第21話"神童"への疑念」

「これが例の神童か? たった一度の敗北で沈み込むとは、噂ほどの器ではなかったな」 軍本部の廊下で聞こえてきた囁き声。振り返りたい衝動を抑えながら、俺は足早に自室へと向かった。 敗戦から二週間。北方軍本部に戻ってからも、俺を取り巻く空気は微妙に変化していた。かつての「タロカの戦術家」「天才参謀」という称賛は影を潜め、代わりに「幸運だけだった」「単なる将軍のお気に入り」という声が広がっていた。 自室のドアを閉め、俺は溜息をついた。机の上には積み上げられた報告書と分析資料。ラドルフとの敗戦を徹底的に検証するため、様々な角度から情報を集めていた。 「神童……そんなものじゃなかったんだ」 小さく呟き、椅子に腰掛ける。窓の外は雨。滴る雨音がどこか心を落ち着かせた。 ノックの音がして、ドアが開いた。 「エストガード」 フェリナが顔を覗かせた。彼女は最近、情報分析のために頻繁に俺の部屋を訪れていた。 「どうした?」 「これを見てください」 彼女は一枚の報告書を差し出した。東部国境での敗戦後、帝国軍の動向に関する最新情報だ。 「ラドルフの部隊は南に移動……」俺は報告書に目を通しながら呟いた。「彼の狙いは?」 「不明です。しかし、彼が直接指揮を執っている部隊規模を考えると、おそらく次も重要な作戦になるでしょう」 フェリナの分析は的確だった。彼女はラドルフについて誰よりも詳しく、その戦術パターンを熟知していた。 「ありがとう」 報告書を受け取ったとき、廊下から声が聞こえてきた。 「緊急会議だ。参謀全員集合せよ」 フェリナと顔を見合わせ、俺たちは急いで会議室へ向かった。 *** 「諸君、重大な問題が発生した」 アルヴェン将軍は厳しい表情で切り出した。会議室には北方軍の主要参謀たちが集まっていた。 「南部要塞が帝国軍の奇襲を受け、陥落した」 その言葉に、室内がざわめいた。南部要塞は北方軍の重要拠点の一つ。そこが陥落したということは、王国の防衛線に大きな穴が開いたことを意味する。 「現在、敵はさらに進軍を続けている。このままでは王都への侵攻路が開かれる恐れがある」 将軍は地図を指さした。赤い印が帝国軍の進軍ルートを示している。 「南部要塞を指揮していたのは?」 ある参謀が尋ねた。 「ヘイゼン少将だ」 将軍の声には苦々しさが滲んでいた。ヘイゼン少将は経験豊富な将軍であり、南部要塞が落ちるというのは想定外の事態だった。 「詳細はまだ不明だが、内通者の存在が疑われる」 その言葉に、会議室の空気が凍りついた。先日の敗戦でも将軍は内通者の可能性に触れていた。これが二度目の言及だ。 「南部要塞の防衛計画は極秘だったはずだ。それが帝国軍に漏れていた」 参謀たちは互いに顔を見合わせた。軍内に裏切り者がいるという事実は、互いへの不信感を生み出す。 「次の対応策だが」将軍は続けた。「南部からの進軍を阻止するため、ブラックリッジ峠に防衛線を構築する。指揮はモートン中将が執る」 モートン中将は保守派の筆頭格。伝統的な軍学を重んじる古参将校だ。 「また」将軍は一瞬躊躇ったような表情を見せた。「保守派顧問会議から要請があった」 「要請?」 「ああ。敗戦後の軍の士気低下を懸念し、『参謀資質の再評価』を行うべきだという」 その言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。「参謀資質の再評価」——それは明らかに俺を標的にしたものだった。 「将軍、それは」セリシアが口を開いた。「エストガード補佐官の評価を下げるための政治的動きではありませんか?」 「そう見るのが自然だろう」将軍も認めた。「だが、顧問会議は形式上の権限を持つ。一度の敗戦で動揺するような軍であってはならないという建前で、彼らは再評価を求めている」 俺は黙って聞いていた。保守派が俺を快く思っていないのは知っていた。若年での抜擢、タロカという異端の戦術、そして将軍のお気に入りという立場——すべてが彼らの反感を買う要素だった。 「演習試験を行う」 将軍が最終的な判断を下した。 「エストガード補佐官の戦術眼を改めて評価するため、仮想戦演習を行う。相手はローゼン少佐だ」 ローゼン少佐——軍学校出身のエリート将校で、保守派に連なる実力者。彼は伝統的な軍学の達人として知られ、演習では常に高い評価を得ていた。 「二日後に演習計画を提出し、一週間後に実施する」 会議は緊張した空気の中で終了した。退室する際、何人かの参謀が俺を見る目には、あからさまな冷笑が浮かんでいた。 「一度負けただけで、こんな仕打ちか」 廊下で足を止めた俺に、セリシアが近づいてきた。 「彼らはあなたを始めから警戒していた。敗戦は、あなたを貶める口実に過ぎないわ」 「わかってるよ」 「この試験は公平とは限らない」彼女は真剣な表情で忠告した。「彼らはあなたを失脚させるために、あらゆる手段を講じるでしょう」 「情報漏洩の話もそうだな。俺を疑わせるための布石かもしれない」 「その可能性もある。だから用心して」 彼女の忠告を胸に、俺は自室に戻った。窓辺に立ち、雨に濡れる訓練場を見下ろす。 「運だけか?」 自問自答を繰り返す。確かにラドルフとの戦いでは完敗した。だが、それ以前の勝利は確かに存在する。あれは単なる運ではなかったはずだ。 「エストガード殿」 ドアをノックする声がした。開けると、フェリナが立っていた。 「フェリナ、また何か?」 「試験のことを聞きました」彼女の声は静かだが、その目は怒りを隠せていなかった。「卑怯な真似をする連中です」 「卑怯と言うほどでもない。この世界ではよくあることさ」 前世でも、麻雀の世界では新興勢力や異端の打ち手はしばしば排除の対象となった。人間社会に普遍的な摩擦だ。 「でも、これも負けるわけにはいかない」 「エストガード殿」 「負け犬の遠吠えに負ける気はない」俺はフェリナに向き直った。「この試験、必ず勝ってみせる」 彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第22話「戦場演習、開戦」

