第31話「戦後の静寂」

王都の朝は静かに始まる。窓から差し込む柔らかな日差しに目を覚ました俺は、しばらくベッドの中で天井を見つめていた。柔らかすぎるマットレス、絹のようなシーツ、豪華な部屋の調度品——未だに現実感が湧かない。 昨日の謁見式と授章式。「王国戦術師」「戦術の神子」の称号。あれは本当に俺に起きたことなのだろうか。まるで誰か別の人間の人生を生きているような感覚だった。 「はぁ……」 深いため息をつきながら起き上がる。今日は将軍との会議がある。次の任務について、だ。休む間もなく、また戦場へ赴くのだろうか。 身支度を整えていると、ノックの音がした。 「どうぞ」 ドアが開き、シバタ大尉が入ってきた。 「おはよう、ソウイチロウ」大尉は元気な声で言った。「もう目が覚めたか」 「ええ」俺は頷いた。「朝食はこれから」 大尉は部屋を見回し、少し笑みを浮かべた。 「豪華な部屋だな。落ち着かないだろう?」 「まさにその通りです」俺は正直に答えた。「野営地のテントの方がまだ居心地がいいくらいです」 大尉は大きく笑った。その笑い声に、少し緊張が解けた気がする。 「分かるぞ」彼は言った。「私も最初は慣れなかった。戦場から宮廷への移行は、新たな戦いのようなものだ」 その言葉に共感する。確かに、政治の世界は戦場とは違った意味で緊張を強いられる。 「将軍との会議は?」俺は尋ねた。 「朝食後、第三作戦室だ」大尉は答えた。「セリシアも来る」 その後、大尉は昨夜の宴会での評判を教えてくれた。貴族たちの間では俺の話題で持ちきりだったという。若くして王国戦術師の称号を得た初の人物として、好奇の目で見られていたようだ。 「特にお嬢様方は興味津々だったぞ」大尉はからかうように言った。「若き天才戦術家に憧れる乙女は多い」 「冗談でしょう」俺は呆れた表情で答えた。 「冗談じゃない」大尉は真面目な顔になった。「既に何人かの貴族から婚姻の打診があったほどだ」 その言葉に、俺は思わず咳き込んだ。 「な、何を言ってるんですか! 俺はまだ……」 実年齢ではなく、この世界での俺は18歳。確かに結婚適齢期ではあるが、そんなことを考える余裕など全くなかった。 「心配するな」大尉は笑った。「将軍がすべて断っている。軍務を優先させるためにな」 それは安心したが、同時に複雑な気持ちになった。俺の人生は既に自分の手を離れ、軍と王国の所有物になりつつあるようだ。 大尉と別れ、俺は食堂へと向かった。そこにはセリシアの姿があった。彼女は窓際のテーブルに座り、何かの書類に目を通していた。 「おはよう」俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。 「おはよう」彼女も笑顔で返した。「よく眠れた?」 「まあね」俺は彼女の向かいに座った。「豪華すぎて落ち着かなかったけど」 食事が運ばれてきた。野菜たっぷりのオムレツ、焼きたてのパン、新鮮なフルーツ——戦場での粗末な食事と比べれば、まるで夢のようだ。 「フェリナの様子は?」食事をしながら俺は尋ねた。 「今朝見舞いに行ったわ」セリシアは答えた。「順調に回復してるみたい。でも、まだしばらくは安静にしてないといけないって」 それは良いニュースだった。フェリナの傷は思ったより深く、一時は生命の危険もあったほどだ。彼女が回復に向かっていることが何よりも嬉しい。 「将軍との会議、緊張する?」セリシアが俺の表情を見て尋ねた。 「少しね」俺は正直に答えた。「次の任務がどんなものか……」 「私も気になる」彼女は少し声を落とした。「コルム丘陵での戦いは終わったけど、ラドルフとの戦いはまだ続くでしょうね」 彼女の言葉に、俺は静かに頷いた。赤眼の魔将ラドルフ。あの強大な敵は簡単に諦めるタイプではない。次の戦いはもっと熾烈なものになるだろう。 朝食を終え、俺たちは第三作戦室へと向かった。王宮の西翼にある軍事施設だ。兵士たちが行き交い、緊張感のある空気が漂っている。 作戦室に入ると、アルヴェン将軍が既に待っていた。彼は大きな地図の前に立ち、何かを考え込んでいる様子だった。 「やあ、来たか」将軍は俺たちに気づくと微笑んだ。「座ってくれ」 俺とセリシアは指定された席に座った。テーブルには様々な書類や地図が広げられている。 「まず、コルム丘陵の戦いについて総括しよう」将軍は言った。「君たちの戦術は見事だった。