第18話「赤眼の男」

北東の森への撤退も思うようには進まなかった。森の入り口付近で帝国軍の別働隊と遭遇し、新たな戦闘が始まったのだ。 「我々は完全に読まれていた」 バーンズ中佐が苦々しい表情で呟いた。彼の顔には疲労と絶望が刻まれていた。 俺たちの部隊は大きく損耗し、統制も失われつつあった。現在、森の中の小さな空き地に一時的な指揮所を設け、残存兵力の再編と次の撤退路の検討を行っている。 「エストガード補佐官」 中佐が俺を呼んだ。その声には非難の色が混じっていた。 「あなたの戦術は完全に裏目に出た。何か言うことはないのか?」 答えに窮する俺の傍らで、ようやく合流できたセリシアが言葉を挟んだ。 「敵の指揮官はラドルフ・ゼヴァルド。彼の戦術は通常の予測を超えています」 彼女の表情も疲れていたが、冷静さは失っていなかった。 「言い訳には聞こえんな」中佐は厳しく言った。「結果として、我々は大損害を被っている」 外では兵士たちが次々と運ばれてくる。負傷者の呻き声、医療班の慌ただしい動き、そして時折聞こえる「もう手遅れだ」という絶望的な声。 「私の責任です」 俺は静かに頭を下げた。自分の戦術が失敗し、多くの兵士が犠牲になったという現実。それは重い。 「中佐、敵の南側部隊が森に接近中です」 見張りの報告に、指揮所内の空気が緊張に包まれた。 「どれくらいの規模だ?」 「小隊規模です。しかし……」 見張りは言葉を詰まらせた。 「なんだ、言え」 「黒装の騎士が一人、先頭にいます」 セリシアの表情が強張った。 「ラドルフ……」 その名を聞いただけで、指揮所内の空気が凍りついた。 「どこからそう判断した?」 中佐が尋ねると、見張りは少し気まずそうに言った。 「赤い目が……遠くからでも見えました」 俺は中佐に向き直った。 「私が会いに行きます」 「何を言っている?」 「ラドルフに。彼は交渉に来たのでしょう。さもなければ、この小規模な部隊で接近してくるはずがありません」 「馬鹿げた話だ。あの男が交渉など——」 「いいえ、それは彼のやり方です」 セリシアが割り込んだ。 「ラドルフは時に直接敵将と会見し、降伏を勧告することがあります。それは彼の『支配』の儀式のようなものです」 中佐は苦悩の表情を浮かべた後、短く頷いた。 「わかった。だが私も同行する」 「いいえ、私一人で」 俺は強く主張した。 「私の戦術が招いた失敗です。責任は私が取るべきです」 中佐とセリシアは互いに顔を見合わせた後、渋々同意した。 「十五分。それ以上は待たん。それまでに戻らなければ、我々は残存兵力で最後の突破を図る」 中佐の厳しい言葉に頷き、俺は森の境界へと向かった。 *** 森の端に立つと、そこには黒い装甲に身を包んだ騎士と、数人の兵士が待っていた。騎士は馬上におり、こちらを静かに見つめていた。 近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてきた。彼は三十歳前後の男性で、整った顔立ちと冷静な眼差しをしていた。そして、その目は確かに赤かった。深い赤い色をした瞳は、相手を焼き尽くすような鋭い光を放っていた。 「フェルトリア王国、北方軍補佐官、ソウイチロウ・エストガードだな」 彼の声は低く、静かなものだった。しかしその声には確かな威厳と力があった。 「そうです」 俺は体の震えを抑えながら答えた。 「ラドルフ・ゼヴァルド閣下」 彼はわずかに頷いた。 「君が『流れを読む』という戦術家か。興味深い」 彼が自分のことを知っていたことに驚いたが、表情に出さないよう努めた。 「閣下は交渉のためにいらしたのですか?」 「交渉? いや、降伏を受け入れに来た」 彼の言葉には迷いも傲慢さもなかった。ただ事実を述べるように、淡々と言った。 「我々はまだ戦う力がありますが」 「ある。しかし勝てない」 彼の赤い目がまっすぐに俺を見つめた。 「君の部隊は四方を囲まれている。南東には我が軍の主力が控えている。森の北側には迂回した弓兵隊が待機している。西は既に我が軍が制圧した」 彼の言葉は冷静で、それでいて残酷なほど正確だった。 「どうしてそこまで……」 「流れは私が作るのだ」 ラドルフは平然と言った。 「君は『流れを読む』と聞いた。しかし、それは所詮、存在する流れの中での話。真の戦術家は流れそのものを創造し、支配する」 彼の言葉は俺の核心を突いた。 「君は読むだけ。私は創る。それが我々の違いだ」 俺は返す言葉を失った。彼の言葉には反論の余地がなかった。今日の戦いがそれを証明していた。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第19話「死者たちの夜」

