第26話「迫る赤眼の魔将」

ギアラ砦での勝利から三日目の朝、俺はアルヴェン将軍に呼び出された。砦内はまだ戦いの爪痕が残り、修復作業に忙しい兵士たちの姿が見える。勝利の高揚感は薄れ、新たな現実が目の前に広がっていた。 「ソウイチロウ」 作戦室に入ると、将軍は大きな地図を広げていた。その手が指す先——サンクライフ平原。砦から南へ約三日行程の広大な平原だ。 「昨夜、斥候から新たな報告が入った」将軍は厳しい表情で言った。「ラドルフ率いる帝国軍がサンクライフ平原に集結している。規模は約五千」 五千——ギアラ砦での戦いとは桁違いの数字だ。思わず息を呑む。 「そして、君にはこの平原の南端、コルム丘陵の防衛を任せたい」 将軍が指し示したのは、平原の南に位置する小さな丘陵地帯だった。平原の広大な戦場に比べれば小さな地域だが、そこは平原を見下ろす重要な高地だった。 「平原の南端、ですか?」 「そう。敵の補給路を押さえる要衝だ。ここを制する者が平原の戦いを制する」 将軍の言葉に、責任の重さを感じる。 「兵力は?」 「千名を与える。君の指揮下に置く」 これまでで最大の兵力だ。ギアラ砦では数百名だったのに、今度は千名。 「セリシアも参謀として同行する。彼女は既に準備を始めている」将軍は続けた。「また、フェリナも情報将校として同行を願い出た」 心強い仲間たちの名前に、少し安心感が広がる。 「……本当に、俺でいいんですか?」 思わず口から漏れた言葉。これほどの大任、本当に自分にできるのかという不安が胸をよぎる。 将軍は一歩近づき、俺の肩に手を置いた。 「君は『流れ』を読める。それが今、最も必要な才能だ」 その言葉に、少し自信が湧いてきた。 「わかりました。全力を尽くします」 将軍は頷き、作戦の詳細を説明し始めた。敵の予想される動き、我々の部隊配置、補給計画……。頭に入れるべき情報が次々と示される。 作戦会議が終わり、部屋を出ようとした時だった。 「ソウイチロウ」将軍が呼び止めた。「ラドルフは今回、全力で来る。ギアラでの敗北を許さない男だ」 「はい」 「彼の『魂の鎖』の力も、恐らく最大限に発揮されるだろう」 俺は黙って頷いた。ラドルフの赤い眼が脳裏に浮かぶ。あの日、一瞬だけ見た敵将の姿——圧倒的な存在感と、“流れ"を支配する異質な力。 「では、準備を始めてくれ。出発は明朝だ」 作戦室を出た俺は、急いで自分の部屋に向かった。荷物をまとめ、必要な書類を整理し、そして——ある小さな革袋を取り出す。 中から出てきたのは、小さな石の破片。タロカ牌を模して俺が自分で作った戦術ツールだ。これまでも使ってきたが、今回の戦いではさらに改良を加えたいと思っていた。 暫く石片を並べていると、ノックの音がした。 「どうぞ」 ドアが開き、セリシアが入ってきた。彼女は既に軽装の旅支度を整えており、手には地図と書類を持っていた。 「準備は進んでる?」彼女が尋ねた。 「ああ、少しずつね」俺は石片を示した。「これも改良中なんだ」 セリシアは興味深そうに近づき、石片を手に取った。 「タロカの応用ね」彼女は微笑んだ。「あなたらしいわ」 彼女の言葉に少し照れくさくなる。 「今回の敵は強大だよ」俺は真剣な表情で言った。「ギアラの比じゃない」 「そうね」セリシアも真剣な表情になった。「でも、あなたとなら勝てる」 彼女の言葉は単なる励ましではなく、確信に満ちていた。初めて会った頃の懐疑的な態度とは大違いだ。 「ラドルフの情報をもっと集めないとね」俺は言った。「彼の戦術パターンや弱点を……」 「それなら、私が役に立つわ」 ドアから別の声が聞こえた。フェリナが立っていた。 「フェリナ」俺は驚いて立ち上がった。「いつから?」 「今来たところよ」彼女は部屋に入り、大きな書類の束を広げた。「これ、ラドルフの過去の戦術記録。私なりに分析したものよ」 広げられた書類には、ラドルフの過去の戦いが克明に記録されていた。彼が採った布陣、攻撃パターン、兵の動かし方……全てが詳細に分析されている。 