第1話「受験に失敗した日、俺は雀荘にいた」

「三崎、お前の番だ」 カチンッという牌を切る音が、俺の意識を現実に引き戻した。目の前の卓には、整然と並んだ牌の壁。そして自分の手前には、無機質に並ぶ手牌。 「ああ、わりぃ」 ぼんやりしていた理由など言い訳にならない。俺は無言で牌を引き、不要な一枚を切った。 今日、俺は大学受験に失敗した。 第一志望どころか、滑り止めにしていた大学にすら引っかからなかった。悪い成績ではなかったはずだ。「もう少し勉強していれば」と言われた言葉が、まだ耳に残っている。 「三崎、志望校どうだった?」 「落ちた」 雀荘の常連である中年男性・上原さんが聞いてきた。特に親しい間柄でもないが、ここ一年ほど顔を合わせる仲だ。彼は社会人で、仕事帰りに寄ることが多いらしい。 「そりゃあ残念だったな。勉強より麻雀やってたもんな」 そう言いながら彼は笑った。別に嫌味を言っているわけじゃない。事実だからだ。俺が高校三年の間、どれだけこの雀荘「胡蝶」に入り浸っていたか。受験勉強よりも麻雀の戦術書を読み、予備校より雀荘に足を運んでいた。 リーチ、ツモ、ロン——。 あの頃は勝つことだけを求めて牌を並べていた。雀荘代を稼ぐために、少しでも高い役を狙って、無謀な待ちに入ることもあった。高校一年の時は勝率も低く、よく先輩たちに絞られたものだ。だが二年になるとコツを掴み、三年になる頃には胡蝶では名の知れた存在になっていた。 かつて熱中した麻雀にも虚しさを感じるようになったのは、いつからだろう。勝っても何も変わらない。負けても何も失わない。ただ時間だけが過ぎていく閉塞感。 「どうする? 浪人?」 対面の女子大生・美咲さんが聞いてきた。彼女もまた常連の一人で、麻雀が強い。 「どうするかな……」 心にもない返事をしながら、俺は手牌を眺めた。 ドラは九索。手牌は一向聴で、待ちとしては悪くない。この展開なら、普通なら迷わず追いかけるところだ。 「リーチ」 上家の声とともに、牌が音を立てて場に置かれる。 ついさっきまで勝率を考え、追いかけようと思ったのに、急に虚しさが襲ってきた。結局俺は、何も変わっていない。受験も失敗して、未来も見えないまま、麻雀に没頭して……。 あれだけ麻雀に情熱を注いだのに、最後には「勝ちたい」という気持ちすら薄れていた。目標を失い、情熱も失い、今の俺には何も残っていない。 「チー」 気がつけば、俺は手牌を崩していた。一向聴を維持するより、早めの上がりを取りに行こうと思ったわけでもない。ただ何となく、思考が停止していた。 上原さんが「あれ?」と首をかしげるのが見えた。確かに今の俺の打牌は不可解だ。待ちの形が良かったのに、わざわざチーして手を崩す必要はなかった。 結局その局は、他の誰かの和了で終わった。 「宗一郎、今日お前、集中してないな」 場を流すために牌をかき混ぜながら、美咲さんが言った。 「そうか?」 「そうよ。昔のお前なら、あんな中途半端な切り方しないでしょ。勝ちを狙いに行くタイプだったのに」 「……」 彼女の言葉に反論できなかった。そういえば最近、勝ちに執着しなくなっていた。麻雀は上手くなったはずなのに、勝つことへの執着は薄れていた。 俺は大学受験に失敗した。麻雀のために勉強をサボったせいだ。なのに今、麻雀にすら本気で向き合っていない自分がいる。 「今日はもういいや」 俺は席を立ち、卓を離れた。今日のトータルでの点数負けはまだ軽微だが、気分の問題だった。 「もう帰るのか? 最近すぐ帰るよな」 「また来るよ」 嘘ではなかった。でも自分でも、この雀荘にいる意味がわからなくなっていた。麻雀が好きで、勝ちたくて、そのために勉強も犠牲にしてきたはず。なのに今は……。 「……俺、もう勝ちたいとも思わなくなってたのか」 店を出て、夜の街に立つと、そんな言葉が心の中でこだました。 まだ帰りたくなかった。親に顔を合わせたら、受験の話をされるだろう。「だから言ったでしょ」と母に説教されるのも嫌だった。 信号が青に変わり、俺は横断歩道を渡り始めた。 ふと思い出したのは、さっきの手牌。