第31話「戦後の静寂」

ギアラ砦での戦いから三日後、まだ後片付けと復旧作業が続く中、俺は戦果の最終確認を行っていた。 「帝国軍の損害は?」 グレイスン大佐は手元の報告書に目を通しながら答えた。 「死者約五百、負傷者は千を超えると推測されます。特に『影狩人』と呼ばれる精鋭部隊は壊滅状態です」 「我々の損害は?」 「死者百二十、負傷者二百八十。大規模な攻城戦としては、驚異的に少ない犠牲です」 俺は無言で頷いた。一人一人の命を考えれば決して少なくはないが、戦争の論理では「成功」と呼べる数字だ。 「修復作業の進捗は?」 「西壁の破損部分は応急処置が完了し、南壁の爆破箇所も修復中です。二週間もあれば、元の防衛力を取り戻せるでしょう」 俺は砦の中央広場に立ち、周囲を見渡した。兵士たちは疲れた表情を見せながらも、誇りを持って働いている。彼らの目には、勝利の自信が宿っていた。 「大佐、王都からの使者は?」 「今夕に到着予定です。陛下からの直々の賞賛があるとのこと」 グレイスン大佐の顔には誇らしさが浮かんでいた。 「あなたの功績は王国中に広まっています。『タロカの戦術家』、いや『戦術の神子』と呼ぶ者もいるとか」 俺は少し困惑した表情を浮かべた。そんな大げさな渾名をつけられるなど、思ってもみなかった。 「やりすぎです。ただの戦術を考えただけで」 「謙虚ですね。しかし、ラドルフに勝った指揮官は、あなたが初めてなのです」 大佐の言葉には敬意が込められていた。 彼との会話を終え、俺は自室に向かった。砦の上層階にある小さな部屋だが、窓からは西の平原が一望できる。帝国軍がいた場所は今や空虚で、ただ踏みつけられた草原が広がるだけだった。 ノックの音がして、ドアが開く。 「セリシア少佐が王都に向かう準備をしています」 伝令兵が告げた。 「わかった、すぐに行く」 砦の中庭では、セリシアが小さな護衛隊と共に出発の準備をしていた。彼女は王都への報告役として選ばれたのだ。 「行くのか」 俺の声に、セリシアは振り返った。銀色の鎧は磨き上げられ、肩には王国の紋章が輝いている。 「ええ。将軍に直接報告する必要があるわ」 彼女の表情には疲労の色があったが、それでも誇りに満ちていた。ギアラ砦の右翼を指揮したセリシアの功績は大きい。 「気をつけて行くんだ」 「心配ないわ。帝国軍は当分、この地域には現れないでしょう」 セリシアは馬に跨りながら、一瞬だけ柔らかな表情を見せた。 「また、あなたの策を見たい」 その言葉には、単なる軍人としての評価を超えた何かが含まれているように感じた。 「ああ、必ず」 俺は微笑み返した。セリシアと護衛隊は砦の門を出て、王都への長い道のりを進み始めた。その姿が地平線の彼方に消えるまで、俺は見送った。 *** 夕方、王都からの使者が到着した。派手な装飾の施された馬車に乗って現れた使者は、王室直属の儀典官だった。 「エストガード補佐官殿」 儀典官は深々と頭を下げた。 「陛下より、ギアラ砦防衛における偉大なる功績に対し、最高の賞賛をお伝えいたします」 俺は丁寧に礼をしつつも、内心では少し居心地の悪さを感じていた。この世界に来て以来、こんな公式の賞賛を受けるのは初めてだった。 「おかげさまで、帝国軍は撃退され、西方防衛線は保たれました」 儀典官は満足げに頷いた。 「三日後、あなたの王都帰還を望まれています。勲章授与の儀式が執り行われる予定です」 勲章——前世では考えられないような栄誉だ。地方貴族の養子として新たな人生を始めた俺が、王国からの勲章を授かるとは。 「光栄です」 儀典官は続けて、グレイスン大佐や他の将校たちにも褒賞の言葉を伝えた。砦全体が祝福ムードに包まれる。 夜になると、簡素ながらも勝利を祝う宴が開かれた。酒と料理は質素だったが、兵士たちの笑顔は本物だった。彼らは死の恐怖から解放され、勝利の喜びを分かち合っている。 俺は宴の端に座り、静かに杯を傾けていた。隣では、グレイスン大佐が昔の戦の話を若い兵士たちに聞かせている。 