「すごいな」俺は感心して書類を見た。「こんなに詳しく……」 「彼に父を殺された身として、徹底的に研究してきたの」フェリナの声には強い決意が混じっていた。「今度こそ、彼を倒す」 俺とセリシアは顔を見合わせた。フェリナの復讐心は理解できるが、それが彼女を危険に導くことも懸念される。 「フェリナ」俺は優しく言った。「情報は本当にありがたい。でも、無茶はしないでくれよ」 「わかってるわ」彼女は小さく微笑んだ。「もう独りよがりの復讐じゃない。私たちの勝利のために戦う」 その言葉に安心する。ギアラでの戦いを経て、フェリナも成長したようだ。 三人で資料を広げ、作戦会議を始めた。セリシアが地図上に兵の動きを示し、フェリナがラドルフの予想される戦術を説明。俺はタロカ石を並べながら、“流れ"を可視化していく。 「コルム丘陵の地形を活かした布陣が重要ね」セリシアが言った。「敵は平原から登ってくるしかないから、高所の利を最大限に活かせる」 「でも、ラドルフは単純な正面攻撃はしないわ」フェリナが指摘した。「彼は必ず迂回路を探す。特に夜間の奇襲が得意」 「なるほど」俺は頷き、タロカ石を動かした。「なら、彼の『魂の鎖』の届かない場所に伏兵を配置すれば……」 会議は夕方まで続いた。夕食の時間が近づき、三人は一旦休憩することにした。 「では、夕食後にまた集まりましょう」セリシアが言った。「出発の細かい段取りを決めないと」 三人が部屋を出ようとしたとき、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。 「報告! 敵軍の動きに変化が!」 息を切らした伝令兵が走ってきた。俺たちは急いで作戦室に向かった。 作戦室には既にアルヴェン将軍と数名の高官が集まっていた。彼らは新たに届いた地図を囲み、険しい表情で何かを議論している。 「何があったんですか?」俺が尋ねた。 将軍は俺たちに気づき、手招きした。 「ラドルフが予想より早く動き出した」将軍は言った。「彼らは既に平原の北端に到達している」 地図を見ると、確かに敵軍の位置が大幅に前進していた。予定より少なくとも二日は早い。 「これでは、コルム丘陵に部隊を展開する時間が……」セリシアが懸念を示した。 「そうだ」将軍は厳しい表情で頷いた。「出発を早める必要がある。今夜中に出発できるか?」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第26話「迫る赤眼の魔将」

「見えてきました、ギアラ砦です」 護衛兵の声に、俺は馬車の窓から顔を出した。三日間の長旅の末、ようやく目的地に到着する。 霧がかった山々の間に、灰色の巨大な要塞が姿を現す。ギアラ砦——西方国境を守る重要な防衛拠点だ。高い城壁と複数の塔、険しい山道を通ってのみアクセスできる自然の要害。 「難攻不落と言われる砦ですね」 馬車の中でセリシアが地図を広げながら言った。 「確かに地形的には守りやすい。だが、それはラドルフも承知の上で来るということだ」 馬車は砦の大門に到着し、一行は厳重な警備の下、中へと案内された。 砦の中は活気に満ちていた。防衛の準備が急ピッチで進められており、兵士たちが武器や物資を運び、壁の補強作業を行っている。民兵も動員されており、老若男女問わず砦の防衛に参加しているようだった。 「エストガード補佐官、お待ちしておりました」 現地の指揮官、グレイスン大佐が出迎えた。壮年の男性で、風格のある身なりだが、顔には疲労の色が濃い。 「状況を説明していただけますか?」 グレイスン大佐は本部へと案内しながら話を始めた。 「三日前に偵察隊が帝国軍の大規模な部隊移動を確認しました。彼らはギアラ砦に向かっているのは間違いありません」 本部に着くと、大きな作戦テーブルの上に詳細な地図が広げられていた。 「帝国軍の推定規模は?」 「四千から五千。重装歩兵を中心に、騎兵隊と弓兵も含まれます」 「こちらの戦力は?」 