人を見つめ、微笑んだ。 「ギアラ砦での勝利、見事であった。王国の名において、深く感謝する」 俺とセリシアは深く一礼した。 「陛下のご信任に応えられたことを、光栄に存じます」 俺の言葉に、王は満足げに頷いた。 「エストガード、汝の戦術眼は神の恵みよ。我が軍の宝となろう」 王は立ち上がり、近づいてきた。その手には金の勲章が輝いていた。 「ここに、王国最高の勲章、『黄金獅子勲章』を授ける」 俺の胸に勲章が付けられると、広間に拍手が広がった。セリシアにも高位の勲章が授与される。 儀式の後、宮廷での祝宴が開かれた。貴族たちが次々と俺たちに近づき、祝福と賛辞を告げる。その多くは表面的なものだろうが、中には真摯な敬意を示す者もいた。 「エストガード殿」 年配の貴族が声をかけてきた。 「伯爵令嬢の婿として、我が家を考えてみてはどうだろう?」 突然の申し出に、俺は言葉に詰まった。だが、これは最初の話ではなかった。祝宴の間に、すでに数人の貴族から同様の打診があった。 「恐縮ですが、まだそのような話は……」 丁寧に断ると、貴族は少し残念そうにしながらも引き下がった。 「人気者ね」 セリシアが横から現れ、小さく笑った。 「困ったものだ」 「でも、あなたの立場を考えれば当然よ。若くして功績を挙げた貴族の養子——政略結婚の絶好の対象ね」 彼女の皮肉めいた口調に、俺は苦笑した。 「俺はただ、戦いに勝ちたいだけなんだがな」 「本当にそれだけ?」 セリシアの問いかけには、以前のような鋭さがなかった。彼女自身も俺の変化を感じているのだろう。 「前は、たしかにそうだった。ただ勝ちたかった。でも今は……」 俺は言葉を選びながら続けた。 「守るべきものが増えた気がする。王国の人々、兵士たち、そして……」 言いかけた言葉を飲み込む。セリシアは微かに頬を赤らめたが、すぐに表情を引き締めた。 「異端の策だけど、勝ち筋だった」 彼女は静かに言った。砦での戦いを評して。 「ありがとう」 祝宴の喧騒の中、二人は静かな会話を交わしていた。そこへ、アルヴェン将軍が近づいてきた。 「エストガード、セリシア。楽しんでいるか?」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人