「エストガード殿は違いますな」 突然、年配の兵士が声をかけてきた。 「どういう意味だ?」 「勝っても、浮かれない。冷静に次を見据えている」 その兵士は俺の杯に酒を注ぎながら言った。 「若いのにね。経験豊かな将校でも、勝利に酔いしれる者が多いというのに」 「勝っても、残るのは疲れだけだな」 俺は小さく呟いた。確かに勝利は嬉しかったが、同時に深い疲労も感じていた。身体的な疲れだけでなく、精神的な疲弊。多くの命が失われた現実は変わらない。 「勝っても、残るのは疲れだけだな」という思いは、前世での麻雀の対局後と似ていた。だが決定的な違いがある。この勝利には意味がある。多くの命を救い、王国に希望をもたらした。空虚な勝利ではない。それでも、英雄視される現実に違和感を覚える自分がいた。 「賢明な考えです」 兵士は敬意を込めて頭を下げた。 宴は夜遅くまで続いたが、俺は早めに退席した。静かな夜の砦を歩きながら、戦いの記憶を整理する。ラドルフの戦術、彼の「赤い目」、そして我々の反撃——全てがあまりにも鮮明だった。 フェリナの療養する医務室を訪れると、彼女はまだ深い眠りの中にあった。医師によれば、容体は安定しているものの、完全回復にはまだ時間がかかるという。 「無事に王都まで運べるようになるまで、あと二日はかかるでしょう」 医師はそう告げた。 「わかりました。最善の治療を」 俺はフェリナの額に軽く手を置き、静かに部屋を出た。 *** 翌日から、王都帰還の準備が始まった。報告書の最終調整、物資の整理、負傷者の移送準備——やるべきことは山積みだった。 「エストガード殿」 グレイスン大佐が執務室を訪ねてきた。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第32話「軍神と呼ばれて」

王都メイドナルムの中央広場は、人で溢れかえっていた。 「戦術の神子がいる!」 「エストガード様万歳!」 「帝国軍を撃退した英雄だ!」 こうした歓声が四方から湧き上がる中、俺は儀仗兵に護衛された馬車の中で硬い表情を浮かべていた。傍らにはセリシアがおり、彼女も複雑な心境を隠せないようだった。 「予想外の人出ね」 セリシアが窓の外を見ながら呟いた。 「ここまでとは思わなかった」 俺も同意した。ギアラ砦での勝利は確かに大きなものだったが、これほどまでに民衆を熱狂させるとは想像していなかった。 馬車は人々に道を空けてもらいながら、ゆっくりと王宮へと向かっていた。沿道では花束が投げ入れられ、子供たちは旗を振って喜んでいる。 「彼らは本当に英雄を求めていたのね」 セリシアの声には思慮深さがあった。 「ラドルフに対抗できる希望の象徴として、あなたを見ているわ」 俺はセリシアの洞察に納得しつつも、心の中では居心地の悪さを感じていた。麻雀の対局では相手の読みを競うだけだったが、この世界では国の命運がかかっている。その重圧は想像以上だった。 馬車が王宮に到着すると、アルヴェン将軍自ら出迎えてくれた。 「よく戻ってきた、エストガード、セリシア」 将軍は満足げな表情で二人を迎え入れた。 「陛下が今か今かと待っておられる。まずは謁見室へ」 壮麗な王宮の廊下を歩きながら、将軍は小声で警告を加えた。 「バイアス伯爵を筆頭とする一派も今日は出席している。彼らの言動に注意するように」 俺とセリシアは頷いた。将軍の私信で警告されていた政治的緊張は、今も続いているようだ。 謁見室の扉が開かれると、豪華な装飾の施された広間に、多くの貴族や将校が整列していた。正面の玉座には、フェルトリア王国第十七代国王ザンクト・フェルトリアが威厳ある姿で座していた。 「エストガード補佐官、前へ」 儀典官の声に応じ、俺は玉座の前まで進み、深々と膝をついた。 「陛下」 「エストガード、汝の功績は我が国に大いなる希望をもたらした」 王の声は力強く、広間に響き渡った。 