「砦の常駐部隊が八百。あなた方と共に到着した増援が三百。そして民兵が約五百」 数で言えば完全に不利だ。しかし、強固な砦を守る側には有利があるはずだった。 「物資の状況は?」 「食料と水は二週間分。矢と投石用の岩石は十分。しかし、医療品はやや不足しています」 セリシアが地図を詳しく調べながら質問を続けた。 「砦の弱点はどこですか?」 グレイスン大佐は少し躊躇したが、正直に答えた。 「西側の壁は他より低く、そこを強化している最中です。また、北側には小さな水路があり、非常時の水の確保に使いますが、敵に発見されれば侵入路になり得ます」 「わかりました」 俺は地図に目を通しながら、頭の中でラドルフの動きを予測していた。彼なら、このような状況でどう攻めてくるか? 単純な正面突破では難しい。彼は必ず何か策を持っているはずだ。 「大佐、民間人の避難は?」 「既に完了しています。砦内に残っているのは志願の民兵のみです」 「良かった」 俺は少し安堵した。少なくとも民間人の犠牲は避けられる。 「では、防衛計画を立てましょう」 作戦テーブルを囲んで、詳細な打ち合わせが始まった。グレイスン大佐の経験、セリシアの分析力、そして俺の戦術——それらを組み合わせて最善の防衛策を練る。 *** 「西側と北側の補強は順調です」 翌朝、砦の壁の上から防衛準備の進捗を確認する。夜通し作業が続けられ、弱点だった部分が着実に強化されていた。 「エストガード殿」 振り返ると、フェリナが立っていた。彼女は情報分析のために同行していたが、昨日は疲労のため休んでいた。 「フェリナ、体調はどうだ?」 「大丈夫です。それより、これを」 彼女は小さな巻物を差し出した。 「偵察隊からの最新報告です。ラドルフの部隊はあと二日で到着する見込みとのこと」 「二日か……それまでに準備を終えなければ」 「それと、もう一つ重要な情報があります」 フェリナの表情が真剣さを増した。 「ラドルフの部隊構成ですが、通常の構成とは異なっています。重装歩兵が多く、包囲用の装備も目立ちます」 「包囲作戦か……」 俺は思案した。ギアラ砦のような要塞に対しては、短期決戦より長期包囲の方が効果的だ。物資を断ち、内部から崩壊させる戦法。 「もう一つ。彼は『特殊部隊』も率いているようです」 「特殊部隊?」 「はい。彼が直々に訓練した精鋭で、普通の兵士とは装備も戦法も異なると言われています」 俺はフェリナの情報に感謝し、即座にセリシアと共有した。 「ラドルフの特殊部隊……聞いたことがあります」 セリシアは記録石を取り出し、過去の報告書を参照した。 「彼らは『影狩人』と呼ばれ、主に潜入や奇襲を得意とします。普通の兵士では太刀打ちできないほど訓練されています」 「北側の水路……」 俺は直感的に理解した。ラドルフは表向きは包囲を仕掛けつつ、特殊部隊による内部からの破壊を狙っているのだろう。 「水路の警備を強化しよう。信頼できる兵士を配置して、24時間体制で監視する」 セリシアは頷き、すぐに命令を出した。 「あと一つ、我々の情報収集体制を見直したい」 「どういうことですか?」 「ラドルフの戦術をより正確に予測するため、タロカ牌を使った『流れ』の可視化を試みたい」 セリシアは少し驚いた表情を見せたが、すぐに理解を示した。 「タロカによる戦術分析……面白い試みですね」 俺は小部屋を用意してもらい、そこに木製のタロカ牌を模した石片を配置した。それぞれの石片はラドルフの部隊や動きを象徴している。 「これで『流れ』を読みやすくなる」 フェリナも興味深そうに見ていた。 「これがあなたの『読み』の秘密なのですね」 「ああ。タロカや麻雀では、『牌』の配置で流れを可視化できる。戦場でも同じことができるはずだ」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第27話「開戦前夜」

