日没までの残り二時間。俺は決断を迫られていた。
シバタ大尉は作戦変更を拒否し、予定通り三方向からの奇襲を実行すると決めた。彼の頑なさは、ある意味では理解できる。長年の実戦経験から培った自信と、若造の戯言に聞こえる忠告への嫌悪感。
だが俺には「見えていた」。
あの西側の丘陵は、夕陽が陰る頃、絶好の伏兵ポイントになる。そこから攻撃すれば、我々の撤退路が完全に断たれる。そして、補給隊があまりにも簡単に発見されたこと自体が不自然なのだ。
「セリシア少佐、どうすればいいと思いますか?」
休息地で俺は彼女に静かに尋ねた。彼女は魔導記録石を指先で回しながら、しばらく考えていた。
「私も西側に不安を感じている。しかし……」
彼女は言葉を選ぶように間を置いた。
「大尉は戦場経験が豊富だ。私は東部国境での任務を終えたばかりで、この地域での指揮権を主張するには根拠が不足している」
「でも、あなたなら大尉を説得できるかも」
「できないわ」
彼女の声は冷静だった。
「軍の階級社会では、経験と実績が何よりも重んじられる。私が彼の判断に異を唱えれば、ただ対立を生むだけ。そうなれば部隊全体の団結力に影響する」
「では、このまま罠に飛び込むしかないんですか?」
セリシアは静かに俺を見つめた。
「私は静観する。それが今の私の立場だ」
その言葉に失望を隠せず、俺は少し離れた場所に移動した。手元には地図と、敵の補給隊の情報が書かれたメモ。
(いや、このままじゃいけない)
タロカでも麻雀でも、明らかに罠だと分かっている状況で素直に飛び込むのは愚の骨頂だ。でも、指揮権もなく、誰も聞く耳を持たない状況で何ができるのか?
そのとき、俺の目に入ったのは、近くで休憩していた四人の若い兵士たち。彼らは作戦会議にも参加していたが、他の兵士のように俺を明確に蔑視してはいなかった。
「すみません」
俺は彼らに近づいた。
「ロッジ二等兵、カーン一等兵、トーマス二等兵、リード二等兵——でしたよね?」
四人は少し驚いた表情を見せた。俺が名前を覚えていることに意外な印象を受けたようだ。
「何か用かい、坊ちゃん参謀?」
カーン一等兵が冗談めかして尋ねた。彼は三十前後で、腕の筋肉が発達した逞しい男だった。
「できれば、手伝ってもらいたいことがあるんです」
俺は声を潜めて説明を始めた。シバタ大尉の計画には触れず、単に「念のための予備行動」として提案した内容は、シンプルなものだった。
——西側の丘陵に、焚き火の準備をしておく。
——我々の部隊が実際に展開するよりも大きい範囲に足跡と痕跡を残す。
——可能なら、人形や旗などで兵士の数が多いように見せかける。
「なんだ、それだけか?」
ロッジ二等兵が肩をすくめた。彼は最年少の二十三歳ほどで、機敏な動きが特徴的だった。
「単なる欺瞞戦術ですが、もし西側から敵が現れた場合、彼らを混乱させる時間稼ぎになります」
「大尉には報告するのか?」
トーマス二等兵の質問に、俺は正直に答えた。
「いいえ。彼は許可しないでしょう。だからこそ、非公式にお願いしています」
四人は顔を見合わせた。
「軍規違反になるぞ」
「でも、害はないよな。ただの偽装だ」
「面白そうだし、暇つぶしにはなる」
しばらく議論した後、カーン一等兵が代表して答えた。
「いいだろう。でも、失敗したら責任は取らんぞ」
「ありがとうございます」
彼らは任務に出かける前に準備を整えると約束し、装備を確認し始めた。俺は少し離れた場所から、大尉の様子を観察していた。彼は斥候の最終報告を聞き、満足げな表情だった。全てが計画通りに進んでいるという確信があるようだ。
セリシアの視線を感じ、振り向くと、彼女は俺を見つめていた。彼女はすべてを理解しているように見えたが、何も言わず、記録石に何かを記録するだけだった。
***
日没の一時間前、カーン一等兵たちが戻ってきた。彼らの表情には緊張感があった。
「やったぞ、エストガード」
ロッジ二等兵が小声で報告した。
「西側の丘に三か所の焚き火の準備をした。それから、キャンプを設営したように見せかけた」
「それだけじゃない」
カーン一等兵が割り込んだ。
「西側の森の端で、新しい足跡を見つけた。昨夜のものだ。帝国軍特有の靴底の形をしている」
俺の胸が締め付けられた。予感は当たっていた。帝国軍はすでに西側に潜伏していたのだ。