「演習開始まであと一時間だ」 バレン大尉が時計を確認しながら告げた。彼は今回の演習で俺の副官を務めることになった若手将校だ。保守派とは距離を置く中立的な立場で、公平な人選だと言えた。 「準備は整っているな?」 「はい、エストガード補佐官。兵士たちへの指示も完了しています」 西の訓練場——北方軍本部から十キロほど離れた広大な演習場。ここで「参謀資質の再評価」が行われる。実弾は使わないが、それ以外は実戦さながらの条件下で行われる本格的な演習だ。 「彼らは何を見ているのだろうな」 俺は小さく呟いた。演習場の高台には監視塔が設けられ、アルヴェン将軍を含む高官たちが戦況を見守る。彼らの判断が、今後の俺の立場を左右することになる。 麻雀の対局でも、周りに観戦者がいると打ち方が変わることがある。相手だけでなく、見ている人も意識しなければならない。今回も同じだ——敵と戦いながら、審判にも見せなければならない。 「敵の構成は?」 「ローゼン少佐率いる赤軍。我々と同規模の三個中隊とその支援部隊です」 バレン大尉は地図を広げ、説明を続けた。 「地形は丘陵と小規模な森林が点在する平原。中央には小川が流れています」 俺は地図を見つめながら、自分の戦術を最終確認した。過去一週間、ローゼン少佐の戦術パターンを徹底的に分析し、対策を練ってきた。彼は伝統的軍学の専門家で、定石通りの堅実な戦術を好む。しかし、だからこそ予測可能でもある。 「我々は青軍として東側から進軍する。目標は赤軍の旗を奪取するか、彼らの『司令官』を『撃破』すること」 演習の勝利条件はシンプルだ。旗の奪取か、相手司令官(今回はローゼン少佐)の撃破。撃破とは、演習用の特殊染料弾で命中させることを意味する。 「最後の確認をしよう」 俺は兵士たちの前に立った。彼らは通常の部隊ではなく、演習のために特別に編成された混成部隊だ。ベテランもいれば新兵もいる。そして、彼らの多くは俺のことをよく知らなかった。 「ローゼン少佐は定石に忠実な指揮官だ。我々は彼の期待を裏切る戦術で挑む」 兵士たちの表情には懐疑的なものもあれば、好奇心に満ちたものもあった。十五歳の少年が彼らを指揮するという状況に、まだ馴染めていないようだった。 「我々の戦術は『流れの変転』。まず、通常の前進で敵の注意を引き、次に右翼からの奇襲を仕掛ける。そして、それすらも囮とする」 説明を続けながら、俺は兵士たちの反応を注意深く観察していた。彼らの目に宿る疑念、そして一部に見える期待。 「エストガード補佐官、質問があります」 一人の中年の軍曹が手を挙げた。 「兵力の分散は危険ではありませんか? 定石では主力を集中させるべきとされています」 「その通りだ。だからこそローゼン少佐はそれを期待している。我々は彼の期待を裏切るのだ」 軍曹は納得したとは言えない表情だったが、それ以上の質問はなかった。 「各隊の指揮官は、詳細な計画書を受け取っているはずだ。それに従って行動してほしい」 兵士たちは敬礼し、それぞれの持ち場に散っていった。 「彼らは懐疑的ですね」 バレン大尉が小声で言った。 「当然だろう。俺は敗北した参謀だからな」 「いいえ、それだけではありません。あなたの戦術が……異端だからです」 彼の言葉には非難の色はなく、ただ事実を述べているだけだった。 「異端か……それも悪くないな」 俺は微笑んだ。異端者——前世の麻雀でも、型破りな打ち方で周囲を驚かせることはあった。それが時に勝利をもたらした。 「しかし、彼らは命令に従うでしょう。それが兵士というものです」 バレン大尉の言葉に頷き、俺は準備を続けた。 *** 「演習開始!」 合図の砲声が響き渡り、両軍の動きが始まった。監視塔からは白い旗が振られ、それが演習の公式開始を告げる。 バレン大尉と共に小高い丘の上に立ち、俺は部隊の動きを見守った。計画通り、我々の青軍は一見すると堂々とした正面突破を試みているように見える。 「第一中隊、予定通り前進中。第二中隊、右翼への展開を開始」 バレン大尉が伝令兵からの報告を受け、俺に伝えた。 「敵の動きは?」 「赤軍は中央部に主力を配置し、迎撃態勢を整えています。ローゼン少佐らしい堅実な布陣です」 「予想通りだ」 俺は小さく頷いた。ローゼン少佐は教科書通りの対応をしている。正面からの攻撃に対し、堅固な防衛線を敷く。彼は我々の右翼からの攻撃を予測していないようだった。 だが—— 「第三中隊に伝令を。『朔』の準備を進めよ」 「了解しました」 バレン大尉は伝令兵に指示を出した。「朔」とは、今回の作戦における第三の動き——左翼からの迂回奇襲を意味する暗号だ。右翼攻撃が囮であることを、敵に悟られないための秘策。 戦場に視線を戻すと、我々の第一中隊が赤軍と最初の接触を始めていた。演習用の染料弾が飛び交い、両軍の兵士が次々と「戦闘不能」となる。 「第二中隊、いよいよ動き始めましたね」 バレン大尉の言葉通り、右翼から迂回した第二中隊が赤軍の側面に接近していた。当初の計画では、この攻撃で敵の陣形を崩し、勝機を得る予定だった。 しかし、俺は違う見立てをしていた。 「今だ」 その瞬間、赤軍の布陣に変化があった。彼らは右翼からの攻撃を予測していたかのように、迅速に対応部隊を移動させ始めた。 「彼らは我々の動きを読んでいる」 バレン大尉が驚いた声を上げた。 「いや、読まれることを予期していた」 俺は静かに答えた。このターンでローゼン少佐は「隠された一手」を見せた。彼の戦術は堅実なだけでなく、相手の奇襲も想定していたのだ。 「しかし……」バレン大尉は戸惑いを隠せない。「それでは第二中隊は危険です!」 「心配はいらない。第二中隊は戦術的後退を実行する。それにより敵の追撃部隊を引き出す」 計画通り、第二中隊は接触後すぐに撤退を始めた。赤軍は勝機と見てか、予想以上の兵力で追撃に出た。 「敵の布陣に隙が生まれています」 「今だ。第三中隊に『朔』の実行を命じろ」 バレン大尉が伝令を送る間、俺は戦場の全体像を頭に描いていた。まるでタロカの卓を見るように、牌の配置と流れを感じ取る。 左翼に隠されていた第三中隊が動き出した。第一、第二中隊の動きに気を取られた赤軍は、この第三の動きに気づくのが遅れた。 「奴を引き出せ」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第23話「勝機は手の内に」

「第三中隊、被害状況は?」 俺はバレン大尉に問いかけた。彼は伝令兵からの報告を聞き、眉をひそめた。 「およそ半数が『戦闘不能』と判定されています。残りも包囲網の中で身動きが取れない状況です」 「第一、第二中隊は?」 「第一中隊は正面で赤軍と膠着状態。第二中隊は右翼での攻撃を中止し、守勢に転じています」 俺は地図を広げ、現在の戦況を確認した。確かに不利な状況だが、まだ勝機はある。ローゼン少佐の罠にはまったことで、我々の主な戦力は分散し、それぞれが孤立しつつある。だが、逆に言えば赤軍も兵力を分散させている。 「このままでは時間切れになりますね」 バレン大尉が心配そうに言った。演習には四時間の制限があり、既に半分以上が経過している。制限時間内に決着がつかなければ、守勢側(この場合は赤軍)の勝利となる。 「タロカでいえば、『聴牌』の状態だ」 「聴牌?」 「あと一枚で役が完成する状態。今の我々はそうだ」 バレン大尉は困惑した表情を浮かべた。俺の比喩がよく理解できないようだった。 「麻雀の卓でも同じだ。打点が高い手を狙いすぎると、却って聴牌すらできなくなる。だが裏を返せば、相手も同じように読み合いに集中すると見落としが生じる」 まるで麻雀で相手の手牌を読むように、俺は敵の動きを読み解いていた。