第28話「赤眼の布陣」

夜明け前、遠くから聞こえる太鼓の音で俺は目を覚ました。背中に感じる温もりはすでになく、セリシアはいなくなっていた。彼女は俺より先に起き、すでに持ち場についているのだろう。 急いで装備を整え、俺は最上層の監視塔へと向かった。大勢の兵士たちが右往左往し、重臣兵の整列の声や、弓兵隊の励ましの声が飛び交う。 「エストガード殿!」 塔に辿り着くと、グレイスン大佐と共にセリシアが立っていた。彼女は昨夜の気まずさをすっかり払拭し、冷静そのものの表情で俺を迎えた。 「状況は?」 「見てください」 セリシアが指さす方向に目をやると、そこには壮絶な光景が広がっていた。 砦を取り囲むように、無数の帝国軍が布陣していた。その数は四千を超えるだろう。松明を手にした兵士たちが、朝もやの中で黒い影絵のように見える。そして、中央に一つ、特に大きな赤い旗が見えた。 「ラドルフですね」 グレイスン大佐が呟いた。その声には微かな震えが混じっていた。 「彼らの布陣が……通常と違う」 セリシアが魔導記録石を操作しながら言った。 「三つの集団に分かれている。通常なら単一の主力部隊を形成するはずだが」 確かに帝国軍は三つの集団に分かれていた。西側に最大の部隊、北と南にそれぞれ小規模な部隊。 「三正面作戦か」 俺は直感的に理解した。 「同時に三方向から攻撃を仕掛けてくる。砦の守備力を分散させる狙いだ」 「しかし、それでは各部隊の戦力も分散される」 大佐が疑問を投げかけた。 「ラドルフがそんな初歩的なミスを」 「彼にとっては初歩的ではありません」 俺は砦の全方位を見渡した。 「分散しているように見えて、実は彼の手の内にある。各部隊は独立しているようで、実は連携している」 グレイスン大佐は困惑した表情を浮かべたが、セリシアは理解を示した。 「彼の戦術は『支配』ね。一見すると個別の動きに見えて、実は全体が彼の意のままに動く」 「ああ。そして、我々もその『流れ』に巻き込まれようとしている」 遠くから角笛の音が響き、帝国軍の動きが開始された。西側の主力部隊が動き出す。 「大佐、予定通りの配置を」 俺は命令を出した。 「西側に主力を集中させつつ、北と南にも機動力のある部隊を配置。予備隊は中央に残し、状況に応じて展開できるようにしておく」 「承知した」 グレイスン大佐は伝令兵に指示を出し、準備が整った防衛体制を発動させた。砦の中は一気に活気づき、兵士たちが持ち場へと急ぐ。 「セリシア、右翼を頼む」 「わかったわ」 彼女は魔導記録石を持ち、右翼の指揮を執るべく階段を駆け下りていった。 「フェリナは?」 「昨晩から情報収集に出たままです」 伝令兵が答えた。 「彼女のことは心配いらない。今は目の前の敵に集中しよう」 俺は塔の上から帝国軍の動きを注視した。西側の主力部隊が前進を始め、重装歩兵が最前列で盾の壁を形成している。その背後には弓兵隊と、攻城兵器を引く部隊が続く。 一方、北と南の部隊も動きはじめたが、その速度は西側よりも遅い。まるで様子見をしているかのようだ。 「来るぞ!」 先頭の部隊が射程距離に入ると、砦からの最初の矢が放たれた。空に描かれた放物線は、敵の盾にほとんど阻まれたが、わずかに数人の兵士が倒れた。 敵も応戦し、砦に向けて矢が飛んでくる。しかし堅固な壁にほとんど影響はない。 「こんな通常戦法では砦は落とせない」 グレイスン大佐が安堵の表情を見せた。 「ラドルフにそれがわからないはずがない」 俺は警戒を解かなかった。この攻撃には何か裏があるはずだ。タロカの卓で相手が明らかに損な手を打ってきたとき、それは罠の匂いがする。まるで麻雀で相手が明らかに筋の悪い牌を切ってきたときのように、警戒心が高まる。 西側の攻撃が続く中、突然北側の部隊が急速に動き出した。