急ぎで集められた作戦会議は、夜遅くまで続いた。グレイスン大佐を含め、砦の主要将校と、我々がギアラ砦防衛のために練り上げた最終作戦を確認する場だ。
「西側の壁面は予想通り、敵の主要攻撃目標になる可能性が高い」
俺は石の模型で作られた砦の西側を指差した。
「この正面からの攻撃は、彼らの『表の動き』に過ぎない。真の狙いは、北側の水路を通じた内部侵入だろう」
将校たちは険しい表情で頷いた。特殊部隊「影狩人」の存在は、その危険性をいっそう高めていた。
「北側水路への警備配置を見直しました」
セリシアが資料を広げながら説明を続ける。彼女の声には疲労が混じっていたが、分析は冷静で的確だった。
「兵力の三割を北側に集中させ、水路出口には特に信頼できる兵で固めます。交代のシフトも、前回の案から変更しています」
俺はセリシアの顔を見た。彼女の表情には緊張の色が濃く、額には軽い汗が浮かんでいる。一瞬、彼女の手が小刻みに震えるのが見えた気がした。
「……セリシア」
声をかけると、彼女は一瞬だけこちらを向き、微かな微笑みを返した。その表情は疲労と緊張に満ちていたが、それでも決意を失ってはいなかった。
「では、ここまでの計画で実行に移します」
グレイスン大佐が立ち上がり、将校たちに指示を出した。
「全員、持ち場に戻り、明日に備えよ。夜明け前には彼らの動きが始まるだろう」
将校たちが敬礼して散っていく。最後に残ったのは俺とセリシア、そしてグレイスン大佐だけだった。
「エストガード殿、セリシア少佐」
大佐は疲れた顔に浮かべた微かな笑みで言った。
「少しでも休んでおくといい。明日は長い一日になるだろうから」
「ありがとうございます」
俺とセリシアは部屋を出た。廊下は松明の光が揺らめき、兵士たちの足音が絶え間なく響いていた。明日の戦いに向けた準備は夜通し続くだろう。
「一時間前に確認した際、フェリナは最後の情報収集に出ていた」
セリシアが歩きながら言った。
「彼女なら大丈夫だ。誰よりもラドルフを知っている」
「そうね」
セリシアの歩みが少し遅くなり、壁に寄りかかった。
「大丈夫か?」
「ええ……少し、疲れているだけ」
彼女の顔色は良くなかった。ここ数日、ほとんど休んでいないのだろう。俺も似たようなものだが、彼女の方が情報分析と記録で神経を使っていた。
「休もう。寝る場所はあるのか?」
「大佐が部屋を用意していたはず。この先の……」
セリシアの言葉は、突然響いた警笛で中断された。
「なんだ?」
俺たちは急いで外に出た。城壁の上から、兵士たちが何かを指差している。
「偵察兵が戻ってきたようだ」
門が開き、一人の兵士が息を切らして駆け込んでくる。彼はすぐにグレイスン大佐のもとへと案内された。
「何かあったのか?」
俺の問いに、門を守る兵士が答えた。
「帝国軍の前哨が予想より早く動いているそうです。夜陰に紛れて接近しているとの報告が」
セリシアと顔を見合わせる。予定より早い動きだ。おそらく夜間の奇襲を狙っているのだろう。
「我々の準備は?」
「ほぼ整っています。あとは各部署への最終確認を……」
その時、グレイスン大佐が現れた。
「報告によれば、帝国軍はまだ主力を動かしていない。これは偵察行動か、小規模な撹乱作戦の可能性が高い」
「それでも油断はできませんね」
セリシアが言った。
「ええ。警戒を強化するが、全軍総出動にはまだ早い。エストガード殿、セリシア少佐、予定通り休息を取ってください。明日こそが正念場になるでしょう」
大佐は疲れた微笑みを浮かべた。
「あなた方の知恵が、この砦を救うのですから」
***
「こちらです」
兵士は俺たちを小さな部屋へと案内した。砦の中層階にある将校用の部屋だが、戦時中のため簡素なものだった。
「申し訳ありませんが、部屋の数に限りがあり……」