あの時の待ちは悪くなかった。ドラも絡んでいたし、あのまま追いかければ、もしかすると……。 耳を突き破るようなクラクションの音。 目の前に迫る大型トラック。 「っ!」 避けようと体を動かした瞬間、視界が真っ暗になった。 意識が遠のいていく中、最後に思い浮かんだのは、あの手牌と、勝てたかもしれないという後悔。 (悪くない待ちだったかもな……) その皮肉な言葉を最後に、世界が闇に沈んだ。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第2話「転生、そして戦乱の世界へ」

白い。 そう思った瞬間、意識が鮮明になった。 俺は白い空間に立っていた。いや、立っているというより浮いているような感覚だ。体はあるようで、なく、自分自身の存在を確かに感じるのに、手足の感覚はない。 「ここは……」 声を出したつもりだが、音は空間に吸い込まれてしまうような気がした。死んだのか? そうに違いない。トラックに跳ねられた記憶が蘇る。避けきれなかったんだ。 神や仏といった存在は見当たらない。ただ漠然と、「お前は死んだ。だが別の世界で生きる機会を与えよう」という意思のようなものを感じた。 (転生……か) 俺のような凡人がなぜ転生などという特別な扱いを受けるのか疑問だったが、白い空間に浮かぶ身としては、特に文句を言う立場でもなかった。 次に意識が戻った時、俺は柔らかな寝具の上にいた。 「十五歳の誕生日、おめでとう、ソウイチロウ様」 見知らぬ少女の声。目を開けると、茶色の髪をした若い侍女が微笑んでいた。 俺はゆっくりと起き上がり、周囲を見渡した。石造りの部屋。窓から見える景色は、中世ヨーロッパを思わせる建物群。それに、自分の体は……少年のものになっていた。 不思議なのは、まるで生まれてからここまでの記憶が埋め込まれているように、この世界のことを知っていること。そして同時に、前世――日本での記憶も鮮明に残っていることだった。 「朝食が用意されています。そのあと、義兄様が剣術の稽古に誘われていましたよ」 侍女はそう言って部屋を出て行った。 脳内に流れ込む情報によると、ここはフェルトリア王国。俺はソウイチロウ・エストガードという少年で、地方貴族の養子として引き取られていた。 義父母は良くしてくれるけど、居場所がないと感じていた。それは前世と同じだ。どこか疎外感を抱えながら生きる定めなのかもしれない。 「養子か……前世も、こっちも、居場所がない点では一緒か」 そう呟きながら、俺は着替えを済ませ、城塞のような館の食堂へ向かった。 *** 「はっ!」 鋭い掛け声とともに、木刀が空を切る。 「ソウイチロウ! そのような腰の入らない振りでは、本当の戦場では一瞬で命を落とすぞ!」 厳しい声で叱責したのは、俺の義兄・レイナード。彼は二十歳で、すでに騎士団の一員として名を馳せていた。今日は休暇で帰宅しており、「弟の鍛錬を」と稽古をつけてくれている。 「すみません、レイナード兄様」 兄様なんて呼び方は本来の俺なら恥ずかしいと思うのだが、この世界では普通のことだ。俺は再び木刀を構えたが、足が滑って転んでしまった。 周囲から笑い声が上がる。同じ領地の貴族の子弟たちが見学に来ており、彼らの目には俺の姿は滑稽に映ったのだろう。 「まただよ」 内心でつぶやく。 「俺には、勝てる戦場がない」 この世界では魔法も使えず、剣の腕も振るわない。乗馬の才能もなく、特別な出自でもない。俺にあるのは前世の記憶だけ。そして麻雀で培った「読み」の感覚。でもそんなもの、この世界では何の役にも立たない。 稽古が終わると、レイナードは俺に近づいてきた。 「気にするな、ソウイチロウ。誰もがすべてを得意になれるわけではない」 彼は優しい兄だった。騎士としての誇りも高く、領民からの尊敬も厚い。そんな彼が、何もできない俺を庇うように言葉をかけてくれる。 「役に立たなくてもいい。お前は我が家の一員だ」 彼の言葉に少しだけ救われた気がした。俺は小さく微笑み、「ありがとう」と呟いた。 