「ギアラ砦での勝利は、単なる一戦の勝利を超え、帝国の侵攻を食い止める重要な一歩となった」 王は立ち上がり、側近から金の勲章を受け取った。 「ここに、王国最高の勲章、黄金獅子勲章を授ける」 俺の首に勲章がかけられると、広間に拍手が沸き起こった。続いてセリシアにも、銀獅子勲章が授与される。 「汝らの忠誠と勇気に感謝する。フェルトリア王国は汝らを誇りに思う」 セレモニーの後、宮廷での盛大な宴が催された。華やかな衣装に身を包んだ貴族たち、軍服に勲章を輝かせる将校たち——彼らは次々と俺に近づき、祝福の言葉を述べた。 「エストガード殿、素晴らしい戦いでした」 「若きタロカの天才、王国の宝ですな」 「わが家の娘を紹介させてください」 社交辞令とはいえ、その多くは本心からの賞賛に聞こえた。だが中には、打算的な視線を隠さない者もいる。特に若い娘を持つ貴族たちは、俺を婿候補として品定めするような目で見ていた。 「エストガード殿」 低く落ち着いた声が聞こえ、振り返るとバイアス伯爵が立っていた。洗練された中年の貴族で、灰色の髪に金の装飾を施した高級な衣装を身につけている。 「バイアス伯爵」 俺は丁寧に挨拶した。相手は将軍が警戒する人物だが、公の場では礼儀正しく振る舞うべきだ。 「素晴らしい功績、心から祝福いたします」 伯爵の言葉には表面上の温かさがあったが、その目は冷たく俺を観察していた。 「ギアラ砦の防衛には、多くの兵士の助けがありました」 俺は謙虚に答えた。 「謙遜なさる必要はありませんよ。あなたの戦術的天才は、今や王国中の知るところです」 伯爵は周囲を見渡した。 「『戦術の神子』、あるいは『軍神の再来』とさえ呼ばれているとか」 その言葉には皮肉が滲んでいた。 「大げさな話です」 「いいえ、あながち大げさでもないでしょう」 伯爵は一歩近づき、声を落とした。 「若いながらもそのような才覚を持つあなたは、単なる軍人としての役割を超えた存在になり得る。政治的な影響力も、あなたの手の内にあるのです」 その言葉は明らかな誘いだった。伯爵はアルヴェン将軍の対抗勢力であり、俺を自分の陣営に引き込もうとしているのだ。 「私はただの軍人です、伯爵。政治的野心などありません」 「今はそうかもしれませんね」 伯爵は薄く笑った。 「しかし、時が来れば考えも変わるでしょう。その時は、ぜひ私にご相談を」 彼は名残惜しそうにしながらも別の貴族に話しかけるため去っていった。 俺が深呼吸をしていると、セリシアが近づいてきた。彼女は宮廷向けの美しいドレスに身を包み、いつもの軍服姿とは違う雰囲気を醸し出していた。 「何を言われたの?」 「政治的影響力について」 「やはり……」 セリシアは周囲を警戒しながら、小声で言った。 「バイアス伯爵は国境地域の割譲を条件に、帝国との和平を主張している派閥の領袖よ。彼らはあなたのような人気者を味方につければ、自分たちの主張に正当性を持たせられると考えているわ」 「利用されるだけか」 「そういうこと」 宴は夜遅くまで続き、俺は無数の貴族や将校と言葉を交わした。多くは表面的な社交だったが、中にはアルヴェン将軍の支持者と思われる者から、具体的な軍事的助言を求められることもあった。 漸く人の波が引いた頃、俺は宮殿のバルコニーに出て、夜風に当たっていた。 「疲れたでしょう」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第33話「それぞれの想い」

