王城の一角にある小さな書庫で、俺はサンクライフ平原についての古文書を調べていた。明日の作戦会議に向けて、できるだけ多くの情報を集めておきたかったのだ。

 書庫内には俺一人しかおらず、静寂の中で羊皮紙の擦れる音だけが響いていた。窓から差し込む夕日が徐々に傾き、室内は薄暗くなりつつある。

 ノックの音もなく、突然ドアが開いた。振り返ると、アルヴェン将軍の副官であるローレン大尉が立っていた。彼は普段は穏やかな性格の人物だが、今は異様に緊張した表情をしていた。

「エストガード殿、お話があります」

 彼は周囲を警戒するように見回し、ドアを閉めた。

「どうしたんだ?」

「小声でお願いします」

 大尉は俺の傍に近づき、耳打ちするように話し始めた。

「バイアス伯爵邸で昨夜、密会があったことをご存知ですか?」

「いいえ」

「伯爵邸に複数の貴族が集まり、深夜まで何かを話し合っていました。通常の社交とは思えない雰囲気だったそうです」

 大尉の情報源は明かされなかったが、彼は将軍の信頼する部下だ。無根拠な話を持ってくるとは思えない。

「それで?」

「もっと気になるのは、その会合の後、帝国領に向かう密使が出発したという点です」

 その言葉に、俺は息を飲んだ。

「確証はありませんが、バイアス伯爵と帝国側の誰かとの間に、何らかの繋がりがあるのかもしれません」

 ラドルフとの繋がり——セリシアからも同様の疑念を聞いていた。もしそれが真実なら、王国内に敵のスパイや内通者がいることになる。

「将軍はご存知なのか?」

「はい、報告済みです。将軍は徹底的な調査を命じました」

 大尉は深刻な表情で続けた。

「しかし、バイアス伯爵は力のある人物。簡単には動けないのが現状です」

「わかった。情報提供に感謝する」

 大尉は小さく頭を下げ、来た時と同じように静かに部屋を出て行った。

 一人残された俺は、複雑な思いで窓の外を見つめた。王都の美しい夕景の裏に潜む政治的陰謀。この世界の戦いは、戦場だけでなく、王都の宮殿内でも繰り広げられているのだ。

 ***

 翌朝、セリシアが俺の部屋を訪ねてきた。彼女の表情には、いつもの冷静さが欠けていた。

「エストガード、聞いたわ。バイアス伯爵の密会について」

 俺は部屋に彼女を招き入れ、ドアをしっかりと閉めた。

「ローレン大尉から聞いた。詳細はわからないが、帝国との繋がりを疑う理由はあるようだ」

「それだけではないの」

 セリシアは声を落とし、魔導記録石を取り出した。記録石に触れると、淡い光が浮かび上がり、何らかの文書の写しが映し出された。

「これは伯爵の側近が所持していた文書の一部。偶然、写し取ることができたわ」

 文書には暗号のような文字列が並んでいたが、その一部は解読されているようだった。

「『赤眼』というキーワードが何度か出てくるわ」

 赤眼——それはラドルフの異名だ。彼を指す言葉が伯爵の文書に含まれているとすれば、二人の間に何らかの関係があるという推測は強まる。

「それだけか?」

「ここに『サンクライフ』という言葉も。日付は明後日になっている」

 俺は眉をひそめた。サンクライフ平原が次の作戦地であることは、まだ公には発表されていない。それが伯爵の文書に記されているということは、軍の機密情報が漏れている可能性がある。