それまでの緩慢な動きから一変し、全力で砦の北壁へと迫る。 「北側への変化球だ!」 俺は即座に判断した。 「大佐、予備隊の半数を北側へ!」 命令が飛び、兵士たちが北壁へと急ぐ。そのとき、南側からも同様の動きが。 「三正面同時攻撃……!」 一瞬の間に状況が変わった。西側の攻撃はフェイントではなく、北と南からの攻撃と合わせた三正面同時攻撃の一環だったのだ。 「エストガード殿! 南側の壁が!」 伝令兵が駆け上がってきた。 「南壁に登攀用の梯子がかけられています!」 俺は即座に対応策を考えた。 「南側は軽装歩兵が多い。彼らは機動力に優れているが、持久力では我々に劣る。防戦に徹すれば、持ちこたえられる」 伝令兵に南壁への指示を出し、次に北側の状況を確認した。なんと北側では水路の守備が手薄になってしまっている。 「北側の水路は!?」 「監視兵は配置済みですが、援軍はまだ……」 これはまずい。敵の「影狩人」がそこを突破すれば、砦内部からの崩壊が始まる。 「残りの予備隊全てを北の水路へ! 急げ!」 次々と命令を出す中、西側からの攻撃もいよいよ本格化してきた。移動式の投石機が前線に引き出され、巨大な岩が砦の西壁に向かって放たれる。 轟音と共に、西壁の一部が崩れ落ちた。 「壁が破られた! 敵が侵入してくる!」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第29話「見えない一手」

コルム丘陵の二日目の朝は静かに始まった。昨日の激戦で両軍とも疲弊し、早朝から動き出す気配はない。丘の上の我が陣営では、夜間に防衛線を補強し、負傷者の治療を終えた兵士たちが、次の戦いに備えて休息を取っていた。 俺は早くに目を覚まし、指揮所の高台から敵陣を見渡していた。平原の北側に広がる敵の大軍。昨日の戦いで減ったとはいえ、まだ我々の三倍以上の兵力を有している。そして、陣営の中央には相変わらず赤い旗が掲げられ、ラドルフの存在を示していた。 「よく眠れたか?」 シバタ大尉が近づいてきた。彼もまた早起きしたようだ。 「ええ、案外と」俺は答えた。「あなたは?」 「老兵の習性でな」大尉は微笑んだ。「戦いの前は自然と目が覚める」 二人で敵の動きを観察していると、フェリナが駆け寄ってきた。彼女は夜間の斥候から情報を集めていたようだ。 「報告があるわ」彼女は少し息を切らせながら言った。「敵は夜間に増援を受けたみたい。約千名が北から到着したのを確認したわ」 その知らせに、思わず眉をひそめる。 「増援か……」大尉も厳しい表情になった。「これで敵はさらに優位になったな」 フェリナはさらに続けた。「それだけじゃないわ。彼らは何か大きな物を組み立てているようなの。斥候たちには遠くからしか見えなかったけど、攻城兵器のようなものよ」 「攻城兵器?」俺は驚いた。「丘陵を登るための?」 「おそらくね」フェリナは頷いた。「何か斬新な方法で丘を攻略しようとしているんでしょう」 戦況はさらに不利になっていた。敵は兵力を増強し、新たな攻城兵器まで用意している。対して我々は、昨日の戦いで約150名の死者を出し、300名が負傷している。実質的な戦力は550名ほど——敵の六分の一にも満たない。 「セリシアの様子は?」俺は尋ねた。 「朝から動き回ってるわよ」フェリナは少し呆れたように言った。「腕の傷も構わずに、各部隊の配置を確認してる」 その話を聞いて少し安心した。セリシアが元気なら、戦術面での心配は少ない。彼女の冷静な判断力は、この窮地で必ず役立つはずだ。 「作戦会議を開こう」俺は決断した。「各隊長を集めてくれ」 伝令が走り、間もなく指揮所にはセリシア、カレン隊長、バルト隊長、そして『光の矢』部隊を率いるマーロン少尉が集まった。 