レイナード兄は俺を心配そうに見つめた。「何も出来なくても、お前は我が家の一員だ」彼の言葉に少しだけ救われた気がした。この世界にも、俺を気にかけてくれる人がいる。それだけでも、前世よりはましかもしれない。 *** 夕食時、館の食堂は普段より賑やかだった。近隣の貴族や騎士たちが集まり、最近の情勢について議論していた。 「北方の国境線での小競り合いは激化している。王都からの使者によれば、軍の増強も検討されているそうだ」 「エストレナ帝国の膨張主義は止まらん。我々の領地も危険だ」 「若者たちの徴用も増えるだろうな。レイナード、お前も出陣することになるだろう」 俺は黙って食事を続けながら、会話に耳を傾けていた。この世界は戦乱の時代。フェルトリア王国とエストレナ帝国の緊張関係は高まるばかりだった。 「勝てば、意味がある……それだけでいいかもな」 ふとそんな考えが頭をよぎった。前世では勝つことに執着しなくなっていた俺。だが、この世界は勝敗がはっきりしている。勝てば生き残り、敗ければ死ぬ。あるいは国が滅びる。その単純明快さに、どこか安心感すら覚えた。 明日は近隣の貴族の館で社交の集いがある。レイナードに連れられて俺も参加することになっている。 「まぁ、養子の俺に何ができるわけでもないけどな……」 そう呟きながら、俺は窓の外に広がる夜空を見上げた。別の世界で、別の人生。どこかで「勝てる場所」はあるのだろうか。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第3話「タロカという遊戯」

ニコラス男爵の館は、エストガード家より少し規模が大きく、装飾も華やかだった。俺たち一行が到着すると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。 「ソウイチロウ、社交の場では極力目立たないようにな」 レイナード兄は小声で忠告した。俺が剣術の才能に欠けることは周知の事実。地方貴族の中でも、エストガード家の「出来の悪い養子」として知られていた。 「わかってる」 俺は静かに頷いた。目立たないのは得意だ。前世でも、麻雀以外では目立つことはなかった。 広間の一角では、年配の貴族たちが熱心に何かをしていた。テーブルに向かい、何やら四角い板状のものを並べている。好奇心に負け、俺は近づいてみた。 「ほう、これは見事なタロカだ」 「今夜は勝負に出たかったのだが、運が向いていないようだな」 貴族たちの会話が聞こえてくる。テーブルには「タロカ」と呼ばれる木製の牌が並べられていた。それぞれに様々な紋章や数字が刻まれている。 「タロカか……」 一瞥しただけで、俺の脳が活性化した。配牌、組み合わせ、読み合い——どこか麻雀を思わせる。牌の種類は異なるが、いくつかの牌を並べて役を作る点は共通しているようだ。 「おや、若い衆も興味があるのかね?」 年配の貴族が気づいて声をかけてきた。 「はい、少し」 「タロカは我々貴族の遊戯じゃ。運と頭脳を競う、高貴な遊びだ」 貴族は誇らしげに説明した。周囲の者たちも、少し賭けをしながらタロカを楽しんでいるようだった。 「一局いかがかね? エストガード家の養子殿」 別の貴族が言った。その眼差しには、やや侮蔑の色が混じっていた。おそらく簡単に勝てる相手と思っているのだろう。 「……お願いします」 俺は座を勧められるままに着席した。ルールを簡単に説明された。タロカは五種の紋章と十三の数で構成され、特定の組み合わせに価値がある。手番では牌を一枚引き、不要な牌を一枚捨てる。特定の役が揃えば「タロ」と宣言し、勝負が決まる。 タロカは五種の紋章と十三の数で構成される。『星』『炎』『龍』『風』『月』の紋章と、1から13までの数字を組み合わせた牌を使う。特定の役——『星天の刻』や『龍炎の業』などの組み合わせに高い価値がある。麻雀でいう役満のような存在だ。手番では牌を一枚引き、不要な牌を一枚捨てる。特定の役が揃えば『タロ』と宣言し、勝負が決まる。 (これ、麻雀とドンジャラを混ぜたような……) 牌を配られ、俺は自分の手牌を見た。