ローゼン少佐は一見勝勢に見えるが、三方向に兵を分けたことで中央が薄くなっているはずだ。「リャンメン待ち」のように二方向から攻められる位置に、彼の本拠地があるのではないか。 「我々にはまだ一つの手が残されている」 俺は地図の一点を指さした。赤軍の布陣と、彼らの旗の位置。そして、本物のローゼン少佐がいるであろう場所。 「副官、新たな命令を。第一中隊はそのまま正面で敵を引きつける。第二中隊は右翼からの撤退を続けつつ、敵に圧力をかけ続けろ」 「それでは第三中隊は?」 「見捨てる」 冷淡に聞こえるかもしれないが、戦術上の判断だった。第三中隊の生き残りは少なく、既に戦力としての機能を果たしていない。それより—— 「我々自身が動く」 「補佐官が?」 バレン大尉は驚いた様子だった。通常、指揮官は安全な後方で指揮を執るものだ。だが今回は違う。 「ローゼン少佐は我々の行動を読んでいた。だが、彼は『型』の中でしか考えられない。『型破り』の一手は想定していないはずだ」 俺は少数の警護兵を呼び、自ら前線へ向かう準備を始めた。 「副官、あなたはここで全体の指揮を続けてほしい」 「しかし、それでは補佐官が危険に」 「心配はいらない。これが最後の一手だ」 俺は小さな部隊を率いて丘を下り始めた。目標は赤軍の本拠地、旗が立つ位置だ。ローゼン少佐は我々の主力を分散させることに成功したが、その結果、彼の本拠地の防衛も薄くなっている可能性がある。 「前方に敵影!」 警護兵の一人が小声で告げた。確かに、小さな森の向こうに赤軍の兵士が見える。彼らは我々の第一中隊の様子を窺っているようで、背後に注意を払っていなかった。 「迂回する」 森の中を静かに移動し、敵の視界から外れる。戦術的な動きというより、タロカの卓での駆け引きに近い感覚だった。相手の注意を引きつつ、真の狙いを隠す。これは麻雀でよくやる「見せ牌」の手法だ。こちらの狙いを隠しつつ、相手の判断をミスリードする。 しばらく移動を続け、小川を渡った後、俺たちは赤軍の本拠地の後方に到達した。ここから見える光景に、俺は小さく微笑んだ。 「予想通りだ」 赤軍の旗の周りには少数の守備兵しかいない。彼らは我々の三つの中隊に気を取られ、後方からの小規模な侵入は想定していなかったようだ。 「ローゼン少佐はどこだ?」 双眼鏡で周囲を探ると、小さなテントの前に立つ人影が見えた。それは間違いなくローゼン少佐だった。彼は伝令兵と話しながら、何か指示を出しているようだ。 「少佐を目標とする。だが、まずは守備兵の注意を別方向に向けなければならない」 俺は小さな策を思いついた。 「あなたたち二人、あの茂みに向かって発砲せよ。それから急いでこちらに戻れ」 二人の兵士が指示に従い、茂みに向かって染料弾を発射した。効果は絶大だった。突然の発砲に、守備兵たちは茂みの方向に注意を向け、一部が偵察に向かった。 「今だ」 残りの兵士たちと共に、俺たちは素早く旗へと近づいた。守備兵の一部が気づいて振り返ったが、既に遅い。我々の染料弾が彼らを「戦闘不能」にした。 旗まであと数十メートル。だが、その時—— 「エストガード!」 ローゼン少佐の声だった。彼は俺たちの侵入に気づき、染料銃を構えていた。 「君の作戦は見抜いていたぞ。だが、ここまでくるとは思わなかった」 「型を破る——それが私の流儀です」 俺は彼に向き直った。二人の間には数十メートルの距離がある。染料銃の有効射程圏内だ。 ローゼン少佐は笑った。 「面白い。だが、ここまでだ」 彼が引き金を引こうとした瞬間—— 「補佐官!」 横から声がした。驚いたことに、そこにはフェリナが立っていた。彼女は演習に参加しているはずではなかった。 「フェリナ? なぜここに?」 「ラドルフの戦術について重要な情報が!」 彼女の突然の登場にローゼン少佐が一瞬だけ注意を逸らした。その隙に、俺は素早く染料銃を構え、引き金を引いた。 赤い染料弾がローゼン少佐の胸に命中する。彼は驚いた表情を浮かべ、そして苦笑した。 「見事だ」 彼は両手を上げた。「戦闘不能」の合図だ。 同時に俺の部下たちが赤軍の旗を確保した。演習の勝利条件を満たしたのだ。 監視塔から白旗が振られ、勝利を告げる砲声が響いた。 「やりましたね、補佐官!」 バレン大尉が駆けつけてきた。彼の顔には安堵と喜びが溢れていた。 「ありがとう。君の支援があってこその勝利だ」 俺はローゼン少佐に向き直った。 「少佐、素晴らしい戦いでした」 「君も、エストガード。型にはまらない戦術、見事だったよ」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第24話「内政の影とフェリナの想い」

「エストガード殿、閣下がお呼びです」 演習から三日後の朝、伝令が俺の執務室に現れた。「閣下」とは通常アルヴェン将軍を指すが、伝令の声には微妙な緊張感があった。 「将軍ではありません。バイアス伯爵です」 その名前に、俺は眉をひそめた。バイアス伯爵——王国の有力貴族で、王の側近の一人。彼が北方軍に来ているとは聞いていなかった。 「どこで会うのだ?」 「本部主館の応接室です。すぐにお越しいただきたいとのこと」 俺は手元の資料をまとめ、急いで応接室に向かった。途中、セリシアとすれ違う。 「バイアス伯爵に呼ばれたんだが」 彼女の表情が変わった。 「気をつけて。彼は単なる貴族ではなく、保守派の後ろ盾でもある。何か意図があるはずよ」 「わかっている。用心するよ」 応接室に到着すると、そこには五十代と思われる厳めしい貴族が待っていた。灰色の髪を整え、高価な衣服に身を包み、指には何個もの宝石が輝いている。 「エストガード殿ですね。お噂はかねがね」 バイアス伯爵は上品な物腰で俺を迎えた。だが、その目には計算高い色が宿っていた。 「バイアス伯爵閣下。お目にかかれて光栄です」 軽く頭を下げながら、俺は警戒心を抱いたまま椅子に腰掛けた。 「先日の演習、素晴らしい勝利だったそうですね。『タロカの戦術家』の名は伊達ではないようだ」 「ありがとうございます」 「エストガード家の養子と聞いています。地方貴族の家柄にしては、随分と出世されましたね」 伯爵の言葉には、わずかに皮肉が混じっていた。 「アルヴェン将軍のご信頼によるものです」 「そう、将軍は……変わった人物ですからね」 彼は紅茶を一口啜り、本題に入った。 「実は、王都の者たちがあなたに大変興味を持っているのです」 「王都の……?」 「そう。若くして軍の補佐官となり、異才を発揮する貴族の若者。宮廷の貴婦人たちの間でも、噂になっているようですよ」 彼の言葉の意図が見え始めた。これは単なる挨拶訪問ではなく、政治的な接触だ。 「特に、私の姪のセレスティア。彼女は次期王妃候補の一人で、あなたのような才覚ある若者に関心があるようです」 俺は表情を変えまいと努めた。政略結婚の匂いがする話だ。 「光栄ですが、私はまだ軍務に専念するつもりです」 「もちろん、もちろん」伯爵は手を振った。