夜明け前、遠くから聞こえる太鼓の音で俺は目を覚ました。背中に感じる温もりはすでになく、セリシアはいなくなっていた。彼女は俺より先に起き、すでに持ち場についているのだろう。

 急いで装備を整え、俺は最上層の監視塔へと向かった。大勢の兵士たちが右往左往し、重臣兵の整列の声や、弓兵隊の励ましの声が飛び交う。

「エストガード殿!」

 塔に辿り着くと、グレイスン大佐と共にセリシアが立っていた。彼女は昨夜の気まずさをすっかり払拭し、冷静そのものの表情で俺を迎えた。

「状況は?」

「見てください」

 セリシアが指さす方向に目をやると、そこには壮絶な光景が広がっていた。

 砦を取り囲むように、無数の帝国軍が布陣していた。その数は四千を超えるだろう。松明を手にした兵士たちが、朝もやの中で黒い影絵のように見える。そして、中央に一つ、特に大きな赤い旗が見えた。

「ラドルフですね」

 グレイスン大佐が呟いた。その声には微かな震えが混じっていた。

「彼らの布陣が……通常と違う」

 セリシアが魔導記録石を操作しながら言った。

「三つの集団に分かれている。通常なら単一の主力部隊を形成するはずだが」

 確かに帝国軍は三つの集団に分かれていた。西側に最大の部隊、北と南にそれぞれ小規模な部隊。

「三正面作戦か」

 俺は直感的に理解した。

「同時に三方向から攻撃を仕掛けてくる。砦の守備力を分散させる狙いだ」

「しかし、それでは各部隊の戦力も分散される」

 大佐が疑問を投げかけた。

「ラドルフがそんな初歩的なミスを」

「彼にとっては初歩的ではありません」

 俺は砦の全方位を見渡した。

「分散しているように見えて、実は彼の手の内にある。各部隊は独立しているようで、実は連携している」

 グレイスン大佐は困惑した表情を浮かべたが、セリシアは理解を示した。

「彼の戦術は『支配』ね。一見すると個別の動きに見えて、実は全体が彼の意のままに動く」

「ああ。そして、我々もその『流れ』に巻き込まれようとしている」

 遠くから角笛の音が響き、帝国軍の動きが開始された。西側の主力部隊が動き出す。

「大佐、予定通りの配置を」

 俺は命令を出した。

「西側に主力を集中させつつ、北と南にも機動力のある部隊を配置。予備隊は中央に残し、状況に応じて展開できるようにしておく」

「承知した」

 グレイスン大佐は伝令兵に指示を出し、準備が整った防衛体制を発動させた。砦の中は一気に活気づき、兵士たちが持ち場へと急ぐ。

「セリシア、右翼を頼む」

「わかったわ」

 彼女は魔導記録石を持ち、右翼の指揮を執るべく階段を駆け下りていった。

「フェリナは?」

「昨晩から情報収集に出たままです」

 伝令兵が答えた。

「彼女のことは心配いらない。今は目の前の敵に集中しよう」

 俺は塔の上から帝国軍の動きを注視した。西側の主力部隊が前進を始め、重装歩兵が最前列で盾の壁を形成している。その背後には弓兵隊と、攻城兵器を引く部隊が続く。

 一方、北と南の部隊も動きはじめたが、その速度は西側よりも遅い。まるで様子見をしているかのようだ。

「来るぞ!」

 先頭の部隊が射程距離に入ると、砦からの最初の矢が放たれた。空に描かれた放物線は、敵の盾にほとんど阻まれたが、わずかに数人の兵士が倒れた。

 敵も応戦し、砦に向けて矢が飛んでくる。しかし堅固な壁にほとんど影響はない。

「こんな通常戦法では砦は落とせない」

 グレイスン大佐が安堵の表情を見せた。

「ラドルフにそれがわからないはずがない」

 俺は警戒を解かなかった。この攻撃には何か裏があるはずだ。タロカの卓で相手が明らかに損な手を打ってきたとき、それは罠の匂いがする。まるで麻雀で相手が明らかに筋の悪い牌を切ってきたときのように、警戒心が高まる。

