撤退から三日後、我々は何とか安全地帯の前線拠点に到着した。負傷者を運び、最低限の装備だけを持って森の中を進む長い行軍だった。その間にも何人かの重傷者が命を落とし、戦死者のリストはさらに長くなっていた。
拠点に着くとすぐに、アルヴェン将軍からの伝令が待っていた。彼は帝国軍の動きを受けて、本部から前線に出ていたのだ。
「エストガード、将軍がお呼びだ」
バーンズ中佐の言葉に、俺は重い足取りで将軍のテントへと向かった。報告書は既に提出していたが、直接対面するのは敗戦後初めてだった。おそらく厳しい叱責が待っているだろう。それも当然のことだ。
「入れ」
ノックに応える声が聞こえ、俺はテント内に入った。アルヴェン将軍は小さな机に向かって書類を読んでいた。彼の顔には疲労の色が濃く、以前より年老いて見えた。
「エストガード、座れ」
「はい、将軍」
俺は指示された椅子に腰掛けた。肩の傷はまだ痛んだが、それよりも心の痛みの方が強かった。
将軍はしばらく俺を黙って見つめていた。その眼差しには非難ではなく、何か深い思いが込められているようだった。
「君の報告書は読んだ」
彼はついに口を開いた。
「詳細な分析と、自らの失敗への率直な認識。よくまとめられていた」
予想外の言葉に、俺は少し戸惑った。
「ありがとうございます。しかし、私の判断ミスで多くの兵士が犠牲になりました」
「そうだ。それは事実だ」
将軍は厳しく言った。だが次の瞬間、彼の声はやや和らいだ。
「だが、ラドルフ・ゼヴァルドは並の敵ではない。彼との初戦で全滅を避けられたことは、ある意味で奇跡だとも言える」
「奇跡、ですか?」
「ああ。彼との戦いで生還した者は多くない。君とバーンズ中佐はよくやった」
将軍の言葉には、表面上の慰めではなく、真の評価が含まれていた。
「私は彼の『流れ』を読めませんでした」
俺は正直に告白した。
「読みは万能ではない」
将軍は小さく溜息をついた。
「これは公の場では言わないことだが、私も若い頃、彼に敗れたことがある」
その言葉に、俺は驚いて顔を上げた。アルヴェン将軍はフェルトリア王国最高の指揮官とされている。その彼がラドルフに敗れたことがあるとは。
「八年前のことだ。私はまだ中将だった。東部国境での会戦で、彼の戦術に完全に翻弄された」
将軍の目は遠くを見るようだった。過去の記憶を辿っているのだろう。
「あの時、私は君と同じように『読み』を信じていた。戦場の流れを読み、先手を打つ。それで常に勝ってきた」
彼は静かに続けた。
「しかしラドルフは違った。彼は流れを読むのではなく、作り出す。私が先を読めば読むほど、彼の思惑通りに動いていた」
それは俺が感じたのと全く同じ感覚だった。
「どうやって立ち直ったのですか?」
その問いに、将軍はじっと俺を見つめた。
「立ち直ったのではない。変わったのだ」
「変わった?」
「ああ。読むだけでなく、創ることを学んだ。流れを読むことに頼るだけでは、流れを創る者には勝てない」
将軍は立ち上がり、テントの隅に置かれた剣を手に取った。老練な戦士の風格が漂う姿だった。
「戦術は剣と同じだ。型を学び、敵の動きを読み、そして最後は型を破る。自分自身の剣を創り出すのだ」
彼の言葉は深く、俺の心に染み込んできた。
「でも、どうやって……」
「それは君自身が見つけることだ」
将軍は剣を鞘に戻し、再び椅子に腰掛けた。
「ラドルフとの戦いで、君は貴重な経験を得た。それを無駄にするな」
「はい、将軍」
「さて、実務的な話をしよう」
彼は話題を変え、地図を広げた。
「帝国軍は現在、東部国境の二点を確保した。彼らの次の動きは西への展開だろう。我々は態勢を立て直し、次の防衛線を構築する必要がある」
俺は地図に目を凝らした。帝国軍の動きは確かに西へと向かっていた。ラドルフの狙いは明らかだった。
「君はしばらく本部で静養しながら、次の戦術を練ってほしい。バーンズ中佐の部隊は一旦後方に下がり、再編成する」
