ギアラ砦の戦いから二週間が経ち、王都メイドナルムに凱旋した俺たちを、熱狂的な歓迎が待っていた。

 街道には民衆が溢れ、兵士たちに花束を投げかける。「英雄!」「救国の将!」といった歓声が飛び交う中、一行は王城へと向かっていた。

「思っていたより大掛かりな歓迎だな」

 俺は馬車の中でセリシアに呟いた。彼女は笑みを浮かべていたが、その目は冷静な観察を怠らない。

「あなたの功績は、想像以上に広まったようね。『タロカの戦術家』『神の読みを持つ少年』——あらゆる噂が飛び交っているわ」

 馬車の窓からは、俺の名を叫ぶ市民たちの姿が見える。中には「戦術の神子」と書かれた旗を掲げる者もいた。

「戦術の神子、か……大げさな」

 俺はため息をついた。確かにギアラ砦での勝利は大きな成果だった。帝国軍の西進を食い止め、ラドルフの無敗神話に傷をつけた初めての戦いだ。だが、こうして神格化されることには違和感があった。

「王国民の希望が必要なのよ」

 セリシアは静かに言った。

「長く続く戦争で疲弊していた民衆に、勝利の象徴が必要だった。あなたは、その役割を与えられたのね」

 俺は無言で頷いた。前世の記憶では、こんな注目を集めたことはなかった。麻雀の腕は良かったが、一般人の範疇を出ることはなかった。それがこの世界では、多くの人々の視線を集め、時に崇拝の対象にさえなっている。