特に『見えない一手』の作戦は、戦争史に残るだろう」 その言葉に、少し恥ずかしくなった。 「運も味方してくれました」俺は控えめに言った。 「運?」将軍は眉を上げた。「運を味方につけるのも才能の一つだ。君の判断力と洞察力が、勝利をもたらした」 そこまで言われると、もう反論する余地はない。ただ黙って頭を下げるしかなかった。 「さて、本題だ」将軍は表情を引き締めた。「次の任務について話そう」 俺とセリシアは身を乗り出した。 「君をいったん王都に留めておきたい」 予想外の言葉に、俺は驚いた。 「王都に、ですか?」 「ああ」将軍は頷いた。「二つの理由がある。一つは君の休息のため。短期間に何度も激戦を経験した。心身を休める必要がある」 確かに、俺は疲れていた。コルム丘陵の戦いだけでなく、その前のギアラ砦、サンガード要塞と、連戦続きだった。しかし、休息の必要性は感じつつも、それが主な理由とは思えなかった。 「もう一つの理由は?」俺は尋ねた。 将軍は少し躊躇ったが、やがて口を開いた。 「政治的な理由だ」彼は静かに言った。「昨夜の宴会でも気づいただろう。君の急速な台頭に対して、反感を持つ者たちもいる」 バイアス伯爵の冷たい視線が脳裏に浮かんだ。 「保守派の貴族たちは、若い将官の昇進に批判的だ」将軍は続けた。「特に君のように、従来の序列を飛び越えて重要な地位を得た者には」 「つまり」セリシアが口を挟んだ。「ソウイチロウを王都に留め、政治的な基盤を固めるということ?」 「その通りだ」将軍は頷いた。「彼の才能を潰させるわけにはいかない。一時的に表舞台から退き、内部での立場を固める。それが最善だと判断した」 俺は複雑な思いで黙り込んだ。戦場から離れるのは本意ではないが、将軍の言うことには理があった。いくら戦場で功績を挙げても、内部の支持がなければ長くは続かない。 「では、俺は何をすれば?」俺は尋ねた。 「王宮での軍事教練と、作戦立案だ」将軍は答えた。「若い士官たちに君の戦術を教え、また、今後の戦略について意見を求めたい」 教官か——それも悪くない。自分の経験を若い士官たちに伝えることで、王国軍全体の戦力向上に貢献できる。 「わかりました」俺は頷いた。「将軍のご判断に従います」 「良い決断だ」将軍は満足そうに言った。「そして、セリシア」 「はい」彼女はきびきびと答えた。 「君は王宮への報告任務を任せたい」将軍は言った。「コルム丘陵の詳細な戦術分析を、軍議会に提出するんだ」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第32話「軍神と呼ばれて」

王都での日々が始まって一週間が経った。俺は宮殿近くの軍事施設で、若い士官たちに戦術指導をする毎日を送っていた。今日も朝から講義を終え、昼食を取るために王宮の食堂に向かっていた。 「ソウイチロウ殿!」 廊下から声がかかり、振り返ると中年の貴族風の男性が近づいてきた。彼の名はグラント伯爵、王宮の儀典長だ。この一週間で何度か顔を合わせている。 「グラント伯爵」俺は軽く礼をした。「何か?」 「明日の勲章式の件で」伯爵は嬉しそうに言った。「陛下より特別の配慮があり、あなた様には前列での着席が許されました」 ああ、明日の勲章式——王国の祝祭日に行われる恒例の式典だ。様々な功績を挙げた人々に勲章が授与される。俺は既に勲章をもらっているが、儀礼的な参列を求められていた。 「ありがとうございます」俺は丁寧に答えた。「光栄です」 伯爵は更に話を続けようとしたが、俺は少し急いでいることを伝え、礼儀正しく別れを告げた。 食堂に入ると、セリシアが既に席についていた。彼女も王宮での任務に追われる日々を送っている。 「やっと来たわね」彼女は時計を見て言った。「遅いと思ったわ」 「すまない」俺は席に着いた。「グラント伯爵に捕まって」 「儀典長?」セリシアは驚いた顔をした。「また何か儀式かしら」 「ああ、明日の勲章式の件だ」俺は少し面倒そうに言った。「前列に座れるとかなんとか」 セリシアは少し笑みを浮かべた。「栄誉ね。でも大変そう」 「正直、そういうのは苦手だよ」俺は正直に答えた。「堅苦しいし、何を話していいかわからないし」 食事が運ばれてきた。王都の食事は毎回豪華だ。今日は魚のムニエルに季節の野菜添え、それにスープとパン。