「セリシア少佐の案を採用する」
戦術会議から三日後、北部国境対応について最終決定が下された。敵の偵察に対し、完全に予測不能なパターンで対応するという彼女の案だ。
俺は特に落胆はしなかった。自分の意見が通らないことは最初から織り込み済みだった。セリシアの案は論理的に完璧で、理論上は確かに最適解。しかし、「理論と現場の乖離」という問題を懸念していた俺は、内心では違和感を覚えたままだった。
「あなたの時間はまだ来ていない」
会議室を出るとき、セリシアが小声でそう告げた。皮肉なのか、励ましなのか判断しかねる言葉だった。
北部国境への命令伝達が始まり、俺は再び書類整理という日常に戻った。しかし、今回の戦術会議参加により、軍内での立場はわずかながら変化していた。
「エストガード殿、これらの書類を向こうの会議室へ」
と言いながらも、士官たちの目には以前ほどの軽蔑の色がない。むしろ、「どんな人間なのか」という好奇心すら感じられるようになった。
その夜、俺は宿舎の小さな机で北部国境の地図を広げていた。部屋の隅には、老兵から貰ったタロカの牌が並べられている。
「敵の偵察隊は、常にこの三つのルートから侵入している……」
一つの地点から別の地点への移動時間、警備兵の配置、伝令の速度——俺はこれまで集めた情報をもとに、敵の動きを推測していた。そして、妙な違和感が拭えなかった。
「この偵察、何かおかしい……」
偵察パターンが規則的すぎるのだ。まるで、あえて自分たちの動きを予測させようとしているかのように。
まるで麻雀で相手の手牌を読むように、敵の動きを先読みしていた。「リャンメン待ち」のように二方向から攻められる位置が伏兵の定石だろうか。なら、この丘陵だが。
「もし彼らが、我々の『予測不能な対応』そのものを予測しているとしたら?」
この仮説が頭をよぎった瞬間、俺は北部国境のある地点に注目した。地図上では小さな森に囲まれた谷間——警備が手薄になりがちな場所だ。
「ここに伏兵を置くのが自然な流れだ……」
その夜、俺は報告書を作成した。自分の仮説と、それに基づく警戒案を記したものだ。翌朝、迷った末にそれを参謀長の副官に提出した。
「エストガードからの提案?」
副官は訝しげな表情を見せたが、一応書類を受け取った。もっとも、実際に読まれることはないだろうと俺も思っていた。
数日後、北部国境からの報告が届き始めた。セリシアの戦術は予定通り実行され、帝国軍の偵察隊は毎回異なる対応に遭遇し、混乱しているという。表面上は成功しているように見えた。
ところが、一週間後の夕刻、異変が起きた。
「緊急報告! 北部国境、シルバーリッジ付近で帝国軍部隊を発見!」
伝令が駆け込んできたのは、ちょうど俺が書類部屋で作業していた時だった。シルバーリッジ——俺が警戒すべきと報告した、あの谷間の近くだ。
「規模は?」
「約二個小隊、重装備です!」
通常の偵察隊よりはるかに大きな部隊。これは明らかに、単なる情報収集ではない。
軍本部は一気に緊張感に包まれた。各部署から将校たちが司令室に集まり、対応を協議し始める。俺もその場に呼ばれた。
「帝国軍は我々の変則的対応パターンを逆手に取った」
セリシアが率直に状況を分析していた。彼女の表情には焦りはなく、ただ冷静に事実を受け止めている。
「予測不能な動きをするという『予測可能な方針』を利用されたのだ」
参謀長が厳しい口調で指摘した。セリシアへの批判というよりは、自分たちの判断への反省だった。
俺は静かに地図を見つめていた。現在の北部国境警備隊の配置と、帝国軍の推定位置。
「あの森の中に、もう一隊潜んでいる可能性があります」
俺が口を開くと、全員の視線が集まった。
「根拠は?」
参謀長が問うた。
「これまでの偵察パターンと、今回の侵入経路を照らし合わせると、あの谷間を迂回する形の伏兵が考えられます。実は一週間前に同様の懸念を報告書で——」
「あの報告書か」
副官が割り込んだ。
「確かに受け取った。しかし、十五歳の見習いの仮説に過ぎないと判断した」
場の空気が険悪になる。セリシアは俺を見つめ、そして参謀長に向き直った。
「今から対応するとしたら?」
「警備隊への増援は間に合わない。すでに日没間近だ」
俺は深く息を吸い、思い切って提案した。
「少数の部隊に、あの森の近くで篝火を焚かせてください。通常の巡回パターンを装いながら」
「どういう意図だ?」
「もし伏兵がいれば、彼らは我々の警戒態勢が変わっていないと判断するでしょう。そして、予定通り夜襲を仕掛けてくる」
「しかし、それでは味方が危険ではないか」
「篝火の近くには人を置かず、少し離れた場所に配置します。帝国軍が篝火を襲った瞬間、包囲する」
場が静まり返った。若造の奇策に、誰も即座に賛同できないようだった。
「私が責任を持ちましょう」
意外な声がセリシアから上がった。
「この案を実行し、結果を検証します。小規模な部隊で対応可能ですし、リスクも限定的です」
参謀長は少し考え、最終的に頷いた。
「良かろう。セリシア少佐、指揮を執れ。エストガードも同行せよ」
「私が、ですか?」
「君の仮説だ。責任を取るのは当然だろう」
予想外の展開に戸惑いつつも、俺は頷いた。
***
翌日の夜明け前、俺とセリシアは北部国境に近い前線基地に到着していた。緊急伝令により、前夜の篝火作戦は実行されていた。
「報告です!」
駆け込んできた伝令兵の表情に明るさがあった。
「作戦成功! 帝国軍の伏兵部隊を捕捉し、完全に撃退しました!」
セリシアは驚いたように俺を見た。
「あなたの読みは当たっていた」
俺は安堵の溜息をついた。タロカの卓で相手の手を読むように、戦場の「流れ」を読む——それが実際に通用したのだ。
「……やっぱり俺、こういうのが好きなんだな」
独り言のつもりだったが、セリシアにも聞こえたようだった。彼女は何も言わず、小さく頷いただけだった。