兵士は少し気まずそうに言った。確かに部屋は狭く、寝床も一つしかない。
「大丈夫だ、問題ない」
俺は兵士に会釈し、セリシアと二人きりになった。部屋の中央には一つの簡易ベッド。壁には松明が一本だけ灯され、部屋に淡い光を投げかけていた。
「……」
「……」
二人とも言葉が出ない。戦術の話をするのなら自然なのに、こうして二人きりになると急に気まずさが押し寄せてきた。
「私は床で構わないから……」
俺が言いかけると、セリシアが首を振った。
「馬鹿なことを言わないで。明日の戦いのことを考えなさい。きちんと休まなければ」
彼女は実務的な口調で言ったが、僅かに顔を背けるのが見えた。
「それにこの床は冷たすぎる。体調を崩せば、戦術の意味がなくなるわ」
「では、交代で使うか?」
「時間の無駄よ。二人で使うしかないでしょう」
セリシアはそう言うと、武装を解き始めた。剣帯を外し、肩当てを脱ぐ。俺も同じように、最低限の装備だけを残して身軽になった。
ベッドは決して広くはない。二人が眠るには狭すぎる。
「背中合わせで寝ましょう」
セリシアが現実的な提案をした。彼女はベッドの片側に腰掛け、靴を脱いだ。
「ああ、そうだな」
俺もベッドの反対側から入り、背中合わせの体勢になった。互いの背中が触れ、体温を感じる。
「……明日は本番だな」
沈黙を破るために、俺は言った。
「ええ。ラドルフとの再会ね」
「前回とは違う。今度は俺たちが勝つ」
セリシアからは小さな笑みが漏れた。
「自信があるのね」
「ラドルフは流れを作る。だが俺は流れを変える」
松明の光が揺れ、壁に二人の影が踊る。セリシアが少し体を動かし、より楽な姿勢を探る。
「少し寝てみよう」
互いに背を向けたまま、横になる。狭いベッドの上で、できるだけ距離を取ろうとしているのがわかった。しかし、どうしても体が触れてしまう。彼女の体は想像以上に温かく、柔らかだった。
セリシアの背中に触れると、彼女の体が少し震えた。普段の冷静な彼女からは想像できない脆さが垣間見える。「あなたは大丈夫?」と聞きたくなったが、言葉にはせず、ただ背中合わせに横たわった。
時が過ぎていく。外からは時折、巡回の兵士の足音が聞こえる。松明の光が弱まり、部屋はより暗くなっていった。
呼吸が整い始め、セリシアが眠りについたのかもしれない。俺もまた、疲労に身を任せようとしていた。
ふと体勢を変えようと動いた瞬間、俺の手が何かに触れた。柔らかく、絹のような感触——セリシアの髪だった。
「……」
すぐに手を引っ込めようとしたが、彼女の声が静かに響いた。
「……戦場で髪を触るなんて、無神経ね」
低い声で呟かれた言葉には、意外にも怒りは感じられなかった。背を向けたままのセリシアの耳が、かすかに赤くなっているのが見えた気がした。
「すまない」
俺は小さく謝った。
「気にしないで」
彼女の声は普段より柔らかかった。沈黙が再び部屋を満たす。
この世界に来て初めて、誰かとこんなに近い距離で過ごしている。前世では考えられなかった状況だ。彼女の呼吸の音、髪の香り——すべてが新鮮で、戦の前夜とは思えないほど心が穏やかになっていく。
(こういうの、タロカにはなかったな……)
俺は心の中で苦笑した。どんなにタロカで経験を積んでも、こういう状況の「読み」は通用しない。戦術では冷静沈着なセリシアが、こんな場面では少女のように頬を赤らめる。その意外性が妙に心に残った。
「エストガード」
暫くして、彼女が静かに呼んだ。
「なに?」
「……明日、私たちは勝つわ」
その言葉には強い確信が込められていた。
「ああ。必ず」
俺は答えた。背中越しに彼女の体温を感じながら、明日の戦いへの決意を新たにする。
窓の外では、星々が静かに瞬いていた。まるで、明日の戦いの行方を見守るかのように。