王都での滞在も三日目を迎え、俺は王室から与えられた豪華な客室で、地図と報告書に囲まれていた。壁際の机には、タロカの牌が並べられ、窓からは朝日が差し込んでいる。 ノックの音がして、セリシアが入ってきた。彼女は軍服姿に戻り、腕には書類の束を抱えていた。 「おはよう、エストガード」 「ああ、おはよう」 セリシアは机に書類を置き、俺の作業を覗き込んだ。 「サンクライフ平原の分析?」 「ああ。次の任務に向けて準備している」 アルヴェン将軍から言及されたサンクライフ平原への任務。ギアラ砦の北に位置するその地域は、重要な交易路であり、次のラドルフの標的かもしれなかった。 「詳細な地形図があればいいのだが」 俺は手元の地図の不足を嘆いた。正確な情報なしでは、効果的な防衛策を立てることは難しい。 「実はそれについて、朗報があるわ」 セリシアは書類の中から一枚の大きな羊皮紙を取り出した。それは詳細なサンクライフ平原の地形図だった。 「これは?」 「王室の特別許可で、王立図書館から取り寄せたもの。通常は一般の軍人でも閲覧が難しいけれど、あなたの『戦術の神子』という評判が役立ったわ」 セリシアの口調には少し皮肉が混じっていたが、その目は真剣だった。 「ありがとう、大いに役立つ」 俺は地形図を広げ、詳細に検討し始めた。サンクライフ平原は思ったより複雑な地形をしていた。北側の小高い丘陵地帯、中央を流れる川、南側の密林地帯——防衛するにも、攻撃するにも多様な選択肢がある場所だ。 「さて、将軍から伝言があるわ」 セリシアは椅子に腰掛けながら言った。 「明後日、新たな作戦会議が開かれる。サンクライフ平原の防衛についてよ」 「了解した」 俺は地図から目を離さずに答えた。 「あとひとつ、個人的な質問なんだけど」 セリシアの声のトーンが変わった。俺は顔を上げ、彼女を見た。 「何だ?」 「あなたはこれからどうするつもり? 前線残留か、それとも軍中枢か」 その質問は唐突だったが、セリシアの表情は真剣だった。 「どういう意味だ?」 「そのままの意味よ」 彼女は窓際に歩み寄り、外の景色を見つめながら続けた。 「ギアラ砦での勝利によって、あなたの立場は大きく変わった。王都の軍中枢で参謀として働き、全戦線の戦略を立案する道も開けた。一方で、これまで通り前線で実戦指揮を執る道もある」 俺は考え込んだ。確かに彼女の言う通り、選択肢は増えていた。王都の軍中枢にいれば、より広い視野で戦略を立てられる。しかし、それは実戦から離れることでもある。 「まだ決めていない。だが、恐らく前線だろう」 「なぜ?」 「タロカと同じだ。卓を離れては、真の『流れ』は読めない」 セリシアは少し意外そうな表情を見せた。 「多くの参謀は権力に近い場所を選ぶものよ」 「俺は参謀というより、対局者かもしれないな」 俺はタロカの牌を一枚手に取りながら言った。 「ラドルフと直接対峙したい。彼の『流れ』を読み、そして打ち破りたい」 セリシアは静かに頷いた。 「わかったわ。その選択を尊重するわ」 彼女は再び書類を整理し始めたが、その動作には少し安堵の色が見えた気がした。 「あなたが前線を選ぶなら、私も同行を志願するわ」 その言葉には、単なる軍人としての忠誠を超えた何かがあった。 *** 午後、王立病院でフェリナを見舞った。彼女の容体は少しずつ良くなっており、短時間なら起き上がることもできるようになっていた。 「エストガード殿」 フェリナは俺の姿を見ると、微笑んだ。 「調子はどうだ?」 「回復しています。もう少しで退院できるでしょう」 彼女の顔色は前回よりも良くなっていた。窓から差し込む光が、彼女の赤褐色の髪を輝かせている。 「ラドルフについて、報告があります」 フェリナは周囲を確認し、声を落とした。 「私の情報網によれば、彼は確かにサンクライフ平原に目を向けています。しかし、それは表向きの動きに過ぎないかもしれません」 「どういうことだ?」 「彼はまだ終わっていない」 フェリナの目に緊張の色が宿った。 「ギアラ砦での敗北後、彼は兵を再編成しつつあります。しかし、通常の再編成ではなく、何か特別な部隊を編成しているようなのです」 「特別な部隊?」 「詳細はわかりませんが、帝国内から特殊な技能を持つ者たちを集めているとの情報があります。中には禁忌の術を使う者も」 その言葉に、俺は眉をひそめた。この世界には魔術と呼ばれる力があるが、その中でも危険なものは禁忌とされ、使用が制限されている。