セリシアは確かに腕に包帯を巻いていたが、表情は冷静そのもので、地図を広げて状況を分析し始めた。 「敵の増援と攻城兵器の配置から見て」彼女は言った。「今日は正面からの総攻撃を仕掛けてくると思われます。昨日の側面攻撃は、あくまで牽制だったのかもしれません」 皆が頷く。その分析は理にかなっていた。 「我々の対応案は?」シバタ大尉が尋ねた。 セリシアが答えようとしたとき、俺は一歩前に出た。 「一つ、提案がある」 全員の視線が俺に集まる。 「敵は今日、全力で来る」俺は言った。「彼らには兵力の優位があり、新たな攻城兵器もある。正面からの防衛戦では、我々に勝ち目はない」 重い空気が流れる。皆、現実を理解していた。 「だから、俺たちは別の戦い方をする」俺は続けた。「見えない一手を打つ」 「見えない一手?」バルト隊長が首を傾げた。 俺はタロカ石を取り出し、地図の上に並べ始めた。「我々の丘陵の裏側、南にはサラク川が流れている。その川に沿って西へ約5キロ行くと、ダレスの森がある」 地図上の場所を指し示す。 「そして、森の中には古い洞窟が……」 「待って」カレン隊長が驚いて声を上げた。「あなた、ダレスの洞窟を知ってるの?」 「ああ」俺は頷いた。「昨夜、古地図を調べていてね」 実際には、昨日のうちにフェリナと共に地元の案内人から情報を集めていたのだ。この地域の秘密の抜け道について。 「その洞窟は、かつて密輸業者が使っていた通路だ」俺は説明を続けた。「そして、最も重要なことに——その洞窟の出口は、ちょうど敵陣の北西、彼らの後方に位置している」 全員が息を呑んだ。俺の言わんとすることが理解できたようだ。 「あなたは……」セリシアが目を見開いた。「敵の後方を襲撃する気?」 「そうだ」俺はきっぱりと言った。「敵が総攻撃に出ている間に、我々の精鋭部隊が後方から奇襲をかける」 部屋が静まり返った。それは大胆すぎる作戦だった。危険でもあり、成功すれば戦況を一変させる可能性もある。 「誰が行くんだ?」シバタ大尉が尋ねた。 「俺が率いる」俺は答えた。「『光の矢』部隊の精鋭100名と、さらに志願者を募って200名ほどの部隊を編成する」 「ソウイチロウ」大尉の表情が厳しくなった。「それは指揮官としてあまりに危険だ。失敗すれば全軍の士気に関わる」 「だが、成功すれば勝機がある」俺は強く言った。「敵は我々の正面防衛に全力を集中させるだろう。そのとき、後方から不意打ちを食らえば、どんな軍でも混乱する」 セリシアは黙って考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。 「異端の策だけど、勝ち筋だわ」彼女は言った。「この状況で正面から戦えば、じわじわと押し潰される。奇策に出るしかない」 その言葉に、他の隊長たちも同意し始めた。 「しかし」セリシアは続けた。「あなたが行くべきではないわ。あなたは全軍の指揮官。ここにいるべきよ」 「そうだ」シバタ大尉も同意した。「洞窟部隊の指揮は私が執る。あなたは丘を守れ」 俺は二人の言葉に感謝しつつも、首を横に振った。 「いや、俺が行く」俺は決意を示した。「この作戦は『読み』の力が必要だ。敵の陣の中で、最も効果的な打撃を与える場所と時間を見極めなければならない」 大尉とセリシアは反対の色を見せたが、俺の決意は固かった。 「セリシア、あなたに全軍の指揮を任せる」俺は言った。「あなたなら丘を守れる。シバタ大尉には、正面防衛の指揮をお願いしたい」 二人は渋々ながらも、最終的には同意した。 「ソウイチロウ」セリシアは真剣な眼差しで俺を見た。「必ず戻ってきて」 その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。 「ああ、約束する」 作戦の詳細が決まり、各自が準備に取り掛かった。時間との勝負だ。