戦場での粗末な食事に慣れた身には、まだ贅沢に感じる。 「今日の教練はどうだった?」セリシアが尋ねた。 「悪くないよ」俺は答えた。「若い士官たちは熱心だし、吸収も早い。特に『流れ』の概念には興味津々だった」 俺は麻雀(タロカ)で培った"読み"と"流れ"の感覚を、戦術に応用する方法を教えている。それは体系化された教えというより、感覚的なものだが、若い士官たちは意外なほど熱心に聞いてくれる。 「それは良かったわ」セリシアは嬉しそうに言った。「あなたの才能が広まっていけば、王国全体の戦力向上につながるわ」 彼女の言葉に、少し誇らしい気持ちになった。自分の経験が誰かの役に立つのは嬉しいことだ。 「君は?」俺は尋ねた。「報告書は終わった?」 「ようやく最終段階よ」セリシアは少し疲れた表情を見せた。「軍議会からの質問が途切れなくて。特に保守派の将校たちは細かいところまで突っ込んでくるの」 コルム丘陵の戦いの詳細な記録と分析——それは簡単な仕事ではない。特に保守派からの批判的な目にさらされればなおさらだ。 「大変だね」俺は共感の表情を見せた。「何か手伝えることある?」 「大丈夫」セリシアは微笑んだ。「あと少しよ。それより、あなたは?」 「俺?」 「そう」彼女は俺の顔をじっと見た。「ここでの生活に慣れた?」 その問いに、俺は少し考え込んだ。確かに王都での暮らしは物理的には快適だ。豪華な部屋、美味しい食事、清潔な服——全てが揃っている。だが、どこか落ち着かない感覚も残ったままだった。 「まあ、少しずつかな」俺は曖昧に答えた。「でも、やっぱり戦場の方が自分に合ってる気がする」 セリシアは理解したように頷いた。彼女もまた、戦場で鍛えられた参謀官。この平和な宮廷生活には馴染みにくいだろう。 食事を終え、俺たちは中庭に出た。ちょうど昼休みで、多くの宮廷人や士官たちが日光浴をしたり、談笑したりしている。 「あそこを見て」セリシアが小声で言った。 彼女の視線の先には、派手な装いの若い貴族たちのグループがいた。彼らは俺たちの方をちらちらと見ながら、何か話している。 「俺のことかな?」俺は少し居心地悪そうに言った。 「間違いないわ」セリシアは冷静に分析した。「あれは名家の若い貴族たち。新たな『戦術の神子』に興味津々みたいね」 俺は少し顔をしかめた。王都に来てから、そういう視線を感じることが多い。好奇の目、羨望の目、時には敵意の目——様々な感情が俺に向けられている。 「やれやれ」俺は溜息をついた。「俺は神じゃない。ただの"勝負師"だ」 その言葉は心の底から出てきた。麻雀(タロカ)で培った「読み」を活かしてるだけなのに、なぜこんなに大げさに扱われるのか。 「でも、あなたは特別よ」セリシアは静かに言った。「一般の人には理解できない才能を持っている」 特別か——それは前世では考えられなかった言葉だ。大学受験に失敗し、麻雀に明け暮れる日々。「特別」どころか、「普通以下」と思われていた。 そんな俺が、今や「戦術の神子」と称される存在になっている。人生とは皮肉なものだ。 「行きましょう」セリシアが手を引いた。「次の予定があるでしょう?」 「ああ」俺は我に返った。「午後は上級士官との戦術会議だ」 二人で中庭を後にし、それぞれの持ち場に向かった。セリシアは軍議会への報告書を仕上げるため、俺は戦術会議のために軍事施設へと足を運ぶ。 *** その日の夕方、俺は予定されていた貴族の招待会に出席していた。王宮の大広間で開かれたその会には、多くの高官や貴族が集まっていた。俺はアルヴェン将軍の隣に立ち、次々と挨拶に来る人々に応対していた。 「ソウイチロウ殿、コルム丘陵の戦術はまさに神業でしたな」 「あなたほどの若き才能は百年に一人と言われています」 「我が家の息子も軍に入れましたが、ぜひご指導を」 様々な言葉が向けられる中、俺は礼儀正しく、しかし控えめに応じていた。時に将軍が助け舟を出してくれることもあり、何とか場をしのいでいた。 「疲れただろう」会の中盤、将軍が小声で俺に言った。「少し休んでもいいぞ」 「大丈夫です」俺は微笑みを保ちながら答えた。「将軍のおかげで助かっています」 しかし、内心では確かに疲労を感じていた。笑顔を作り、社交辞令を繰り返す——それは戦場での緊張とは別種の疲れを生む。 しばらくして、一人の中年男性が近づいてきた。華やかな服装と高慢な態度から、高位の貴族だとわかる。 