たった十三枚の牌だが、その中から最適な組み合わせを見出す感覚。これこそ、前世で何度も味わった感覚だった。 「若造が相手では面白くないな」 「教えながら打とうではないか」 貴族たちは余裕綽々としていた。しかし、俺の頭の中ではすでに計算が始まっていた。場の雰囲気、相手の表情の変化、牌を切る速度——すべての情報が意味を持つ。 数巡後、俺は静かに声を上げた。 「タロ」 牌を開示すると、場が静まり返った。 「こ、これは……『星天の刻』!」 「初心者がこの役を? 偶然か?」 相手の貴族は信じられないという顔をしていた。俺が出した役は、かなり希少な組み合わせだったらしい。 しかし俺には、それが偶然でないことがわかっていた。相手の捨て牌の傾向から、持っている牌をある程度予測。そして自分が狙うべき組み合わせを見極めた結果だった。 「もう一局、頼む」 先ほどまで俺を見下していた貴族が、今度は真剣な表情で言った。周囲にも人が集まり始めていた。 二局目も、三局目も。俺は勝った。技術というより、「場」を読む感覚が研ぎ澄まされていた。他のプレイヤーの心理パターン、牌の流れ——すべてが麻雀で鍛えた「読み」に通じていた。 「……これ、なんか懐かしいな」 対局の合間、そんな思いが胸をよぎった。 「まだ"打ちたい"と思ってる自分がいる」 麻雀に飽きていたはずの俺が、このタロカに対して湧き上がる情熱を感じていた。前世で最後に見た手牌を思い出す。あの時は「勝ちたい」と思えなかった。でも今は違う。勝ちたい。もっと打ちたい。 「あの少年、ただ者ではないな」 「エストガード家の養子が、こんな才能を?」 周囲がざわめき始めていた。貴族たちの視線が俺に集まる。その中には、単なる好奇心だけでなく、計算高い打算も混じっていた。 レイナード兄が近づいてきて、小声で言った。 「ソウイチロウ、お前、一体何をしているんだ?」 「タロカをやってるだけだよ」 「目立たないようにと言ったはずだが……」 彼は困惑した表情を見せたが、その眼差しには驚きと誇らしさも垣間見えた。 「まあいい。ただ、貴族の世界は複雑だ。才能を見せれば見せるほど、利用しようとする者も現れる」 彼の警告は的確だったが、その時の俺には届かなかった。俺はただ、この感覚に酔いしれていた。「読み」が活きる場所。「流れ」を感じられる場所。「勝負」ができる場所——。 ここに、俺の"戦場"があったのだ。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第4話「将軍との一局」

「将軍アルヴェン閣下が到着されました!」 館の執事の声が響き渡ると、広間の空気が一変した。貴族たちは慌ただしく整列し、敬意を表する態勢を整える。 俺は静かに後方へ下がった。ニコラス男爵の遊戯会が始まって三日目。タロカの腕前が評判になり、今日はさらに多くの貴族たちが集まっていた。だが将軍の訪問は想定外だったようで、主催者も慌てている。 噂では、アルヴェン将軍は以前から若い才能の発掘に熱心だという。王国の将来を見据え、可能性ある若者を軍に取り込もうとしているのだ。 「我が館へようこそ、アルヴェン閣下」 ニコラス男爵が深々と頭を下げる中、堂々とした体格の中年男性が入ってきた。フェルトリア王国北方軍の総司令官、アルヴェン・グランツ将軍。軍の英雄として名高く、戦場での戦術眼は王国一と言われている。 「やむを得ない用件で近隣に来ていた。噂に聞くタロカの集いがあると聞き、少しの間お邪魔させてもらおうと思ってな」 将軍の声は低く、しかし広間全体に届くほど響いた。 「光栄です! ぜひお楽しみください」 ニコラス男爵は喜びを隠せない様子で、最上の席を用意させた。アルヴェン将軍は館内を見渡し、タロカが行われているテーブルに目を留めた。 しかし、男爵の側近の一人が「将軍はタロカの集いについて予め耳にしていたようだ」と小声で話しているのが聞こえた。 「誰か相手をしてくれる者はいるか?」 一瞬、広間が静まり返った。