敵が攻撃を開始する前に、洞窟部隊を送り出さなければならない。 志願者を募ると、予想以上の兵士が名乗り出てくれた。彼らの中には、昨日の『光の矢』作戦で活躍した兵士も多く、士気は高かった。最終的に、マーロン少尉率いる『光の矢』部隊100名と、新たに志願した150名の計250名で洞窟部隊が編成された。 「出発は一時間後」俺は部隊に告げた。「軽装で、三日分の食料と水を持て。静かに、目立たぬよう丘の裏手から降りる」 準備が進む中、フェリナが近づいてきた。 「私も行くわ」彼女はきっぱりと言った。 「フェリナ」俺は驚いた。「君は情報将校だ。戦闘部隊じゃない」 「でも、私の情報収集能力は現地で役立つはず」彼女は言い張った。「それに……」 彼女の目に決意の色が浮かぶ。 「ラドルフがいる場所に、私も行きたいの」 彼女の気持ちを理解した。彼女にとってラドルフは、単なる敵将ではない。父を殺された仇であり、復讐の対象だ。 「わかった」俺は頷いた。「だが、無理はするな。君の命は大切だ」 フェリナは小さく微笑んだ。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第29話「見えない一手」

激しい戦闘が続く中、正午を過ぎてもギアラ砦への攻撃は衰える気配がなかった。 「南区画の『影狩人』はほぼ制圧されました」 グレイスン大佐が監視塔に戻り、報告する。彼の鎧には血しぶきが飛び散り、息も荒い。 「被害は?」 「兵士十数名が死亡、二十名以上が負傷。だが、彼らの侵入経路は塞ぎました」 俺は頷き、再び戦場全体を見渡した。西側の攻撃は相変わらず激しく、北側の水路への圧力も続いている。だが、南側からの攻撃は若干弱まっていた。 「南からの攻撃が弱まっているのは、地下侵入作戦の失敗を受けて態勢を立て直しているのだろう」 大佐が分析する。 「いいえ」 俺は首を振った。 「彼らは撤退のための時間を稼いでいるんです」 「撤退?」 グレイスン大佐は驚いた表情を見せた。帝国軍がこの段階で撤退する理由など考えられない。 「ラドルフの真の狙いは別にある」 俺は砦の東側を示した。これまで全く攻撃のなかった方向だ。 「この三正面攻撃は、我々の注意をそらすための陽動なんです」 大佐は困惑の表情を浮かべたが、そのとき伝令兵が駆け上がってきた。 「エストガード殿! 東側の崖下に敵兵が集結しています!」 報告を聞いた大佐の表情が変わる。 「東側? あそこは絶壁だ。攻めようがない」 「どれくらいの規模だ?」 「約五百。『影狩人』と思われる精鋭部隊です」 俺は微笑んだ。 「やはりね」 「ど、どういうことだ?」 大佐が混乱した様子で尋ねる。 「ラドルフの本当の狙いは東側から。絶壁で攻められないと思われている場所こそ、彼の真の侵入経路だったんだ」 東側の崖は確かに急峻で、通常の軍隊が攻め上るのは不可能に近い。しかし、特殊訓練を受けた「影狩人」であれば可能かもしれない。そして、そこを突破されれば、砦の裏側から一気に制圧される。 これは麻雀でいう「カンチャン待ち」のような奇襲戦術だ。最も警戒されにくい場所から攻撃を仕掛ける。「1-3」の形で「2」を待つような、相手が想定しにくい侵入路を選ぶ戦法。 「なぜそれがわかった?」 「彼の『流れ』を読んだんです。三方からの攻撃は強すぎた。本当に砦を落とす気なら、もっと長期的な包囲戦を選ぶはず。これほど露骨な総攻撃には裏があると」 大佐はまだ困惑していたが、次の瞬間、俺は微笑んだ。 「そして——我々の『見えない一手』の時だ」 大佐の混乱はさらに深まる。 「『朔』作戦、実行!」 俺の命令に、伝令兵が砦のさまざまな場所へと走り出した。そして、静かに動き出す車輪の音。 砦の裏門が開き、そこから二十台ほどの荷車が出ていく。