「ソウイチロウ殿」彼は形式的に頭を下げた。「お初にお目にかかります。ヴァリウス侯爵と申します」 「侯爵閣下」俺は丁寧に応じた。「お会いできて光栄です」 アルヴェン将軍が少し緊張した表情になったのを、俺は見逃さなかった。この侯爵は何か重要な人物のようだ。 「コルム丘陵での勝利、誠に見事でした」侯爵は言った。「王国の英雄となられましたな」 「ありがとうございます」俺は謙虚に答えた。「しかし、あれは全兵士の尽力の賜物です」 侯爵は含み笑いを浮かべた。 「謙虚ですな」彼は言った。「さて、一つご提案があります」 侯爵は少し声を落とし、続けた。 「私には年頃の娘がおります。彼女は教養高く、淑女としての嗜みも完璧。ソウイチロウ殿のような若き英雄との縁組みは、双方にとって有益かと」 その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。婚姻話? それも初対面でいきなり? 「侯爵閣下」アルヴェン将軍が間に入った。「ソウイチロウ殿は現在、軍務に専念しております。個人的な事柄は後日改めて」 将軍の機転に、俺は内心で感謝した。 「そうですか」侯爵は少し不満そうに言った。「ではまた改めて」 侯爵が去った後、将軍が小声で言った。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第33話「それぞれの想い」

勲章式は予想通りの華やかさで執り行われた。宮殿の大広間は装飾で彩られ、国内の高官や貴族たちが揃い踏み。俺は前列の席に座り、式典の進行を見守っていた。 様々な功績を挙げた人々が次々と呼ばれ、国王陛下より勲章を授かる。軍人、役人、学者、商人——それぞれの分野で国に貢献した人々だ。俺自身はすでに勲章を貰っていたため、今回は儀礼的な参列のみだった。 終わりに近づいた頃、軽い憂鬱感が俺を包んでいた。こうした儀式はやはり苦手だ。儀礼、形式、表面的な社交——それらは俺の本質とはどこか相容れない。 式典が終わり、参列者たちがそれぞれ歓談する中、アルヴェン将軍が俺に近づいてきた。 「ソウイチロウ」将軍は低い声で言った。「一時間後、第二作戦室に来てくれ。会議を開く」 「了解しました」俺は頷いた。「セリシアとシバタ大尉も?」 「ああ」将軍も頷いた。「すでに伝えてある」 将軍が去った後、俺は大広間を出て、少し早めに作戦室へと向かった。廊下を歩きながら、次の任務について考える。おそらく前線に戻れる——そう期待していた。 作戦室に着くと、既にセリシアが待っていた。彼女は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。 「やあ」俺が声をかけると、彼女は振り返った。 「早かったのね」セリシアは微笑んだ。「式典は退屈だった?」 「まあね」俺は素直に答えた。「ああいうのは苦手だから」 二人で窓の外を眺めると、宮殿の庭園が広がっていた。整えられた植え込み、色とりどりの花々、噴水——すべてが計算され尽くした美しさだ。 「将軍は何を話すつもりかしら」セリシアが静かに言った。 「次の任務じゃないかな」俺は期待を込めて答えた。「前線に戻れるといいんだけど」 セリシアは少し考え込むような表情になった。 「前線残留か、軍中枢か」彼女が突然尋ねた。「あなたはどちらを望む?」 その問いに、俺は少し驚いた。セリシアらしくない質問だった。彼女は通常、感情より論理を優先する人だ。 「前線だよ」俺は迷わず答えた。「俺は実戦の中でこそ力を発揮できるから」 「そう」セリシアは小さく頷いた。「予想通りの答えね」 彼女の表情には、何か言いたいことがあるように見えた。だが、そのとき、ドアが開き、シバタ大尉が入ってきた。 「やあ、二人とも早いな」大尉は明るく言った。「将軍はもうすぐ来るはずだ」 間もなく、アルヴェン将軍も現れ、会議が始まった。 「皆、集まってくれてありがとう」将軍は重厚な声で言った。「今日は重要な話がある」 俺たちは身を乗り出して聞いた。 「ラドルフがコルム丘陵から撤退した後、帝国軍は一時沈黙していた」将軍は地図を指しながら説明した。「しかし、最近の偵察によれば、彼らは南部前線で再び動き始めている」 地図には南部国境に赤い印が付けられていた。 「特にマラント山脈周辺での兵力増強が顕著だ」将軍は続けた。