ラドルフ自身の「赤い目」も、そうした禁忌の力の結果だと言われていた。 「彼は次の一手として、何を考えているのだろう」 「わかりません。ただ、彼が諦めていないことだけは確かです」 フェリナの声には警告と共に、個人的な感情も混じっていた。ラドルフに対する復讐心。父を陥れた男への憎しみ。 彼女の目に宿る憎しみと悲しみは、単なる国家間の争いを超えた個人的な感情だった。彼女の父を陥れ、家族を奪ったラドルフへの復讐心が、彼女を動かす原動力なのだ。 「ありがとう、フェリナ。情報は大いに役立つ」 俺は立ち上がり、窓の外を見た。王都の喧騒の向こうに、戦場が待っている。そしてそこには、赤い目を持つ男の姿が。 「エストガード殿」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第34話「闇に潜む声」

王城の一角にある小さな書庫で、俺はサンクライフ平原についての古文書を調べていた。明日の作戦会議に向けて、できるだけ多くの情報を集めておきたかったのだ。 書庫内には俺一人しかおらず、静寂の中で羊皮紙の擦れる音だけが響いていた。窓から差し込む夕日が徐々に傾き、室内は薄暗くなりつつある。 ノックの音もなく、突然ドアが開いた。振り返ると、アルヴェン将軍の副官であるローレン大尉が立っていた。彼は普段は穏やかな性格の人物だが、今は異様に緊張した表情をしていた。 「エストガード殿、お話があります」 彼は周囲を警戒するように見回し、ドアを閉めた。 「どうしたんだ?」 「小声でお願いします」 大尉は俺の傍に近づき、耳打ちするように話し始めた。 「バイアス伯爵邸で昨夜、密会があったことをご存知ですか?」 「いいえ」 「伯爵邸に複数の貴族が集まり、深夜まで何かを話し合っていました。通常の社交とは思えない雰囲気だったそうです」 大尉の情報源は明かされなかったが、彼は将軍の信頼する部下だ。無根拠な話を持ってくるとは思えない。 「それで?」 「もっと気になるのは、その会合の後、帝国領に向かう密使が出発したという点です」 その言葉に、俺は息を飲んだ。 「確証はありませんが、バイアス伯爵と帝国側の誰かとの間に、何らかの繋がりがあるのかもしれません」 ラドルフとの繋がり——セリシアからも同様の疑念を聞いていた。もしそれが真実なら、王国内に敵のスパイや内通者がいることになる。 「将軍はご存知なのか?」 「はい、報告済みです。将軍は徹底的な調査を命じました」 大尉は深刻な表情で続けた。 「しかし、バイアス伯爵は力のある人物。簡単には動けないのが現状です」 「わかった。情報提供に感謝する」 大尉は小さく頭を下げ、来た時と同じように静かに部屋を出て行った。 一人残された俺は、複雑な思いで窓の外を見つめた。王都の美しい夕景の裏に潜む政治的陰謀。この世界の戦いは、戦場だけでなく、王都の宮殿内でも繰り広げられているのだ。 *** 翌朝、セリシアが俺の部屋を訪ねてきた。彼女の表情には、いつもの冷静さが欠けていた。 「エストガード、聞いたわ。バイアス伯爵の密会について」 俺は部屋に彼女を招き入れ、ドアをしっかりと閉めた。 「ローレン大尉から聞いた。詳細はわからないが、帝国との繋がりを疑う理由はあるようだ」 「それだけではないの」 セリシアは声を落とし、魔導記録石を取り出した。記録石に触れると、淡い光が浮かび上がり、何らかの文書の写しが映し出された。 「これは伯爵の側近が所持していた文書の一部。偶然、写し取ることができたわ」 文書には暗号のような文字列が並んでいたが、その一部は解読されているようだった。 「『赤眼』というキーワードが何度か出てくるわ」 赤眼——それはラドルフの異名だ。彼を指す言葉が伯爵の文書に含まれているとすれば、二人の間に何らかの関係があるという推測は強まる。 「それだけか?」 「ここに『サンクライフ』という言葉も。日付は明後日になっている」 俺は眉をひそめた。サンクライフ平原が次の作戦地であることは、まだ公には発表されていない。