それぞれの荷車には兵士が五人ずつ、荷物に紛れて隠れていた。 「あれは?」 「三日前から準備していた伏兵です」 俺は説明した。 「ラドルフが東側から侵入を試みることは予測できた。だから、彼らが動き出す前に、崖裏に我々の伏兵を配置しておいたんです」 大佐は目を見開いた。 「三日前? あの時はまだラドルフが来るという確証さえなかったはずだが」 「確証はなくても、確率はわかります。タロカでも同じです。相手の『待ち』が見えなくても、最も可能性の高い一手に備えるんです」 東の崖下に集結していた帝国軍の「影狩人」たち。彼らが崖を登り始めたその瞬間、崖裏から伏兵が現れた。不意を突かれた「影狩人」たちは、混乱の中で次々と倒れていく。 「見事だ……」 大佐の声には驚嘆が混じっていた。 「だが、これだけで勝てるとは思えない。まだ敵の主力は健在だ」 「これはほんの始まりです」 俺は言った。 「セリシア少佐からの報告です!」 新たな伝令兵が到着した。 「右翼の準備が整いました。『朔』の第二段階に移行可能とのことです」 「伝えてくれ。セリシアは主力部隊を率いて、本作戦を実行せよと」 伝令兵が去り、俺は再び戦場全体を見渡した。 東側での伏兵の奇襲が始まると同時に、北と南からの帝国軍の攻撃が弱まった。それは当然だ。ラドルフの本命だった東側の作戦が頓挫し、計画が狂い始めている。 そして、俺の予想通り、ラドルフは主力を東側に振り向け始めた。西側の攻撃が緩み、一部の部隊が東へと移動し始める。 「今だ」 俺は静かに言った。 「大佐、北側と南側からの一斉突撃を命じてください」 「突撃? 守りを固めるべきではないのか?」 「いいえ、今こそ攻め時です。ラドルフは計画の変更を余儀なくされている。彼の『流れ』が乱れた今が、我々の好機なんです」 これは麻雀でいう「鳴き」の戦術だ。相手の打牌を見てから行動する守りの姿勢から、自ら積極的に牌を取りに行く攻めの姿勢への転換。相手の混乱した隙を突く好機。 大佐は一瞬迷ったが、やがて決断した。 「承知した。北と南からの突撃を命じる」 命令が下され、砦の北門と南門が開く。そこから兵士たちが雄叫びを上げて飛び出していった。予想外の反撃に、帝国軍の陣形が乱れる。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第30話「少年は神子と呼ばれた」

コルム丘陵の戦いから三日が経った。負傷者の手当て、兵站の整理、報告書の作成——戦後の雑務に追われる日々。俺はテントの中で、執務机に向かって最後の報告書を書き上げていた。 「勝利は『光の矢』部隊の奮闘と全兵士の尽力によるものであり、指揮官としての功績を自認するものではない」 ペンを置き、長い報告書を見直す。伝わるだろうか、この感覚は。俺はただ、麻雀(タロカ)で培った"読み"を応用しただけなのに、その結果がこれほど大きな勝利につながるとは——。 テントの入口から日差しが差し込んでいた。外では兵士たちが荷物をまとめる音がする。今日、我々はコルム丘陵を離れ、王都へと戻る予定だった。 「まだ書いてるの?」 セリシアがテントに入ってきた。彼女の腕の包帯は外れていたが、まだ傷跡が残っている。 「ああ、やっと終わったよ」俺は少し疲れた表情で言った。「こんなに報告書を書くなんて、麻雀合宿でも経験したことないよ」 「麻雀って何?」セリシアが首を傾げた。 しまった。前世の言葉が口をついて出た。 「あ、いや、タロカの古い言い方だよ」俺は慌てて取り繕った。「方言みたいなもので」 セリシアは不思議そうな表情をしながらも追及せず、テントの中を見回した。 「荷物は纏まった? もうすぐ出発よ」 「ほとんど終わってる」俺は頷いた。「あとはこの報告書を提出するだけだ」 セリシアは俺の隣に座り、報告書に目を通した。 