将軍との対局は名誉なことだが、彼の戦術眼はタロカにも表れるという。負ければ恥をかくことになる。 「この少年はどうだ? この数日、無敗と聞いたが」 将軍の視線が俺に向けられた。周囲からどよめきが起こる。 「あ、あの者は……エストガード家の養子でして」 ニコラス男爵が慌てて説明し始めたが、将軍は手を上げて遮った。 「身分は関係ない。タロカに才のある者と打ちたいのだ」 俺は緊張しながらも、静かに前に出た。 「ソウイチロウ・エストガードと申します。光栄です、将軍閣下」 アルヴェンは頷き、席に着くよう促した。広間の人々が見守る中、俺たちの一局が始まった。 最初の配牌で、将軍はにやりと笑った。良い手が入ったのだろう。 「若いな。何歳だ?」 「十五になったばかりです」 「タロカを始めて長いのか?」 「いいえ、この集いで初めて知りました」 その答えに、将軍は眉を上げた。 「たった三日でこの腕前とは」 彼は余裕の表情で牌を操作する。確かに手慣れた動きだ。だが俺は相手の捨て牌の順番、微妙な表情の変化から、彼の手牌を読み始めていた。 (龍の紋章に四と八……炎の紋章に六と九……彼は「龍炎の業」を狙っている) 俺は静かに自分の手を組み立てながら、相手の動きを観察し続けた。 数巡後、将軍の動きが変わった。彼の表情に自信が見える。紋章の揃う「竜炎の業」が完成に近づいているのだろう。 しかし、俺はある牌を切った。 将軍の表情が微かに歪んだ。 (この反応……俺の読みは当たっていた) 俺が切った牌は、将軍が欲しがっていた牌だった。彼は「龍炎の業」を完成させるため、最後の一枚を待っていた。だが俺はそれを見抜き、あえて捨てたのだ。 「ほう……」 将軍が低く呟いた。それまでの子ども扱いする態度が消え、真剣な眼差しになっていた。 その後の展開は、緊張感に満ちたものとなった。俺は将軍の「待ち」を読みながら、自分の手も組み立てていく。相手の牌を拾わせず、かつ自分の完成を急ぐ——。それは麻雀の対局そのものだった。 「タロ」 俺は静かに宣言し、手牌を開示した。「星天の刻」と「風月の詩」の複合役。かなり難しい組み合わせだった。 広間が静まり返った。将軍の手には「龍炎の業」が一歩手前まで完成していた。 アルヴェンは額に汗を浮かべ、しばらく俺の手牌を見つめていた。 「見事だ」 彼はついに口を開いた。 「私が待っていた牌を見抜き、封じた。単なる運ではない」 将軍は立ち上がり、俺を見下ろした。 「この才は、戦場でこそ活きる」 その言葉に、広間がざわめいた。フェルトリア王国北方軍の総司令官が、一地方貴族の養子を認めたのだ。 席を立つ将軍を見送りながら、俺は小さく微笑んだ。 「“戦"か……賭け甲斐がありそうだな」 あの日、雀荘で感じた空虚さ。最後の手牌で感じた未練。それらが今、この異世界で新たな形を見出そうとしていた。 将軍が去った後も、貴族たちの視線が俺に集まっていた。彼らの目には、昨日までとは違う色が宿っていた。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第5話「軍に拾われた少年」

「王命により、ソウイチロウ・エストガード殿を北方軍補佐官見習いとして召喚する」 エストガード家の門前で、金色の刺繍が施された軍の正装を身につけた使者が厳かに宣言した。三日前のタロカの集いから数日後のことだった。 父——養父であるハロルド卿の顔色が変わった。隣で母が小さく息を飲む音が聞こえる。 「これは何かの間違いではありませんか? 息子はまだ十五歳です。軍務に就く年齢ではありません」 ハロルド卿が怪訝な表情で問いかけた。使者は淡々と続ける。 「アルヴェン将軍の直々の指名です。戦術的才覚が認められたとのこと。明後日までに、北方軍本部への出立準備をお願いいたします」 公文書が手渡され、使者は礼をして去っていった。 門を閉めると、家族全員の視線が俺に集まった。 「一体何があったんだ、ソウイチロウ?」 父の声には困惑と心配が混じっていた。 「ニコラス男爵の館でのタロカの集いで、たまたまアルヴェン将軍と対局したんだ。