「我々の予測では、彼らは山脈を越えて王国の南部平原を目指している」 マラント山脈——国境を形成する山々で、天然の防壁となっている。しかし、幾つかの峠や渓谷があり、兵力が通過することは可能だ。 「南部平原が落ちれば、王都への道が開かれる」将軍の表情が厳しくなった。「それだけは避けなければならない」 俺たちは状況の深刻さを理解し、黙って頷いた。 「そこで」将軍はいよいよ本題に入った。「ソウイチロウ、お前には選択してほしい」 「選択、ですか?」 「ああ」将軍は真剣な表情で言った。「お前には二つの道がある。一つは南部前線に赴き、ラドルフとの再戦に備えること。もう一つは王都の軍中枢に残り、戦略立案の中核となること」 まさにセリシアが先ほど尋ねたことだ。彼女は既に何かを察していたのだろうか。 「どちらも重要な役割だ」将軍は続けた。「選択はお前に任せる」 俺は少し考え込んだ。直感的には前線を選びたい。しかし、軍中枢での役割も重要だと理解していた。 「考える時間をください」俺は答えた。 「もちろんだ」将軍は頷いた。「明日までに決めてくれ」 会議はさらに続き、南部前線の詳細な状況や、帝国軍の動向などが報告された。ラドルフは敗北から学び、新たな戦術を練っているという。彼の「魂の鎖」の効果も、以前より強力になっている可能性があるとのことだった。 会議が終わり、それぞれが部屋を出る際、セリシアが俺に小声で言った。 「話があるわ。夕方、東の塔の展望台に来て」 彼女の表情は真剣で、何か重要な話があるようだった。 「わかった」俺は頷いた。「夕方に」 *** 午後、俺はフェリナの見舞いに行った。彼女は順調に回復しており、既にベッドから起き上がって椅子に座れるようになっていた。 「調子はどう?」俺が尋ねると、彼女は微笑んだ。 「だいぶ良くなったわ」フェリナは答えた。「もうすぐ退院できそうよ」 それは本当に良いニュースだった。彼女の傷は深く、一時は生命の危険もあったほどだ。 「良かった」俺は心から言った。「無理はするなよ」 フェリナは少し笑い、そして表情を変えた。 「さっき、斥候から報告があったわ」彼女は真剣な声で言った。「ラドルフの動向について」 彼女は情報将校として、病床にありながらも情報収集を続けていた。 「彼はまだ終わっていない」フェリナは静かに言った。「マラント山脈での兵力増強は、単なる前哨戦に過ぎないわ。彼は大きな計画を持っている」 「どういう意味だ?」俺は身を乗り出した。 「詳細はまだわからないけど」彼女は続けた。「彼は単なる軍事行動を超えた何かを準備しているみたい。禁忌の魔術に関連するかもしれない情報もあるわ」 禁忌の魔術——ラドルフの「魂の鎖」もその一種だが、彼がさらに強力な魔術を手に入れようとしているのなら、事態は深刻だ。 「この情報は将軍に報告した?」俺は尋ねた。 「ええ」フェリナは頷いた。「でも、確証がないから、あくまで可能性の一つとして」 俺は考え込んだ。ラドルフの新たな動き、禁忌の魔術、南部前線——全てが複雑に絡み合っている。 「将軍から選択を迫られてるんでしょう?」フェリナが突然言った。「前線か、軍中枢か」 彼女の洞察力に、俺は驚いた。 「どうしてわかったんだ?」 「予測できたわ」彼女は小さく笑った。「あなたの才能は前線でも本部でも必要とされるもの。いつか選択を迫られる時が来ると思ってたわ」 フェリナの目は真剣だった。 「あなたは"戦いの先"に何を見るの?」彼女が静かに尋ねた。 その問いに、俺は答えに窮した。戦いの先? そんなことを考えたことがなかった。ただ目の前の戦いに勝つこと、与えられた任務を遂行すること——それだけを考えてきた。 「わからない」俺は正直に答えた。「まだ自分でも見えていない」 フェリナは少し悲しそうな表情をした。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第34話「闇に潜む声」

