出発の前日、王宮の庭園で俺はアルヴェン将軍と最後の会談を行っていた。朝露に濡れた草花の間を歩きながら、将軍は最終的な指示を伝えている。

「サンクライフ平原への進軍は、当初の予定より一日早める」

 将軍の声は静かだが、確固たる決意に満ちていた。

「情報漏洩の可能性を考慮し、予定を変更した。敵の予想を裏切るためだ」

「了解しました」

 俺は頷いた。タロカの対局でも、相手の読みを外すために打つタイミングをずらすことがある。王国軍全体の動きも、同じ発想で調整されているのだ。

「エストガード、お前には特別な役割を任せる」

 将軍は立ち止まり、俺と向き合った。

「サンクライフでの前線基地の設営と防衛は、お前が総指揮を執れ」

 その言葉に、俺は驚いた。これまでも重要な任務を任されてきたが、前線基地全体の指揮権を与えられるのは初めてだった。

「私にですか?」

「ああ。お前の戦術眼は、他の誰よりも信頼できる」

 将軍の目には迷いがなかった。

「セリシアとフェリナも同行する。フェリナの容体は思ったより早く回復し、医師も移動を許可した」

 俺は頷きながら、責任の重さを噛みしめた。サンクライフは単なる防衛拠点ではなく、王国の反攻作戦の重要な足がかりとなる場所だ。その成否は、今後の戦局を大きく左右するだろう。

「任務を全うします」

「信じているよ」

 将軍は俺の肩に手を置いた。その手には温かさと重みがあった。

「もう一つ、警告しておきたいことがある」

 将軍の表情が引き締まった。

「バイアス伯爵の動きを監視していた者から報告があった。昨夜、伯爵邸から密使が出発したという」

「行き先は?」

「不明だ。だが、帝国領に向かったのは間違いない」

 俺は眉をひそめた。内通者の存在がますます濃厚になってきた。

「もしラドルフが事前に情報を得ているなら、サンクライフでの任務はさらに困難になるかもしれない」

「心得ています」

 将軍は深いため息をつき、再び歩き始めた。

「政治と戦争は常に絡み合っている。純粋な戦いなど、この世にはないのだよ」

 その言葉には、長年の経験に裏打ちされた諦観があった。

「それでも、前に進むしかない」

 俺は静かに答えた。将軍は満足げに頷いた。

「その通りだ。さあ、準備を整えるといい。明日の夜明けに出発だ」

 将軍との会談を終え、俺は自室に戻った。窓の外では、王都の人々が日常を送っている。彼らは明日、俺たちが命を懸けて守ろうとしている平和を当たり前のように享受していた。

 ***

 部屋で出発の準備をしていると、ノックの音がした。ドアを開けると、そこにはセリシアとフェリナが立っていた。

「準備は進んでいる?」

 セリシアが尋ねた。彼女はすでに旅装を整え、腰には剣を下げていた。

「ああ、ほぼ終わっている」

 二人を部屋に招き入れると、フェリナが小さな木箱を差し出した。

「これをお持ちください、エストガード殿」

 箱を開けると、中には精巧に作られたタロカの牌が入っていた。通常の牌より小さく、携帯に便利なサイズだ。

「旅先でも『流れ』を読むために」

 フェリナは少し照れたように言った。

「ありがとう、大切にする」

 俺は感謝を伝え、新しい牌を手に取った。木の質感と彫刻の細かさは見事で、職人の技が感じられる。

「それと、バイアス伯爵について新たな情報がある」

 セリシアが声を落として言った。

「伯爵の側近の一人が、昨夜密かに城を出たという。行き先は帝国領方面だ」

 フェリナも頷いた。

「私の情報網からも同様の報告がありました。特に気になるのは、その側近が『赤い印』を持っていたという点です」

「赤い印?」

「ラドルフの親衛隊が使う印です。それを持っていたということは……」

「伯爵とラドルフの繋がりは、ほぼ確実というわけか」

 俺は深く考え込んだ。敵は外だけでなく、内にもいる。しかも王国の高位貴族という立場にある者だ。

「将軍にも報告したのか?」

「ええ、だからこそ出発が早まったのよ」

 セリシアの表情には強い緊張が浮かんでいた。

「明日からの任務は、単なる軍事行動ではないわ。内通者による妨害も警戒しなければならない」

「わかっている」

 俺は静かに答えた。状況はますます複雑になっていくが、それでも前に進むしかない。

「今夜、もう一度作戦の詳細を確認しましょう」

 セリシアは提案した。

「サンクライフでの配置と進軍ルートを最終確認しておきたいわ」

 三人は机を囲み、地図と作戦書を広げた。フェリナはラドルフの戦術パターンについて詳細な説明を加え、セリシアは王国軍の動きを整理していく。俺はそれらの情報を総合し、最適な戦術を考えていった。