それが伯爵の文書に記されているということは、軍の機密情報が漏れている可能性がある。 「他にも、『王国転覆』とも読める文言が」 セリシアの表情は厳しさを増した。 「これは単なる和平派の動きを超えている。伯爵は王国そのものを危険に晒す行動を取っているのかもしれないわ」 俺は黙って考え込んだ。たしかに証拠は断片的だが、バイアス伯爵を中心とした派閥が、帝国と通じて何らかの陰謀を企てている可能性は高い。 「将軍には報告したのか?」 「まだよ。この情報は極秘裏に入手したもの。慎重に扱う必要があるわ」 セリシアは記録石をしまいながら言った。 「それに、伯爵派には多くの支持者がいる。証拠なしで動けば、政治的混乱を招くだけ」 「では、どうする?」 「私が調査する」 彼女の目には強い決意が宿っていた。 「私は参謀としての立場を利用して、より多くの情報を集められる。伯爵の動きを監視し、確実な証拠を掴むわ」 「危険だぞ」 「わかっているけど、これも戦いの一種」 セリシアはそう言い残し、部屋を出ようとした。ドアに手をかけたところで、彼女は振り返った。 「今日の午後、フェリナが一時退院して、王宮に来るわ。作戦会議に参加するらしいから」 「彼女の容体は?」 「完全ではないけれど、会議に出席できる程度にはなったとのこと」 俺は頷いた。フェリナのラドルフに関する知識は貴重だ。作戦会議での彼女の意見は重要になるだろう。 「ありがとう、気をつけて」 セリシアは小さく微笑み、部屋を後にした。 *** 午後、王宮の一室で開かれる作戦会議の準備が整っていた。大きな円卓が置かれ、その上にはサンクライフ平原の詳細な立体模型が展示されている。 俺が部屋に入ると、既にアルヴェン将軍や数人の高級将校が集まっていた。彼らは俺の姿を見ると、敬意を込めた挨拶をした。 「エストガード、来たか」 将軍は俺を呼び寄せ、模型の前に立つよう促した。 「これがサンクライフ平原の最新模型だ。地形の起伏まで正確に再現されている」 確かに精巧な模型だった。平原の微妙な高低差、流れる川の曲がり具合、そして周囲の森林まで細かく作られている。 「ご苦労様です」 俺が職人の技に感心していると、ドアが開き、フェリナが入ってきた。彼女はまだ少し顔色が悪かったが、しっかりと立っていた。 「フェリナ、来られたのか」 「はい、エストガード殿」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第35話「それでも、俺は卓に座る」

出発の前日、王宮の庭園で俺はアルヴェン将軍と最後の会談を行っていた。朝露に濡れた草花の間を歩きながら、将軍は最終的な指示を伝えている。 「サンクライフ平原への進軍は、当初の予定より一日早める」 将軍の声は静かだが、確固たる決意に満ちていた。 「情報漏洩の可能性を考慮し、予定を変更した。敵の予想を裏切るためだ」 「了解しました」 俺は頷いた。タロカの対局でも、相手の読みを外すために打つタイミングをずらすことがある。王国軍全体の動きも、同じ発想で調整されているのだ。 「エストガード、お前には特別な役割を任せる」 将軍は立ち止まり、俺と向き合った。 「サンクライフでの前線基地の設営と防衛は、お前が総指揮を執れ」 その言葉に、俺は驚いた。これまでも重要な任務を任されてきたが、前線基地全体の指揮権を与えられるのは初めてだった。 「私にですか?」 「ああ。お前の戦術眼は、他の誰よりも信頼できる」 将軍の目には迷いがなかった。 「セリシアとフェリナも同行する。フェリナの容体は思ったより早く回復し、医師も移動を許可した」 俺は頷きながら、責任の重さを噛みしめた。サンクライフは単なる防衛拠点ではなく、王国の反攻作戦の重要な足がかりとなる場所だ。その成否は、今後の戦局を大きく左右するだろう。 「任務を全うします」 「信じているよ」 将軍は俺の肩に手を置いた。その手には温かさと重みがあった。 