「三崎、お前の番だ」
カチンッという牌を切る音が、俺の意識を現実に引き戻した。目の前の卓には、整然と並んだ牌の壁。そして自分の手前には、無機質に並ぶ手牌。
「ああ、わりぃ」
ぼんやりしていた理由など言い訳にならない。俺は無言で牌を引き、不要な一枚を切った。
今日、俺は大学受験に失敗した。
第一志望どころか、滑り止めにしていた大学にすら引っかからなかった。悪い成績ではなかったはずだ。「もう少し勉強していれば」と言われた言葉が、まだ耳に残っている。
「三崎、志望校どうだった?」
「落ちた」
雀荘の常連である中年男性・上原さんが聞いてきた。特に親しい間柄でもないが、ここ一年ほど顔を合わせる仲だ。彼は社会人で、仕事帰りに寄ることが多いらしい。
「そりゃあ残念だったな。勉強より麻雀やってたもんな」
そう言いながら彼は笑った。別に嫌味を言っているわけじゃない。事実だからだ。俺が高校三年の間、どれだけこの雀荘「胡蝶」に入り浸っていたか。受験勉強よりも麻雀の戦術書を読み、予備校より雀荘に足を運んでいた。
リーチ、ツモ、ロン——。
あの頃は勝つことだけを求めて牌を並べていた。雀荘代を稼ぐために、少しでも高い役を狙って、無謀な待ちに入ることもあった。高校一年の時は勝率も低く、よく先輩たちに絞られたものだ。だが二年になるとコツを掴み、三年になる頃には胡蝶では名の知れた存在になっていた。
かつて熱中した麻雀にも虚しさを感じるようになったのは、いつからだろう。勝っても何も変わらない。負けても何も失わない。ただ時間だけが過ぎていく閉塞感。
「どうする? 浪人?」
対面の女子大生・美咲さんが聞いてきた。彼女もまた常連の一人で、麻雀が強い。
「どうするかな……」
心にもない返事をしながら、俺は手牌を眺めた。
ドラは九索。手牌は一向聴で、待ちとしては悪くない。この展開なら、普通なら迷わず追いかけるところだ。
「リーチ」
上家の声とともに、牌が音を立てて場に置かれる。
ついさっきまで勝率を考え、追いかけようと思ったのに、急に虚しさが襲ってきた。結局俺は、何も変わっていない。受験も失敗して、未来も見えないまま、麻雀に没頭して……。
あれだけ麻雀に情熱を注いだのに、最後には「勝ちたい」という気持ちすら薄れていた。目標を失い、情熱も失い、今の俺には何も残っていない。
「チー」
気がつけば、俺は手牌を崩していた。一向聴を維持するより、早めの上がりを取りに行こうと思ったわけでもない。ただ何となく、思考が停止していた。
上原さんが「あれ?」と首をかしげるのが見えた。確かに今の俺の打牌は不可解だ。待ちの形が良かったのに、わざわざチーして手を崩す必要はなかった。
結局その局は、他の誰かの和了で終わった。
「宗一郎、今日お前、集中してないな」
場を流すために牌をかき混ぜながら、美咲さんが言った。
「そうか?」
「そうよ。昔のお前なら、あんな中途半端な切り方しないでしょ。勝ちを狙いに行くタイプだったのに」
「……」
彼女の言葉に反論できなかった。そういえば最近、勝ちに執着しなくなっていた。麻雀は上手くなったはずなのに、勝つことへの執着は薄れていた。
俺は大学受験に失敗した。麻雀のために勉強をサボったせいだ。なのに今、麻雀にすら本気で向き合っていない自分がいる。
「今日はもういいや」
俺は席を立ち、卓を離れた。今日のトータルでの点数負けはまだ軽微だが、気分の問題だった。
「もう帰るのか? 最近すぐ帰るよな」
「また来るよ」
嘘ではなかった。でも自分でも、この雀荘にいる意味がわからなくなっていた。麻雀が好きで、勝ちたくて、そのために勉強も犠牲にしてきたはず。なのに今は……。
「……俺、もう勝ちたいとも思わなくなってたのか」
店を出て、夜の街に立つと、そんな言葉が心の中でこだました。
まだ帰りたくなかった。親に顔を合わせたら、受験の話をされるだろう。「だから言ったでしょ」と母に説教されるのも嫌だった。
信号が青に変わり、俺は横断歩道を渡り始めた。
ふと思い出したのは、さっきの手牌。あの時の待ちは悪くなかった。ドラも絡んでいたし、あのまま追いかければ、もしかすると……。
耳を突き破るようなクラクションの音。
目の前に迫る大型トラック。
「っ!」
避けようと体を動かした瞬間、視界が真っ暗になった。
意識が遠のいていく中、最後に思い浮かんだのは、あの手牌と、勝てたかもしれないという後悔。
(悪くない待ちだったかもな……)
その皮肉な言葉を最後に、世界が闇に沈んだ。