演習から一週間が過ぎ、フェリナからラドルフについての話を聞いてから数日。北方軍本部には新たな緊張感が漂っていた。南部要塞の陥落以降、帝国軍の動きが活発化し、各地で小競り合いが続いていたからだ。

 俺は執務室で新たな戦術資料を読み込んでいた。フェリナから得たラドルフの情報を基に、彼の戦術パターンを分析する試みだ。禁断の魔術で得た「赤い目」。それが単なる代償なのか、何らかの能力を持つのかは不明だが、彼の戦術の背後には常人離れした何かがあるのは確かだった。

「エストガード殿」

 ノックの音とともに、セリシアが部屋に入ってきた。彼女の表情には緊張感がある。

「将軍があなたを呼んでいます。執務室へすぐに」

「何かあったのか?」

「新たな任命があるようです」

 俺は資料をまとめ、アルヴェン将軍の執務室へと向かった。扉を開けると、そこには将軍だけでなく、参謀長も待っていた。二人とも厳しい表情をしている。

「エストガード、入れ」

 俺は部屋に入り、敬礼した。

「ご命令を」

 将軍は窓の外を見つめたまま、静かに言った。

「西方国境のギアラ砦を知っているか?」

「はい。山岳地帯の要衝で、帝国領への重要な関所です」

「そこへ行ってもらう」

 将軍はようやく俺に向き直った。

「情報によれば、ラドルフ率いる部隊が西方へ移動している。彼らの目標はギアラ砦と思われる」

「ラドルフが……」

 俺の胸に緊張が走る。前回の敗北以来、再戦の機会を待っていたが、こんなに早く来るとは思わなかった。

「砦の防衛を任せる。セリシアも参謀として同行する」

「しかし将軍、私はまだ……」

「君は準備ができている」将軍は断固として言った。「演習での勝利、そして最近のラドルフ研究。君なら彼に対抗できる」

 参謀長が地図を広げた。ギアラ砦の位置と周辺地形、そして予想される帝国軍の進軍ルートが示されている。

「現地の防衛部隊に加え、三個中隊を増援として派遣する。物資は十分に用意されているが、援軍は期待できない」

 つまり、孤立無援の戦いになる可能性が高い。

「エストガード」将軍の声が柔らかくなった。「これは大きな責任だ。だが、君ならできると信じている」

「ありがとうございます、将軍」

「準備期間は三日。明後日の夜明けに出発だ」

 会議を終え、廊下に出ると、セリシアが待っていた。

「聞いたわ。ギアラ砦への任命」

「ああ。ラドルフとの再戦だ」

「準備は?」

「これから始める。フェリナの協力も必要だ」

 セリシアは少し考え込んだ後、静かに言った。

「エストガード、一つ聞いていいかしら」

「なんだ?」

「あなたは何のために戦うの?」

 その質問は予想外だった。

「何のため?」

「そう。国のため?  将軍のため?  それとも……」

 俺は言葉に詰まった。これまで「戦う意味」を深く考えたことはなかった。前世では麻雀を打つのは単純に「強くなりたい」「勝ちたい」という欲求からだった。この世界でも、最初は単に「居場所を得るため」に戦っていた。