翌朝、俺はアルヴェン将軍に答えを告げるため、執務室を訪れた。昨日の選択——前線か軍中枢か——の返答をするためだ。一晩かけて考え、俺なりの結論を出していた。 「入れ」 ノックに対する返事と共に、俺は部屋に入った。広々とした執務室には書類が積み上げられ、壁には詳細な地図が掛けられている。将軍は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。 「おはよう、ソウイチロウ」将軍は振り返った。「決心はついたか?」 「はい」俺は頷いた。「南部前線を志願します」 将軍は意外そうな表情を見せた。 「軍中枢ではなく?」 「はい」俺は静かに答えた。「実戦の中でこそ、俺の力は活きると思います。現場での判断、『流れ』の読み——それが俺の強みです」 将軍はしばらく俺を見つめ、やがて微笑んだ。 「正直な答えだ」彼は言った。「実は、私もそう思っていた」 その言葉に、少し安心した。将軍も同じ考えだったのだ。 「南部前線への配属を認める」将軍は続けた。「セリシアも既に志願しており、彼女と共に現地指揮部に配属する」 「ありがとうございます」俺は深く頭を下げた。 将軍はさらに詳細を説明しようとしたが、そのとき、緊急を知らせるノックが響いた。 「入れ」将軍が声を上げた。 ドアが開き、若い伝令兵が息を切らして入ってきた。 「将軍閣下! 緊急報告です」伝令兵は敬礼した。「北方国境から緊急電文が届きました」 将軍は表情を引き締め、伝令兵から封筒を受け取った。素早く開封し、中の文書に目を通す。その表情が次第に厳しくなっていくのを、俺は見逃さなかった。 「これは……」将軍は呟いた。「確かな情報か?」 「はい」伝令兵は頷いた。「複数の情報源から確認されています」 将軍は文書を置き、暫く考え込んだ。 「ソウイチロウ」彼は俺を見た。「状況が変わった。この情報を聞いてから、もう一度選択を考え直してほしい」 俺は緊張しながら頷いた。 「北方国境の偵察隊が、敵の文書を入手した」将軍は言った。「それによれば、ラドルフの南部侵攻作戦は偽装で、真の目的は内通者との連携による王都直接攻略だという」 その情報に、俺は息を呑んだ。 「内通者? 王国内に?」 「ああ」将軍は厳しい表情で頷いた。「王国内の高位貴族や軍の一部が、敵と通じているらしい」 それは衝撃的な内容だった。敵は外にだけでなく、内部にもいるということだ。 「バイアス派ですか?」俺は直感的に尋ねた。 将軍は少し驚いたように俺を見た。 「なぜそう思う?」 「以前から警戒するよう言われていましたし」俺は答えた。「彼らは保守派で、若手の台頭に批判的。現状を変えたい動機があります」 将軍は静かに頷いた。 「鋭い洞察だ」彼は言った。「確証はないが、バイアス伯爵周辺に疑惑の目が向けられている」 内通者——それは敵以上に危険な存在だ。表向きは味方でありながら、内部から王国を蝕む。 「この状況で、もう一度聞く」将軍は真剣な表情で言った。「前線か、軍中枢か——どちらを選ぶ?」 俺は深く考えた。状況は一変している。内通者の存在は、戦略全体を見直す必要がある。 「軍中枢を志願します」俺は決断した。「内通者の調査と、王都防衛の戦略立案に関わりたい」 将軍は満足そうに頷いた。 「良い判断だ」彼は言った。「今は前線よりも、内部の危機に対処する方が重要だ」 伝令兵が退室した後、将軍は地図の前に俺を呼んだ。 「ラドルフの戦略を分析してほしい」彼は言った。「彼が本当に狙っているのは何か、彼の"流れ"を読んでくれ」 俺は地図を見つめ、タロカ石を取り出した。手のひらで石を転がしながら、“流れ"を感じようとする。 マラント山脈の南部前線、北方国境、そして王都——それらを結ぶ線をたどりながら、敵の意図を探る。 「南部侵攻は偽装……」俺は考えながら呟いた。「しかし、全くの囮というわけでもないでしょう。一定の兵力を投入して、我々の注意を引きつけている」 将軍は黙って頷いた。 「一方で」俺は続けた。「内通者と連携した王都攻略が本命。しかし、それは……」 言葉が途切れた。違和感を感じたのだ。 「もう一つあります」俺は慎重に言った。「これらは全て、さらに大きな策の一部かもしれません」 「どういう意味だ?」将軍が身を乗り出した。 「ラドルフは"流れを殺す"男」俺は説明した。「彼なら、我々の予測さえも計算に入れているはずです。南部侵攻が偽装だと気づくことも、内通者の存在を知ることも——全て彼の計算の範囲内かもしれない」 将軍の表情が厳しさを増した。 「そうか」彼は静かに言った。「三重、四重の罠か」 「可能性はあります」俺は頷いた。「だからこそ、軍中枢で全体を見る必要があると思いました」 将軍は暫く考え込み、やがて決断を下した。 