「……ガード殿、エストガード殿!」

 意識が戻りかけたとき、誰かが俺の名を呼んでいた。目を開けると、ぼんやりとした光の中に若い兵士の顔が見えた。

「よかった、意識が戻りましたか」

 兵士は安堵の表情を浮かべた。

「ここは……?」

「野営地です。何とか撤退に成功しました」

 周囲を見回すと、そこは森の奥深くに作られた緊急野営地だった。燃え盛る松明の光が闇を照らし、その光の届く範囲には多くの兵士たちが横たわっていた。

「何人……脱出できた?」

 俺は痛む肩を押さえながら尋ねた。矢は抜かれ、応急処置が施されていたが、動かすたびに鋭い痛みが走る。

「元の部隊の約三分の一です」

 兵士の声は沈んでいた。

「三分の一……」

 それは予想より良い数字だった。あの包囲網の中、完全全滅もあり得たからだ。しかし同時に、三分の二の兵士が失われたという事実が胸に重くのしかかった。

「バーンズ中佐は?」

「負傷されましたが、ご無事です。あちらの大きなテントにおられます」

 俺はよろめきながら立ち上がり、中佐のテントへと向かった。

 テント内では数人の将校が集まり、小さな明かりのもとで会議を行っていた。中佐は腕に包帯を巻き、顔にも傷があったが、しっかりと指揮を執っていた。

「エストガード、目が覚めたか」

 彼の声には怒りはなく、ただ疲労だけが感じられた。

「はい。状況は?」

「最悪さ。だが、まだ生きている」

 中佐は机の上の地図を指さした。

「我々は森の最深部まで撤退した。帝国軍は追撃を中断したようだ。おそらく、これ以上の追撃は効率が悪いと判断したのだろう」

「セリシア少佐は?」

「彼女なら、すぐそこだ」

 中佐は振り返り、テントの隅を指した。セリシアはそこで黙々と魔導記録石に何かを記録していた。彼女の顔にも疲労の色が濃く、左腕には包帯が巻かれていた。

「エストガード、こちらへ」

 中佐が机の上の羊皮紙を手に取った。それは負傷者と戦死者のリストだった。

「負傷者の手当てはほぼ終わった。だが、多くの者を失った」

 彼は声を落として続けた。

「君に読み上げてもらいたい」

「私が?」

「ああ。君の戦術で戦った兵士たちだ。彼らの名前くらいは、君が読むべきだろう」

 その言葉には非難の色はなかった。それでも重い責任を感じさせるものだった。

 俺は黙って羊皮紙を受け取り、一枚目をめくった。そこには整然と名前が並んでいた。階級、名前、年齢、出身地——。

「カーン・レイノルズ一等兵、三十二歳、ノースヘイブン出身……」

 あの時、偽装作戦を手伝ってくれた兵士だ。彼は「面白そうだ」と言って、俺の無謀な作戦に協力してくれた。

「ロッジ・ウィンター二等兵、二十三歳、イーストフィールド出身……」

 彼も同じくあの作戦に参加してくれた一人だ。最年少で、常に笑顔を絶やさなかった青年。

 名前を読み上げるたび、顔が浮かぶ。短い時間だったが、確かにそこには絆があった。彼らは俺の戦術を信じ、命を懸けて戦ってくれた。

「トーマス・ヒルトン二等兵、二十六歳、サウスバレー出身……」

 読み上げる手が震え始めた。

「リード・フォレスト二等兵、二十五歳、ウエストマウンテン出身……」

 声が詰まる。これ以上続けられなかった。

「もういい」

 中佐が静かに言った。

「残りは私が読もう」

 彼は羊皮紙を受け取り、残りの名前を厳かに読み上げた。それぞれの名に短い黙祷を捧げながら。

 俺は茫然と立ち尽くしていた。リストに名を連ねる兵士たち——彼らは俺の戦術に従い、そして死んだ。もし別の選択をしていれば、彼らはまだ生きていたかもしれない。