「あなたらしいわね」彼女は少し笑みを浮かべた。「自分の功績を認めようとしない」 「功績なんてものじゃないよ」俺は首を振った。「みんなが命を賭けて戦ったからこそ勝てたんだ」 「そうね」セリシアは頷いた。「でも、指揮官の策が優れていなければ、ここまでの勝利は得られなかったわ」 彼女の言葉に、少し照れくさくなった。 「兵士たちの間では、あなたのことを『戦術の神子』と呼び始めてるわよ」彼女は意味ありげな視線を送った。 「な、何だって?」俺は驚いた。「冗談だろ?」 「冗談じゃないわ」セリシアは真剣な表情になった。「あなたの戦術は異端だった。常識では考えられない奇策。でも、それこそが勝ち筋だった」 彼女の評価に、言葉が見つからなかった。 「フェリナの様子は?」話題を変えるように俺は尋ねた。 「かなり良くなってきてるわ」セリシアは答えた。「今朝から歩けるようになって、自分で支度をしてるわよ」 それは良いニュースだった。フェリナの傷は思ったより深く、一時は危険な状態だったほどだ。彼女が回復に向かっていることが分かり、胸をなでおろした。 報告書を片付け、二人でテントを出る。外では兵士たちが出発の準備を進めていた。荷車に荷物を積み、馬に鞍を置き、隊列を整えている。 丘の頂上からは、数日前まで激戦地だった平原が見渡せた。今は静かな風景が広がり、戦いの痕跡も少しずつ消えつつある。 「陛下からの使者が到着しています」 伝令が俺たちに近づいてきた。「シバタ大尉が会議テントでお待ちです」 俺とセリシアは顔を見合わせ、急いで会議テントに向かった。 テントの中には、シバタ大尉、グレイスン大佐、そして見慣れない豪奢な服装の人物がいた。王都からの使者だろう。 「やあ、ソウイチロウ」大尉が俺を見て微笑んだ。「これがロイ伯爵、陛下の側近だ」 中年の貴族風の男性が俺に向かって軽く頭を下げた。 「ソウイチロウ・エストガード殿」彼は格式ばった口調で言った。「コルム丘陵の勝利、誠におめでとうございます。陛下も大変お喜びです」 「ありがとうございます」俺は少し緊張しながら答えた。「しかし、勝利は全兵士の尽力によるものです」 伯爵は微笑んだ。「謙虚な若者ですな。しかし、その才覚は既に王国中に知れ渡っております」 王国中に? そんなに早く噂が広まるものなのだろうか。 「陛下からの親書をお持ちしました」伯爵は金色の紋章で封された巻物を差し出した。「コルム丘陵の戦功により、あなたに『王国戦術師』の称号が授けられます」 俺は驚いて巻物を受け取った。王国戦術師? そんな重大な称号など、受ける資格があるとは思えない。 「これは……」言葉に詰まる俺に、シバタ大尉が助け舟を出した。 「名誉ある称号だ、ソウイチロウ」大尉は嬉しそうに言った。「その称号を受けた者は歴史上でも数えるほどしかいない」 伯爵は続けた。「また、陛下は謁見を望んでおられます。王都に戻られましたら、直ちに王宮へお越しください」 これは想定外の展開だった。俺のような若造が王に謁見するなど、考えられないことだ。 「わかりました」しかし、断る選択肢はない。「謹んで拝謁させていただきます」 伯爵は満足そうに頷き、さらに説明を続けた。王都では既に俺の戦功を讃える噂が広まっており、「戦術の神子」「軍神の再来」などと呼ばれているという。 話を聞きながら、俺の心は複雑だった。前世では大学受験に失敗し、麻雀に明け暮れる日々。親からは「ダメ息子」と呆れられたものだ。それが今や「神子」と称されるとは——なんという皮肉だろう。 会議が終わり、伯爵は先に王都へ向かった。我々も間もなく出発する予定だ。 テントから出ると、フェリナが杖をつきながら近づいてきた。顔色はまだ少し悪いが、以前より確実に元気そうだった。 「おはよう」彼女は微笑んだ。