夜の野営地は、沈黙に包まれていた。戦いは一時休止し、兵士たちは明日に備えて休息を取っている。だが、その空気は重く、喪失感に満ちていた。 俺は医務室のテントで、負傷者のリストを手に取っていた。今日の戦いで100名以上の兵が失われ、さらに多くの負傷者が出た。その名簿を読み上げる手が、微かに震えている。 「スタークス、重傷、右腕切断……」 「ウィリス、中傷、腹部裂傷……」 「ホーガン、重傷、肺に矢、危篤……」 一つ一つの名前が、心に重くのしかかる。彼らは俺の作戦で傷ついた。その責任は、俺にある。 「まだ起きていたのね」 テントの入り口が開き、セリシアが入ってきた。彼女の表情は疲れていたが、それでも冷静さを保っていた。 「ああ」俺は名簿から顔を上げずに答えた。「負傷者のリストを確認してるんだ」 セリシアは黙って俺の隣に座った。 「自分を責めてるのね」 鋭い指摘に、少し身を縮めた。 「当然だよ」俺は静かに言った。「俺の作戦で、皆が傷ついた。カイルたちは……戻ってこなかった」 セリシアはしばらく黙っていたが、やがて優しく言った。 「これも戦争よ」 その言葉に、思わず顔を上げた。 「戦争では、誰かが命令を下し、それに従って兵士たちが戦う」彼女は冷静に説明した。「そして必ず、犠牲は出る。それが避けられないことは、軍人なら誰もが知っている」 「でも……」 「カイルたちは、任務を理解した上で志願したのよ」セリシアは俺の目をまっすぐ見た。「彼らは英雄として死んだ。多くの仲間を救うために」 その言葉で胸が熱くなった。確かに彼らは勇敢だった。そして、彼らの犠牲があったからこそ、主力部隊の大半が帰還できた。 「それでも……」 俺の言葉が途切れた時、医務室の奥から呻き声が聞こえた。重傷を負った兵士の一人だろう。その痛みを和らげようと、衛生兵が動く音が聞こえる。 「本当の責任は、ラドルフにあるわ」セリシアは静かに言った。「彼が攻めてこなければ、こんな戦いにはならなかった」 確かにその通りだ。しかし、それで俺の心の重荷が軽くなるわけではない。 「ソウイチロウ」セリシアの声が少し柔らかくなった。「あなたはまだ若い。戦場の現実に直面するのは、いつだって辛いものよ」 彼女の言葉に、少し救われた気がした。セリシアは普段厳しいが、今夜は優しかった。彼女もまた、この戦いの重さを感じているのだろう。 「ありがとう」俺は素直に言った。「少し気が楽になったよ」 セリシアは小さく微笑んだ。 「明日も戦いは続くわ」彼女は立ち上がった。「少しでも休んだ方がいいわよ」 「そうだね」 セリシアはテントを出て行った。残された俺は、まだ手元の名簿を見つめていた。最後のページには、戦死者のリストがある。そこにはカイルの名前も記されていた。 「カイル・ブランデル、戦死……」 俺は声に出して読み、深く息を吐いた。これが現実だ。彼は戻ってこない。二度と冗談を言い合うことも、共に酒を飲むこともない。 テントを出ると、夜空には無数の星が輝いていた。美しい光景だが、今の俺には虚しさしか感じられない。夜風が肌を刺すように冷たい。 ふと見ると、要塞の片隅に小さな明かりが見えた。誰かいるのだろうか。気になって足を向けると、そこにはフェリナが一人、小さな蝋燭を前に座っていた。 「フェリナ?」 彼女は振り返り、俺を見上げた。目が赤くなっていた。泣いていたのだろうか。 「ソウイチロウ……」 「すまない、邪魔したかな」 「いいえ」彼女は小さく首を振った。「ちょうどいいわ。少し話をしたかったの」 俺は彼女の隣に座った。蝋燭の明かりが揺れる中、彼女の横顔が浮かび上がっていた。 「これは、私の国の弔いの仕方よ」フェリナは蝋燭を見つめながら言った。