王都での滞在も三日目を迎え、俺は王室から与えられた豪華な客室で、地図と報告書に囲まれていた。壁際の机には、タロカの牌が並べられ、窓からは朝日が差し込んでいる。

 ノックの音がして、セリシアが入ってきた。彼女は軍服姿に戻り、腕には書類の束を抱えていた。

「おはよう、エストガード」

「ああ、おはよう」

 セリシアは机に書類を置き、俺の作業を覗き込んだ。

「サンクライフ平原の分析?」

「ああ。次の任務に向けて準備している」

 アルヴェン将軍から言及されたサンクライフ平原への任務。ギアラ砦の北に位置するその地域は、重要な交易路であり、次のラドルフの標的かもしれなかった。

「詳細な地形図があればいいのだが」

 俺は手元の地図の不足を嘆いた。正確な情報なしでは、効果的な防衛策を立てることは難しい。

「実はそれについて、朗報があるわ」

 セリシアは書類の中から一枚の大きな羊皮紙を取り出した。それは詳細なサンクライフ平原の地形図だった。

「これは?」

「王室の特別許可で、王立図書館から取り寄せたもの。通常は一般の軍人でも閲覧が難しいけれど、あなたの『戦術の神子』という評判が役立ったわ」

 セリシアの口調には少し皮肉が混じっていたが、その目は真剣だった。

「ありがとう、大いに役立つ」

 俺は地形図を広げ、詳細に検討し始めた。サンクライフ平原は思ったより複雑な地形をしていた。北側の小高い丘陵地帯、中央を流れる川、南側の密林地帯——防衛するにも、攻撃するにも多様な選択肢がある場所だ。

「さて、将軍から伝言があるわ」

 セリシアは椅子に腰掛けながら言った。

「明後日、新たな作戦会議が開かれる。サンクライフ平原の防衛についてよ」

「了解した」

 俺は地図から目を離さずに答えた。

「あとひとつ、個人的な質問なんだけど」

 セリシアの声のトーンが変わった。俺は顔を上げ、彼女を見た。

「何だ?」

「あなたはこれからどうするつもり? 前線残留か、それとも軍中枢か」

 その質問は唐突だったが、セリシアの表情は真剣だった。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味よ」

 彼女は窓際に歩み寄り、外の景色を見つめながら続けた。

「ギアラ砦での勝利によって、あなたの立場は大きく変わった。王都の軍中枢で参謀として働き、全戦線の戦略を立案する道も開けた。一方で、これまで通り前線で実戦指揮を執る道もある」

 俺は考え込んだ。確かに彼女の言う通り、選択肢は増えていた。王都の軍中枢にいれば、より広い視野で戦略を立てられる。しかし、それは実戦から離れることでもある。

「まだ決めていない。だが、恐らく前線だろう」

「なぜ?」

「タロカと同じだ。卓を離れては、真の『流れ』は読めない」

 セリシアは少し意外そうな表情を見せた。

「多くの参謀は権力に近い場所を選ぶものよ」

「俺は参謀というより、対局者かもしれないな」

 俺はタロカの牌を一枚手に取りながら言った。

「ラドルフと直接対峙したい。彼の『流れ』を読み、そして打ち破りたい」

 セリシアは静かに頷いた。

「わかったわ。その選択を尊重するわ」

 彼女は再び書類を整理し始めたが、その動作には少し安堵の色が見えた気がした。

「あなたが前線を選ぶなら、私も同行を志願するわ」

 その言葉には、単なる軍人としての忠誠を超えた何かがあった。

 ***

 午後、王立病院でフェリナを見舞った。彼女の容体は少しずつ良くなっており、短時間なら起き上がることもできるようになっていた。

「エストガード殿」

 フェリナは俺の姿を見ると、微笑んだ。

「調子はどうだ?」

「回復しています。もう少しで退院できるでしょう」

 彼女の顔色は前回よりも良くなっていた。窓から差し込む光が、彼女の赤褐色の髪を輝かせている。

「ラドルフについて、報告があります」

 フェリナは周囲を確認し、声を落とした。

「私の情報網によれば、彼は確かにサンクライフ平原に目を向けています。しかし、それは表向きの動きに過ぎないかもしれません」

「どういうことだ?」

「彼はまだ終わっていない」

 フェリナの目に緊張の色が宿った。

「ギアラ砦での敗北後、彼は兵を再編成しつつあります。しかし、通常の再編成ではなく、何か特別な部隊を編成しているようなのです」

「特別な部隊?」

「詳細はわかりませんが、帝国内から特殊な技能を持つ者たちを集めているとの情報があります。中には禁忌の術を使う者も」

 その言葉に、俺は眉をひそめた。この世界には魔術と呼ばれる力があるが、その中でも危険なものは禁忌とされ、使用が制限されている。ラドルフ自身の「赤い目」も、そうした禁忌の力の結果だと言われていた。