「やっと歩けるようになったわ」 「無理するなよ」俺は心配そうに言った。「まだ完全に治ってないだろ?」 「大丈夫、命を預けてよかったって思えるくらいには回復してるわ」彼女は冗談めかして言った。 その言葉に、少し胸が熱くなった。 「王国戦術師になったんですって?」フェリナが俺の表情を見て尋ねた。「噂はあっという間に広まるのね」 「まだ実感がないよ」俺は正直に答えた。「こんな称号、受ける資格があるとは思えない」 「あなたこそふさわしいわ」フェリナはきっぱりと言った。「私が見てきた中で、あなたほど局面を読み、流れを変えられる人はいない」 フェリナとセリシア、二人からそう言われると、少しだけ認めざるを得ない気持ちになった。 「とにかく、王都に戻ろう」俺は話題を変えた。「旅の準備はできてる?」 「ええ」彼女は頷いた。「少し動くと疲れるけど、馬車なら大丈夫よ」 出発の時間が近づく中、俺は最後にもう一度丘の頂上に立った。ここでの戦いは俺にとって大きな転機となった。敵将ラドルフとの初めての大規模な戦い、そして勝利——それは単なる軍事的勝利を超えた意味を持っていた。 北の平原には既に敵の姿はなく、ただ静かな風景が広がっている。しかし、ラドルフはまだ諦めていないだろう。彼との戦いは、これからも続く。 「もう出発の時間よ」 セリシアの声で、俺は物思いから我に返った。 「ああ、行こう」 二人で丘を下り、隊列の先頭に立った。シバタ大尉、フェリナ、そして千名ほどの兵士たち。皆が俺を見る目が、以前とは少し違っていた。尊敬、畏怖、期待——様々な感情が入り混じった視線だ。 「全軍、出発!」 俺の号令と共に、兵士たちが動き出した。コルム丘陵を後にし、王都に向かう長い道のり。この戦いで失われた命の重みを胸に、俺たちは静かに行進を始めた。 *** ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第30話「少年は神子と呼ばれた」

ギアラ砦の戦いから二週間が経ち、王都メイドナルムに凱旋した俺たちを、熱狂的な歓迎が待っていた。 街道には民衆が溢れ、兵士たちに花束を投げかける。「英雄!」「救国の将!」といった歓声が飛び交う中、一行は王城へと向かっていた。 「思っていたより大掛かりな歓迎だな」 俺は馬車の中でセリシアに呟いた。彼女は笑みを浮かべていたが、その目は冷静な観察を怠らない。 「あなたの功績は、想像以上に広まったようね。『タロカの戦術家』『神の読みを持つ少年』——あらゆる噂が飛び交っているわ」 馬車の窓からは、俺の名を叫ぶ市民たちの姿が見える。中には「戦術の神子」と書かれた旗を掲げる者もいた。 「戦術の神子、か……大げさな」 俺はため息をついた。確かにギアラ砦での勝利は大きな成果だった。帝国軍の西進を食い止め、ラドルフの無敗神話に傷をつけた初めての戦いだ。だが、こうして神格化されることには違和感があった。 「王国民の希望が必要なのよ」 セリシアは静かに言った。 「長く続く戦争で疲弊していた民衆に、勝利の象徴が必要だった。あなたは、その役割を与えられたのね」 俺は無言で頷いた。前世の記憶では、こんな注目を集めたことはなかった。麻雀の腕は良かったが、一般人の範疇を出ることはなかった。それがこの世界では、多くの人々の視線を集め、時に崇拝の対象にさえなっている。 「あなたが歓声に照れているとは珍しいわね」 セリシアは微笑んだ。 「俺はただの戦術家だ。持ち上げられるほどのことはしていない」 「謙虚ね。でも、ギアラ砦での采配は本当に見事だった。あなたの『見えない一手』がなければ、勝利はなかったわ」 砦での戦いを思い出す。あの死闘の中で、多くの兵士が命を落とした。勝利を収めたとはいえ、代償は小さくなかった。