「命を落とした者のために、光を灯す……彼らの魂が闇に迷わないように」 「美しい習慣だね」 俺も蝋燭を見つめた。その小さな炎が、夜風にかすかに揺れている。 「今日の戦いで、私の同胞も何人か命を落としたわ」フェリナは静かに言った。「帝国軍として戦っていた彼らだけど、それでも同じ国の出身……」 彼女の声には悲しみが滲んでいた。敵として戦う同胞を想う気持ち、それはどれほど複雑なものだろう。 「戦争は残酷だね」俺は呟いた。 「ええ」フェリナは頷いた。「そして、ラドルフはその残酷さを極限まで突き詰めた男よ。彼は兵士を駒としか見ていない。消費可能な資源として」 フェリナの声に憎しみが混じる。彼女とラドルフの因縁は、想像以上に深いのかもしれない。 「あなたは違うわ」突然、彼女が俺を見つめた。「あなたは兵士たちの命を大切にしている。だからこそ、今こうして苦しんでいる」 「フェリナ……」 「忘れないでほしい」彼女は真剣な眼差しで言った。「あなたのような指揮官が必要なの。死者を悼み、生きる者の命を大切にする人が」 彼女の言葉が心に沁みた。そうだ、俺は忘れてはいけない。カイルたちの死も、傷ついた兵士たちの痛みも。それを心に刻み、次の戦いに活かさなければ。 「ありがとう」俺は心から言った。「君の言葉に、少し勇気をもらえたよ」 フェリナは小さく微笑んだ。その微笑みには悲しみが混じっていたが、それでも美しかった。 「それと……」彼女は言いにくそうに続けた。「ラドルフについて、もう少し話せることがあるわ」 「え?」 「彼の『赤い目』は、単なる異形ではないの」フェリナは蝋燭の炎を見つめながら言った。「それは禁忌の魔術の結果よ。『魂の鎖』と呼ばれる古代の術だと言われている」 「魂の鎖?」 「兵士たちの精神を部分的に支配する力」彼女は静かに説明した。「完全な洗脳ではなく、恐怖と服従を植え付ける術だと言われているわ」 そんな力があるのか。それなら、あの異様な統制も説明がつく。 「でも、その力には代償があるはず」フェリナは続けた。「限界があるわ。全ての兵を同時に支配することはできないし、効果も永続ではない」 「それが弱点か……」 「弱点を突くためには、もっと情報が必要ね」フェリナは決意を込めて言った。「私、明日の戦いでもっとラドルフを観察するわ」 「危険だよ」俺は心配した。「彼は君を知っているかもしれない」 「大丈夫、直接戦場には出ないから」彼女は少し微笑んだ。「でも、情報なしでは彼には勝てないわ」 確かにその通りだ。ラドルフという男を倒すには、彼の弱点を知る必要がある。 「わかった」俺は頷いた。「でも、無理はするなよ」 二人は再び蝋燭の炎を見つめた。小さな光だが、この暗い夜に希望を感じさせる。 「フェリナ」俺は静かに言った。「俺も、その弔いに参加してもいいかな」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第19話「死者たちの夜」

「……ガード殿、エストガード殿!」 意識が戻りかけたとき、誰かが俺の名を呼んでいた。目を開けると、ぼんやりとした光の中に若い兵士の顔が見えた。 「よかった、意識が戻りましたか」 兵士は安堵の表情を浮かべた。 「ここは……?」 「野営地です。何とか撤退に成功しました」 周囲を見回すと、そこは森の奥深くに作られた緊急野営地だった。燃え盛る松明の光が闇を照らし、その光の届く範囲には多くの兵士たちが横たわっていた。 「何人……脱出できた?」 俺は痛む肩を押さえながら尋ねた。矢は抜かれ、応急処置が施されていたが、動かすたびに鋭い痛みが走る。 「元の部隊の約三分の一です」 兵士の声は沈んでいた。 「三分の一……」 それは予想より良い数字だった。あの包囲網の中、完全全滅もあり得たからだ。しかし同時に、三分の二の兵士が失われたという事実が胸に重くのしかかった。 「バーンズ中佐は?」 「負傷されましたが、ご無事です。あちらの大きなテントにおられます」 俺はよろめきながら立ち上がり、中佐のテントへと向かった。 テント内では数人の将校が集まり、小さな明かりのもとで会議を行っていた。