「あなたが歓声に照れているとは珍しいわね」

 セリシアは微笑んだ。

「俺はただの戦術家だ。持ち上げられるほどのことはしていない」

「謙虚ね。でも、ギアラ砦での采配は本当に見事だった。あなたの『見えない一手』がなければ、勝利はなかったわ」

 砦での戦いを思い出す。あの死闘の中で、多くの兵士が命を落とした。勝利を収めたとはいえ、代償は小さくなかった。そして、重傷を負ったフェリナのことも頭から離れない。

「フェリナの容体は?」

 俺の問いに、セリシアは表情を緩めた。

「良くなっているわ。今朝の報告では、ようやく意識が戻ったとのこと。あなたのことを尋ねていたそうよ」

「そうか……」

 安堵の気持ちが広がる。フェリナは南側の突撃隊に撤退の合図を送るため、自らを犠牲にして東の塔で信号を上げた。多くの矢を受け、一時は生命の危機さえあったという。

「彼女の勇気がなければ、もっと多くの犠牲が出ていただろう」

「ええ。彼女は真の英雄よ」

 セリシアは同意した。

 馬車は王城の大門に到着した。そこには、アルヴェン将軍をはじめとする高官たちが出迎えに立っていた。

「エストガード、セリシア」

 将軍は満足げな笑顔で二人を迎えた。

「見事な戦いだった。王も大変喜んでおられる」

「ありがとうございます、将軍」

 俺は敬礼した。将軍の表情には誇らしさが滲んでいた。彼にとって、俺の成功は自らの慧眼の証明でもあるのだろう。

「さあ、王はお待ちだ。謁見の準備をせよ」

 ***

 王宮の大広間は、華やかな貴族たちで溢れていた。装飾された柱の間に立ち並ぶ彼らは、俺とセリシアが入場すると一斉に視線を向けてきた。

 賞賛の目もあれば、妬みや警戒の色を隠さない者もいる。権力の場らしい複雑な空気だった。

 広間の奥には王が座していた。フェルトリア王国第十七代国王、ザンクト・フェルトリア。四十代半ばの穏やかな表情の男性だが、その目には鋭い知性が宿っていた。

「エストガード補佐官、セリシア少佐」

 王は二人を見つめ、微笑んだ。

「ギアラ砦での勝利、見事であった。王国の名において、深く感謝する」

 俺とセリシアは深く一礼した。

「陛下のご信任に応えられたことを、光栄に存じます」

 俺の言葉に、王は満足げに頷いた。

「エストガード、汝の戦術眼は神の恵みよ。我が軍の宝となろう」

 王は立ち上がり、近づいてきた。その手には金の勲章が輝いていた。

「ここに、王国最高の勲章、『黄金獅子勲章』を授ける」

 俺の胸に勲章が付けられると、広間に拍手が広がった。セリシアにも高位の勲章が授与される。

 儀式の後、宮廷での祝宴が開かれた。貴族たちが次々と俺たちに近づき、祝福と賛辞を告げる。その多くは表面的なものだろうが、中には真摯な敬意を示す者もいた。

「エストガード殿」

 年配の貴族が声をかけてきた。

「伯爵令嬢の婿として、我が家を考えてみてはどうだろう?」

 突然の申し出に、俺は言葉に詰まった。だが、これは最初の話ではなかった。祝宴の間に、すでに数人の貴族から同様の打診があった。

「恐縮ですが、まだそのような話は……」

 丁寧に断ると、貴族は少し残念そうにしながらも引き下がった。

「人気者ね」

 セリシアが横から現れ、小さく笑った。

「困ったものだ」

「でも、あなたの立場を考えれば当然よ。若くして功績を挙げた貴族の養子——政略結婚の絶好の対象ね」

 彼女の皮肉めいた口調に、俺は苦笑した。

「俺はただ、戦いに勝ちたいだけなんだがな」

「本当にそれだけ?」

 セリシアの問いかけには、以前のような鋭さがなかった。彼女自身も俺の変化を感じているのだろう。

「前は、たしかにそうだった。ただ勝ちたかった。でも今は……」

 俺は言葉を選びながら続けた。

「守るべきものが増えた気がする。王国の人々、兵士たち、そして……」

 言いかけた言葉を飲み込む。セリシアは微かに頬を赤らめたが、すぐに表情を引き締めた。

「異端の策だけど、勝ち筋だった」

 彼女は静かに言った。砦での戦いを評して。

「ありがとう」

 祝宴の喧騒の中、二人は静かな会話を交わしていた。そこへ、アルヴェン将軍が近づいてきた。

「エストガード、セリシア。楽しんでいるか?」

「はい、将軍」

「よい知らせがある」

 将軍は声を落とした。

「フェリナ・エストレアの容体が大幅に改善した。明日にも会話ができるようになるだろう」

 俺の顔に安堵の表情が広がる。

「それは本当に良かった」

「彼女の勇気は特別な表彰に値する。王にも報告しておいた」

 将軍の言葉には誠実さがあった。彼は功績を正当に評価する人物だ。

「フェリナが回復したら、また我々の作戦会議に加わってほしい」

「そのことだが……」

 将軍の表情が変わった。

「王から新たな辞令が下った。お前には特別な任務が与えられる」

「特別な任務?」

「ギアラ砦の北、サンクライフ平原を知っているか?」

「ええ、重要な交易路ですね」

