「演習開始まであと一時間だ」

 バレン大尉が時計を確認しながら告げた。彼は今回の演習で俺の副官を務めることになった若手将校だ。保守派とは距離を置く中立的な立場で、公平な人選だと言えた。

「準備は整っているな?」

「はい、エストガード補佐官。兵士たちへの指示も完了しています」

 西の訓練場——北方軍本部から十キロほど離れた広大な演習場。ここで「参謀資質の再評価」が行われる。実弾は使わないが、それ以外は実戦さながらの条件下で行われる本格的な演習だ。

「彼らは何を見ているのだろうな」

 俺は小さく呟いた。演習場の高台には監視塔が設けられ、アルヴェン将軍を含む高官たちが戦況を見守る。彼らの判断が、今後の俺の立場を左右することになる。

 麻雀の対局でも、周りに観戦者がいると打ち方が変わることがある。相手だけでなく、見ている人も意識しなければならない。今回も同じだ——敵と戦いながら、審判にも見せなければならない。

「敵の構成は?」

「ローゼン少佐率いる赤軍。我々と同規模の三個中隊とその支援部隊です」

 バレン大尉は地図を広げ、説明を続けた。

「地形は丘陵と小規模な森林が点在する平原。中央には小川が流れています」

 俺は地図を見つめながら、自分の戦術を最終確認した。過去一週間、ローゼン少佐の戦術パターンを徹底的に分析し、対策を練ってきた。彼は伝統的軍学の専門家で、定石通りの堅実な戦術を好む。しかし、だからこそ予測可能でもある。

「我々は青軍として東側から進軍する。目標は赤軍の旗を奪取するか、彼らの『司令官』を『撃破』すること」

 演習の勝利条件はシンプルだ。旗の奪取か、相手司令官(今回はローゼン少佐)の撃破。撃破とは、演習用の特殊染料弾で命中させることを意味する。

「最後の確認をしよう」

 俺は兵士たちの前に立った。彼らは通常の部隊ではなく、演習のために特別に編成された混成部隊だ。ベテランもいれば新兵もいる。そして、彼らの多くは俺のことをよく知らなかった。

