東部国境第七地点から十キロ内陸、ブラックウッド高原。広大な平原と点在する丘陵地帯が特徴的な地形だ。雲一つない晴天の下、俺は前線指揮所の高台から戦場を見渡していた。
「すべての部隊が配置完了しました」
参謀を務める若い士官が報告してきた。彼の声には緊張が滲んでいた。当然だろう。我々の前に立ちはだかるのは、エストレナ帝国の精鋭部隊。そして、その指揮を執るのは「赤眼の魔将」ラドルフだ。
「エストガード補佐官、第三部隊からの通信です」
伝令兵が駆け込んできた。
「敵の前哨部隊が視認されました。約8キロ先、予想進路通りです」
「承知した」
俺は地図上の駒を動かした。これまでの情報分析に基づき、敵の進路と戦術を予測。それに対応する布陣を整えていた。
「我々の罠は成功しつつあります」
指揮官のバーンズ中佐に告げる。彼は五十代の熟練した指揮官で、実戦経験は豊富だが、自分の経験を過信する傾向があった。今回は俺の戦術提案に渋々同意したものの、常に疑いの目を向けていた。
「まだ早い。敵の主力が接近するまで判断はできん」
中佐は厳しい表情で答えた。
俺の戦術は「誘導と分断」。過去三回の勝利で培った戦術だ。敵を特定の経路に誘導し、分断して個別に叩く。タロカで相手の打牌を誘導するのと同じ原理だ。
「こちらセリシア。偵察部隊からの報告です」
伝令石が光り、セリシアの声が響いた。彼女は指揮所から少し離れた前線観測点にいた。
「敵の前衛部隊は予想以上に慎重に動いています。地形確認を入念に行っている様子」
「警戒しているのか」
中佐が眉をひそめた。
「いいえ、これも予想の範囲内です」
俺は自信を持って答えた。
「我々の偽情報が効いています。彼らは南側の迂回路に警戒を向けているはずです」
戦いが始まる前の緊張感。それは麻雀やタロカの対局でも感じたものだ。しかし、そこには命のやり取りはなかった。実戦は違う。全てが血と命を賭けた勝負だ。
「敵の動きに変化あり。主力部隊が前進を開始しました」
セリシアの報告に、指揮所内の空気が張り詰めた。
「そろそろか」
俺は小さく呟いた。計画ではこの時点で敵を中央の「袋」に誘い込み、丘陵地帯から挟撃する。初手は成功しつつあるようだった。
「各部隊に通達。初期計画通りに展開せよ」
中佐の命令で、伝令兵たちが動き出した。
数十分後、戦場は動き始めた。敵の主力が丘陵地帯の間の平原に進入。黒い装甲の兵士たちが整然と行進している。
「待機……待機……」
俺は息を殺し、次の展開を見守っていた。敵が谷間の中央部に到達したとき、こちらの伏兵が動き出す計画だ。
「指揮官、敵の後続部隊が確認できません」
突然、見張りの兵が報告した。
「何だと?」
中佐が身を乗り出して双眼鏡を覗きこむ。
「彼らの主力はどこだ? あれは前衛のはずだぞ」
「わかりません。視界に入りません」
異変を感じた俺は、地図を再確認した。何かがおかしい。敵の動きが予想と違う。
「セリシア少佐! 敵の主力部隊の位置を確認してください」
伝令石を通じての問いかけに、彼女の返答があった。
「こちらからも主力は見えません。前衛だけが進軍しています」
「まさか……」
俺の頭に閃きが走った。ラドルフは初めから我々の罠を見抜いていたのではないか? だとすれば、この前衛部隊は囮で、真の主力はどこかで……。
「北西の丘陵地帯から煙が上がっています!」
伝令兵の叫びとほぼ同時に、遠方から轟音が響いた。
「攻撃を受けています! 第二部隊が襲われています!」
次々と緊急報告が入る。北西の丘陵地帯——そこは我々の伏兵部隊がいる場所だった。ラドルフは罠を仕掛ける側を罠にかけたのだ。
「全軍に通達! 計画変更、防御態勢を取れ!」
中佐の命令も空しく、混乱が始まっていた。伏兵として配置していた第二部隊が敵の奇襲を受け、崩壊しつつある。
「どうして……」
俺は信じられない思いで状況を見つめていた。自分の読みが外れたのは初めてだった。いや、もっと正確に言えば、こちらの読みをさらに上回る読みをされたのだ。
「エストガード、どうしたんだ!」
中佐の声が耳に入った。
「あなたの戦術では、こうはならないはずだったのではないか?」
その非難めいた声に、言葉が出なかった。
「流れが見えない……」
俺は呆然と呟いた。
「空気が死んでる」
これまでの戦いでは常に「流れ」を感じ取ることができた。敵の動き、地形、天候、全てが一つの大きな流れの中にあった。しかし今回は違う。まるで戦場そのものが無機質になったかのよう。「流れ」が感じられない。
「セリシア! そちらの状況は?」
伝令石を通じて彼女を呼ぶが、返事がない。
「セリシア少佐との通信が途絶えました」
伝令兵が報告した。
事態は急速に悪化していた。敵は我々の布陣を完全に把握しているかのように、次々と急所を突いてくる。前衛部隊と思われた兵力は実は精鋭で、北西からの奇襲と連動して中央突破を図っていた。
「後方にも敵影あり! 我々は包囲されています!」
最悪の知らせに、中佐の顔が青ざめた。
「撤退だ! 全軍撤退!」
しかし撤退路も既に敵に押さえられていた。このままでは全滅は免れない。
「中佐、北東の森への突破を」
俺は最後の策を提案した。
「あそこなら、帝国軍の装甲兵は動きにくい。森林戦なら我々に優位性があります」
中佐は一瞬俺を見つめ、短く頷いた。
「全軍に通達。北東方向へ突破せよ。第一、第三部隊は掩護を。指揮所も移動する」
命令が下り、撤退が始まった。既に統制が取れなくなりつつある部隊を何とかまとめ、北東へと向かう。背後からは敵の追撃。矢と魔術の光が飛び交う中、必死の撤退が続いた。
俺は伝令兵と共に移動しながら、何度も振り返った。あの静かな動き、完璧な統制——ラドルフの軍は機械のように正確に動いていた。その様子に、言いようのない恐怖を感じた。
「これは"読み合い"じゃない」
俺は震える声で呟いた。
「“支配"だ」
戦場に降りる声は、もはや俺の耳には届かなかった。それは別の誰かの声、「赤眼の魔将」の意思だけが支配する静かな恐怖の声だった。