「では正式に、お前を軍中枢の戦略立案部に配属する」彼は言った。「特に内通者の調査と、王都防衛計画の策定を任せたい」 「了解しました」俺は敬礼した。「全力を尽くします」 将軍は別の書類を取り出した。 「そして、セリシアについてだが」彼は言った。「彼女には調査任務を与えることにした」 「調査任務?」 「ああ」将軍は頷いた。「バイアス派の動向調査と、軍内部の不審な動きの監視だ。彼女は観察眼が鋭く、また貴族の血筋を持つため、上流社会に溶け込める」 セリシアが調査任務に志願したとは意外だった。彼女は前線での参謀任務を望んでいたはずだ。 「彼女は志願したのですか?」俺は尋ねた。 「ああ」将軍は少し複雑な表情で答えた。「昨夜、緊急事態を知らせた後、彼女から申し出があった」 昨夜——俺とセリシアが話した後のことだ。彼女は状況を知って、すぐに決断したのだろう。 「彼女は優秀な将校だ」将軍は言った。「この危機に、彼女の力が必要だ」 俺も同感だった。セリシアの鋭い観察眼と冷静な判断は、内通者調査に適している。 会議が終わり、俺は将軍の執務室を後にした。廊下を歩きながら、状況の重大さを噛みしめる。王国内の内通者、ラドルフの二重三重の策——この戦いは、単なる軍事衝突を超えている。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第35話「それでも、俺は卓に座る」

 内通者調査が始まって二週間が経った。俺は軍事施設の一室に籠もり、様々な情報を分析する日々を送っていた。地図、報告書、偵察データ、通信記録——それらを組み合わせ、敵の意図と内通者の痕跡を探る。タロカ石を手のひらで転がしながら、“流れ"を読み解こうとしていた。 この日も朝から作業に取り掛かっていたが、午前中にアルヴェン将軍から呼び出しがあった。 「緊急会議だ」将軍の伝令が告げた。「第一作戦室へすぐに来てほしい」 俺は手元の書類をまとめ、急いで向かった。 第一作戦室に入ると、将軍の他に高級将校たちが数名集まっていた。シバタ大尉の姿もある。全員が緊張した面持ちで、何か重大な情報が入ったことが察せられた。 「来たか」将軍が俺に気づき、頷いた。「急ぎの会議だ、すまない」 「何があったのですか?」俺は尋ねた。 将軍は机の上に地図を広げ、全員に聞こえるよう声を上げた。 「セリシアからの緊急報告が入った」彼は厳しい表情で言った。「バイアス伯爵が確かに帝国と通じている証拠を掴んだとのことだ」 その情報に、室内が騒然となった。 「証拠とは?」ある将校が尋ねた。 「暗号化された通信文と、密使の目撃情報だ」将軍は答えた。「セリシアは伯爵の屋敷に近づき、数日間の監視の末、帝国の使者と会談している場面を目撃した」 決定的な証拠だ。バイアス伯爵の裏切りはもはや疑いようがない。 「さらに」将軍は続けた。「軍内部の共謀者のリストも入手したとのことだ。特に調達部門の一部の士官が深く関わっている」 俺はフェリナから聞いていた情報を思い出した。彼女の調査が正しかったのだ。 「我々はどう対応すべきか?」シバタ大尉が尋ねた。 「直ちに国王陛下に報告し、伯爵の逮捕許可を得る」将軍は決然と言った。「同時に、軍内部の共謀者も一斉検挙する必要がある」 全員が同意し、具体的な対応策が議論された。逮捕のタイミング、証拠の保全、その後の政治的影響——様々な角度から検討が必要だった。 「ソウイチロウ」将軍が俺に向き直った。「君の分析は?」 全員の視線が俺に集まった。軍中枢の戦略立案官として、俺の意見が求められている。 「一つ気になることがあります」俺は慎重に言った。「タイミングです」 「タイミング?」将軍が眉を寄せた。 「はい」俺は続けた。「セリシアが証拠を掴んだのがあまりにも早い。二週間で決定的な証拠を入手するのは難しいはずです」 それは本当に気になっていた点だった。セリシアは有能だが、伯爵のような高位貴族の証拠を、そう簡単に掴めるものだろうか。 「何を言いたい?」将軍が真剣な表情で尋ねた。 「罠の可能性です」俺は率直に言った。「ラドルフは"流れを殺す"男。彼なら我々の動きを読み、誘導している可能性があります」 室内が静まり返った。俺の分析は厳しいものだったが、無視できない可能性だった。 「つまり」将軍がゆっくりと言った。「セリシアが見たものは仕組まれた状況かもしれないと?」 