激しい戦闘が続く中、正午を過ぎてもギアラ砦への攻撃は衰える気配がなかった。
「南区画の『影狩人』はほぼ制圧されました」
グレイスン大佐が監視塔に戻り、報告する。彼の鎧には血しぶきが飛び散り、息も荒い。
「被害は?」
「兵士十数名が死亡、二十名以上が負傷。だが、彼らの侵入経路は塞ぎました」
俺は頷き、再び戦場全体を見渡した。西側の攻撃は相変わらず激しく、北側の水路への圧力も続いている。だが、南側からの攻撃は若干弱まっていた。
「南からの攻撃が弱まっているのは、地下侵入作戦の失敗を受けて態勢を立て直しているのだろう」
大佐が分析する。
「いいえ」
俺は首を振った。
「彼らは撤退のための時間を稼いでいるんです」
「撤退?」
グレイスン大佐は驚いた表情を見せた。帝国軍がこの段階で撤退する理由など考えられない。
「ラドルフの真の狙いは別にある」
俺は砦の東側を示した。これまで全く攻撃のなかった方向だ。
「この三正面攻撃は、我々の注意をそらすための陽動なんです」
大佐は困惑の表情を浮かべたが、そのとき伝令兵が駆け上がってきた。
「エストガード殿! 東側の崖下に敵兵が集結しています!」
報告を聞いた大佐の表情が変わる。
「東側? あそこは絶壁だ。攻めようがない」
「どれくらいの規模だ?」
「約五百。『影狩人』と思われる精鋭部隊です」
俺は微笑んだ。
「やはりね」
「ど、どういうことだ?」
大佐が混乱した様子で尋ねる。
「ラドルフの本当の狙いは東側から。絶壁で攻められないと思われている場所こそ、彼の真の侵入経路だったんだ」
東側の崖は確かに急峻で、通常の軍隊が攻め上るのは不可能に近い。しかし、特殊訓練を受けた「影狩人」であれば可能かもしれない。そして、そこを突破されれば、砦の裏側から一気に制圧される。
これは麻雀でいう「カンチャン待ち」のような奇襲戦術だ。最も警戒されにくい場所から攻撃を仕掛ける。「1-3」の形で「2」を待つような、相手が想定しにくい侵入路を選ぶ戦法。
「なぜそれがわかった?」
「彼の『流れ』を読んだんです。三方からの攻撃は強すぎた。本当に砦を落とす気なら、もっと長期的な包囲戦を選ぶはず。これほど露骨な総攻撃には裏があると」
大佐はまだ困惑していたが、次の瞬間、俺は微笑んだ。
「そして——我々の『見えない一手』の時だ」
大佐の混乱はさらに深まる。
「『朔』作戦、実行!」
俺の命令に、伝令兵が砦のさまざまな場所へと走り出した。そして、静かに動き出す車輪の音。
砦の裏門が開き、そこから二十台ほどの荷車が出ていく。それぞれの荷車には兵士が五人ずつ、荷物に紛れて隠れていた。
「あれは?」
「三日前から準備していた伏兵です」
俺は説明した。
「ラドルフが東側から侵入を試みることは予測できた。だから、彼らが動き出す前に、崖裏に我々の伏兵を配置しておいたんです」
大佐は目を見開いた。
「三日前? あの時はまだラドルフが来るという確証さえなかったはずだが」
「確証はなくても、確率はわかります。タロカでも同じです。相手の『待ち』が見えなくても、最も可能性の高い一手に備えるんです」
東の崖下に集結していた帝国軍の「影狩人」たち。彼らが崖を登り始めたその瞬間、崖裏から伏兵が現れた。不意を突かれた「影狩人」たちは、混乱の中で次々と倒れていく。
「見事だ……」
大佐の声には驚嘆が混じっていた。
「だが、これだけで勝てるとは思えない。まだ敵の主力は健在だ」
「これはほんの始まりです」
俺は言った。
「セリシア少佐からの報告です!」