 西側の攻撃が続く中、突然北側の部隊が急速に動き出した。それまでの緩慢な動きから一変し、全力で砦の北壁へと迫る。

「北側への変化球だ!」

 俺は即座に判断した。

「大佐、予備隊の半数を北側へ!」

 命令が飛び、兵士たちが北壁へと急ぐ。そのとき、南側からも同様の動きが。

「三正面同時攻撃……!」

 一瞬の間に状況が変わった。西側の攻撃はフェイントではなく、北と南からの攻撃と合わせた三正面同時攻撃の一環だったのだ。

「エストガード殿! 南側の壁が!」

 伝令兵が駆け上がってきた。

「南壁に登攀用の梯子がかけられています!」

 俺は即座に対応策を考えた。

「南側は軽装歩兵が多い。彼らは機動力に優れているが、持久力では我々に劣る。防戦に徹すれば、持ちこたえられる」

 伝令兵に南壁への指示を出し、次に北側の状況を確認した。なんと北側では水路の守備が手薄になってしまっている。

「北側の水路は!?」

「監視兵は配置済みですが、援軍はまだ……」

 これはまずい。敵の「影狩人」がそこを突破すれば、砦内部からの崩壊が始まる。

「残りの予備隊全てを北の水路へ! 急げ!」

 次々と命令を出す中、西側からの攻撃もいよいよ本格化してきた。移動式の投石機が前線に引き出され、巨大な岩が砦の西壁に向かって放たれる。

 轟音と共に、西壁の一部が崩れ落ちた。

「壁が破られた! 敵が侵入してくる!」

 西壁の担当将校の叫び声が聞こえる。状況が一気に悪化した。

 しかし、俺は冷静さを保っていた。この状況は予測していたものだった。タロカの牌を並べたとき、ラドルフの「三正面同時」という手が見えていた。

 これは麻雀でいえば『多面張』の状態だ。相手が多くの待ちを持ち、どこからでも和了できる危険な状況。対応を誤れば大きな放銃になりかねない。

「流動防衛を発動! パターンθ(シータ)だ!」

 この命令により、砦の防衛体制が動的に変化する。各壁の防衛隊は固定されず、状況に応じて柔軟に移動する体制に切り替わる。

 西壁が破られたポイントへと、内側から弓兵と重装兵が集結。侵入しようとする敵を封じ込める形になる。

「エストガード殿! 右翼からの報告です!」

 セリシアからの伝令が到着した。

「西側の壁は持ちこたえています。しかし、敵の第二波が準備中です」

「セリシアに伝えろ。右翼の兵力を再編成し、第二波に備えるよう」

 俺は次々と指示を出し続けた。現場からの情報を基に、状況を判断し、最適な指示を出す。まるでタロカの対局のように、複数の可能性を同時に思い描きながら。

「北側の水路は?」

「守りきっています! 予備隊が間に合いました!」

 一時は絶体絶命かと思われた攻撃も、なんとか踏みとどまっている。

 そのとき、突然の騒ぎが監視塔の下から聞こえてきた。

「フェリナ様が! フェリナ様が戻られました!」

 階段を駆け上がってくる兵士の声。その後ろには、血に染まった衣服を着たフェリナの姿が。

「フェリナ!」

 俺は駆け寄った。彼女は左腕に深い傷を負い、顔も埃と血で汚れていた。

「大丈夫か?」

「問題ありません」

 彼女は苦痛を押し殺すように言った。

「重要な情報を……左翼に異常があります」

「左翼? 南側のことか?」

「はい。帝国軍の動きが不自然です。彼らは表向き南壁を攻撃していますが、実は……」

 フェリナの声は震えていた。

「実は地下から侵入を試みています。砦の設計図を入手したようで、南区画の地下には古い排水路があると」

 その情報に俺は息を呑んだ。南側には明確な水路はないと報告されていたが、古い排水路であれば、マップにない可能性もある。

「いつ侵入してくる?」

「もうすでに……」

 フェリナの言葉が終わる前に、遠くから爆発音が響いた。南区画の建物が一つ、内側から崩れ落ちる。

「影狩人」が侵入を開始したのだ。

「大佐! 南区画へ急げ! 内部から攻撃されている!」

 グレイスン大佐は即座に命令を飛ばし、自らも南へと走り出した。

「フェリナ、よく戻ってきた。医者に診せるんだ」

「いいえ、まだ情報が……」

 彼女は懸命に言葉を紡ごうとするが、失血のため顔色が悪い。

「先に傷の手当てを。それからでも遅くない」

 俺は彼女を兵士に託し、再び戦況の把握に戻った。

 東の空が明るくなり始め、戦場全体が見渡せるようになってきた。そこで俺は初めて、帝国軍の全貌を目にした。

 三正面からの攻撃は続いていたが、彼らの動きには明確なパターンがあった。西側の主力攻撃、北側の水路への圧力、そして南側からの秘密侵入——全てが完璧に時間調整されていた。

 そして、中央の赤い旗の下に立つ一人の人物。それがラドルフに違いなかった。彼は動かず、ただ戦場を見下ろしている。まるで全てが計画通りに進んでいることを確信しているかのように。

「彼の布陣は完璧だ……」

 俺は呟いた。しかし、完璧に見える布陣にも必ず隙はある。タロカでも、盤面を支配しているように見える手でも、どこかに突破口は存在する。

 これは麻雀でいう『振り込み覚悟の攻め』のような状況だ。あえて危険を冒して強引に攻めることで、相手の予想外の状況を作り出す。だが、それは諸刃の剣。失敗すれば大きな損害を被る。

 俺はもう一度、戦場全体を見渡した。そして、ある「流れ」が見えてきた。

 南区画の侵入者を追い詰めれば、北側の水路への圧力が増す。そして西側の主力も、より強引な攻撃に出てくるだろう。それは予測できる動きだ。

 そしてその時こそ——「見えない一手」を打つべき時なのだ。

「エストガード殿、セリシア少佐からの伝言です!」

 伝令兵が駆け上がってきた。

「右翼の再編が完了し、西壁は再び安定したとのことです」

 良いタイミングだ。

「セリシアに伝えろ。『朔』の準備を整えるように」

 伝令兵は一瞬戸惑ったが、すぐに理解した様子で階段を駆け下りていった。

「朔」——それは俺とセリシアの間だけの暗号。西日の逆、すなわち東からの動きを意味する。ラドルフが予期していない方向からの一手。

 監視塔から全体を見渡しながら、俺は砦の各所へと指示を出し続けた。三正面からの攻撃を受け止めつつ、内部の「影狩人」を討伐する——守りながら、次の一手の準備を進める。

 ラドルフの赤い旗のもと、帝国軍は絶え間なく砦に襲いかかる。その布陣は完璧に見えた。だが、完璧に見える布陣こそ、最も盲点を突かれやすい。

 タロカの対局で学んだその教訓が、今、戦場で活かされようとしていた。