第31話「戦後の静寂」
王都の朝は静かに始まる。窓から差し込む柔らかな日差しに目を覚ました俺は、しばらくベッドの中で天井を見つめていた。柔らかすぎるマットレス、絹のようなシーツ、豪華な部屋の調度品——未だに現実感が湧かない。 昨日の謁見式と授章式。「王国戦術師」「戦術の神子」の称号。あれは本当に俺に起きたことなのだろうか。まるで誰か別の人間の人生を生きているような感覚だった。 「はぁ……」 深いため息をつきながら起き上がる。今日は将軍との会議がある。次の任務について、だ。休む間もなく、また戦場へ赴くのだろうか。 身支度を整えていると、ノックの音がした。 「どうぞ」 ドアが開き、シバタ大尉が入ってきた。 「おはよう、ソウイチロウ」大尉は元気な声で言った。「もう目が覚めたか」 「ええ」俺は頷いた。「朝食はこれから」 大尉は部屋を見回し、少し笑みを浮かべた。 「豪華な部屋だな。落ち着かないだろう?」 「まさにその通りです」俺は正直に答えた。「野営地のテントの方がまだ居心地がいいくらいです」 大尉は大きく笑った。その笑い声に、少し緊張が解けた気がする。 「分かるぞ」彼は言った。「私も最初は慣れなかった。戦場から宮廷への移行は、新たな戦いのようなものだ」 その言葉に共感する。確かに、政治の世界は戦場とは違った意味で緊張を強いられる。 「将軍との会議は?」俺は尋ねた。 「朝食後、第三作戦室だ」大尉は答えた。「セリシアも来る」 その後、大尉は昨夜の宴会での評判を教えてくれた。貴族たちの間では俺の話題で持ちきりだったという。若くして王国戦術師の称号を得た初の人物として、好奇の目で見られていたようだ。 「特にお嬢様方は興味津々だったぞ」大尉はからかうように言った。「若き天才戦術家に憧れる乙女は多い」 「冗談でしょう」俺は呆れた表情で答えた。 「冗談じゃない」大尉は真面目な顔になった。「既に何人かの貴族から婚姻の打診があったほどだ」 その言葉に、俺は思わず咳き込んだ。 「な、何を言ってるんですか! 俺はまだ……」 実年齢ではなく、この世界での俺は18歳。確かに結婚適齢期ではあるが、そんなことを考える余裕など全くなかった。 「心配するな」大尉は笑った。「将軍がすべて断っている。軍務を優先させるためにな」 それは安心したが、同時に複雑な気持ちになった。俺の人生は既に自分の手を離れ、軍と王国の所有物になりつつあるようだ。 大尉と別れ、俺は食堂へと向かった。そこにはセリシアの姿があった。彼女は窓際のテーブルに座り、何かの書類に目を通していた。 「おはよう」俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。 「おはよう」彼女も笑顔で返した。「よく眠れた?」 「まあね」俺は彼女の向かいに座った。「豪華すぎて落ち着かなかったけど」 食事が運ばれてきた。野菜たっぷりのオムレツ、焼きたてのパン、新鮮なフルーツ——戦場での粗末な食事と比べれば、まるで夢のようだ。 「フェリナの様子は?」食事をしながら俺は尋ねた。 「今朝見舞いに行ったわ」セリシアは答えた。「順調に回復してるみたい。でも、まだしばらくは安静にしてないといけないって」 それは良いニュースだった。フェリナの傷は思ったより深く、一時は生命の危険もあったほどだ。彼女が回復に向かっていることが何よりも嬉しい。 「将軍との会議、緊張する?」セリシアが俺の表情を見て尋ねた。 「少しね」俺は正直に答えた。「次の任務がどんなものか……」 「私も気になる」彼女は少し声を落とした。「コルム丘陵での戦いは終わったけど、ラドルフとの戦いはまだ続くでしょうね」 彼女の言葉に、俺は静かに頷いた。赤眼の魔将ラドルフ。あの強大な敵は簡単に諦めるタイプではない。次の戦いはもっと熾烈なものになるだろう。 朝食を終え、俺たちは第三作戦室へと向かった。王宮の西翼にある軍事施設だ。兵士たちが行き交い、緊張感のある空気が漂っている。 作戦室に入ると、アルヴェン将軍が既に待っていた。彼は大きな地図の前に立ち、何かを考え込んでいる様子だった。 「やあ、来たか」将軍は俺たちに気づくと微笑んだ。「座ってくれ」 俺とセリシアは指定された席に座った。テーブルには様々な書類や地図が広げられている。 「まず、コルム丘陵の戦いについて総括しよう」将軍は言った。「君たちの戦術は見事だった。特に『見えない一手』の作戦は、戦争史に残るだろう」 その言葉に、少し恥ずかしくなった。 「運も味方してくれました」俺は控えめに言った。 「運?」将軍は眉を上げた。「運を味方につけるのも才能の一つだ。君の判断力と洞察力が、勝利をもたらした」 そこまで言われると、もう反論する余地はない。ただ黙って頭を下げるしかなかった。 「さて、本題だ」将軍は表情を引き締めた。「次の任務について話そう」 俺とセリシアは身を乗り出した。 「君をいったん王都に留めておきたい」 予想外の言葉に、俺は驚いた。 「王都に、ですか?」 「ああ」将軍は頷いた。「二つの理由がある。一つは君の休息のため。短期間に何度も激戦を経験した。心身を休める必要がある」 確かに、俺は疲れていた。コルム丘陵の戦いだけでなく、その前のギアラ砦、サンガード要塞と、連戦続きだった。しかし、休息の必要性は感じつつも、それが主な理由とは思えなかった。 「もう一つの理由は?」俺は尋ねた。 将軍は少し躊躇ったが、やがて口を開いた。 「政治的な理由だ」彼は静かに言った。「昨夜の宴会でも気づいただろう。君の急速な台頭に対して、反感を持つ者たちもいる」 バイアス伯爵の冷たい視線が脳裏に浮かんだ。 「保守派の貴族たちは、若い将官の昇進に批判的だ」将軍は続けた。「特に君のように、従来の序列を飛び越えて重要な地位を得た者には」 「つまり」セリシアが口を挟んだ。「ソウイチロウを王都に留め、政治的な基盤を固めるということ?」 「その通りだ」将軍は頷いた。「彼の才能を潰させるわけにはいかない。一時的に表舞台から退き、内部での立場を固める。それが最善だと判断した」 俺は複雑な思いで黙り込んだ。戦場から離れるのは本意ではないが、将軍の言うことには理があった。いくら戦場で功績を挙げても、内部の支持がなければ長くは続かない。 「では、俺は何をすれば?」俺は尋ねた。 「王宮での軍事教練と、作戦立案だ」将軍は答えた。「若い士官たちに君の戦術を教え、また、今後の戦略について意見を求めたい」 教官か——それも悪くない。自分の経験を若い士官たちに伝えることで、王国軍全体の戦力向上に貢献できる。 「わかりました」俺は頷いた。「将軍のご判断に従います」 「良い決断だ」将軍は満足そうに言った。「そして、セリシア」 「はい」彼女はきびきびと答えた。 「君は王宮への報告任務を任せたい」将軍は言った。「コルム丘陵の詳細な戦術分析を、軍議会に提出するんだ」 ...