それだけだよ」 「タロカの腕前で軍に? それはあり得ない」 レイナード兄が疑わしげに言った。 「将軍は『この才は戦場でこそ活きる』と言っていた。多分、タロカでの読みが戦術に応用できると思ったんだろう」 部屋に重い沈黙が流れた。北方軍は対エストレナ帝国の最前線。戦争が起これば、最も危険な場所になる。 「断るわけにはいかない。王命だからな」 父が溜息をついた。彼は領地を統治する身。王に逆らうことはできない。 「心配するな、父上、母上。補佐官見習いは実戦に出ることはほとんどない。書類仕事が主だろう」 レイナード兄が慰めるように言った。彼自身も騎士として王国に仕えているため、軍の内情をよく知っている。 「それに、アルヴェン将軍は慕われている人物だ。命令は厳しいが、部下を大切にする」 母は涙を浮かべながらも、小さく頷いた。 *** 翌日から出立準備が始まった。貴族の子息として最低限の装備と服、そして身分を示す紋章入りの小物など。 出立の準備をしながら、俺は従者たちに一人ずつ挨拶をして回った。正式な養子となってからずっと支えてくれた彼らへの感謝を伝えたかったのだ。一人一人に声をかけ、時に冗談を交わし、時に真剣に感謝を告げる。「坊ちゃんは心が優しいね」と老従者が涙ぐんだのを見て、俺もまた感傷的な気分になった。 俺は窓辺に座り、タロカの牌を眺めていた。ニコラス男爵からの贈り物だ。「才能を伸ばすように」との言葉とともに送られてきた。 (軍の補佐官見習いか……) 不安と期待が入り混じる。前世で大学すら行けなかった俺が、この世界では十五歳にして軍の要職に就くことになるなんて。 「未知の世界だな」 独り言を呟いていると、ノックの音がした。 「入って」 扉が開き、レイナード兄が入ってきた。彼は明後日に俺を北方軍本部まで護衛することになっていた。 「準備は順調か?」 「ああ、問題ない」 彼は腰を下ろし、しばらく黙っていた。 「実は忠告がある」 真剣な表情で、兄が口を開いた。 「軍の世界は、貴族社会以上に厳しい。特に、君のような……若く、特殊な経歴を持つ者には冷たい」 彼の言葉に頷く。想像はついていた。 「多くの将校たちは軍学校で苦労して階級を上げてきた。そこへ十五歳の『将軍のお気に入り』が入ってくるんだ。反感を買うのは避けられない」 「わかってる。覚悟はしてる」 「それでも行くのか?」 レイナード兄の問いに、俺は静かに答えた。 「行くさ。ここにいても、俺に何ができる? 剣は振るえず、馬も乗りこなせない。でもタロカなら——」 「タロカと戦場は違う」 「かもしれないし、違わないかもしれない。でも、『読み』があれば、何か役に立てるかもしれない」 兄は深く溜息をついた後、立ち上がった。 「わかった。明後日、万全の準備で行こう」 *** 出立の日。エストガード家の前には小さな馬車が用意されていた。家族との別れを済ませ、荷物を積み込む。 「気をつけるんだぞ、ソウイチロウ」 父が肩を叩いた。母は涙を堪えながら、「手紙を待ってるわ」と言った。 馬車に乗り込もうとした時、一人の老兵が近づいてきた。エストガード家に長く仕えている古参の兵士だ。 「坊ちゃん、これを」 老兵は小さな木箱を差し出した。開けると、中には古いが手入れの行き届いたタロカの牌が入っていた。 「昔、戦場で使っていたものです。『勝負運』があるんで、お守りに」 「ありがとう」 「あんたの『牌』は、もう捨てられねぇよ」 老兵はそう呟き、下がっていった。その言葉の意味を考えながら、俺は馬車に乗り込んだ。 北方軍本部へ向かう道中、窓から見える景色は美しかった。だが俺の頭の中は、これから始まる新たな「勝負」でいっぱいだった。 将軍から任命書を手渡される瞬間を想像する。それは恐怖でもあり、期待でもあった。 「ようやく、俺に合う"卓"が来たかもしれないな」 そう独白しながら、俺は北へと向かう馬車の揺れに身を任せた。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人