「もう一つ、警告しておきたいことがある」 将軍の表情が引き締まった。 「バイアス伯爵の動きを監視していた者から報告があった。昨夜、伯爵邸から密使が出発したという」 「行き先は?」 「不明だ。だが、帝国領に向かったのは間違いない」 俺は眉をひそめた。内通者の存在がますます濃厚になってきた。 「もしラドルフが事前に情報を得ているなら、サンクライフでの任務はさらに困難になるかもしれない」 「心得ています」 将軍は深いため息をつき、再び歩き始めた。 「政治と戦争は常に絡み合っている。純粋な戦いなど、この世にはないのだよ」 その言葉には、長年の経験に裏打ちされた諦観があった。 「それでも、前に進むしかない」 俺は静かに答えた。将軍は満足げに頷いた。 「その通りだ。さあ、準備を整えるといい。明日の夜明けに出発だ」 将軍との会談を終え、俺は自室に戻った。窓の外では、王都の人々が日常を送っている。彼らは明日、俺たちが命を懸けて守ろうとしている平和を当たり前のように享受していた。 *** 部屋で出発の準備をしていると、ノックの音がした。ドアを開けると、そこにはセリシアとフェリナが立っていた。 「準備は進んでいる?」 セリシアが尋ねた。彼女はすでに旅装を整え、腰には剣を下げていた。 「ああ、ほぼ終わっている」 二人を部屋に招き入れると、フェリナが小さな木箱を差し出した。 「これをお持ちください、エストガード殿」 箱を開けると、中には精巧に作られたタロカの牌が入っていた。通常の牌より小さく、携帯に便利なサイズだ。 「旅先でも『流れ』を読むために」 フェリナは少し照れたように言った。 「ありがとう、大切にする」 俺は感謝を伝え、新しい牌を手に取った。木の質感と彫刻の細かさは見事で、職人の技が感じられる。 「それと、バイアス伯爵について新たな情報がある」 セリシアが声を落として言った。 「伯爵の側近の一人が、昨夜密かに城を出たという。行き先は帝国領方面だ」 フェリナも頷いた。 「私の情報網からも同様の報告がありました。特に気になるのは、その側近が『赤い印』を持っていたという点です」 「赤い印?」 「ラドルフの親衛隊が使う印です。それを持っていたということは……」 「伯爵とラドルフの繋がりは、ほぼ確実というわけか」 俺は深く考え込んだ。敵は外だけでなく、内にもいる。しかも王国の高位貴族という立場にある者だ。 「将軍にも報告したのか?」 「ええ、だからこそ出発が早まったのよ」 セリシアの表情には強い緊張が浮かんでいた。 「明日からの任務は、単なる軍事行動ではないわ。内通者による妨害も警戒しなければならない」 「わかっている」 俺は静かに答えた。状況はますます複雑になっていくが、それでも前に進むしかない。 「今夜、もう一度作戦の詳細を確認しましょう」 セリシアは提案した。 「サンクライフでの配置と進軍ルートを最終確認しておきたいわ」 三人は机を囲み、地図と作戦書を広げた。フェリナはラドルフの戦術パターンについて詳細な説明を加え、セリシアは王国軍の動きを整理していく。俺はそれらの情報を総合し、最適な戦術を考えていった。 夜が更けていく中、三人の連携は深まっていった。共に戦い、共に考え、共に勝利を目指す仲間たち。この世界で俺が得た、大切な絆だった。 *** 深夜、二人が去った後、俺は新しいタロカの牌を机に並べた。サンクライフ平原の地形と予想される敵の布陣を表現するように牌を配置する。 「戦場と卓に、違いはない」 小さく呟きながら、牌の配置を何度も調整した。一つ一つの牌が戦場の一部を表し、その組み合わせが「流れ」を作る。タロカの対局と同じように、戦場でも「流れ」を読み、時に変え、時に創り出す。 窓の外は静寂に包まれ、月明かりだけが部屋を照らしていた。明日からの戦いに向けて、俺は最後の準備を整えていた。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人