 夜が更けていく中、三人の連携は深まっていった。共に戦い、共に考え、共に勝利を目指す仲間たち。この世界で俺が得た、大切な絆だった。

 ***

 深夜、二人が去った後、俺は新しいタロカの牌を机に並べた。サンクライフ平原の地形と予想される敵の布陣を表現するように牌を配置する。

「戦場と卓に、違いはない」

 小さく呟きながら、牌の配置を何度も調整した。一つ一つの牌が戦場の一部を表し、その組み合わせが「流れ」を作る。タロカの対局と同じように、戦場でも「流れ」を読み、時に変え、時に創り出す。

 窓の外は静寂に包まれ、月明かりだけが部屋を照らしていた。明日からの戦いに向けて、俺は最後の準備を整えていた。

 牌を眺めながら、これまでの道のりを振り返る。大学受験に失敗し、事故死した前世。地方貴族の養子として目覚めたこの世界。タロカとの出会い、将軍に見出されたこと、ギアラ砦での勝利……そして今、サンクライフへの新たな任務。

 多くのことが変わったが、根本的なものは変わっていない。俺はどこにあっても「勝負師」なのだ。戦場という卓に座り、命を賭けた対局に挑む。

「それでも、俺は卓に座る」

 決意を込めた言葉を呟き、俺は牌をしまった。明日は早い。少しでも休んでおく必要がある。

 ***

 夜明け前、王城の裏門から小さな部隊が出発した。騎士団の護衛に囲まれ、俺とセリシア、フェリナは馬に跨っていた。静かに王都を離れ、サンクライフ平原へと向かう一行。

 東の空が明るみ始める中、俺は一度だけ振り返った。美しい王都の姿が朝霧の中に浮かび上がっている。次にここに戻ってくるときには、何かが変わっているだろう。勝利か敗北か、そのどちらかを背負って。

「行くぞ」

 俺の小さな声に応じるように、三人の馬は足を速めた。サンクライフへの道は長く、そして予測できない危険に満ちているだろう。だが今の俺たちには、恐れるよりも前に進む決意の方が強かった。

 ***

 同じ時刻、エストレナ帝国の前線基地では、一人の男が星空の下に立っていた。赤い瞳が闇の中で妖しく輝き、風に揺れる黒いマントが彼の姿をより一層不気味に見せる。

「ラドルフ様、フェルトリア王国の軍が動き始めたようです」

 側近の報告に、彼は無表情なまま頷いた。

「サンクライフへの進軍だな」

「はい。バイアス伯爵からの情報です」

 ラドルフは星空を見上げた。まるでそこに未来の戦局が描かれているかのように、じっと見つめている。

「『戦術の神子』も同行しているのか?」

「はい。エストガード補佐官が前線司令官に任命されたとのことです」

 その言葉に、ラドルフの口元にわずかな笑みが浮かんだ。

「ギアラ砦での偶然の勝利が、あの少年を過信させたようだな」

 彼は赤い瞳を細め、低い声で続けた。

「次の戦では"神子"を壊す」

 その声には冷たい確信があった。彼にとって、宗一郎との戦いはまだ始まったばかり。ギアラ砦での敗北も、より大きな勝利への布石に過ぎなかったのかもしれない。

「全軍に伝えよ。三日後、サンクライフへの進軍を開始する」

 側近が敬礼し、去っていく。ラドルフは再び星空を見上げた。彼の赤い瞳に映る星々は、やがて戦場と化す土地の上で、無関心に輝き続けるだろう。

 ***

 王国と帝国、二つの国の命運をかけた新たな局面が始まろうとしていた。一方の卓には「戦術の神子」と呼ばれる少年、もう一方には「赤眼の魔将」。

 彼らの対決は、単なる戦略の勝負を超え、世界の行く末を左右するものとなる。

 朝日が地平線から昇り、新たな一日の始まりを告げていた。誰もが予期せぬ運命の糸が、今、編み始められようとしていた。

 かつて麻雀に興じていた少年は、今や国の命運を左右する存在になっていた。前世では学も職もなかった俺が、この世界では多くの人々の希望となっている。その重責は時に重く感じるが、もはや逃げることはできない。なぜなら、守るべきものができたから。セリシア、フェリナ、そして王国の人々——彼らのために、俺は卓に座り続ける。

 第一部、完。