そして、重傷を負ったフェリナのことも頭から離れない。 「フェリナの容体は?」 俺の問いに、セリシアは表情を緩めた。 「良くなっているわ。今朝の報告では、ようやく意識が戻ったとのこと。あなたのことを尋ねていたそうよ」 「そうか……」 安堵の気持ちが広がる。フェリナは南側の突撃隊に撤退の合図を送るため、自らを犠牲にして東の塔で信号を上げた。多くの矢を受け、一時は生命の危機さえあったという。 「彼女の勇気がなければ、もっと多くの犠牲が出ていただろう」 「ええ。彼女は真の英雄よ」 セリシアは同意した。 馬車は王城の大門に到着した。そこには、アルヴェン将軍をはじめとする高官たちが出迎えに立っていた。 「エストガード、セリシア」 将軍は満足げな笑顔で二人を迎えた。 「見事な戦いだった。王も大変喜んでおられる」 「ありがとうございます、将軍」 俺は敬礼した。将軍の表情には誇らしさが滲んでいた。彼にとって、俺の成功は自らの慧眼の証明でもあるのだろう。 「さあ、王はお待ちだ。謁見の準備をせよ」 *** 王宮の大広間は、華やかな貴族たちで溢れていた。装飾された柱の間に立ち並ぶ彼らは、俺とセリシアが入場すると一斉に視線を向けてきた。 賞賛の目もあれば、妬みや警戒の色を隠さない者もいる。権力の場らしい複雑な空気だった。 広間の奥には王が座していた。フェルトリア王国第十七代国王、ザンクト・フェルトリア。四十代半ばの穏やかな表情の男性だが、その目には鋭い知性が宿っていた。 「エストガード補佐官、セリシア少佐」 王は二人を見つめ、微笑んだ。 「ギアラ砦での勝利、見事であった。王国の名において、深く感謝する」 俺とセリシアは深く一礼した。 「陛下のご信任に応えられたことを、光栄に存じます」 俺の言葉に、王は満足げに頷いた。 「エストガード、汝の戦術眼は神の恵みよ。我が軍の宝となろう」 王は立ち上がり、近づいてきた。その手には金の勲章が輝いていた。 「ここに、王国最高の勲章、『黄金獅子勲章』を授ける」 俺の胸に勲章が付けられると、広間に拍手が広がった。セリシアにも高位の勲章が授与される。 儀式の後、宮廷での祝宴が開かれた。貴族たちが次々と俺たちに近づき、祝福と賛辞を告げる。その多くは表面的なものだろうが、中には真摯な敬意を示す者もいた。 「エストガード殿」 年配の貴族が声をかけてきた。 「伯爵令嬢の婿として、我が家を考えてみてはどうだろう?」 突然の申し出に、俺は言葉に詰まった。だが、これは最初の話ではなかった。祝宴の間に、すでに数人の貴族から同様の打診があった。 「恐縮ですが、まだそのような話は……」 丁寧に断ると、貴族は少し残念そうにしながらも引き下がった。 「人気者ね」 セリシアが横から現れ、小さく笑った。 「困ったものだ」 「でも、あなたの立場を考えれば当然よ。若くして功績を挙げた貴族の養子——政略結婚の絶好の対象ね」 彼女の皮肉めいた口調に、俺は苦笑した。 「俺はただ、戦いに勝ちたいだけなんだがな」 「本当にそれだけ?」 セリシアの問いかけには、以前のような鋭さがなかった。彼女自身も俺の変化を感じているのだろう。 「前は、たしかにそうだった。ただ勝ちたかった。でも今は……」 俺は言葉を選びながら続けた。 「守るべきものが増えた気がする。王国の人々、兵士たち、そして……」 言いかけた言葉を飲み込む。セリシアは微かに頬を赤らめたが、すぐに表情を引き締めた。 「異端の策だけど、勝ち筋だった」 彼女は静かに言った。砦での戦いを評して。 「ありがとう」 祝宴の喧騒の中、二人は静かな会話を交わしていた。そこへ、アルヴェン将軍が近づいてきた。 「エストガード、セリシア。楽しんでいるか?」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人