「わからない」

 正直に答えた。セリシアは意外そうな表情をした。

「それでラドルフと戦うの?」

「必要だから……かな」

 セリシアは小さく溜息をついた。

「そんな曖昧な動機では、彼には勝てないわ」

 彼女は厳しくも静かな口調で言った。

「ラドルフは明確な野望を持っている。彼は『支配』のために戦う。それに対抗するには、同等の強さを持った動機が必要よ」

 彼女の言葉は心に刺さった。確かに俺は「勝ちたい」という思いはあるが、それ以上の深い意味を見出せていない。

「考えておく」

 その日の夕方、俺は将軍に呼ばれた。今度は公式の会議ではなく、個人的な会話のようだった。

「エストガード、少し話そう」

 将軍は自室のバルコニーに俺を招き入れた。そこからは北方軍本部全体と、その先に広がる山々が見える。

「美しい景色だ」

 将軍は静かに言った。

「この国を守るため、私は長年戦ってきた。時に勝ち、時に敗れながら」

「将軍……」

「君は若い。しかし、既に多くの戦いを経験した。そろそろ自問すべき時かもしれないな」

「自問?」

「ああ。戦いの意味だ」

 セリシアと同じ問いかけ。俺は正直に答えた。

「わかりません。強くなりたい、勝ちたいという思いはありますが、それ以上の……」

「それでは足りない」

 将軍は厳しく言った。

「ラドルフのような男は、単なる『勝ちたい』という思いでは倒せない。彼には明確な野望がある」

「では、どうすれば……」

「自分自身に問いかけるんだ」将軍は俺を見つめた。「君は何のために、誰のために剣を取るのか」

 彼の目には、長年の戦いで培われた重みがあった。それは単なる軍人としての重みではなく、一人の人間として、何かを守り抜いてきた者の威厳だった。

「考えておきます」

 バルコニーを後にする前、将軍は最後に一言だけ告げた。

「明日、出発前にもう一度会おう」

 ***

 翌日、出発の準備に追われる中、俺は「戦う意味」について考え続けていた。セリシアの問いかけ、将軍の言葉——それらが頭の中で反響する。

「エストガード殿」

 フェリナが資料を持って執務室に現れた。

「ラドルフについての最新情報です。彼の部隊は確かに西へ向かっています。ギアラ砦が目標である可能性が高いです」

「ありがとう」

 彼女は俺の様子に気づいたようだ。

「何か悩みがあるのですか?」

「ああ……戦う意味について考えていたんだ」

「戦う意味?」

「そう。私は何のために戦っているのか。単に勝つため?  それとも……」

 フェリナは少し考え込んだ後、静かに言った。

「私には明確です。ラドルフへの復讐と、父の名誉回復のために」

「個人的な理由だな」

「そうです。でも、それが私の力になっている」

 彼女の目には強い決意が宿っていた。

「エストガード殿は、前世で麻雀を打っていたと聞きました。何のために打っていたのですか?」

 その質問は核心を突いていた。

「最初は単純に勝ちたかったから。でも、後には……」

 そこで俺は立ち止まった。確かに最初の頃は勝利へのこだわりが強かった。しかし、時が経つにつれ、それは変化していった。

「後には?」

「麻雀そのものが好きだったんだ。勝ち負けよりも、『流れ』の中にいることが」

 フェリナは静かに頷いた。

「それも一つの答えですね」

「でも、それでは足りないんだ。ラドルフと戦うには」

「そうかもしれません。でも、あなたには何かがあるはずです」

 彼女はそう言い残して部屋を出ていった。

 ***

 夕方、俺は将軍との最後の会談のために執務室を訪れた。セリシアも同席している。

「明日の出発に向けて、最終確認だ」

 将軍は簡潔に任務の詳細を説明した。ギアラ砦への道のり、現地の状況、予想される敵の動き——すべて俺たちが既に知っていることだ。

 話が一通り終わると、将軍は静かに問いかけた。

「昨日の質問について、何か答えは見つかったか?」

「はい、将軍」

 俺は立ち上がり、窓の外を見た。北方軍本部の光景、訓練する兵士たち、彼らの家族が住む近隣の村々。

「私は……まだ自分を知らないのかもしれません」

 正直に答えた。

「だけど、わかったことがあります。この世界で出会った人々——将軍、セリシア、フェリナ、そして多くの兵士たち。彼らとの繋がりが、私の戦う理由になりつつあるということを」

 将軍とセリシアは黙って聞いていた。

「前世では、勝利だけを求めていました。この世界でも初めはそうでした。でも今は違う」

 振り返り、二人を見つめる。

「私はまだ、自分の『戦う意味』を完全には見つけられていない。でも、一つだけ確かなことがある」

「何だ?」

「私はもう一人じゃない」

 その言葉に、セリシアの表情が柔らかくなった。

「あなたはまだ自分を知らない。でも、もう一人じゃない」

 彼女はそう言って、小さく微笑んだ。将軍も満足げに頷いた。

「それで十分だ。時に、答えは戦いの中で見つかるものだ」

 会談を終え、俺は自室に戻った。出発の準備は既に整っている。あとは明日を待つだけだ。

 窓辺に座り、タロカの牌を静かに並べていく。一枚一枚の牌が、この世界での俺の歩みを象徴しているかのようだ。

「……俺はまだ、始まったばかりだから」

 そう独白しながら、俺は最後の牌を置いた。明日から始まる戦い、ラドルフとの再会——すべてが新たな旅路の一部に過ぎない。

 そして次の朝、将軍からの最後の指示が伝えられた。

「次の戦場は防衛線——相手は"赤眼の魔将"だ」

 俺はセリシアとフェリナと共に、ギアラ砦へと向かう準備を整えた。これは単なる任務ではなく、俺自身の試練でもある。

「何のために戦うのか」

 その問いへの完全な答えはまだ見つからないかもしれない。だが、一歩ずつ近づいている感覚があった。

 セリシアとフェリナ、二人とも俺が前線にいることを望んでいた。それは単なる軍事的判断ではなく、より個人的な感情によるものかもしれない。彼女たちとの絆が、いつの間にか深まっていたことに気づく。前世では経験できなかった、誰かと共に戦うという感覚。そこには孤独だった麻雀卓にはない温かさがあった。