中佐は腕に包帯を巻き、顔にも傷があったが、しっかりと指揮を執っていた。 「エストガード、目が覚めたか」 彼の声には怒りはなく、ただ疲労だけが感じられた。 「はい。状況は?」 「最悪さ。だが、まだ生きている」 中佐は机の上の地図を指さした。 「我々は森の最深部まで撤退した。帝国軍は追撃を中断したようだ。おそらく、これ以上の追撃は効率が悪いと判断したのだろう」 「セリシア少佐は?」 「彼女なら、すぐそこだ」 中佐は振り返り、テントの隅を指した。セリシアはそこで黙々と魔導記録石に何かを記録していた。彼女の顔にも疲労の色が濃く、左腕には包帯が巻かれていた。 「エストガード、こちらへ」 中佐が机の上の羊皮紙を手に取った。それは負傷者と戦死者のリストだった。 「負傷者の手当てはほぼ終わった。だが、多くの者を失った」 彼は声を落として続けた。 「君に読み上げてもらいたい」 「私が?」 「ああ。君の戦術で戦った兵士たちだ。彼らの名前くらいは、君が読むべきだろう」 その言葉には非難の色はなかった。それでも重い責任を感じさせるものだった。 俺は黙って羊皮紙を受け取り、一枚目をめくった。そこには整然と名前が並んでいた。階級、名前、年齢、出身地——。 「カーン・レイノルズ一等兵、三十二歳、ノースヘイブン出身……」 あの時、偽装作戦を手伝ってくれた兵士だ。彼は「面白そうだ」と言って、俺の無謀な作戦に協力してくれた。 「ロッジ・ウィンター二等兵、二十三歳、イーストフィールド出身……」 彼も同じくあの作戦に参加してくれた一人だ。最年少で、常に笑顔を絶やさなかった青年。 名前を読み上げるたび、顔が浮かぶ。短い時間だったが、確かにそこには絆があった。彼らは俺の戦術を信じ、命を懸けて戦ってくれた。 「トーマス・ヒルトン二等兵、二十六歳、サウスバレー出身……」 読み上げる手が震え始めた。 「リード・フォレスト二等兵、二十五歳、ウエストマウンテン出身……」 声が詰まる。これ以上続けられなかった。 「もういい」 中佐が静かに言った。 「残りは私が読もう」 彼は羊皮紙を受け取り、残りの名前を厳かに読み上げた。それぞれの名に短い黙祷を捧げながら。 俺は茫然と立ち尽くしていた。リストに名を連ねる兵士たち——彼らは俺の戦術に従い、そして死んだ。もし別の選択をしていれば、彼らはまだ生きていたかもしれない。 テントを出ると、夜空には無数の星が瞬いていた。どこか冷たく、遠い光。 「自分を責めてるの?」 背後からセリシアの声がした。彼女は俺の後を追ってきたようだ。 「責めるべきでしょう。私の戦術が原因で、多くの兵士が命を落とした」 「これも戦争だわ」 彼女の声は冷静だった。 「戦場では常に死が伴う。それを恐れていては何もできない」 「でも、私は間違えた。ラドルフの戦術を読めなかった」 「誰も彼を完全に読むことはできない。それが『赤眼の魔将』と呼ばれる所以よ」 彼女の言葉には救いがなかった。確かにラドルフは強敵だ。しかし、それでも俺には責任がある。俺は十分な警戒を怠り、慢心していた。勝ち続けたことで、敗北の可能性を忘れていたのだ。 「俺は……みんなを死なせてしまった」 声を震わせながら、俺は呟いた。そして気づけば、頬を伝う熱いものがあった。涙だった。前世でも、この世界でも、こんな感情を抱いたことはなかった。 「泣いてもいいのよ」 セリシアの声が少し柔らかくなった。 「感情を押し殺すことが強さじゃない。彼らの死を心に刻むことが、次につながる」 野営地を見渡すと、負傷した兵士たちが互いを支え合い、残された食料を分け合っていた。彼らの表情には疲労と悲しみがあったが、それでも生きることを諦めてはいなかった。 「私には向いていなかったのかもしれない」 「何が?」 「戦争という『勝負』。タロカや麻雀とは違う」 セリシアは黙って俺を見つめていた。 「タロカでは負けても、また次の対局がある。だが戦場では、負けは死を意味する。自分の判断ミスで、多くの命が失われる」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第20話「読みが砕けた日」