コルム丘陵の夜は冷たかった。平原からの風が吹き上げ、野営地のテントを揺らす。俺は指揮官テントで地図を広げ、明日の戦いに備えて最後の作戦会議を開いていた。 「敵は夜明けと共に全軍で攻めてくるでしょう」 シバタ大尉が地図上の敵軍位置を指さす。夕方の斥候報告によれば、敵の本隊も平原中央部に到達し、先遣隊と合流したという。総勢約五千——我々の五倍の兵力だ。 「正面からの攻撃だけでなく、側面からも必ず来るわ」 フェリナが丘陵の東西を指す。斜面は急ではあるが、訓練された兵士なら登れないことはない。 「そうですね」俺は頷いた。「おそらく東西からの迂回も計画しているでしょう。ラドルフならなおさら」 地図を見つめる顔々は疲れを隠せない。特にセリシアは昨夜からほとんど休んでおらず、目の下にクマができていた。それでも彼女は集中力を切らさず、緻密な防衛計画を立てていた。 「東の斜面にはカレン隊長の部隊を、西にはバルト隊長の部隊を配置します」セリシアが言った。「どちらも200名ずつ。機動力のある兵で構成し、必要に応じて互いに応援できるようにしましょう」 その提案は理にかなっていた。限られた兵力で広い範囲をカバーするには、機動力が鍵となる。 「残る600名は正面防衛だな」シバタ大尉が頷いた。「丘の頂上部と中腹の2ラインに分けて配置する」 議論は細部に及び、夜も更けていった。兵士たちの配置、伝令の経路、予備兵力の使い方——あらゆる可能性を想定して計画を練る。 俺はタロカ石を並べながら、敵の動きを予測していた。“流れ"を読む——それが俺の武器であり、強みだ。ラドルフの「魂の鎖」が"流れを殺す"力なら、俺の"読み"はそれを超える必要がある。 「ソウイチロウ」 シバタ大尉の声で我に返る。どうやら少し考え込んでいたようだ。 「すまない」俺は頭を振った。「少し考え事を……」 「無理もない」大尉は優しく言った。「今夜は早めに休め。明日に備えて体力を温存するんだ」 会議は夜半過ぎに終了した。明日の布陣が決まり、各隊長に指示が伝えられる。フェリナもシバタ大尉も自分のテントに引き上げていった。 テントに残ったのは俺とセリシアだけだ。彼女は最後の報告書に目を通していた。疲労で肩が下がり、ペンを持つ手が小刻みに震えている。 「セリシア」俺は声をかけた。「もう休もう。これ以上無理しても仕方ない」 彼女は顔を上げ、疲れた目で俺を見た。 「でも、まだ確認していない計算が……」 「明日の朝でいい」俺は言った。「君も体を休めないと」 セリシアは一瞬抵抗しようとしたが、やがて諦めたように溜息をついた。 「そうね……少し休むわ」 彼女がペンを置いたとき、ふらりと体が傾いた。俺は慌てて彼女の肩を支えた。 「大丈夫か?」 「ええ……ちょっとめまいが」セリシアは弱々しく笑った。「少し仮眠を取ればすぐに良くなるわ」 俺は彼女の様子を心配した。無理を重ねすぎたのだろう。 「俺のテントで休んだらどうだ?」俺は提案した。「ここより少し広いし、静かだから」 本来なら司令官用のテントは一番広いはずだが、今回の急な出陣で俺のテントが通常より大きく割り当てられていた。 「ありがとう」セリシアは素直に頷いた。「少しだけお借りするわ」 二人で中央テントを出ると、静かな夜の野営地が広がっていた。兵士たちの多くは既に眠りについており、焚き火の番人だけが静かに夜を見守っている。北の空には依然として赤い光が見え、不吉な予感を掻き立てた。 「明日……勝てると思う?」 テントに向かう途中、セリシアが小さな声で尋ねた。普段の彼女らしからぬ弱気な問いに、少し驚く。 「勝つよ」俺は迷わず答えた。「必ず」 その言葉に、セリシアは一瞬だけ微笑んだ。疲れた顔に浮かんだその笑みが、妙に胸に染みた。 「そうね」彼女は静かに言った。「あなたが言うなら、そうなんでしょう」 俺のテントに着くと、中は予想以上に簡素だった。野戦用の寝床が一つ、簡易な机と椅子、それに荷物が少々——それだけだ。 「寝床を使ってくれ」俺は言った。