「その可能性も否定できません」俺は言った。「ラドルフなら、我々が内通者を探していることを予測し、偽の証拠を仕掛けるかもしれない」 シバタ大尉が思案顔で口を開いた。 「では、どうすべきだと?」 俺は深く考え、答えた。 「バイアス伯爵の逮捕は少し延期すべきです。まず確実な証拠を集め、同時に別の角度からも調査を続ける。そして、セリシアを一度呼び戻し、情報を直接聞くべきだと思います」 将軍は沈黙し、俺の提案を検討した。やがて彼は頷いた。 「慎重さは必要だ」彼は言った。「セリシアを呼び戻し、直接報告を聞こう。それまでは伯爵の逮捕は保留する」 多くの将校が同意の意を示し、会議は新たな方向性を見出した。伯爵への監視は続けつつも、直接的な行動は避ける。そして、セリシアを安全に呼び戻す手段を考える。 会議が終わり、俺は自分の執務室に戻った。窓の外は雨が降り始め、灰色の空が広がっていた。雨粒が窓を打つ音を聞きながら、俺は複雑な思いに浸った。 セリシアは大丈夫だろうか。彼女は危険な任務に就いている。もし彼女の報告が本物なら、彼女は既に敵に目をつけられているかもしれない。 そんな不安が頭をよぎる中、シバタ大尉が部屋に入ってきた。 「よく気づいたな」大尉は俺の肩を叩いた。「確かにタイミングが早すぎる。普通なら疑問に思わないところだ」 「ラドルフのことを考えると」俺は言った。「何事も簡単に信じるわけにはいきません」 大尉は頷き、窓の外の雨を見つめた。 「セリシアのことが心配か?」彼は尋ねた。 「ええ」俺は正直に答えた。「あの任務は危険だし、もし本当に証拠を掴んでいたら、彼女は標的になっているかもしれない」 「そうだな」大尉も同意した。「だが、彼女は優秀だ。自分の身を守る術を知っている」 その言葉に少し安心しつつも、不安は消えなかった。 「将軍は親書を送ることにした」大尉は続けた。「彼女を安全に呼び戻す手はずだ。明日には戻ってくるだろう」 俺は黙って頷いた。明日——セリシアが無事に戻ってくることを願うしかない。 *** 翌日、俺は朝から落ち着かなかった。セリシアが戻ってくる日だ。執務室で資料を整理しながら、時折窓の外を見る。昨日の雨は上がり、晴れた空が広がっていた。 正午過ぎ、フェリナが執務室を訪ねてきた。彼女は完全に回復し、情報将校としての任務に復帰していた。 「セリシアの報告書、読んだわ」彼女は少し疲れた表情で言った。「確かに不自然なところがある」 「やっぱりか」俺は身を乗り出した。「どういう点だ?」 「情報の精度が高すぎるのよ」フェリナは説明した。「まるで誰かに教えられたかのような詳細さ。それに、彼女の調査方法にも疑問がある」 フェリナの観察は鋭かった。彼女自身も情報将校として、何が自然で何が不自然かを見抜く目を持っている。 「でも」彼女は続けた。「だからといって、バイアス伯爵が無実というわけではないわ。彼の不審な動きは以前から確認されていたもの」 複雑な状況だ。伯爵は確かに怪しいが、今回の証拠は仕組まれたものかもしれない。 「セリシアは何時に到着する予定?」俺は尋ねた。 「夕方までには戻るはずよ」フェリナが答えた。「将軍の親書は確かに届いている」 その言葉に少し安心したが、不安は消えなかった。セリシアが無事に戻ってくるまで、落ち着かない気持ちだった。 午後、俺は再び地図と情報の分析に戻った。ラドルフの軍の動き、バイアス伯爵の活動記録、そして王国内の不審な事象——全てを繋げ、大きな絵を描こうとしていた。 タロカ石を並べながら、俺は"流れ"を読み解こうとする。麻雀(タロカ)での読みと同じように、断片的な情報から相手の意図を探る。 時間が過ぎていく中、夕方になっても、セリシアからの連絡はなかった。 「まだか……」 俺は窓の外を見ながら呟いた。太陽が傾き、王都に夕暮れが訪れようとしていた。 そのとき、急いだ足音が廊下に響き、ドアが勢いよく開いた。シバタ大尉だ。 「緊急事態だ」大尉の表情は緊張に満ちていた。「セリシアとの連絡が途絶えた」 俺の心臓が早鐘を打った。 「どういうことですか?」 「彼女を迎えに行った使者が、彼女の宿泊先を訪ねたが、彼女の姿はなかった」大尉は息を切らせながら言った。「部屋の様子から、争った形跡があるという」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人