朝靄の中、俺は要塞の最上階にある見張り台に立っていた。援軍の到着で戦況は一変し、三日目の今日は敵の姿が見えない。どうやら、昨夜のうちに帝国軍は撤退したようだ。 これは勝利と言えるのだろうか。確かに、要塞は守り切った。しかし、多くの命が失われた。カイルをはじめとする仲間たちは帰らぬ人となった。 「ここにいたか」 背後から落ち着いた声がした。振り返ると、アルヴェン将軍が立っていた。昨日の援軍と共に、将軍自ら前線に来ていたのだ。 「将軍!」 慌てて敬礼した。 「休めて良い」将軍は穏やかに言った。「朝から何を考えている?」 「はい……」俺は少し躊躇いながら答えた。「戦いの振り返りを」 将軍は頷き、俺の隣に立って遠くを見た。朝日が徐々に靄を晴らし、戦場となった平原が見えてきた。 「報告は受けた」将軍はゆっくりと言った。「君の判断と働きは、要塞防衛に大きく貢献した」 「いえ……」俺は言葉に詰まった。「私は多くの失敗をしました。北の拠点は陥落し、カイルたちは……」 将軍は静かに俺の言葉を遮った。 「戦場の責任は最終的に私にある」彼は言った。「そして、戦いにはいつも犠牲が伴う。それは避けられないことだ」 将軍の言葉には重みがあった。彼は何十もの戦場を経験してきたのだろう。その背中には、数え切れないほどの決断と、失われた命の重さが乗っているように感じられた。 「とはいえ」将軍は続けた。「君は初めて本当の試練に直面したのだろう。ラドルフは並の指揮官ではない」 「はい……」 俺は素直に認めた。ラドルフの前では、俺の「読み」は完全に通用しなかった。それは、前世でも現世でも初めての経験だった。 「ソウイチロウ」将軍が真剣な眼差しで俺を見た。「読みは万能ではない」 その言葉に、胸に痛みを感じた。将軍は続けた。 「君の才能は確かだ。その『読み』の力は、多くの戦いで勝利をもたらした。だが、それだけでは足りない場合もある」 「では、どうすれば……」 「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」将軍は古い格言を引用した。「君はラドルフを知った。そして、己の限界も知った。次はその先だ」 将軍の言葉に、わずかな希望を感じた。確かに、俺は敗北したが、その敗北から学ぶことができる。ラドルフの戦術、「魂の鎖」の限界、そして自分の「読み」の弱さも。 「君の読みは、流れを捉える力だ」将軍は続けた。「だが、ラドルフは流れそのものを支配しようとする。では、君はどうすべきか」 俺は考え込んだ。将軍の問いかけには深い意味がある。 「読みが通じないなら……」俺はゆっくりと言葉を紡いだ。「自分が流れを創るしかありません」 将軍の顔に小さな微笑みが浮かんだ。 「その通りだ」彼は頷いた。「読むだけでなく、創ることも必要だ。受け身ではなく、能動的に流れを作り出すのだ」 その言葉に、新たな視点が開けたような気がした。前世での麻雀でも、単に相手の手を読むだけでなく、自分の手を最大限に活かす戦略が必要だった。同じことが、この戦場でも言えるのだ。 「これからどうするつもりだ?」将軍が尋ねた。 「ラドルフとの戦いは、まだ終わっていないですよね?」 「ああ」将軍は厳しい表情になった。「彼は撤退したが、諦めてはいない。恐らく次の戦場で待ち構えているだろう」 「ならば」俺は決意を固めた。「もっと彼について学び、次の戦いに備えます。そして、今度は勝ちます」 将軍は満足げに頷いた。 「良い心構えだ」彼は言った。「では、今日は少し休め。明日から新たな準備が始まる」 将軍が去った後も、俺は長い間、朝の光に照らされる平原を見つめていた。ラドルフとの戦いは始まったばかりだ。次は、もっと準備して臨まなければならない。 *** 午後、俺は要塞の中庭で一人、小石を並べていた。それぞれの石には印をつけ、兵士や騎兵、弓兵などを表している。これをタロカの牌に見立てて、戦術を組み立てる練習だ。 「また変わったことをしているのね」 セリシアの声がして、俺は顔を上げた。彼女は好奇心に満ちた表情で俺の作業を見ていた。 「ああ」俺は笑った。「タロカの感覚で戦術を考えてみようと思ってね」 「面白いわね」彼女は隣に座った。「説明してくれる?」 