「俺は床でいい」 セリシアは困ったように眉を寄せた。 「でも、それじゃあなたが……」 「気にするな」俺は笑った。「麻雀合宿で床に寝た経験は山ほどあるさ」 前世の記憶が無意識に口をついて出た。セリシアはきょとんとした顔をしたが、特に追及せずに頷いた。 「でも」彼女は寝床を見て言った。「一人用にしては広いわね。仮眠程度なら……二人で使えるんじゃない?」 その提案に、俺は思わず顔が熱くなるのを感じた。狭い寝床で隣り合って寝るなんて……。 「いや、それは……」 「別に変な意味じゃないわよ」セリシアは少し赤くなりながらも冷静に言った。「戦場では効率が大事でしょう。それに、うつらうつらするだけだから」 彼女の言い分は理にかなっていた。確かに戦場では不必要な遠慮をする余裕はない。それに、彼女の体調が心配だったし……。 「わかった」俺は渋々同意した。「でも、ちゃんと休めるか?」 「大丈夫よ」セリシアは言った。「お互い背中合わせにすれば問題ないわ」 二人は装備を一部だけ外し、寝床に横になった。予想通り狭く、背中と背中がくっつきそうになる。お互いぎこちなく体を固くして、できるだけ触れないよう気を遣う。 「おやすみ」俺は小さく言った。 「おやすみなさい」セリシアも静かに応じた。 テントの中は静寂に包まれた。外では夜風が吹き、時折兵士の足音や遠くの馬の嘶きが聞こえる。俺は天井を見つめながら、明日の戦いについて考えていた。 隣のセリシアの呼吸が次第に整ってきた。彼女はやはり疲れていたのだろう、すぐに眠りについたようだ。俺も目を閉じ、休もうとする。 時間が過ぎ、俺もうとうとし始めた。半分眠りかけていた時、無意識に体を動かしたのだろう。手が何かに触れた感触がする——柔らかく、なめらかな感触。 はっと目を開けると、俺の手はセリシアの髪に触れていた。いつの間にか彼女は仰向けになっていたようで、長い銀色の髪が寝床に広がっていた。 慌てて手を引こうとしたとき、セリシアの目が開いた。 「……何をしてるの?」 彼女の声は眠たげでありながらも、明らかに緊張していた。 「す、すまない」俺は慌てて謝った。「寝返りを打った時に、無意識に……」 言葉が途切れる。どう説明していいかわからない。 セリシアはしばらく俺を見つめていた。月明かりがテントの隙間から差し込み、彼女の顔を青白く照らしている。 「……戦場で髪を触るなんて、無神経ね」 彼女は低く呟いた。その声には非難めいたものが感じられたが、同時に奇妙な柔らかさもあった。 「本当にすまない」俺は再び謝った。「俺が床に移るよ」 「いいわ」セリシアは言った。「動かないで。せっかく温まったのに、また冷えるだけよ」 彼女は背を向け、再び横になった。その横顔は、月明かりの中でわずかに赤みを帯びていたように見えた。 (こういうの、タロカにはなかったな……) 思わず心の中で苦笑する。麻雀やタロカのルールにはない状況だ。こんな気まずい空気の流れは、どう"読む"べきなのか——。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第27話「開戦前夜」

急ぎで集められた作戦会議は、夜遅くまで続いた。グレイスン大佐を含め、砦の主要将校と、我々がギアラ砦防衛のために練り上げた最終作戦を確認する場だ。 「西側の壁面は予想通り、敵の主要攻撃目標になる可能性が高い」 俺は石の模型で作られた砦の西側を指差した。 「この正面からの攻撃は、彼らの『表の動き』に過ぎない。真の狙いは、北側の水路を通じた内部侵入だろう」 将校たちは険しい表情で頷いた。特殊部隊「影狩人」の存在は、その危険性をいっそう高めていた。 「北側水路への警備配置を見直しました」 セリシアが資料を広げながら説明を続ける。彼女の声には疲労が混じっていたが、分析は冷静で的確だった。 「兵力の三割を北側に集中させ、水路出口には特に信頼できる兵で固めます。交代のシフトも、前回の案から変更しています」 俺はセリシアの顔を見た。