「大尉に報告しましたか?」
「いや、お前が言ったように、彼は信じないだろう。それに、この発見が我々の無許可行動で見つかったものだと知れば、怒り狂うぞ」
俺は苦しい決断を迫られていた。大尉に直接進言するか、このまま自分たちだけの予備行動に留めるか。
結局、俺は黙ることを選んだ。大尉を説得する時間と可能性は限られている。それよりも、万が一の事態に備える方が現実的だった。
「カーン一等兵、夜間にもし西側から動きがあった場合、あなたたちは焚き火と囮を使える体制でいてください」
「了解した」
彼は短く頷いた。古参兵として、彼も危険を感じていたのだろう。
***
日没。作戦が開始された。
シバタ大尉の指示通り、部隊は三手に分かれ、帝国軍の補給隊の予想進路上に展開した。大尉自身は中央部隊を指揮し、俺とセリシアも同行していた。
「まもなく敵が接近する。静粛に」
大尉の命令が伝えられ、部隊は息を殺して待機した。
しかし、予定の時刻を十分過ぎても、帝国軍の補給隊は現れなかった。
「おかしい」
大尉が眉をひそめた。
そのとき、西側の丘陵から突如として松明の光が見え始めた。
「敵影! 西側から接近中!」
見張りの兵士が叫んだ。シバタ大尉の顔が青ざめた。
「くそっ、伏兵か!」
その瞬間、西側から兵士たちの叫び声と、馬のいななきが聞こえてきた。しかし、同時に丘の上でも三か所から焚き火が燃え上がり、人影のようなものが動き回っているように見えた。
「敵の数は?」
大尉が緊張した声で尋ねた。
「不明です! 丘の上にも我々の部隊がいるようですが……」
「何だと? 誰がそんな指示を?」
混乱する大尉をよそに、カーン一等兵が俺の横に現れた。
「上手くいっている。敵は丘の展開を見て混乱している。彼らは我々が先回りして伏兵を張ったと思っているようだ」
「撤退経路は?」
「東側は依然として安全です」
セリシアが冷静に指摘した。彼女は状況を瞬時に把握していたようだった。
「撤退せよ! 東側に集結!」
シバタ大尉は決断を下した。部隊は素早く動き始め、敵の混乱に乗じて東側へと移動を開始した。
カーン一等兵たちの囮作戦は、予想以上に効果的だった。帝国軍は丘の上の焚き火と人影に注意を取られ、我々の撤退を妨害する余裕がなかった。
数時間後、部隊は安全地帯に到達していた。
「損害状況は?」
シバタ大尉が尋ねた。
「軽傷三名のみ、大尉。重傷者なし」
参謀役の兵士が報告した。大尉は安堵の表情を見せたが、すぐに厳しい顔に戻った。
「誰が西側に偽装を施した? 私の指示なしにそのような行動をとったのは軍規違反だ」
緊張が走る中、カーン一等兵が一歩前に出た。
「私たちです、大尉。エストガード殿の提案に従いました」
大尉の視線が俺に向けられた。怒りと共に、わずかに困惑の色も見えた。
「お前が……」
彼は言葉を詰まらせた。明らかに、俺の予測が正しかったことに対して、何と反応すべきか迷っているようだった。
「判断を下したのは私です」
俺は静かに言った。
「たとえ軍規違反だとしても、兵士たちの命を守るためには必要な行動でした」
シバタ大尉は長い間俺を見つめたあと、短く頷いた。
「今回は結果として被害を最小限に抑えられた。だが、次からは必ず指揮系統を通せ」
その言葉はある種の譲歩だった。彼は自分の判断ミスを認めつつも、指揮官としての威厳を保とうとしていた。
夜の静けさの中、焚き火の周りで休息していると、セリシアが隣に座った。
「予測通りだったわね」
「はい、流れが見えていました」
「面白いわ。あなたは『読み』という言葉をよく使うけれど、それは単なる勘ではなく、何らかのパターン認識に基づいているのね」
「タロカも麻雀も、牌の流れと人の心理を読むゲームです。戦場も同じだと思います」
セリシアは黙って頷いた。彼女の視線には以前にはなかった敬意の色が浮かんでいた。
「あまり言いたくないけど」彼女は小さく微笑んだ。「あなたは正しかった」
「ありがとうございます」
俺は焚き火を見つめながら、内心で安堵していた。
「やっぱり俺、こういうのが好きなんだな」
この危険の中で、「流れ」を読み、「一手」を打つ感覚。それは麻雀と異なり、命がかかった真剣勝負だ。しかし、その緊張感と達成感は、俺の血を熱くした。