「今すぐどうこうという話ではありません。ただ、将来的に王都での役職も検討されてはいかがでしょう? 北方軍の一補佐官では、あなたの才能が埋もれてしまう」 ここで俺は理解した。バイアス伯爵は保守派の後ろ盾であり、アルヴェン将軍の対抗勢力。彼らは俺を将軍から引き離し、自分たちの陣営に取り込もうとしているのだ。 「ご厚意に感謝します。ですが現在は、ラドルフ率いる帝国軍への対策が最優先です」 「ラドルフ……」伯爵の表情が曇った。「あの男、厄介な存在ですね。しかし、軍事だけでは戦争は勝てません。政治も重要なのです」 「おっしゃる通りです」 「エストガード殿、あなたには選択肢があることを忘れないでください。アルヴェン将軍の庇護だけが、あなたの道ではない」 伯爵はそう言い残し、立ち上がった。 「また近いうちに、お話しする機会があるでしょう」 彼が去った後、俺は応接室に一人残された。この訪問の意味を整理していた時、ドアが開いた。 「どうだった?」 セリシアだった。彼女は伯爵が去るのを見計らって現れたようだ。 「政略結婚の話と、将軍から引き離す誘いだ」 「予想通りね」彼女は冷静に言った。「あなたの評判が上がるにつれ、政治勢力が接近してくるのは必然よ」 「タロカの卓よりも複雑な勝負かもしれないな」 「その通り。特に注意深くならないと」 セリシアの顔には本物の心配が浮かんでいた。 「あなたの才能は、アルヴェン将軍のような軍人だけでなく、バイアス伯爵のような政治家にとっても魅力的なの。彼らはあなたを利用しようとするわ」 俺は窓の外を見た。晴れた空の下、兵士たちが訓練している。 「利用されるつもりはない。ただ、今は利用されるふりをするしかないかもしれないな」 「賢明ね」セリシアは頷いた。「それと、バイアス伯爵にはラドルフとの繋がりが噂されているわ。確証はないけれど」 「なるほど、だから彼の名前を出した時に表情が変わったのか」 「要注意人物よ。もし内通者がいるとすれば、彼の周辺も疑うべきかもしれない」 その日の午後、俺は将軍に伯爵との会話を報告した。将軍は複雑な表情で聞いていた。 「予想していたことだ」彼は深いため息をついた。「バイアス伯爵は以前から私に反感を持っている。彼らの派閥は、王国の軍事政策で私と対立している」 「彼らの政策とは?」 「彼らは帝国との和平交渉を主張している。だが実際は、一部領土の割譲を条件とした妥協案だ」 「割譲……?」 「そう。特に北方の一部領地を帝国に渡すことで、当面の和平を求める考えだ」 将軍の表情は厳しかった。 「しかし、それは一時的な平和に過ぎない。帝国の野望は、一部の領土で満足するものではない」 「伯爵とラドルフに繋がりがあるという噂も」 「その可能性も調査している」将軍は静かに言った。「エストガード、気をつけるんだ。この戦いは戦場だけでなく、宮廷でも繰り広げられている」 「わかりました、将軍」 会談を終え、俺は北方軍が設営する野営地に向かった。兵士たちの訓練を視察し、新たな戦術の検討を行うためだ。 *** 野営地は活気に満ちていた。先日の演習で青軍として参加した兵士たちの一部もここにいる。彼らは俺を見ると、以前より敬意を持って挨拶するようになっていた。 「エストガード補佐官、ご視察ですか?」 バレン大尉が近づいてきた。彼は演習での副官を務めた後、この訓練部隊の指揮を任されていた。 「ああ、兵士たちの様子を見たくてね」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第25話「戦う意味」

演習から一週間が過ぎ、フェリナからラドルフについての話を聞いてから数日。北方軍本部には新たな緊張感が漂っていた。南部要塞の陥落以降、帝国軍の動きが活発化し、各地で小競り合いが続いていたからだ。 俺は執務室で新たな戦術資料を読み込んでいた。フェリナから得たラドルフの情報を基に、彼の戦術パターンを分析する試みだ。禁断の魔術で得た「赤い目」。それが単なる代償なのか、何らかの能力を持つのかは不明だが、彼の戦術の背後には常人離れした何かがあるのは確かだった。 「エストガード殿」 ノックの音とともに、セリシアが部屋に入ってきた。彼女の表情には緊張感がある。 「将軍があなたを呼んでいます。執務室へすぐに」 「何かあったのか?」 「新たな任命があるようです」 俺は資料をまとめ、アルヴェン将軍の執務室へと向かった。扉を開けると、そこには将軍だけでなく、参謀長も待っていた。二人とも厳しい表情をしている。 「エストガード、入れ」 俺は部屋に入り、敬礼した。 「ご命令を」 将軍は窓の外を見つめたまま、静かに言った。 「西方国境のギアラ砦を知っているか?」 「はい。山岳地帯の要衝で、帝国領への重要な関所です」 「そこへ行ってもらう」 将軍はようやく俺に向き直った。 「情報によれば、ラドルフ率いる部隊が西方へ移動している。彼らの目標はギアラ砦と思われる」 「ラドルフが……」 俺の胸に緊張が走る。前回の敗北以来、再戦の機会を待っていたが、こんなに早く来るとは思わなかった。 「砦の防衛を任せる。セリシアも参謀として同行する」 「しかし将軍、私はまだ……」 「君は準備ができている」将軍は断固として言った。「演習での勝利、そして最近のラドルフ研究。君なら彼に対抗できる」 参謀長が地図を広げた。ギアラ砦の位置と周辺地形、そして予想される帝国軍の進軍ルートが示されている。 「現地の防衛部隊に加え、三個中隊を増援として派遣する。物資は十分に用意されているが、援軍は期待できない」 つまり、孤立無援の戦いになる可能性が高い。 「エストガード」将軍の声が柔らかくなった。「これは大きな責任だ。だが、君ならできると信じている」 「ありがとうございます、将軍」 「準備期間は三日。明後日の夜明けに出発だ」 会議を終え、廊下に出ると、セリシアが待っていた。 「聞いたわ。ギアラ砦への任命」 「ああ。ラドルフとの再戦だ」 「準備は?」 「これから始める。フェリナの協力も必要だ」 セリシアは少し考え込んだ後、静かに言った。 「エストガード、一つ聞いていいかしら」 「なんだ?」 「あなたは何のために戦うの?」 その質問は予想外だった。 「何のため?」 「そう。国のため? 将軍のため? それとも……」 俺は言葉に詰まった。これまで「戦う意味」を深く考えたことはなかった。前世では麻雀を打つのは単純に「強くなりたい」「勝ちたい」という欲求からだった。この世界でも、最初は単に「居場所を得るため」に戦っていた。 「わからない」 正直に答えた。セリシアは意外そうな表情をした。 「それでラドルフと戦うの?」 「必要だから……かな」 セリシアは小さく溜息をついた。 「そんな曖昧な動機では、彼には勝てないわ」 彼女は厳しくも静かな口調で言った。 「ラドルフは明確な野望を持っている。彼は『支配』のために戦う。