「他にも、『王国転覆』とも読める文言が」

 セリシアの表情は厳しさを増した。

「これは単なる和平派の動きを超えている。伯爵は王国そのものを危険に晒す行動を取っているのかもしれないわ」

 俺は黙って考え込んだ。たしかに証拠は断片的だが、バイアス伯爵を中心とした派閥が、帝国と通じて何らかの陰謀を企てている可能性は高い。

「将軍には報告したのか?」

「まだよ。この情報は極秘裏に入手したもの。慎重に扱う必要があるわ」

 セリシアは記録石をしまいながら言った。

「それに、伯爵派には多くの支持者がいる。証拠なしで動けば、政治的混乱を招くだけ」

「では、どうする?」

「私が調査する」

 彼女の目には強い決意が宿っていた。

「私は参謀としての立場を利用して、より多くの情報を集められる。伯爵の動きを監視し、確実な証拠を掴むわ」

「危険だぞ」

「わかっているけど、これも戦いの一種」

 セリシアはそう言い残し、部屋を出ようとした。ドアに手をかけたところで、彼女は振り返った。

「今日の午後、フェリナが一時退院して、王宮に来るわ。作戦会議に参加するらしいから」

「彼女の容体は?」

「完全ではないけれど、会議に出席できる程度にはなったとのこと」

 俺は頷いた。フェリナのラドルフに関する知識は貴重だ。作戦会議での彼女の意見は重要になるだろう。

「ありがとう、気をつけて」

 セリシアは小さく微笑み、部屋を後にした。

 ***

 午後、王宮の一室で開かれる作戦会議の準備が整っていた。大きな円卓が置かれ、その上にはサンクライフ平原の詳細な立体模型が展示されている。

 俺が部屋に入ると、既にアルヴェン将軍や数人の高級将校が集まっていた。彼らは俺の姿を見ると、敬意を込めた挨拶をした。

「エストガード、来たか」

 将軍は俺を呼び寄せ、模型の前に立つよう促した。

「これがサンクライフ平原の最新模型だ。地形の起伏まで正確に再現されている」

 確かに精巧な模型だった。平原の微妙な高低差、流れる川の曲がり具合、そして周囲の森林まで細かく作られている。

「ご苦労様です」

 俺が職人の技に感心していると、ドアが開き、フェリナが入ってきた。彼女はまだ少し顔色が悪かったが、しっかりと立っていた。

「フェリナ、来られたのか」

「はい、エストガード殿」

 彼女は俺と将軍に礼をし、席に着いた。続いてセリシアも入室し、全員が揃った。

「では、作戦会議を始める」

 将軍が口を開いた。

「サンクライフ平原は、我々の次なる作戦地点だ。ここを確保することで、帝国への反攻の足がかりとする」

 将軍は模型の上で、重要なポイントを指し示しながら説明を続けた。

「平原中央の小高い丘陵地帯を支配すれば、周囲を見渡せる地の利を得られる。そこに前線基地を建設し、帝国領への侵攻ルートを確保する」

 計画は綿密に練られていたが、俺はある疑問を感じた。

「将軍、この作戦は伯爵派にも知られているのではないでしょうか?」

 部屋内が一瞬静まり返った。俺の質問は、軍の内部に情報漏洩の可能性があることを示唆するものだった。

「何を言いたい?」

 将軍の表情が引き締まった。

「セリシアから聞いた情報によれば、バイアス伯爵の文書に『サンクライフ』という言葉が記されていたとのことです」

 セリシアは少し驚いた表情をしたが、すぐに頷いた。

「その通りです。日付は明後日となっていました」

 将軍は深く考え込んだ。

「そうか……やはり情報が漏れているか」

 彼は他の将校たちを見渡した。

「この件は極秘にしてほしい。会議の内容も、この部屋の外では口にするな」

 全員が頷く中、将軍は計画の説明を続けた。

「情報漏洩の可能性があるとしても、計画そのものを変更する余裕はない。ただし、細部は修正する」

 彼は模型の西側を指さした。

「当初の進軍ルートは西からだったが、これを変更し、北東からのアプローチとする。敵が情報を得ていたとしても、予想外の方向からの進軍で混乱させる」

 俺はその修正案に頷いた。敵に知られている可能性のある情報を逆手に取り、罠を仕掛ける戦術だ。タロカの対局でも、相手に読まれていると思わせて、実は別の待ちを持っているという手がある。

「しかし、より根本的な問題は、情報がどこから漏れているかということだ」

 将軍の言葉に、部屋の空気が緊張した。

「会議に参加する者は限られているし、文書も厳重に管理している。それでも情報が外部に流れているとすれば……」

 言外に示されるのは、出席者の誰かが内通者である可能性だ。

 フェリナが静かに口を開いた。

「ラドルフは情報網の構築に長けています。彼は様々な手段で情報を集めます。買収、脅迫、時には魔術的手段も」

「魔術的手段?」

 ある将校が疑問を呈した。

「はい。彼の『赤い目』には、人の心を読む力があるとも言われています。直接会った相手から無意識のうちに情報を引き出すことができるのです」

 フェリナの説明に、部屋内に緊張が走った。

「だとすれば、伯爵がラドルフと面会したことがあるなら、情報が漏れる可能性はある」

 セリシアが論理的に分析した。

「バイアス伯爵は国境地帯の巡視に何度か出かけています。その際、帝国側と接触した可能性は否定できません」

 将軍は深いため息をついた。

「どうやら我々は二つの戦いを同時に戦わなければならないようだ。前線での帝国軍との戦い、そして王国内部の裏切り者との戦い」

 会議はさらに続き、サンクライフ平原での詳細な作戦計画が練られた。俺の提案もいくつか採用され、「流れ」を読む戦術が組み込まれた。

 終了間際、将軍が最後の指示を出した。

「出発は三日後だ。それまでに準備を整えよ。そして、今日話したことは口外するな」

 全員が敬礼し、会議は終了した。

 部屋を出ると、セリシアが俺に近づいてきた。

「あなたは気づいていたのね。内通者の問題に」

「ああ。バイアス伯爵の動きが気になっていた」

「私も調査を進めるわ。伯爵の文書からもっと情報を得られるかもしれない」

 彼女は決意を示した。

「これも、戦いの一種」

 フェリナも二人に近づいてきた。彼女はまだ体調が万全ではなく、少し息が荒かった。

「エストガード殿、サンクライフでの計画は素晴らしいと思います」

「助言に感謝する。お前のラドルフに関する知識は貴重だ」

 フェリナは小さく微笑んだ。

「今度は敵が……味方の中ってわけか」

 俺は小声で呟いた。これまでの戦いは戦場での公明正大なものだったが、これからは影での戦いも加わる。

 敵は外にも内にもいる。そして、その双方がラドルフという一点に繋がっている。彼の影響力は、単なる軍事指導者を超えていた。まるで麻雀の『親』として場全体を支配するかのように。

 三人はしばらく言葉を交わした後、それぞれの持ち場へと戻っていった。セリシアは調査のため、フェリナは病院へ、そして俺は自室に戻り、サンクライフでの作戦をさらに詰めていくことにした。

 窓の向こうには、夕闇が広がり始めていた。王国の美しい街並みが夕日に照らされる光景は平和そのものだったが、その裏では既に静かな戦いが始まっていた。

 闇に潜む声を聞き分け、見えない敵を見出す——それが次なる「流れ」の読みになるだろう。