「エストガード殿、今日の戦術会議に同席するように」
朝の書類整理中、参謀長の副官から突然の指示が下った。俺は一瞬、耳を疑った。
「私が、戦術会議に?」
「将軍の命令だ。十時から司令部中央会議室だ。遅れるな」
副官は素っ気なく言い残すと、踵を返して去っていった。
軍に来て一ヶ月。ようやく雑用以外の任務が与えられる。しかも戦術会議——軍の中枢機能そのものだ。
(何かあったのか?)
伝令書類から得た情報によると、北部国境で小規模な衝突が発生している。エストレナ帝国との小競り合いだ。それほど深刻な状況ではないが、軍は警戒態勢を強めていた。
定刻より少し早く、俺は会議室に向かった。部屋に入ると、すでに十数名の高級将校が集まっていた。各自が地図や書類を広げ、小声で議論している。俺が入室すると、一瞬、部屋の空気が凍りついた。
「あの子供が何のために?」
「将軍の気まぐれだろう」
あからさまな侮蔑の囁きが聞こえる。俺は何も言わず、端の席に静かに着いた。
そこへ、一人の女性将校が入ってきた。銀色の髪を厳しく後ろで束ね、鋭い眼差しを持つ、二十歳前後の美しい女性。軍服の肩章から少佐の階級だとわかる。
セリシア・ヴェル=ラインの名は、軍内でも知られていた。名門軍人貴族の出であり、若くして参謀として頭角を現した才女。彼女について「冷静すぎる」「感情より論理を優先する」といった評判も耳にしていた。
彼女が部屋に入ると、先ほどまで俺に向けられていた視線が一斉に彼女に集まった。尊敬と警戒が入り混じったような奇妙な雰囲気。
「セリシア少佐、久しぶりだな」
「東部国境での任務はどうだった?」
彼女——セリシアは短く頷いただけで、淡々と自分の席に着いた。常に片手に小さな水晶のような装置を持ち、時折それに何かを記録しているようだった。
彼女の存在感は、年齢や階級以上のものがあった。そしてその秘密を、俺はすぐに知ることになる。
「起立!」
副官の号令とともに全員が立ち上がると、アルヴェン将軍が入室してきた。一ヶ月ぶりの再会だ。将軍は俺に一瞬目をやり、小さく頷いただけで、すぐに会議を始めた。
「現在の北部国境情勢について、参謀長から報告を」
参謀長が地図を示しながら、エストレナ帝国軍の動きと北方軍の現状配備を説明した。帝国軍はまだ本格的な侵攻の準備はしていないが、小規模な偵察部隊が頻繁に国境を越えて挑発行為を繰り返しているという。
「このままでは士気に関わる。反撃すべきだ」
「いや、罠かもしれん。大軍を動かす口実を作らせるべきではない」
将校たちの間で議論が白熱する中、将軍は静かに耳を傾けていた。そして場が少し落ち着いたところで、意外な人物を指名した。
「セリシア、東部国境から戻ったばかりだが、北部の状況についての見解は?」
彼女は立ち上がり、手元の水晶を軽く輝かせた。すると空中に細かい数値と図表が浮かび上がる。魔導記録石の投影機能だ。
「過去三ヶ月の帝国軍の動きを分析すると、彼らは系統的な偵察パターンを持っています。第三中隊の報告によれば、彼らは常に同じ時間帯に現れ、同様の動きをしています」
彼女の分析は明確で論理的だった。装置から次々と示される情報をもとに、帝国軍の真の意図を推測していく。
「彼らの目的は単なる挑発ではなく、我が軍の対応パターンを記録することです。同じ挑発に対して常に同じ反応をすれば、実戦での我々の動きを予測されます」
セリシアの提案は斬新だった。敵の偵察に対し、毎回異なる対応をするという戦術。予測不能な動きで敵の情報収集を無効化するという発想だ。
「理論的には正しいが、現場の混乱を招くぞ」
ある大佐が反論した。
「下級将校や兵士たちは、明確で一貫した命令を必要としている。毎回異なる対応では混乱し、士気が下がる」
セリシアは冷静に反論する。
「それは短期的な問題です。長期的に見れば、敵に予測されない軍こそが強いのです」
議論は白熱した。俺は黙って観察していたが、ある違和感を覚えていた。
(彼女の理論は完璧だが、何か足りない……)
セリシアの戦術は論理的に正しい。だが、そこには「人間」という要素が欠けているように思えた。
彼女の眼差しには冷たさがあったが、その奥に何か——使命感や孤独さのようなものも垣間見えた気がした。論理に生きる彼女の内面には、何があるのだろう。
「エストガード殿」
突然、将軍が俺の名を呼んだ。
「はい」
「君はタロカの対局者として、この状況をどう見る?」
一瞬、部屋中の視線が俺に集まった。多くは「何を言い出すんだ」という軽蔑の眼差し。セリシアも冷ややかな目で俺を見ていた。
「私はセリシア少佐の分析に異論はありません。しかし、補足したい点があります」
俺は席を立ち、ゆっくりと話し始めた。
「タロカでは、相手の読みを外すために牌を変則的に切ることがあります。それは理論的には正しい戦術です」
セリシアは僅かに眉を上げた。
「しかし、そのような変則的な動きは、時に自分自身の流れも崩してしまう。人間は機械ではなく、常に論理的に動けるわけではありません」
俺は別の提案をした。変則的な対応をするのは良いが、それを徐々に段階的に変えていくこと。兵士たちにも理解させながら、少しずつ対応パターンを変化させる方法だ。
「それでは敵に読まれるリスクが残る」
セリシアが即座に反論した。
「はい、短期的にはそうです。しかし、兵士たちの混乱が少なければ、より正確に命令を実行できます。理論と実践のバランスが重要なのではないでしょうか」
会議室が静まり返った。若造の提案に、将校たちは半信半疑の表情だ。
「面白い視点だ」
将軍がようやく口を開いた。
「セリシアの理論と、エストガードの実践感覚。両方に価値がある」
そして驚くべき指示を出した。
「両方の案を準備せよ。二つの対応策を競わせて、より効果的な方を実戦に採用する」
会議終了後、俺はセリシアに近づいた。
「初めまして、ソウイチロウ・エストガードです」
彼女は冷たい目で俺を見た。
「セリシア・ヴェル=ライン。私の案に異を唱えるとは、大胆ね」
「異を唱えたわけではありません。ただ、違う視点から見ただけです」
「そう」
彼女は俺を値踏みするように見つめた後、小さく呟いた。
「タロカの戦術家か。興味深いわ」
そう言うと、彼女は踵を返して歩き去った。
俺はその後ろ姿を見ながら、内心でつぶやいた。
「……卓が整ったな」