 テントを出ると、夜空には無数の星が瞬いていた。どこか冷たく、遠い光。

「自分を責めてるの?」

 背後からセリシアの声がした。彼女は俺の後を追ってきたようだ。

「責めるべきでしょう。私の戦術が原因で、多くの兵士が命を落とした」

「これも戦争だわ」

 彼女の声は冷静だった。

「戦場では常に死が伴う。それを恐れていては何もできない」

「でも、私は間違えた。ラドルフの戦術を読めなかった」

「誰も彼を完全に読むことはできない。それが『赤眼の魔将』と呼ばれる所以よ」

 彼女の言葉には救いがなかった。確かにラドルフは強敵だ。しかし、それでも俺には責任がある。俺は十分な警戒を怠り、慢心していた。勝ち続けたことで、敗北の可能性を忘れていたのだ。

「俺は……みんなを死なせてしまった」

 声を震わせながら、俺は呟いた。そして気づけば、頬を伝う熱いものがあった。涙だった。前世でも、この世界でも、こんな感情を抱いたことはなかった。

「泣いてもいいのよ」

 セリシアの声が少し柔らかくなった。

「感情を押し殺すことが強さじゃない。彼らの死を心に刻むことが、次につながる」

 野営地を見渡すと、負傷した兵士たちが互いを支え合い、残された食料を分け合っていた。彼らの表情には疲労と悲しみがあったが、それでも生きることを諦めてはいなかった。

「私には向いていなかったのかもしれない」

「何が?」

「戦争という『勝負』。タロカや麻雀とは違う」

 セリシアは黙って俺を見つめていた。

「タロカでは負けても、また次の対局がある。だが戦場では、負けは死を意味する。自分の判断ミスで、多くの命が失われる」

「そうね。戦場は残酷よ」彼女は静かに頷いた。「だからこそ、私たちは常に最善を尽くす。ただそれだけよ」

 彼女の言葉は俺の心に届かなかった。今の俺には、次の一歩を踏み出す勇気が見いだせなかった。

 静かな夜の中、突然人影が近づいてきた。振り返ると、そこにはフェリナが立っていた。

「エストガード殿、無事で」

 彼女の声には安堵が混じっていた。

「フェリナ……あなたは?」

「別働隊で情報収集に出ていたの。戻ってみたら、こんな状況で……」

 彼女の目には心配の色があった。

「ラドルフと会ったんですよね?」

「ああ」

「彼は何と?」

「『流れは私が作る』と言っていた」

 その言葉にフェリナの表情が曇った。彼女はラドルフのことをよく知っている。何か因縁があるという話だったが、まだ詳細は聞いていなかった。

「エストガード殿」

 フェリナが真剣な表情で俺を見つめた。

「人は負けることで強くなります。あなたがこれからどうするかが大事なの」

「どうすればいいんだ?  こんなに多くの命を失って……」

「忘れないでいてください」

 彼女の声は静かだった。

「彼らの命を、この痛みを、敗北の苦さを——忘れないあなたでいてほしい」

 その言葉は単純だが、何か深いものを感じさせた。

「あなたには才能がある。それを無駄にしてはいけない」

 フェリナはそう言って、静かに俺の肩に手を置いた。その温もりは、冷たい夜の中で小さな慰めとなった。

 彼女の眼差しには純粋な心配と、何か個人的な感情が宿っていた。ラドルフへの憎しみだけでなく、命の重さを知る者としての共感のようなものを感じた。

「ありがとう」

 俺はかろうじてそう答えることができた。

 その夜、野営地の小さな焚き火の前で、俺は戦死者たちの名前を何度も心の中で繰り返していた。彼らを忘れないために。そして次に同じ過ちを繰り返さないために。

 死者たちの名が刻まれた夜。それは俺の中の何かが変わり始めた夜でもあった。