「これが例の神童か? たった一度の敗北で沈み込むとは、噂ほどの器ではなかったな」
軍本部の廊下で聞こえてきた囁き声。振り返りたい衝動を抑えながら、俺は足早に自室へと向かった。
敗戦から二週間。北方軍本部に戻ってからも、俺を取り巻く空気は微妙に変化していた。かつての「タロカの戦術家」「天才参謀」という称賛は影を潜め、代わりに「幸運だけだった」「単なる将軍のお気に入り」という声が広がっていた。
自室のドアを閉め、俺は溜息をついた。机の上には積み上げられた報告書と分析資料。ラドルフとの敗戦を徹底的に検証するため、様々な角度から情報を集めていた。
「神童……そんなものじゃなかったんだ」
小さく呟き、椅子に腰掛ける。窓の外は雨。滴る雨音がどこか心を落ち着かせた。
ノックの音がして、ドアが開いた。
「エストガード」
フェリナが顔を覗かせた。彼女は最近、情報分析のために頻繁に俺の部屋を訪れていた。
「どうした?」
「これを見てください」
彼女は一枚の報告書を差し出した。東部国境での敗戦後、帝国軍の動向に関する最新情報だ。
「ラドルフの部隊は南に移動……」俺は報告書に目を通しながら呟いた。「彼の狙いは?」
「不明です。しかし、彼が直接指揮を執っている部隊規模を考えると、おそらく次も重要な作戦になるでしょう」
フェリナの分析は的確だった。彼女はラドルフについて誰よりも詳しく、その戦術パターンを熟知していた。
「ありがとう」
報告書を受け取ったとき、廊下から声が聞こえてきた。
「緊急会議だ。参謀全員集合せよ」
フェリナと顔を見合わせ、俺たちは急いで会議室へ向かった。
***
「諸君、重大な問題が発生した」
アルヴェン将軍は厳しい表情で切り出した。会議室には北方軍の主要参謀たちが集まっていた。
「南部要塞が帝国軍の奇襲を受け、陥落した」
その言葉に、室内がざわめいた。南部要塞は北方軍の重要拠点の一つ。そこが陥落したということは、王国の防衛線に大きな穴が開いたことを意味する。
「現在、敵はさらに進軍を続けている。このままでは王都への侵攻路が開かれる恐れがある」
将軍は地図を指さした。赤い印が帝国軍の進軍ルートを示している。
「南部要塞を指揮していたのは?」
ある参謀が尋ねた。
「ヘイゼン少将だ」
将軍の声には苦々しさが滲んでいた。ヘイゼン少将は経験豊富な将軍であり、南部要塞が落ちるというのは想定外の事態だった。
「詳細はまだ不明だが、内通者の存在が疑われる」
その言葉に、会議室の空気が凍りついた。先日の敗戦でも将軍は内通者の可能性に触れていた。これが二度目の言及だ。
「南部要塞の防衛計画は極秘だったはずだ。それが帝国軍に漏れていた」
参謀たちは互いに顔を見合わせた。軍内に裏切り者がいるという事実は、互いへの不信感を生み出す。
「次の対応策だが」将軍は続けた。「南部からの進軍を阻止するため、ブラックリッジ峠に防衛線を構築する。指揮はモートン中将が執る」
モートン中将は保守派の筆頭格。伝統的な軍学を重んじる古参将校だ。
「また」将軍は一瞬躊躇ったような表情を見せた。「保守派顧問会議から要請があった」
「要請?」
「ああ。敗戦後の軍の士気低下を懸念し、『参謀資質の再評価』を行うべきだという」
その言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。「参謀資質の再評価」——それは明らかに俺を標的にしたものだった。
「将軍、それは」セリシアが口を開いた。「エストガード補佐官の評価を下げるための政治的動きではありませんか?」
「そう見るのが自然だろう」将軍も認めた。「だが、顧問会議は形式上の権限を持つ。一度の敗戦で動揺するような軍であってはならないという建前で、彼らは再評価を求めている」
俺は黙って聞いていた。保守派が俺を快く思っていないのは知っていた。若年での抜擢、タロカという異端の戦術、そして将軍のお気に入りという立場——すべてが彼らの反感を買う要素だった。
「演習試験を行う」
将軍が最終的な判断を下した。
「エストガード補佐官の戦術眼を改めて評価するため、仮想戦演習を行う。相手はローゼン少佐だ」
ローゼン少佐——軍学校出身のエリート将校で、保守派に連なる実力者。彼は伝統的な軍学の達人として知られ、演習では常に高い評価を得ていた。
「二日後に演習計画を提出し、一週間後に実施する」
会議は緊張した空気の中で終了した。退室する際、何人かの参謀が俺を見る目には、あからさまな冷笑が浮かんでいた。
「一度負けただけで、こんな仕打ちか」
廊下で足を止めた俺に、セリシアが近づいてきた。
「彼らはあなたを始めから警戒していた。敗戦は、あなたを貶める口実に過ぎないわ」
「わかってるよ」
「この試験は公平とは限らない」彼女は真剣な表情で忠告した。「彼らはあなたを失脚させるために、あらゆる手段を講じるでしょう」
「情報漏洩の話もそうだな。俺を疑わせるための布石かもしれない」
「その可能性もある。だから用心して」
彼女の忠告を胸に、俺は自室に戻った。窓辺に立ち、雨に濡れる訓練場を見下ろす。
「運だけか?」
自問自答を繰り返す。確かにラドルフとの戦いでは完敗した。だが、それ以前の勝利は確かに存在する。あれは単なる運ではなかったはずだ。
「エストガード殿」
ドアをノックする声がした。開けると、フェリナが立っていた。
「フェリナ、また何か?」
「試験のことを聞きました」彼女の声は静かだが、その目は怒りを隠せていなかった。「卑怯な真似をする連中です」
「卑怯と言うほどでもない。この世界ではよくあることさ」
前世でも、麻雀の世界では新興勢力や異端の打ち手はしばしば排除の対象となった。人間社会に普遍的な摩擦だ。
「でも、これも負けるわけにはいかない」
「エストガード殿」
「負け犬の遠吠えに負ける気はない」俺はフェリナに向き直った。「この試験、必ず勝ってみせる」
彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「協力します。私にできることがあれば」
「ありがとう。情報収集が必要だ。ローゼン少佐の戦術パターン、過去の演習記録、彼の思考傾向——できる限り集めてほしい」
「わかりました」
彼女は頷き、部屋を後にした。
再び一人になった俺は、机に向かい、タロカの牌を取り出した。一枚一枚を丁寧に並べ、「流れ」を確認する。これは単なる儀式ではなく、思考を整理するための方法だった。
「勝ち」じゃなく、「意味のある一手」を打てるかどうかだ」
そう呟きながら、俺は次なる戦いの準備を始めた。敗北に落ち込む時間はない。これは前に進むための試練に過ぎないのだから。
保守派がどう思おうと関係ない。俺は結果で示してやる。あいつらが『運だけ』と言うなら、何度でも勝って黙らせればいい。