「その通り。最近、その地域に帝国軍の動きがある。おそらくラドルフの次の標的だ」

 将軍の眼差しが真剣になる。

「お前には、サンクライフの防衛を任せたい。今回のような罠が仕掛けられる前に、先手を打つんだ」

 新たな任務——それは再びラドルフと対峙することを意味する。

「承知しました、将軍」

「セリシアも一緒だ。フェリナは回復次第、合流するだろう」

 将軍は二人の肩に手を置いた。

「王国は君たちに期待している。だが、無理はするな。特にお前、エストガード。『戦術の神子』などと持ち上げられているが、まだ若い。完璧である必要はない」

 その言葉には父親のような温かさがあった。

「ありがとうございます」

 祝宴は深夜まで続き、俺たちは多くの貴族や将校と言葉を交わした。その多くは表面的な社交だったが、中には本物の同志も見つかったようだ。

 ***

 翌日、宮廷での公務を終えた俺は、フェリナの療養する王立病院を訪れた。

 彼女は窓際のベッドに横たわっていた。顔色は悪かったが、目には生気が戻りつつあった。

「エストガード殿……」

 俺の姿を見ると、フェリナは微笑んだ。

「無茶をしたな」

「必要なことをしただけです」

 彼女の答えは簡潔だった。

「あなたのおかげで、多くの命が救われました」

「あなたの戦術があってこそです」

 フェリナは少し体を起こそうとして、痛みに顔をしかめた。

「無理するな。まだ回復途中だ」

「大丈夫です。もうすぐ退院できると医師が言っていました」

 彼女の強さに、俺は感心した。

「命を預けてよかった」

 フェリナはそう言って微笑んだ。その言葉には深い信頼が込められていた。

「次の任務はサンクライフだ。回復したら、また力を貸してほしい」

「もちろんです。ラドルフとの戦いは、まだ始まったばかりですから」

 フェリナの眼差しには強い決意が宿っていた。彼女にとって、ラドルフとの戦いは単なる公務ではなく、個人的な復讐でもある。

 病室を後にする際、フェリナはもう一言、付け加えた。

「エストガード殿……あなたは確かに、『戦術の神子』かもしれませんね」

 その言葉には皮肉ではなく、純粋な認識があった。

 ***

 夕暮れ時、王城の塔の上で、俺はアルヴェン将軍と二人きりで言葉を交わしていた。

「人々はお前を『戦術の神子』と呼んでいる」

 将軍は遠くを見つめながら言った。

「大げさな話です」

「そうかもしれん。だが、時に国にはそういった象徴が必要なのだ」

 将軍の表情は真剣だった。

「戦争は長く続いている。人々は疲弊し、希望を失いかけていた。お前の勝利は、単なる一戦の勝利以上の意味を持つのだよ」

 俺は黙って城下に広がる街並みを見つめた。灯りが一つずつ灯り始め、夕闇に浮かび上がる家々。そこに住む人々の暮らしを守ることが、自分の戦う理由なのだと改めて感じた。

「サンクライフでの任務だが」

 将軍が話題を変えた。

「ラドルフも手強い相手だ。彼は今回の敗北から学んでいるだろう。次はより巧妙な策を仕掛けてくるはずだ」

「わかっています」

「しかし、お前ならやれる」

 将軍の言葉には確信があった。

「報告書を見たが、お前のギアラ砦での戦術は見事だった。タロカの戦術を実戦に応用するという発想は、私も思いつかなかった」

「タロカと戦場、どちらも『流れ』を読むことが大切なんです」

 俺は静かに答えた。

「将軍、帝国軍の他の動きは?」

「南方でも小競り合いが続いている。しかし、主力はやはり西方だ。ラドルフがいる以上、そこが最も危険な前線となる」

 将軍は少し言葉を切り、続けた。

「それと……王国内の状況も注視している」

「内部の問題ですか?」

「ああ。前にも話したが、内通者の疑いがある。情報漏洩の経路を特定できていない」

 俺はバイアス伯爵のことを思い出した。彼とラドルフに繋がりがあるという噂。それが真実なら、王国内にも敵がいることになる。

「気をつけます」

「よい。では、明日からの準備を始めるといい。三日後には出発だ」

 将軍が立ち去った後、俺はしばらく塔の上に残った。夜風が頬を撫で、遠くの山々が夕日に染まっていく。

 執務室に戻ると、俺はタロカ牌を取り出した。静かに牌を並べながら、次の戦いに思いを馳せる。

「卓はまだ、片付いてない」

 俺は小さく呟いた。ラドルフとの戦いは始まったばかりだ。彼は次にどんな手を打ってくるのか。そして俺は、どう応じるべきか。

 タロカの牌が机の上で静かに光を反射する。それは前世の麻雀牌のように、「流れ」を表す道具であり、戦場の縮図でもあった。

 西の空が赤く染まり、新たな戦いの予感が胸に広がっていく。戦術の神子と呼ばれる少年の挑戦は、まだ始まったばかりだった。

 勝利の興奮と安堵感が入り混じる中、俺は静かな充実感を覚えていた。タロカの対局での勝利とは比べものにならない重み。多くの命がかかった戦いに勝ったという事実が、俺の存在意義を確かなものにしてくれた。