「彼は次の一手として、何を考えているのだろう」

「わかりません。ただ、彼が諦めていないことだけは確かです」

 フェリナの声には警告と共に、個人的な感情も混じっていた。ラドルフに対する復讐心。父を陥れた男への憎しみ。

 彼女の目に宿る憎しみと悲しみは、単なる国家間の争いを超えた個人的な感情だった。彼女の父を陥れ、家族を奪ったラドルフへの復讐心が、彼女を動かす原動力なのだ。

「ありがとう、フェリナ。情報は大いに役立つ」

 俺は立ち上がり、窓の外を見た。王都の喧騒の向こうに、戦場が待っている。そしてそこには、赤い目を持つ男の姿が。

「エストガード殿」

 フェリナが呼びかけた。

「あなたは前線残留か、軍中枢か、どちらを選ぶのですか?」

 セリシアと同じ質問だった。

「前線だ」

 今度は迷いなく答えた。フェリナは安堵したように微笑んだ。

「そうですか。それなら、私も早く回復して、あなたの下で働きたいです」

「待っているよ」

 フェリナとの会話を終え、俺は病院を後にした。王都の通りを歩きながら、二人の女性の言葉を反芻する。セリシアもフェリナも、俺が前線を選ぶことを望んでいた。それは単なる軍事的判断を超えた感情によるものかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていると、アルヴェン将軍と出くわした。彼も王立病院からの帰り道だったようだ。

「エストガード、ちょうどよかった」

 将軍は満足げな表情で俺に近づいてきた。

「少し話さないか。この近くに静かな庭園がある」

 俺は将軍に従い、王宮に隣接する小さな庭園へと向かった。そこは美しく手入れされた花々と彫像に囲まれた静かな場所で、王都の喧騒から離れた安らぎがあった。

「フェリナの様子はどうだった?」

「回復しています。彼女の強さには感心します」

「そうか、それは良かった」

 将軍は石のベンチに腰掛け、俺に座るよう促した。

「エストガード、一つ聞きたいことがある」

「何でしょう?」

「あなたは前線残留と軍中枢、どちらを選ぶつもりだ?」

 今日三度目の同じ質問に、俺は苦笑した。

「みんな同じことを聞いてきますね」

「重要な選択だからな」

 将軍も微笑んだ。

「前線です」

 俺の即答に、将軍は満足げに頷いた。

「そうか。私もそう望んでいた。あなたの才能は、実戦で最も活きる」

 将軍は少し表情を引き締めた。

「実は、サンクライフ平原の件は、単なる防衛任務ではない」

「どういうことですか?」

「我々の反攻の第一歩となる作戦だ。長らく守勢に立たされてきた王国軍だが、ギアラ砦の勝利を契機に、攻勢に転じる計画を立てている」

 その言葉に、俺は身を乗り出した。

「攻勢ですか」

「ああ。サンクライフを確保した後、北方の失地奪回を目指す。そして最終的には、帝国の主要拠点を攻略する計画だ」

 それは大胆な作戦だった。これまでの王国軍は、帝国の侵攻を食い止めることに精一杯だった。それが今や、反撃に転じようとしている。

「もちろん、容易ではない。ラドルフという強敵がいる限り、勝利は保証されない」

 将軍の言葉には現実的な厳しさがあった。

「しかし、ギアラ砦での勝利が示したように、彼も無敵ではない。あなたの戦術があれば、勝機はある」

 俺は黙って頷いた。確かにラドルフは強敵だが、もはや恐れるだけの存在ではなくなっていた。戦い方を知り、彼の弱点を探り当てれば、勝利は可能だ。

「あなたは"戦いの先"に何を見るのか」

 突然、将軍が問いかけた。

「戦いの先?」

「そう。勝利の後、あなたは何を求める?  名声か、富か、それとも力か」

 俺は考え込んだ。前世では麻雀を打つのは単純に勝ちたいからだった。勝利そのものが目的だった。だが、この世界での戦いは違う。人々の命がかかっている。

「正直、わかりません」

 素直に答えた。

「今の私にとって大事なのは、目の前の戦いに勝つこと。ラドルフを打ち破り、王国を守ることです」

 将軍は意外そうな表情をしたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。

「正直な答えだ。野心家ではないのだな」

「ええ、ただの戦術家です」

 将軍は立ち上がり、庭園の花々を見渡した。

「明後日の作戦会議で、サンクライフでの計画を詳細に説明する。それまでに、あなたの意見も聞かせてほしい」

「承知しました」

 将軍との会話を終え、俺は自室に戻る途中、再びセリシアと出会った。彼女は何か急ぎの用事があるようだった。

「エストガード、将軍とお会いしたのですか?」

「ああ、サンクライフの作戦について話した」

「そうですか」

 セリシアは少し迷うような表情をした後、決意を固めたように言った。

「一つだけ伝えておきたいことがあります」

「なんだ?」

「あなたは『戦いの先』に何を見るのか、と将軍に聞かれましたか?」

 俺は驚いた。セリシアは将軍との会話を知っていたのだろうか。

「ああ、聞かれた」

「それは将軍が新しい参謀に必ず尋ねる質問なんです。彼はその答えで、その人物の本質を見極めるのです」

 セリシアの表情には真剣さがあった。

「あなたはどう答えたのですか?」

「わからないと言った。今の私にとって大事なのは、目の前の戦いに勝つことだと」

 その答えに、セリシアは安堵したように微笑んだ。

「素直な答えですね。でも、そんなあなたでいてほしいです」

 彼女の言葉には温かみがあった。

「急いで行かなければなりません。後でまた」

 セリシアは足早に去っていった。彼女の背中を見送りながら、俺は今日の出来事を整理していた。

 セリシア、フェリナ、将軍——彼らはそれぞれの思いで俺を見ている。責任の重さを感じながらも、どこか心強さも感じた。

 自室に戻り、俺はタロカの牌を改めて並べ直した。サンクライフ平原の地形と予想される敵の動きを、牌の配置に反映させる。

「……でも、お前らがそう聞いてくれるのは、嬉しい」

 小さく呟きながら、俺は牌を眺め続けた。この世界に来てから初めて、深い繋がりを感じる人々ができたことに、静かな喜びを感じていた。