それに対抗するには、同等の強さを持った動機が必要よ」 彼女の言葉は心に刺さった。確かに俺は「勝ちたい」という思いはあるが、それ以上の深い意味を見出せていない。 「考えておく」 その日の夕方、俺は将軍に呼ばれた。今度は公式の会議ではなく、個人的な会話のようだった。 「エストガード、少し話そう」 将軍は自室のバルコニーに俺を招き入れた。そこからは北方軍本部全体と、その先に広がる山々が見える。 「美しい景色だ」 将軍は静かに言った。 「この国を守るため、私は長年戦ってきた。時に勝ち、時に敗れながら」 「将軍……」 「君は若い。しかし、既に多くの戦いを経験した。そろそろ自問すべき時かもしれないな」 「自問?」 「ああ。戦いの意味だ」 セリシアと同じ問いかけ。俺は正直に答えた。 「わかりません。強くなりたい、勝ちたいという思いはありますが、それ以上の……」 「それでは足りない」 将軍は厳しく言った。 「ラドルフのような男は、単なる『勝ちたい』という思いでは倒せない。彼には明確な野望がある」 「では、どうすれば……」 「自分自身に問いかけるんだ」将軍は俺を見つめた。「君は何のために、誰のために剣を取るのか」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第26話「迫る赤眼の魔将」

「見えてきました、ギアラ砦です」 護衛兵の声に、俺は馬車の窓から顔を出した。三日間の長旅の末、ようやく目的地に到着する。 霧がかった山々の間に、灰色の巨大な要塞が姿を現す。ギアラ砦——西方国境を守る重要な防衛拠点だ。高い城壁と複数の塔、険しい山道を通ってのみアクセスできる自然の要害。 「難攻不落と言われる砦ですね」 馬車の中でセリシアが地図を広げながら言った。 「確かに地形的には守りやすい。だが、それはラドルフも承知の上で来るということだ」 馬車は砦の大門に到着し、一行は厳重な警備の下、中へと案内された。 砦の中は活気に満ちていた。防衛の準備が急ピッチで進められており、兵士たちが武器や物資を運び、壁の補強作業を行っている。民兵も動員されており、老若男女問わず砦の防衛に参加しているようだった。 「エストガード補佐官、お待ちしておりました」 現地の指揮官、グレイスン大佐が出迎えた。壮年の男性で、風格のある身なりだが、顔には疲労の色が濃い。 「状況を説明していただけますか?」 グレイスン大佐は本部へと案内しながら話を始めた。 「三日前に偵察隊が帝国軍の大規模な部隊移動を確認しました。彼らはギアラ砦に向かっているのは間違いありません」 本部に着くと、大きな作戦テーブルの上に詳細な地図が広げられていた。 「帝国軍の推定規模は?」 「四千から五千。重装歩兵を中心に、騎兵隊と弓兵も含まれます」 「こちらの戦力は?」 「砦の常駐部隊が八百。あなた方と共に到着した増援が三百。そして民兵が約五百」 数で言えば完全に不利だ。しかし、強固な砦を守る側には有利があるはずだった。 「物資の状況は?」 「食料と水は二週間分。矢と投石用の岩石は十分。しかし、医療品はやや不足しています」 セリシアが地図を詳しく調べながら質問を続けた。 「砦の弱点はどこですか?」 グレイスン大佐は少し躊躇したが、正直に答えた。 「西側の壁は他より低く、そこを強化している最中です。また、北側には小さな水路があり、非常時の水の確保に使いますが、敵に発見されれば侵入路になり得ます」 「わかりました」 俺は地図に目を通しながら、頭の中でラドルフの動きを予測していた。彼なら、このような状況でどう攻めてくるか? 単純な正面突破では難しい。彼は必ず何か策を持っているはずだ。 「大佐、民間人の避難は?」 「既に完了しています。砦内に残っているのは志願の民兵のみです」 「良かった」 俺は少し安堵した。少なくとも民間人の犠牲は避けられる。 「では、防衛計画を立てましょう」 作戦テーブルを囲んで、詳細な打ち合わせが始まった。グレイスン大佐の経験、セリシアの分析力、そして俺の戦術——それらを組み合わせて最善の防衛策を練る。 *** 「西側と北側の補強は順調です」 翌朝、砦の壁の上から防衛準備の進捗を確認する。夜通し作業が続けられ、弱点だった部分が着実に強化されていた。 「エストガード殿」 振り返ると、フェリナが立っていた。彼女は情報分析のために同行していたが、昨日は疲労のため休んでいた。 「フェリナ、体調はどうだ?」 「大丈夫です。それより、これを」 彼女は小さな巻物を差し出した。 「偵察隊からの最新報告です。ラドルフの部隊はあと二日で到着する見込みとのこと」 「二日か……それまでに準備を終えなければ」 「それと、もう一つ重要な情報があります」 フェリナの表情が真剣さを増した。 「ラドルフの部隊構成ですが、通常の構成とは異なっています。重装歩兵が多く、包囲用の装備も目立ちます」 「包囲作戦か……」 俺は思案した。ギアラ砦のような要塞に対しては、短期決戦より長期包囲の方が効果的だ。物資を断ち、内部から崩壊させる戦法。 「もう一つ。彼は『特殊部隊』も率いているようです」 「特殊部隊?」 「はい。彼が直々に訓練した精鋭で、普通の兵士とは装備も戦法も異なると言われています」 俺はフェリナの情報に感謝し、即座にセリシアと共有した。 「ラドルフの特殊部隊……聞いたことがあります」 セリシアは記録石を取り出し、過去の報告書を参照した。 「彼らは『影狩人』と呼ばれ、主に潜入や奇襲を得意とします。普通の兵士では太刀打ちできないほど訓練されています」 「北側の水路……」 俺は直感的に理解した。ラドルフは表向きは包囲を仕掛けつつ、特殊部隊による内部からの破壊を狙っているのだろう。 「水路の警備を強化しよう。信頼できる兵士を配置して、24時間体制で監視する」 セリシアは頷き、すぐに命令を出した。 「あと一つ、我々の情報収集体制を見直したい」 「どういうことですか?」 「ラドルフの戦術をより正確に予測するため、タロカ牌を使った『流れ』の可視化を試みたい」 セリシアは少し驚いた表情を見せたが、すぐに理解を示した。 「タロカによる戦術分析……面白い試みですね」 俺は小部屋を用意してもらい、そこに木製のタロカ牌を模した石片を配置した。それぞれの石片はラドルフの部隊や動きを象徴している。 「これで『流れ』を読みやすくなる」 フェリナも興味深そうに見ていた。 「これがあなたの『読み』の秘密なのですね」 「ああ。タロカや麻雀では、『牌』の配置で流れを可視化できる。戦場でも同じことができるはずだ」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第27話「開戦前夜」