新たな伝令兵が到着した。
「右翼の準備が整いました。『朔』の第二段階に移行可能とのことです」
「伝えてくれ。セリシアは主力部隊を率いて、本作戦を実行せよと」
伝令兵が去り、俺は再び戦場全体を見渡した。
東側での伏兵の奇襲が始まると同時に、北と南からの帝国軍の攻撃が弱まった。それは当然だ。ラドルフの本命だった東側の作戦が頓挫し、計画が狂い始めている。
そして、俺の予想通り、ラドルフは主力を東側に振り向け始めた。西側の攻撃が緩み、一部の部隊が東へと移動し始める。
「今だ」
俺は静かに言った。
「大佐、北側と南側からの一斉突撃を命じてください」
「突撃? 守りを固めるべきではないのか?」
「いいえ、今こそ攻め時です。ラドルフは計画の変更を余儀なくされている。彼の『流れ』が乱れた今が、我々の好機なんです」
これは麻雀でいう「鳴き」の戦術だ。相手の打牌を見てから行動する守りの姿勢から、自ら積極的に牌を取りに行く攻めの姿勢への転換。相手の混乱した隙を突く好機。
大佐は一瞬迷ったが、やがて決断した。
「承知した。北と南からの突撃を命じる」
命令が下され、砦の北門と南門が開く。そこから兵士たちが雄叫びを上げて飛び出していった。予想外の反撃に、帝国軍の陣形が乱れる。
さらに西側でも、セリシアが率いる主力部隊が突撃の準備を整えていた。破られた城壁の隙間から、彼女は千名近い兵を率いて出撃する。
監視塔から見下ろすと、セリシアの姿が見えた。銀色の鎧に身を包み、剣を掲げて兵士たちを鼓舞する彼女の姿は、まるで伝説の戦乙女のようだった。
「セリシア……」
心の中で彼女の無事を祈りながら、俺は次の段階へと目を向けた。
東、北、南からの奇襲に、帝国軍の陣形は大きく崩れていた。そして西側からセリシアの部隊が突撃する。これで包囲網が完成する。
俺の視線は、赤い旗の下に立つラドルフに向けられた。彼はまだ動かず、ただ状況を見つめている。だが、その表情が変わったのが見えた気がした。初めて、彼の計算外の事態が発生したのだ。
突然、砦を揺るがす爆発音が聞こえた。南側の城壁の一部が爆薬で破壊されたのだ。
「南壁が!」
俺が叫んだ瞬間、フェリナが階段を駆け上がってきた。彼女の傷はまだ治っておらず、顔は蒼白だったが、強い眼差しで俺を見つめた。
「帝国軍の最後の賭けです。南側に隠していた爆薬部隊が動きました」
「南からの突撃隊は?」
「危険です。彼らは挟撃されかねない」
フェリナは苦しそうに息をつく。
「撤退の合図を出さなければ」
「だが、どうやって?」
南側の突撃隊は既に砦から離れており、通常の伝令では間に合わない。
「私が」
フェリナは決意に満ちた表情で言った。
「東の塔から魔導信号を上げられます。それを見れば突撃隊は理解するでしょう」
俺は彼女の傷を見て躊躇したが、フェリナは既に駆け出していた。
「フェリナ!」
呼び止める間もなく、彼女は階段を駆け下り、東の塔へと向かった。
戦況は刻々と変化していた。東側の伏兵は「影狩人」を撃退し、北からの突撃も成功を収めていた。西側ではセリシアの部隊が帝国軍の陣を突き破り、ラドルフの元へと迫りつつある。
だが南側には新たな危機が。爆薬で城壁を破ったラドルフの伏兵部隊が、突撃隊の背後に回り込もうとしていた。
そのとき、東の塔から青い光が上がった。フェリナの魔導信号だ。信号を見た南側の突撃隊は即座に方向転換し、砦へと戻り始めた。
彼らは間一髪で危機を脱した。だが、東の塔が帝国軍の弓兵の標的になる。無数の矢が塔に向けて放たれ、フェリナの姿が見えなくなった。