「これは我々の兵力」俺は白い石を指した。「そしてこれが敵」黒い石を示す。「これを牌のゲームだと考えると、どんな『役』を作れるかが勝負になる」 「なるほど」セリシアは興味深そうに頷いた。「それで、いい『役』は思いついた?」 「まだだよ」俺は正直に答えた。「ラドルフの『魂の鎖』をどう崩すかが課題だ」 セリシアは真剣な表情になった。 「フェリナから聞いたわ」彼女は言った。「彼の力には限界があるって」 「そう」俺は頷いた。「彼から離れるほど、効果は弱まる。そして、日没後に特別な儀式を行うらしい」 「それが弱点ね」 「でも、それだけでは不十分だ」俺は石を動かしながら言った。「彼の戦術は完璧に近い。我々が次に何をするか、常に先読みしているように見える」 「だから、予測できない動きをする必要があるわけね」セリシアは鋭く指摘した。 「その通り」俺は笑った。「君はやっぱり頭がいいな」 セリシアは少し照れたように視線をそらした。 「単なる論理的思考よ」彼女はそっけなく言ったが、頬が少し赤くなっていた。 二人でしばらく石を動かし、様々な戦術パターンを試してみる。 「ところで」セリシアが不意に口を開いた。「フェリナとラドルフの間に何かあるみたいね」 「ああ」俺は慎重に言葉を選んだ。「彼女の父親が、ラドルフによって陥れられたらしい」 「そう……」セリシアの表情が曇った。「彼女にとっては単なる戦争じゃないのね」 「彼女は強いよ」俺は言った。「あんな過去を抱えながらも、冷静に情報を集め、分析している」 「ええ」セリシアは同意した。「彼女は尊敬に値する」 会話が途切れ、二人はまた石を動かし始めた。しばらくして、セリシアが立ち上がった。 「夕食の時間ね」彼女は言った。「食べに行かない?」 「ああ、もう少ししたら行くよ」 セリシアは軽く会釈して去っていった。残された俺は、石の配置を見つめながら考えを巡らせた。 (ラドルフは「流れを殺す」者……) 彼の戦術は、まさに流れそのものを支配する。自然な流れを殺し、自分の思い通りに状況を作り出す。それに対抗するには、俺も同じように能動的にならなければならない。 俺はポケットからタロカの牌を取り出した。戦場に持ち出すのは不謹慎かもしれないが、この牌を見るとどこか落ち着く。前世での麻雀牌に似た安心感がある。 牌を並べ、様々な「役」を作りながら、俺は戦術を練った。ラドルフに対抗する方法、「魂の鎖」を断ち切る方法。 日が落ち、中庭が暗くなり始めると、フェリナが近づいてきた。 「まだ考えてるの?」彼女は優しく声をかけた。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第20話「読みが砕けた日」

撤退から三日後、我々は何とか安全地帯の前線拠点に到着した。負傷者を運び、最低限の装備だけを持って森の中を進む長い行軍だった。その間にも何人かの重傷者が命を落とし、戦死者のリストはさらに長くなっていた。 拠点に着くとすぐに、アルヴェン将軍からの伝令が待っていた。彼は帝国軍の動きを受けて、本部から前線に出ていたのだ。 「エストガード、将軍がお呼びだ」 バーンズ中佐の言葉に、俺は重い足取りで将軍のテントへと向かった。報告書は既に提出していたが、直接対面するのは敗戦後初めてだった。おそらく厳しい叱責が待っているだろう。それも当然のことだ。 「入れ」 ノックに応える声が聞こえ、俺はテント内に入った。アルヴェン将軍は小さな机に向かって書類を読んでいた。彼の顔には疲労の色が濃く、以前より年老いて見えた。 「エストガード、座れ」 「はい、将軍」 俺は指示された椅子に腰掛けた。肩の傷はまだ痛んだが、それよりも心の痛みの方が強かった。 将軍はしばらく俺を黙って見つめていた。その眼差しには非難ではなく、何か深い思いが込められているようだった。 「君の報告書は読んだ」 彼はついに口を開いた。 「詳細な分析と、自らの失敗への率直な認識。よくまとめられていた」 予想外の言葉に、俺は少し戸惑った。 「ありがとうございます。しかし、私の判断ミスで多くの兵士が犠牲になりました」 「そうだ。それは事実だ」 将軍は厳しく言った。