急ぎで集められた作戦会議は、夜遅くまで続いた。グレイスン大佐を含め、砦の主要将校と、我々がギアラ砦防衛のために練り上げた最終作戦を確認する場だ。 「西側の壁面は予想通り、敵の主要攻撃目標になる可能性が高い」 俺は石の模型で作られた砦の西側を指差した。 「この正面からの攻撃は、彼らの『表の動き』に過ぎない。真の狙いは、北側の水路を通じた内部侵入だろう」 将校たちは険しい表情で頷いた。特殊部隊「影狩人」の存在は、その危険性をいっそう高めていた。 「北側水路への警備配置を見直しました」 セリシアが資料を広げながら説明を続ける。彼女の声には疲労が混じっていたが、分析は冷静で的確だった。 「兵力の三割を北側に集中させ、水路出口には特に信頼できる兵で固めます。交代のシフトも、前回の案から変更しています」 俺はセリシアの顔を見た。彼女の表情には緊張の色が濃く、額には軽い汗が浮かんでいる。一瞬、彼女の手が小刻みに震えるのが見えた気がした。 「……セリシア」 声をかけると、彼女は一瞬だけこちらを向き、微かな微笑みを返した。その表情は疲労と緊張に満ちていたが、それでも決意を失ってはいなかった。 「では、ここまでの計画で実行に移します」 グレイスン大佐が立ち上がり、将校たちに指示を出した。 「全員、持ち場に戻り、明日に備えよ。夜明け前には彼らの動きが始まるだろう」 将校たちが敬礼して散っていく。最後に残ったのは俺とセリシア、そしてグレイスン大佐だけだった。 「エストガード殿、セリシア少佐」 大佐は疲れた顔に浮かべた微かな笑みで言った。 「少しでも休んでおくといい。明日は長い一日になるだろうから」 「ありがとうございます」 俺とセリシアは部屋を出た。廊下は松明の光が揺らめき、兵士たちの足音が絶え間なく響いていた。明日の戦いに向けた準備は夜通し続くだろう。 「一時間前に確認した際、フェリナは最後の情報収集に出ていた」 セリシアが歩きながら言った。 「彼女なら大丈夫だ。誰よりもラドルフを知っている」 「そうね」 セリシアの歩みが少し遅くなり、壁に寄りかかった。 「大丈夫か?」 「ええ……少し、疲れているだけ」 彼女の顔色は良くなかった。ここ数日、ほとんど休んでいないのだろう。俺も似たようなものだが、彼女の方が情報分析と記録で神経を使っていた。 「休もう。寝る場所はあるのか?」 「大佐が部屋を用意していたはず。この先の……」 セリシアの言葉は、突然響いた警笛で中断された。 「なんだ?」 俺たちは急いで外に出た。城壁の上から、兵士たちが何かを指差している。 「偵察兵が戻ってきたようだ」 門が開き、一人の兵士が息を切らして駆け込んでくる。彼はすぐにグレイスン大佐のもとへと案内された。 「何かあったのか?」 俺の問いに、門を守る兵士が答えた。 「帝国軍の前哨が予想より早く動いているそうです。夜陰に紛れて接近しているとの報告が」 セリシアと顔を見合わせる。予定より早い動きだ。おそらく夜間の奇襲を狙っているのだろう。 「我々の準備は?」 「ほぼ整っています。あとは各部署への最終確認を……」 その時、グレイスン大佐が現れた。 「報告によれば、帝国軍はまだ主力を動かしていない。これは偵察行動か、小規模な撹乱作戦の可能性が高い」 「それでも油断はできませんね」 セリシアが言った。 「ええ。警戒を強化するが、全軍総出動にはまだ早い。エストガード殿、セリシア少佐、予定通り休息を取ってください。明日こそが正念場になるでしょう」 大佐は疲れた微笑みを浮かべた。 「あなた方の知恵が、この砦を救うのですから」 *** 「こちらです」 兵士は俺たちを小さな部屋へと案内した。砦の中層階にある将校用の部屋だが、戦時中のため簡素なものだった。 「申し訳ありませんが、部屋の数に限りがあり……」 兵士は少し気まずそうに言った。確かに部屋は狭く、寝床も一つしかない。 「大丈夫だ、問題ない」 俺は兵士に会釈し、セリシアと二人きりになった。部屋の中央には一つの簡易ベッド。壁には松明が一本だけ灯され、部屋に淡い光を投げかけていた。 「……」 「……」 二人とも言葉が出ない。戦術の話をするのなら自然なのに、こうして二人きりになると急に気まずさが押し寄せてきた。 「私は床で構わないから……」 俺が言いかけると、セリシアが首を振った。 「馬鹿なことを言わないで。明日の戦いのことを考えなさい。きちんと休まなければ」 彼女は実務的な口調で言ったが、僅かに顔を背けるのが見えた。 「それにこの床は冷たすぎる。体調を崩せば、戦術の意味がなくなるわ」 「では、交代で使うか?」 「時間の無駄よ。二人で使うしかないでしょう」 セリシアはそう言うと、武装を解き始めた。剣帯を外し、肩当てを脱ぐ。俺も同じように、最低限の装備だけを残して身軽になった。 ベッドは決して広くはない。二人が眠るには狭すぎる。 「背中合わせで寝ましょう」 セリシアが現実的な提案をした。彼女はベッドの片側に腰掛け、靴を脱いだ。 「ああ、そうだな」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第28話「赤眼の布陣」

夜明け前、遠くから聞こえる太鼓の音で俺は目を覚ました。背中に感じる温もりはすでになく、セリシアはいなくなっていた。彼女は俺より先に起き、すでに持ち場についているのだろう。 急いで装備を整え、俺は最上層の監視塔へと向かった。大勢の兵士たちが右往左往し、重臣兵の整列の声や、弓兵隊の励ましの声が飛び交う。 「エストガード殿!」 塔に辿り着くと、グレイスン大佐と共にセリシアが立っていた。彼女は昨夜の気まずさをすっかり払拭し、冷静そのものの表情で俺を迎えた。 「状況は?」 「見てください」 セリシアが指さす方向に目をやると、そこには壮絶な光景が広がっていた。 砦を取り囲むように、無数の帝国軍が布陣していた。その数は四千を超えるだろう。松明を手にした兵士たちが、朝もやの中で黒い影絵のように見える。そして、中央に一つ、特に大きな赤い旗が見えた。 「ラドルフですね」 グレイスン大佐が呟いた。その声には微かな震えが混じっていた。 「彼らの布陣が……通常と違う」 セリシアが魔導記録石を操作しながら言った。 「三つの集団に分かれている。通常なら単一の主力部隊を形成するはずだが」 確かに帝国軍は三つの集団に分かれていた。西側に最大の部隊、北と南にそれぞれ小規模な部隊。 「三正面作戦か」 俺は直感的に理解した。 「同時に三方向から攻撃を仕掛けてくる。砦の守備力を分散させる狙いだ」 「しかし、それでは各部隊の戦力も分散される」 大佐が疑問を投げかけた。 「ラドルフがそんな初歩的なミスを」 「彼にとっては初歩的ではありません」 俺は砦の全方位を見渡した。 「分散しているように見えて、実は彼の手の内にある。各部隊は独立しているようで、実は連携している」 グレイスン大佐は困惑した表情を浮かべたが、セリシアは理解を示した。 「彼の戦術は『支配』ね。一見すると個別の動きに見えて、実は全体が彼の意のままに動く」 「ああ。