彼女の表情には緊張の色が濃く、額には軽い汗が浮かんでいる。一瞬、彼女の手が小刻みに震えるのが見えた気がした。 「……セリシア」 声をかけると、彼女は一瞬だけこちらを向き、微かな微笑みを返した。その表情は疲労と緊張に満ちていたが、それでも決意を失ってはいなかった。 「では、ここまでの計画で実行に移します」 グレイスン大佐が立ち上がり、将校たちに指示を出した。 「全員、持ち場に戻り、明日に備えよ。夜明け前には彼らの動きが始まるだろう」 将校たちが敬礼して散っていく。最後に残ったのは俺とセリシア、そしてグレイスン大佐だけだった。 「エストガード殿、セリシア少佐」 大佐は疲れた顔に浮かべた微かな笑みで言った。 「少しでも休んでおくといい。明日は長い一日になるだろうから」 「ありがとうございます」 俺とセリシアは部屋を出た。廊下は松明の光が揺らめき、兵士たちの足音が絶え間なく響いていた。明日の戦いに向けた準備は夜通し続くだろう。 「一時間前に確認した際、フェリナは最後の情報収集に出ていた」 セリシアが歩きながら言った。 「彼女なら大丈夫だ。誰よりもラドルフを知っている」 「そうね」 セリシアの歩みが少し遅くなり、壁に寄りかかった。 「大丈夫か?」 「ええ……少し、疲れているだけ」 彼女の顔色は良くなかった。ここ数日、ほとんど休んでいないのだろう。俺も似たようなものだが、彼女の方が情報分析と記録で神経を使っていた。 「休もう。寝る場所はあるのか?」 「大佐が部屋を用意していたはず。この先の……」 セリシアの言葉は、突然響いた警笛で中断された。 「なんだ?」 俺たちは急いで外に出た。城壁の上から、兵士たちが何かを指差している。 「偵察兵が戻ってきたようだ」 門が開き、一人の兵士が息を切らして駆け込んでくる。彼はすぐにグレイスン大佐のもとへと案内された。 「何かあったのか?」 俺の問いに、門を守る兵士が答えた。 「帝国軍の前哨が予想より早く動いているそうです。夜陰に紛れて接近しているとの報告が」 セリシアと顔を見合わせる。予定より早い動きだ。おそらく夜間の奇襲を狙っているのだろう。 「我々の準備は?」 「ほぼ整っています。あとは各部署への最終確認を……」 その時、グレイスン大佐が現れた。 「報告によれば、帝国軍はまだ主力を動かしていない。これは偵察行動か、小規模な撹乱作戦の可能性が高い」 「それでも油断はできませんね」 セリシアが言った。 「ええ。警戒を強化するが、全軍総出動にはまだ早い。エストガード殿、セリシア少佐、予定通り休息を取ってください。明日こそが正念場になるでしょう」 大佐は疲れた微笑みを浮かべた。 「あなた方の知恵が、この砦を救うのですから」 *** 「こちらです」 兵士は俺たちを小さな部屋へと案内した。砦の中層階にある将校用の部屋だが、戦時中のため簡素なものだった。 「申し訳ありませんが、部屋の数に限りがあり……」 兵士は少し気まずそうに言った。確かに部屋は狭く、寝床も一つしかない。 「大丈夫だ、問題ない」 俺は兵士に会釈し、セリシアと二人きりになった。部屋の中央には一つの簡易ベッド。壁には松明が一本だけ灯され、部屋に淡い光を投げかけていた。 「……」 「……」 二人とも言葉が出ない。戦術の話をするのなら自然なのに、こうして二人きりになると急に気まずさが押し寄せてきた。 「私は床で構わないから……」 俺が言いかけると、セリシアが首を振った。 「馬鹿なことを言わないで。明日の戦いのことを考えなさい。きちんと休まなければ」 彼女は実務的な口調で言ったが、僅かに顔を背けるのが見えた。 「それにこの床は冷たすぎる。体調を崩せば、戦術の意味がなくなるわ」 「では、交代で使うか?」 「時間の無駄よ。二人で使うしかないでしょう」 セリシアはそう言うと、武装を解き始めた。剣帯を外し、肩当てを脱ぐ。俺も同じように、最低限の装備だけを残して身軽になった。 ベッドは決して広くはない。二人が眠るには狭すぎる。 「背中合わせで寝ましょう」 セリシアが現実的な提案をした。彼女はベッドの片側に腰掛け、靴を脱いだ。 「ああ、そうだな」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第28話「赤眼の布陣」