「フェリナ!」
俺の叫びも届かない。塔は矢の雨に晒され、やがて青い光が消えた。
だが、彼女の犠牲は無駄ではなかった。南側の突撃隊は無事に退却し、同時に西側のセリシアの部隊がラドルフの本陣に迫っていた。
包囲網が完成した。東、北、西からの我々の攻撃に、帝国軍は次々と押し返されていく。もはや撤退以外に選択肢はない状況だ。
俺は心の中で麻雀の「リーチ」を宣言した。あと一手で勝負が決まる。ラドルフという相手を相手に、ようやく勝利の形が見えてきた。
そして、赤い旗の下に立つラドルフが初めて動いた。彼は手を上げ、撤退の合図を出したのだ。
帝国軍は整然と後退を始めた。敗走ではなく、計画的な撤退だ。セリシアの部隊も、それ以上は追撃せず、砦からの安全圏内で陣を張った。
俺は監視塔から戦場全体を見渡していた。終わったのだ。ギアラ砦の戦いは、我々の勝利で幕を閉じた。
「エストガード殿!」
グレイスン大佐が喜びの表情で俺に近づいてきた。
「見事な戦いでした! あなたの戦術がなければ、砦は落ちていたでしょう」
「いいえ、みんなの力があってこそです」
俺は大佐の肩に手を置き、疲れた微笑みを浮かべた。
「セリシア少佐から報告が上がっています」
伝令兵が到着した。
「帝国軍は完全に撤退しました。しかし、追撃は危険と判断し、砦の周囲の安全確保に努めています」
「正しい判断だ」
俺は頷いた。ラドルフのことだ。撤退にも何か策があるかもしれない。
「フェリナは?」
伝令兵の表情が曇った。
「東の塔から救出されましたが、意識不明の重傷です。医師団が全力で治療に当たっています」
胸が締め付けられる思いだった。フェリナは命を賭して信号を送り、多くの命を救った。彼女の勇気がなければ、この勝利はなかったかもしれない。
夕暮れが近づき、戦場は静けさを取り戻しつつあった。遠くに帝国軍の撤退する姿が見える。その中央に、赤い旗と共に去っていくラドルフの姿。
彼は最後に振り返り、砦の方向——おそらく監視塔にいる俺を見つめているようだった。距離があり表情は見えないが、何かを伝えようとしているように感じた。
「あれは……」
風に乗って、かすかな声が聞こえてくる。ラドルフの言葉だろうか。
「偶然の勝利に過ぎぬ……次の卓が待っている……」
そんな言葉に聞こえた。彼はこの敗北も計算の内なのか。あるいは、次の戦いを示唆しているのか。
セリシアが監視塔に戻ってきた。彼女の鎧は血と泥で汚れ、顔には疲労の色が濃かったが、目は勝利の喜びに輝いていた。
「勝ったわね」
「ああ」
俺は静かに答えた。
「だが、これは始まりに過ぎない」
「ラドルフは何か言っていた?」
「偶然の勝利だと。次の卓が待っているとも」
セリシアの表情が引き締まる。
「次の戦いを示唆しているのね」
「ああ。だが今度も勝つ」
俺は夕日に染まる戦場を見渡しながら、静かに言った。
「これが俺の、タロカ流の『リーチ』だ」
タロカにおける『リーチ』とは、あと一手で勝利する宣言。今回の勝利は、ラドルフとの長い戦いの中での最初の一手に過ぎない。だが、重要な一手だ。
砦の中では勝利を祝う声が上がり始めていた。だが、フェリナの無事と、ラドルフの次なる動きを思えば、安堵するには早すぎる。
戦いは終わったが、戦争はまだ続いている。そして俺たちの真の戦いも、まだ始まったばかりなのだ。
麻雀の卓でいえば、ここは「東一局」が終わったところ。長い対局の道のりはまだ始まったばかりだ。