そして、我々もその『流れ』に巻き込まれようとしている」 遠くから角笛の音が響き、帝国軍の動きが開始された。西側の主力部隊が動き出す。 「大佐、予定通りの配置を」 俺は命令を出した。 「西側に主力を集中させつつ、北と南にも機動力のある部隊を配置。予備隊は中央に残し、状況に応じて展開できるようにしておく」 「承知した」 グレイスン大佐は伝令兵に指示を出し、準備が整った防衛体制を発動させた。砦の中は一気に活気づき、兵士たちが持ち場へと急ぐ。 「セリシア、右翼を頼む」 「わかったわ」 彼女は魔導記録石を持ち、右翼の指揮を執るべく階段を駆け下りていった。 「フェリナは?」 「昨晩から情報収集に出たままです」 伝令兵が答えた。 「彼女のことは心配いらない。今は目の前の敵に集中しよう」 俺は塔の上から帝国軍の動きを注視した。西側の主力部隊が前進を始め、重装歩兵が最前列で盾の壁を形成している。その背後には弓兵隊と、攻城兵器を引く部隊が続く。 一方、北と南の部隊も動きはじめたが、その速度は西側よりも遅い。まるで様子見をしているかのようだ。 「来るぞ!」 先頭の部隊が射程距離に入ると、砦からの最初の矢が放たれた。空に描かれた放物線は、敵の盾にほとんど阻まれたが、わずかに数人の兵士が倒れた。 敵も応戦し、砦に向けて矢が飛んでくる。しかし堅固な壁にほとんど影響はない。 「こんな通常戦法では砦は落とせない」 グレイスン大佐が安堵の表情を見せた。 「ラドルフにそれがわからないはずがない」 俺は警戒を解かなかった。この攻撃には何か裏があるはずだ。タロカの卓で相手が明らかに損な手を打ってきたとき、それは罠の匂いがする。まるで麻雀で相手が明らかに筋の悪い牌を切ってきたときのように、警戒心が高まる。 西側の攻撃が続く中、突然北側の部隊が急速に動き出した。それまでの緩慢な動きから一変し、全力で砦の北壁へと迫る。 「北側への変化球だ!」 俺は即座に判断した。 「大佐、予備隊の半数を北側へ!」 命令が飛び、兵士たちが北壁へと急ぐ。そのとき、南側からも同様の動きが。 「三正面同時攻撃……!」 一瞬の間に状況が変わった。西側の攻撃はフェイントではなく、北と南からの攻撃と合わせた三正面同時攻撃の一環だったのだ。 「エストガード殿! 南側の壁が!」 伝令兵が駆け上がってきた。 「南壁に登攀用の梯子がかけられています!」 俺は即座に対応策を考えた。 「南側は軽装歩兵が多い。彼らは機動力に優れているが、持久力では我々に劣る。防戦に徹すれば、持ちこたえられる」 伝令兵に南壁への指示を出し、次に北側の状況を確認した。なんと北側では水路の守備が手薄になってしまっている。 「北側の水路は!?」 「監視兵は配置済みですが、援軍はまだ……」 これはまずい。敵の「影狩人」がそこを突破すれば、砦内部からの崩壊が始まる。 「残りの予備隊全てを北の水路へ! 急げ!」 次々と命令を出す中、西側からの攻撃もいよいよ本格化してきた。移動式の投石機が前線に引き出され、巨大な岩が砦の西壁に向かって放たれる。 轟音と共に、西壁の一部が崩れ落ちた。 「壁が破られた! 敵が侵入してくる!」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第29話「見えない一手」

激しい戦闘が続く中、正午を過ぎてもギアラ砦への攻撃は衰える気配がなかった。 「南区画の『影狩人』はほぼ制圧されました」 グレイスン大佐が監視塔に戻り、報告する。彼の鎧には血しぶきが飛び散り、息も荒い。 「被害は?」 「兵士十数名が死亡、二十名以上が負傷。だが、彼らの侵入経路は塞ぎました」 俺は頷き、再び戦場全体を見渡した。西側の攻撃は相変わらず激しく、北側の水路への圧力も続いている。だが、南側からの攻撃は若干弱まっていた。 「南からの攻撃が弱まっているのは、地下侵入作戦の失敗を受けて態勢を立て直しているのだろう」 大佐が分析する。 「いいえ」 俺は首を振った。 「彼らは撤退のための時間を稼いでいるんです」 「撤退?」 グレイスン大佐は驚いた表情を見せた。帝国軍がこの段階で撤退する理由など考えられない。 「ラドルフの真の狙いは別にある」 俺は砦の東側を示した。これまで全く攻撃のなかった方向だ。 「この三正面攻撃は、我々の注意をそらすための陽動なんです」 大佐は困惑の表情を浮かべたが、そのとき伝令兵が駆け上がってきた。 「エストガード殿! 東側の崖下に敵兵が集結しています!」 報告を聞いた大佐の表情が変わる。 「東側? あそこは絶壁だ。攻めようがない」 「どれくらいの規模だ?」 「約五百。『影狩人』と思われる精鋭部隊です」 俺は微笑んだ。 「やはりね」 「ど、どういうことだ?」 大佐が混乱した様子で尋ねる。 「ラドルフの本当の狙いは東側から。絶壁で攻められないと思われている場所こそ、彼の真の侵入経路だったんだ」 東側の崖は確かに急峻で、通常の軍隊が攻め上るのは不可能に近い。しかし、特殊訓練を受けた「影狩人」であれば可能かもしれない。そして、そこを突破されれば、砦の裏側から一気に制圧される。 これは麻雀でいう「カンチャン待ち」のような奇襲戦術だ。最も警戒されにくい場所から攻撃を仕掛ける。「1-3」の形で「2」を待つような、相手が想定しにくい侵入路を選ぶ戦法。 「なぜそれがわかった?」 「彼の『流れ』を読んだんです。三方からの攻撃は強すぎた。本当に砦を落とす気なら、もっと長期的な包囲戦を選ぶはず。これほど露骨な総攻撃には裏があると」 大佐はまだ困惑していたが、次の瞬間、俺は微笑んだ。 「そして——我々の『見えない一手』の時だ」 大佐の混乱はさらに深まる。 「『朔』作戦、実行!」 俺の命令に、伝令兵が砦のさまざまな場所へと走り出した。そして、静かに動き出す車輪の音。 砦の裏門が開き、そこから二十台ほどの荷車が出ていく。それぞれの荷車には兵士が五人ずつ、荷物に紛れて隠れていた。 「あれは?」 「三日前から準備していた伏兵です」 俺は説明した。 「ラドルフが東側から侵入を試みることは予測できた。だから、彼らが動き出す前に、崖裏に我々の伏兵を配置しておいたんです」 大佐は目を見開いた。 「三日前? あの時はまだラドルフが来るという確証さえなかったはずだが」 「確証はなくても、確率はわかります。タロカでも同じです。相手の『待ち』が見えなくても、最も可能性の高い一手に備えるんです」 東の崖下に集結していた帝国軍の「影狩人」たち。彼らが崖を登り始めたその瞬間、崖裏から伏兵が現れた。不意を突かれた「影狩人」たちは、混乱の中で次々と倒れていく。 「見事だ……」 大佐の声には驚嘆が混じっていた。 「だが、これだけで勝てるとは思えない。まだ敵の主力は健在だ」 「これはほんの始まりです」 俺は言った。 「セリシア少佐からの報告です!」 新たな伝令兵が到着した。 「右翼の準備が整いました。『朔』の第二段階に移行可能とのことです」 「伝えてくれ。