コルム丘陵に朝日が昇り始めた。大地を金色に染める光の中、敵の大軍が黒い潮のように押し寄せてくる。その整然とした行進は、ラドルフの「魂の鎖」の効果を如実に示していた。 「正面から三部隊、側面から二部隊」 フェリナが双眼鏡で観察し、報告する。「間違いなく三正面同時攻撃よ」 俺は丘の頂上に立ち、敵の布陣を見渡した。ラドルフは平原の利を活かし、広大な前線で攻撃を仕掛けてきている。正面からの主力に加え、東西からも挟撃する形だ。 「予想通りね」セリシアが地図を見ながら言った。「でも、側面部隊が予想より大きいわ」 確かに、東西から迂回してくる敵部隊はそれぞれ千名はいるだろう。俺たちの側面防衛は各200名——数で見れば圧倒的に不利だ。 「『光の矢』作戦の準備はいいか?」俺はシバタ大尉に尋ねた。 「ああ」大尉は頷いた。「選抜部隊100名が待機している。合図があり次第、行動開始だ」 敵はすでに丘陵の麓に到達し、登攀の準備を始めていた。先遣隊が斜面を上り始め、主力が続く。東西の部隊も同様に、側面から登り始めている。 「弓兵隊、準備!」 セリシアの命令で、丘の上に配置された弓兵たちが弓を構えた。敵が射程に入るのを待っている。 「まだだ……」俺は敵の動きを見つめていた。「もう少し近づけさせろ」 敵の先遣隊が斜面を三分の一ほど上ったところで、セリシアが剣を高く掲げた。 「発射!」 彼女の命令と共に、弓兵たちが一斉に矢を放った。空を裂く音と共に、矢の雨が敵の隊列に降り注ぐ。 多くの敵兵が倒れたが、後続の兵士たちは躊躇うことなく前進を続けた。倒れた仲間を踏み越え、まるで機械のように登ってくる。 「魂の鎖の効果ね」フェリナが唇を噛んだ。「恐怖も痛みも感じない」 再び矢が放たれ、さらに敵兵が倒れた。しかし、その効果は限定的だ。余りにも数が多すぎる。 「東側が危険です!」 伝令が駆け込んできた。「敵が想定より早く斜面を上がっています!」 俺はすぐにカレン隊長率いる東側防衛部隊に指示を送った。「予備兵力を東に回せ。彼らを足止めしろ」 戦いは各所で激化し始めた。丘陵の斜面のあちこちで剣戟の音が響き、叫び声が上がる。我々の兵士たちは善戦しているが、敵の数は圧倒的だ。 「こちらは持ちこたえています!」 西側からバルト隊長の報告が届いた。彼の部隊は地形を巧みに利用し、敵の進攻を遅らせている。 俺は指揮台から戦況全体を見渡した。東側がやや危険、西側は何とか持ちこたえている、正面は敵の主力がまだ登り始めたばかり——。 「ソウイチロウ」 シバタ大尉が近づいてきた。「そろそろ『光の矢』を実行すべきでは?」 俺はタロカ石を握り締め、“流れ"を読もうとした。敵の動き、戦場の空気、兵士たちの状態——全てを総合して判断する。 「まだだ」俺は答えた。「敵の主力がもう少し前に出るのを待つ」 戦いは激しさを増していった。東側では、カレン隊長の部隊が必死に敵を食い止めようとしている。彼らはあらかじめ用意した障害物や落とし穴を利用し、敵の進撃を妨げていた。 西側では、バルト隊長が機動戦術を展開。小部隊に分かれて敵の側面を突き、混乱させている。 しかし、正面では敵の主力がじわじわと近づいてきていた。彼らの中心には赤い旗が高く掲げられ、その下にラドルフの姿があった。 「ラドルフが動いている」フェリナが報告した。「彼は中央の手前で指揮を執っている」 双眼鏡で見ると、確かに赤い鎧を着けたラドルフが部下に指示を出している様子が見えた。彼の周りには精鋭部隊が固く守りを固めており、容易には近づけない。 「東側が持ちません!」 突然、緊急の伝令が届いた。「敵が防衛線を突破しました!」 セリシアが地図に新たな敵の位置を書き込んだ。