「ローゼン少佐は定石に忠実な指揮官だ。我々は彼の期待を裏切る戦術で挑む」

 兵士たちの表情には懐疑的なものもあれば、好奇心に満ちたものもあった。十五歳の少年が彼らを指揮するという状況に、まだ馴染めていないようだった。

「我々の戦術は『流れの変転』。まず、通常の前進で敵の注意を引き、次に右翼からの奇襲を仕掛ける。そして、それすらも囮とする」

 説明を続けながら、俺は兵士たちの反応を注意深く観察していた。彼らの目に宿る疑念、そして一部に見える期待。

「エストガード補佐官、質問があります」

 一人の中年の軍曹が手を挙げた。

「兵力の分散は危険ではありませんか?  定石では主力を集中させるべきとされています」

「その通りだ。だからこそローゼン少佐はそれを期待している。我々は彼の期待を裏切るのだ」

 軍曹は納得したとは言えない表情だったが、それ以上の質問はなかった。

「各隊の指揮官は、詳細な計画書を受け取っているはずだ。それに従って行動してほしい」

 兵士たちは敬礼し、それぞれの持ち場に散っていった。

「彼らは懐疑的ですね」

 バレン大尉が小声で言った。

「当然だろう。俺は敗北した参謀だからな」

「いいえ、それだけではありません。あなたの戦術が……異端だからです」

 彼の言葉には非難の色はなく、ただ事実を述べているだけだった。

「異端か……それも悪くないな」

 俺は微笑んだ。異端者——前世の麻雀でも、型破りな打ち方で周囲を驚かせることはあった。それが時に勝利をもたらした。

「しかし、彼らは命令に従うでしょう。それが兵士というものです」

 バレン大尉の言葉に頷き、俺は準備を続けた。

 ***

「演習開始!」

 合図の砲声が響き渡り、両軍の動きが始まった。監視塔からは白い旗が振られ、それが演習の公式開始を告げる。

 バレン大尉と共に小高い丘の上に立ち、俺は部隊の動きを見守った。計画通り、我々の青軍は一見すると堂々とした正面突破を試みているように見える。

「第一中隊、予定通り前進中。第二中隊、右翼への展開を開始」

 バレン大尉が伝令兵からの報告を受け、俺に伝えた。

「敵の動きは?」

「赤軍は中央部に主力を配置し、迎撃態勢を整えています。ローゼン少佐らしい堅実な布陣です」

「予想通りだ」

 俺は小さく頷いた。ローゼン少佐は教科書通りの対応をしている。正面からの攻撃に対し、堅固な防衛線を敷く。彼は我々の右翼からの攻撃を予測していないようだった。

 だが——

「第三中隊に伝令を。『朔』の準備を進めよ」

「了解しました」

 バレン大尉は伝令兵に指示を出した。「朔」とは、今回の作戦における第三の動き——左翼からの迂回奇襲を意味する暗号だ。右翼攻撃が囮であることを、敵に悟られないための秘策。

 戦場に視線を戻すと、我々の第一中隊が赤軍と最初の接触を始めていた。演習用の染料弾が飛び交い、両軍の兵士が次々と「戦闘不能」となる。

「第二中隊、いよいよ動き始めましたね」

 バレン大尉の言葉通り、右翼から迂回した第二中隊が赤軍の側面に接近していた。当初の計画では、この攻撃で敵の陣形を崩し、勝機を得る予定だった。

 しかし、俺は違う見立てをしていた。

「今だ」

 その瞬間、赤軍の布陣に変化があった。彼らは右翼からの攻撃を予測していたかのように、迅速に対応部隊を移動させ始めた。

「彼らは我々の動きを読んでいる」

 バレン大尉が驚いた声を上げた。

「いや、読まれることを予期していた」

 俺は静かに答えた。このターンでローゼン少佐は「隠された一手」を見せた。彼の戦術は堅実なだけでなく、相手の奇襲も想定していたのだ。

「しかし……」バレン大尉は戸惑いを隠せない。「それでは第二中隊は危険です!」

「心配はいらない。第二中隊は戦術的後退を実行する。それにより敵の追撃部隊を引き出す」

 計画通り、第二中隊は接触後すぐに撤退を始めた。赤軍は勝機と見てか、予想以上の兵力で追撃に出た。

「敵の布陣に隙が生まれています」

「今だ。第三中隊に『朔』の実行を命じろ」

 バレン大尉が伝令を送る間、俺は戦場の全体像を頭に描いていた。まるでタロカの卓を見るように、牌の配置と流れを感じ取る。

 左翼に隠されていた第三中隊が動き出した。第一、第二中隊の動きに気を取られた赤軍は、この第三の動きに気づくのが遅れた。

「奴を引き出せ」

 小声で呟きながら、俺は最後の一手を待った。ローゼン少佐——彼は必ずや自ら前線に出てくるはずだ。彼の性格からして、危機に際しては直接指揮を執る傾向がある。

「あれは……ローゼン少佐ではありませんか?」

 バレン大尉が双眼鏡で遠方を指さした。確かに、赤軍の旗の近くに立つ将校の姿。それは間違いなくローゼン少佐だった。

「第三中隊、目標を視認。少佐を『撃破』せよ」

 伝令が飛ぶ。第三中隊は素早く敵陣の弱点を突き、ローゼン少佐の位置に接近しつつあった。

「この布陣、流れが不自然だ」

 突然、俺の頭に警戒感が走った。何かがおかしい。あまりにも簡単にローゼン少佐の姿が見えた。もし彼が本当に前線に出るとしても、もっと警戒するはずだ。

「待て!  中止命令を!」

 俺の叫びは遅かった。第三中隊が目標に接近したその瞬間、周囲の茂みから赤軍の別働隊が姿を現した。彼らは隠密のまま配置されており、我々の第三中隊を包囲する態勢を取っていた。

「罠だ……」

 バレン大尉が呟いた。俺も同じ思いだった。あれはローゼン少佐の囮だったのだ。彼もまた、相手の読みを読んでいた。

「撤退命令を。第三中隊は西へ撤退せよ」

 だが遅すぎた。第三中隊は赤軍の包囲網に捉えられ、多くの兵士が「戦闘不能」と判定されていた。

「補佐官、どうしますか?」

 バレン大尉の問いに、俺は戦場を再度見渡した。状況は不利だ。第一中隊は正面で拘束され、第二中隊は右翼で追撃を受け、第三中隊は包囲されつつある。

 しかし——

「まだ終わっていない」

 俺は静かに言った。タロカの卓で、最後の一手を残していたように。