第6話「軍の空気は冷たい」
「あれが噂の神童か?」 「冗談だろう? あんな子供が何をできるというんだ」 「将軍のお気に入りだからな……」 北方軍本部の廊下を歩くたび、こうした囁き声が聞こえてくる。俺の正式な肩書は「北方軍司令部補佐官見習い」。アルヴェン将軍直々の指名とはいえ、十五歳の少年が軍の中枢に配属されたことは前例がなく、当然のように物議を醸していた。 「エストガード殿、これらの書類を整理してください。終わったら、あちらの古文書庫の目録を作成してください」 任務を言い渡したのは、俺の直属の上官である中年の中佐。彼の表情からは「こんな雑用しかさせられない」という不満が透けて見えた。 「承知しました」 俺は静かに頷き、作業に取り掛かった。軍に来て一週間。与えられる仕事はこうした雑用ばかりだ。戦術を学ばせるでもなく、会議に参加させるでもなく、ひたすら書類の整理や使い走り。将軍のお気に入りとは言え、実務では完全に蔑ろにされていた。 「どうせ貴族の子息だろう。すぐに飽きて実家に帰るさ」 俺がそばを通るたび、士官たちは露骨に嘲笑う。彼らの多くは下級貴族か平民から実力で這い上がってきた者たち。軍学校で厳しい訓練を受け、実戦で功績を挙げて現在の地位を得た者ばかりだ。そんな彼らからすれば、タロカの腕前だけで配属された少年など、到底認められるはずもない。 (勝負の匂いがしないな、この場所は……) 書類を整理しながら、俺は内心でつぶやいた。将軍と対局した時の緊張感、真剣勝負の空気——そんなものはここにはなかった。ただ義務と日常、そして権力争いがあるだけ。 だが、無為に過ごすつもりはなかった。 俺は書類を整理しながら、軍の構造を観察していた。誰がいつ報告に来るのか、どの部署がどう連携しているのか、各士官がどんな癖を持っているのか——。 「これは伝令兵が毎朝八時に届ける緊急連絡用の書類。この赤い紐で縛られたものは、北部国境からの報告書で、緑の紐は東部。十時には参謀長が必ず確認する」 こうした軍の動きのパターンは、タロカの牌の流れに似ていた。誰がどの情報を持ち、どこで処理し、どう流れていくか——それを把握することで、全体の動きが見えてくる。 「あの少年、黙々と働いているな」 「珍しく不平も言わず……貴族の坊ちゃんにしては粘り強いかもしれん」 一週間が二週間になり、俺への視線も少しずつ変わり始めていた。雑用を投げつけても文句一つ言わず、むしろ丁寧にこなしていく姿に、一部の士官は驚きを隠せないようだった。 午後、俺は軍の伝令兵が行き交う中央通路に佇んでいた。そこは本部の各所へと情報が流れていく要所。様々な人間が行き交い、情報も交差する。 「お前、エストガードだな?」 声をかけてきたのは、年配の伝令兵長だった。 「はい、そうです」 「何をしている?」 「伝令のルートを観察しています」 素直に答えると、伝令兵長は笑った。 「へえ、物珍しいな。若い士官たちはみな地図や戦術に夢中で、こんな地味な仕事に関心を持つやつはいない」 「伝令は軍の血管みたいなものですよね。情報がどう流れるか、それが戦の命運も左右する」 伝令兵長は意外そうな表情をした後、少し顔を近づけた。 「よく見ているな。実はな、伝令のルートには法則がある。緊急度によって優先順位が変わり、それぞれの部署への伝達手順も決まっている」 彼は簡単に伝令システムの仕組みを説明してくれた。俺は熱心に聞き入った。 「ありがとうございます。とても参考になります」 「何に参考になるんだ?」 「牌の流れを読むのと似ているんです。誰がどの情報を持ち、どう動くか——それを知れば、全体の動きが見えてくる」 伝令兵長は不思議そうな表情をしたが、「面白い考え方だ」と頷いた。 そして三週間目。俺は軍の内部構造をかなり把握していた。誰が重要な決定権を持ち、誰が実務を動かしているのか。公式の序列と実質的な力関係の違い。命令系統のボトルネック——。 「この軍、読める」 俺は小さく呟いた。表面上は混沌としているようでも、そこには明確なパターンがあった。それを読み解くのは、タロカや麻雀の「流れ」を読むのと何ら変わらない。 「勝負の匂いがしないな、この場所は……だが、動きは読める」 かつて麻雀荘で感じた「勝負」の味わいはなくとも、この場所には新たな「読み」の楽しさがあった。それに気づいた時、俺の表情が少し変わったのかもしれない。 兵士や伝令たちとの関係を築きつつあるとはいえ、軍内での孤立感は依然として強かった。だが、前世では麻雀しか頼れるものがなかった俺が、この世界では少しずつ人間関係を構築していく手応えを感じていた。『読み』だけでなく、『繋がり』も大事なのかもしれない。