「東側の最初の防衛線が破られたわ。このままでは側面から包囲される」 事態は急速に悪化していた。もはや躊躇している時間はない。 「『光の矢』作戦、実行」俺は決断した。「シバタ大尉、頼む」 大尉は頷き、待機していた伝令に指示を出した。伝令兵が丘の裏側へと走っていく。 「本当にやるのね」フェリナが不安そうに言った。「危険すぎるわ」 「勝つためには必要だ」俺は静かに答えた。「ラドルフの『流れ』を変えるには」 『光の矢』作戦——それは俺が考案した奇策だった。丘の裏側に隠しておいた精鋭100名が、北東の崖沿いを迂回し、敵の後方から不意打ちを仕掛けるという作戦だ。成功すれば敵の陣形が乱れ、「魂の鎖」の効果も薄れるかもしれない。 しかし、失敗すれば100名の兵士が孤立し、全滅する危険性もある。それは文字通り、命を賭けた賭けだった。 「東側の援軍はどうする?」セリシアが尋ねた。 「正面の予備兵力50名を回せ」俺は命じた。「カレン隊長に伝えろ——あと30分持ちこたえてくれ」 予備兵力が東側に向かい、俺たちは再び戦局を見守る。『光の矢』部隊が作戦を実行するまでの間、何としても持ちこたえなければならない。 戦況は厳しさを増すばかりだった。東側では援軍が到着し、何とか敵の進撃を遅らせているが、完全に止めるには至らない。西側も同様に苦戦し、正面では敵の主力が着実に近づいてきていた。 「この調子では、一時間と持たないわ」セリシアの声には緊張が滲んでいた。 「信じろ」俺は言った。「俺たちの兵を、そして『光の矢』を」 時間が経過し、戦況はさらに悪化していった。東西両側で敵が押し寄せ、正面からも大軍が迫る。三方向からの挟撃——まさにラドルフの意図した通りの展開だ。 「敵の主力部隊、丘の中腹に到達!」 伝令の報告に、皆の表情が引き締まる。いよいよ決戦の時だ。 その時、東の空に一筋の光が走った。続いて、敵の後方から角笛の音が響いた。 「『光の矢』が動いた!」シバタ大尉が声を上げた。 双眼鏡で見ると、敵の後方で混乱が起きている様子だった。我が精鋭部隊が崖沿いから現れ、敵の補給隊を襲撃したのだ。 「成功したわ!」フェリナの声に興奮が混じる。「敵の後方が混乱している!」 作戦は成功していた。精鋭部隊は敵の予想外の場所から現れ、後方の守りが薄い部分を突いた。補給隊や伝令が混乱し、ラドルフへの連絡系統も寸断されたようだ。 敵陣の一部で動きが止まり、混乱の兆候が見え始めた。特に東側を攻めていた部隊が、後方の騒ぎに気を取られ、進撃の勢いが弱まっている。 「今がチャンスだ」俺は決断した。「東側反撃開始! カレン隊長に伝えろ」 準備していた命令が下され、東側の我が軍が反撃に転じた。彼らは急な斜面を利用して敵を押し返し始める。 一方、西側のバルト隊長にも同様の指示が出された。彼の部隊も機動力を活かし、敵の隙を突いて反撃を開始する。 戦況が一変し始めた。敵の進撃が止まり、一部では後退の動きも見られる。「魂の鎖」の効果が及ばない範囲が広がったのか、敵兵の中には混乱し、統制を失う者も出てきた。 「ラドルフの様子は?」俺はフェリナに尋ねた。 「動揺しているわ」彼女が双眼鏡を覗きながら答えた。「彼は急いで部下に指示を出している。恐らく態勢の立て直しを図っているのでしょう」 『光の矢』作戦は、ラドルフの予想を超える一手となった。彼の完璧な布陣に揺さぶりをかけ、僅かだが隙を生み出したのだ。 「正面からの総反撃を」俺は命じた。「今こそ敵の混乱に乗じるときだ」 丘の中腹に控えていた主力部隊が、セリシアの指揮の下、一斉に動き出した。彼らは敵の主力に突撃し、戦場に雄叫びが響く。 俺はタロカ石を並べ直しながら、戦況の変化を追っていた。“流れ"が変わり始めている——敵の混乱、我が軍の士気の高まり、そして最も重要な要素、ラドルフの動揺。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人