だが次の瞬間、彼の声はやや和らいだ。 「だが、ラドルフ・ゼヴァルドは並の敵ではない。彼との初戦で全滅を避けられたことは、ある意味で奇跡だとも言える」 「奇跡、ですか?」 「ああ。彼との戦いで生還した者は多くない。君とバーンズ中佐はよくやった」 将軍の言葉には、表面上の慰めではなく、真の評価が含まれていた。 「私は彼の『流れ』を読めませんでした」 俺は正直に告白した。 「読みは万能ではない」 将軍は小さく溜息をついた。 「これは公の場では言わないことだが、私も若い頃、彼に敗れたことがある」 その言葉に、俺は驚いて顔を上げた。アルヴェン将軍はフェルトリア王国最高の指揮官とされている。その彼がラドルフに敗れたことがあるとは。 「八年前のことだ。私はまだ中将だった。東部国境での会戦で、彼の戦術に完全に翻弄された」 将軍の目は遠くを見るようだった。過去の記憶を辿っているのだろう。 「あの時、私は君と同じように『読み』を信じていた。戦場の流れを読み、先手を打つ。それで常に勝ってきた」 彼は静かに続けた。 「しかしラドルフは違った。彼は流れを読むのではなく、作り出す。私が先を読めば読むほど、彼の思惑通りに動いていた」 それは俺が感じたのと全く同じ感覚だった。 「どうやって立ち直ったのですか?」 その問いに、将軍はじっと俺を見つめた。 「立ち直ったのではない。変わったのだ」 「変わった?」 「ああ。読むだけでなく、創ることを学んだ。流れを読むことに頼るだけでは、流れを創る者には勝てない」 将軍は立ち上がり、テントの隅に置かれた剣を手に取った。老練な戦士の風格が漂う姿だった。 「戦術は剣と同じだ。型を学び、敵の動きを読み、そして最後は型を破る。自分自身の剣を創り出すのだ」 彼の言葉は深く、俺の心に染み込んできた。 「でも、どうやって……」 「それは君自身が見つけることだ」 将軍は剣を鞘に戻し、再び椅子に腰掛けた。 「ラドルフとの戦いで、君は貴重な経験を得た。それを無駄にするな」 「はい、将軍」 「さて、実務的な話をしよう」 彼は話題を変え、地図を広げた。 「帝国軍は現在、東部国境の二点を確保した。彼らの次の動きは西への展開だろう。我々は態勢を立て直し、次の防衛線を構築する必要がある」 俺は地図に目を凝らした。帝国軍の動きは確かに西へと向かっていた。ラドルフの狙いは明らかだった。 「君はしばらく本部で静養しながら、次の戦術を練ってほしい。バーンズ中佐の部隊は一旦後方に下がり、再編成する」 「わかりました」 「もう一つ」 将軍の声が真剣さを増した。 「帝国内に王国の情報を流出させている者がいる可能性が高い。我々の戦術や部隊配置の情報が、あまりにも正確に敵に伝わっている」 「内通者が?」 「まだ確証はない。だが警戒すべきだ。君の戦術も、事前にラドルフに伝わっていた可能性がある」 その可能性は考えていなかった。自分の読みが外れたのは純粋に力量差だと思っていたが、情報漏洩があったとすれば話は変わってくる。 「調査を進めます」 「頼む。セリシア少佐とフェリナにも協力してもらうといい」 将軍との会話を終え、テントを出ると、夕暮れの空が広がっていた。赤く染まる雲が、どこかラドルフの赤い瞳を思わせた。 拠点内を歩きながら、俺は将軍の言葉を反芻していた。「読むだけでなく、創ることを学ぶ」——それはタロカでも同じではないだろうか。ただ相手の手を読むだけでなく、自分から流れを作り出す。 ふと、前世での麻雀の記憶が蘇った。強い雀士は相手の待ちを読むだけでなく、自分の手を見せないように巧みに隠す。時には故意に混乱させるような打ち方をする。 「読みが通じないなら、自分が『流れ』を創る」 その言葉が心に浮かんだとき、何か新しい視点が開けるような感覚があった。これまでの自分は「読む」ことだけに囚われすぎていたのかもしれない。 自室に戻ると、フェリナが待っていた。彼女は窓辺に立ち、夕陽を見つめていた。 「エストガード殿」 「フェリナ、どうしたんだ?」 「話があって」 彼女は真剣な表情で俺を見つめた。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人