セリシアは主力部隊を率いて、本作戦を実行せよと」 伝令兵が去り、俺は再び戦場全体を見渡した。 東側での伏兵の奇襲が始まると同時に、北と南からの帝国軍の攻撃が弱まった。それは当然だ。ラドルフの本命だった東側の作戦が頓挫し、計画が狂い始めている。 そして、俺の予想通り、ラドルフは主力を東側に振り向け始めた。西側の攻撃が緩み、一部の部隊が東へと移動し始める。 「今だ」 俺は静かに言った。 「大佐、北側と南側からの一斉突撃を命じてください」 「突撃? 守りを固めるべきではないのか?」 「いいえ、今こそ攻め時です。ラドルフは計画の変更を余儀なくされている。彼の『流れ』が乱れた今が、我々の好機なんです」 これは麻雀でいう「鳴き」の戦術だ。相手の打牌を見てから行動する守りの姿勢から、自ら積極的に牌を取りに行く攻めの姿勢への転換。相手の混乱した隙を突く好機。 大佐は一瞬迷ったが、やがて決断した。 「承知した。北と南からの突撃を命じる」 命令が下され、砦の北門と南門が開く。そこから兵士たちが雄叫びを上げて飛び出していった。予想外の反撃に、帝国軍の陣形が乱れる。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第30話「少年は神子と呼ばれた」

ギアラ砦の戦いから二週間が経ち、王都メイドナルムに凱旋した俺たちを、熱狂的な歓迎が待っていた。 街道には民衆が溢れ、兵士たちに花束を投げかける。「英雄!」「救国の将!」といった歓声が飛び交う中、一行は王城へと向かっていた。 「思っていたより大掛かりな歓迎だな」 俺は馬車の中でセリシアに呟いた。彼女は笑みを浮かべていたが、その目は冷静な観察を怠らない。 「あなたの功績は、想像以上に広まったようね。『タロカの戦術家』『神の読みを持つ少年』——あらゆる噂が飛び交っているわ」 馬車の窓からは、俺の名を叫ぶ市民たちの姿が見える。中には「戦術の神子」と書かれた旗を掲げる者もいた。 「戦術の神子、か……大げさな」 俺はため息をついた。確かにギアラ砦での勝利は大きな成果だった。帝国軍の西進を食い止め、ラドルフの無敗神話に傷をつけた初めての戦いだ。だが、こうして神格化されることには違和感があった。 「王国民の希望が必要なのよ」 セリシアは静かに言った。 「長く続く戦争で疲弊していた民衆に、勝利の象徴が必要だった。あなたは、その役割を与えられたのね」 俺は無言で頷いた。前世の記憶では、こんな注目を集めたことはなかった。麻雀の腕は良かったが、一般人の範疇を出ることはなかった。それがこの世界では、多くの人々の視線を集め、時に崇拝の対象にさえなっている。 「あなたが歓声に照れているとは珍しいわね」 セリシアは微笑んだ。 「俺はただの戦術家だ。持ち上げられるほどのことはしていない」 「謙虚ね。でも、ギアラ砦での采配は本当に見事だった。あなたの『見えない一手』がなければ、勝利はなかったわ」 砦での戦いを思い出す。あの死闘の中で、多くの兵士が命を落とした。勝利を収めたとはいえ、代償は小さくなかった。そして、重傷を負ったフェリナのことも頭から離れない。 「フェリナの容体は?」 俺の問いに、セリシアは表情を緩めた。 「良くなっているわ。今朝の報告では、ようやく意識が戻ったとのこと。あなたのことを尋ねていたそうよ」 「そうか……」 安堵の気持ちが広がる。フェリナは南側の突撃隊に撤退の合図を送るため、自らを犠牲にして東の塔で信号を上げた。多くの矢を受け、一時は生命の危機さえあったという。 「彼女の勇気がなければ、もっと多くの犠牲が出ていただろう」 「ええ。彼女は真の英雄よ」 セリシアは同意した。 馬車は王城の大門に到着した。そこには、アルヴェン将軍をはじめとする高官たちが出迎えに立っていた。 「エストガード、セリシア」 将軍は満足げな笑顔で二人を迎えた。 「見事な戦いだった。王も大変喜んでおられる」 「ありがとうございます、将軍」 俺は敬礼した。将軍の表情には誇らしさが滲んでいた。彼にとって、俺の成功は自らの慧眼の証明でもあるのだろう。 「さあ、王はお待ちだ。謁見の準備をせよ」 *** 王宮の大広間は、華やかな貴族たちで溢れていた。装飾された柱の間に立ち並ぶ彼らは、俺とセリシアが入場すると一斉に視線を向けてきた。 賞賛の目もあれば、妬みや警戒の色を隠さない者もいる。権力の場らしい複雑な空気だった。 広間の奥には王が座していた。フェルトリア王国第十七代国王、ザンクト・フェルトリア。四十代半ばの穏やかな表情の男性だが、その目には鋭い知性が宿っていた。 「エストガード補佐官、セリシア少佐」 王は二人を見つめ、微笑んだ。 「ギアラ砦での勝利、見事であった。王国の名において、深く感謝する」 俺とセリシアは深く一礼した。 「陛下のご信任に応えられたことを、光栄に存じます」 俺の言葉に、王は満足げに頷いた。 「エストガード、汝の戦術眼は神の恵みよ。我が軍の宝となろう」 王は立ち上がり、近づいてきた。その手には金の勲章が輝いていた。 「ここに、王国最高の勲章、『黄金獅子勲章』を授ける」 俺の胸に勲章が付けられると、広間に拍手が広がった。セリシアにも高位の勲章が授与される。 儀式の後、宮廷での祝宴が開かれた。貴族たちが次々と俺たちに近づき、祝福と賛辞を告げる。その多くは表面的なものだろうが、中には真摯な敬意を示す者もいた。 「エストガード殿」 年配の貴族が声をかけてきた。 「伯爵令嬢の婿として、我が家を考えてみてはどうだろう?」 突然の申し出に、俺は言葉に詰まった。だが、これは最初の話ではなかった。祝宴の間に、すでに数人の貴族から同様の打診があった。 「恐縮ですが、まだそのような話は……」 丁寧に断ると、貴族は少し残念そうにしながらも引き下がった。 「人気者ね」 セリシアが横から現れ、小さく笑った。 「困ったものだ」 「でも、あなたの立場を考えれば当然よ。若くして功績を挙げた貴族の養子——政略結婚の絶好の対象ね」 彼女の皮肉めいた口調に、俺は苦笑した。 「俺はただ、戦いに勝ちたいだけなんだがな」 「本当にそれだけ?」 セリシアの問いかけには、以前のような鋭さがなかった。彼女自身も俺の変化を感じているのだろう。 「前は、たしかにそうだった。ただ勝ちたかった。でも今は……」 俺は言葉を選びながら続けた。 「守るべきものが増えた気がする。王国の人々、兵士たち、そして……」 言いかけた言葉を飲み込む。セリシアは微かに頬を赤らめたが、すぐに表情を引き締めた。 「異端の策だけど、勝ち筋だった」 彼女は静かに言った。砦での戦いを評して。 「ありがとう」 祝宴の喧騒の中、二人は静かな会話を交わしていた。そこへ、アルヴェン将軍が近づいてきた。 「エストガード、セリシア。楽しんでいるか?」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人