「わかりました」
「もう一つ」
将軍の声が真剣さを増した。
「帝国内に王国の情報を流出させている者がいる可能性が高い。我々の戦術や部隊配置の情報が、あまりにも正確に敵に伝わっている」
「内通者が?」
「まだ確証はない。だが警戒すべきだ。君の戦術も、事前にラドルフに伝わっていた可能性がある」
その可能性は考えていなかった。自分の読みが外れたのは純粋に力量差だと思っていたが、情報漏洩があったとすれば話は変わってくる。
「調査を進めます」
「頼む。セリシア少佐とフェリナにも協力してもらうといい」
将軍との会話を終え、テントを出ると、夕暮れの空が広がっていた。赤く染まる雲が、どこかラドルフの赤い瞳を思わせた。
拠点内を歩きながら、俺は将軍の言葉を反芻していた。「読むだけでなく、創ることを学ぶ」——それはタロカでも同じではないだろうか。ただ相手の手を読むだけでなく、自分から流れを作り出す。
ふと、前世での麻雀の記憶が蘇った。強い雀士は相手の待ちを読むだけでなく、自分の手を見せないように巧みに隠す。時には故意に混乱させるような打ち方をする。
「読みが通じないなら、自分が『流れ』を創る」
その言葉が心に浮かんだとき、何か新しい視点が開けるような感覚があった。これまでの自分は「読む」ことだけに囚われすぎていたのかもしれない。
自室に戻ると、フェリナが待っていた。彼女は窓辺に立ち、夕陽を見つめていた。
「エストガード殿」
「フェリナ、どうしたんだ?」
「話があって」
彼女は真剣な表情で俺を見つめた。
「ラドルフについて、もっと知っておくべきことがあります」
「彼のことを?」
「はい。彼は『赤眼の魔将』と呼ばれていますが、その目の色は生まれつきではないんです」
彼女は静かに語り始めた。ラドルフの若き日の話、そして彼がいかにして「赤眼」となったかの物語。それは魔術の代償や、彼の残忍な上昇志向を示す暗い話だった。
「彼は『流れを殺す者』です」
フェリナの声には怨念のようなものが混じっていた。
「どういう意味だ?」
「彼の戦術の本質は、敵の『流れ』を断ち切ることにあります。相手が読みに頼れば頼るほど、彼はその読みを無効化する」
「それで私の戦術が通用しなかったのか」
「はい。あなたの『流れを読む』戦術は、彼にとって最も対処しやすいものだったのです」
フェリナの言葉は厳しかったが、それは事実だった。
「彼を倒すには、別のアプローチが必要です」
「将軍も同じことを言っていた。『創る』ことを学べと」
「そうですね。でも、それだけではないかもしれません」
フェリナの目に決意の色が宿った。
「私も協力します。次こそ、あの男を倒すために」
彼女の言葉には個人的な復讐心が込められているようだった。彼女とラドルフの間にある因縁の詳細はまだ聞いていないが、それが単なる国同士の対立を超えたものであることは明らかだった。
「ありがとう、フェリナ」
それから数日間、俺は本部へ戻る準備をしながら、敗戦の分析を続けた。セリシアの記録石の助けも借りて、戦いの全過程を詳細に検証する。
「赤眼の魔将——奴は『流れを殺す』者」
俺は何度もその言葉を呟いた。それは恐れではなく、次に備えるための警句だった。
最終日、出発の前に俺は小さな儀式を行った。戦死者のリストを一枚の紙に清書し、それを静かに燃やした。彼らの名を心に刻み、その灰を風に乗せる。
「もう一度打つ。次は勝つために、俺はここにいる」
灰が風に舞い上がる様子を見つめながら、静かに誓った。これは終わりではない。ただの始まりだ。
読みが砕けた日。それは俺にとって大きな転機となった。そして次の対戦に向けて、新たな一歩を踏み出す日でもあった。
敗北は痛かった。しかし、セリシアの冷静な分析とフェリナの静かな支えがあったからこそ、完全に打ちのめされずに済んだのかもしれない。孤独だった前世と違い、この世界では共に戦う仲間がいる。その事実が、次への一歩を踏み出す力になった。