翌朝、俺はアルヴェン将軍に答えを告げるため、執務室を訪れた。昨日の選択——前線か軍中枢か——の返答をするためだ。一晩かけて考え、俺なりの結論を出していた。
「入れ」
ノックに対する返事と共に、俺は部屋に入った。広々とした執務室には書類が積み上げられ、壁には詳細な地図が掛けられている。将軍は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。
「おはよう、ソウイチロウ」将軍は振り返った。「決心はついたか?」
「はい」俺は頷いた。「南部前線を志願します」
将軍は意外そうな表情を見せた。
「軍中枢ではなく?」
「はい」俺は静かに答えた。「実戦の中でこそ、俺の力は活きると思います。現場での判断、『流れ』の読み——それが俺の強みです」
将軍はしばらく俺を見つめ、やがて微笑んだ。
「正直な答えだ」彼は言った。「実は、私もそう思っていた」
その言葉に、少し安心した。将軍も同じ考えだったのだ。
「南部前線への配属を認める」将軍は続けた。「セリシアも既に志願しており、彼女と共に現地指揮部に配属する」
「ありがとうございます」俺は深く頭を下げた。
将軍はさらに詳細を説明しようとしたが、そのとき、緊急を知らせるノックが響いた。
「入れ」将軍が声を上げた。
ドアが開き、若い伝令兵が息を切らして入ってきた。
「将軍閣下! 緊急報告です」伝令兵は敬礼した。「北方国境から緊急電文が届きました」
将軍は表情を引き締め、伝令兵から封筒を受け取った。素早く開封し、中の文書に目を通す。その表情が次第に厳しくなっていくのを、俺は見逃さなかった。
「これは……」将軍は呟いた。「確かな情報か?」
「はい」伝令兵は頷いた。「複数の情報源から確認されています」
将軍は文書を置き、暫く考え込んだ。
「ソウイチロウ」彼は俺を見た。「状況が変わった。この情報を聞いてから、もう一度選択を考え直してほしい」
俺は緊張しながら頷いた。
「北方国境の偵察隊が、敵の文書を入手した」将軍は言った。「それによれば、ラドルフの南部侵攻作戦は偽装で、真の目的は内通者との連携による王都直接攻略だという」
その情報に、俺は息を呑んだ。
「内通者? 王国内に?」
「ああ」将軍は厳しい表情で頷いた。「王国内の高位貴族や軍の一部が、敵と通じているらしい」
それは衝撃的な内容だった。敵は外にだけでなく、内部にもいるということだ。
「バイアス派ですか?」俺は直感的に尋ねた。
将軍は少し驚いたように俺を見た。
「なぜそう思う?」
「以前から警戒するよう言われていましたし」俺は答えた。「彼らは保守派で、若手の台頭に批判的。現状を変えたい動機があります」
将軍は静かに頷いた。
「鋭い洞察だ」彼は言った。「確証はないが、バイアス伯爵周辺に疑惑の目が向けられている」
内通者——それは敵以上に危険な存在だ。表向きは味方でありながら、内部から王国を蝕む。
「この状況で、もう一度聞く」将軍は真剣な表情で言った。「前線か、軍中枢か——どちらを選ぶ?」
俺は深く考えた。状況は一変している。内通者の存在は、戦略全体を見直す必要がある。
「軍中枢を志願します」俺は決断した。「内通者の調査と、王都防衛の戦略立案に関わりたい」
将軍は満足そうに頷いた。
「良い判断だ」彼は言った。「今は前線よりも、内部の危機に対処する方が重要だ」
伝令兵が退室した後、将軍は地図の前に俺を呼んだ。
「ラドルフの戦略を分析してほしい」彼は言った。「彼が本当に狙っているのは何か、彼の"流れ"を読んでくれ」
俺は地図を見つめ、タロカ石を取り出した。手のひらで石を転がしながら、“流れ"を感じようとする。
マラント山脈の南部前線、北方国境、そして王都——それらを結ぶ線をたどりながら、敵の意図を探る。
「南部侵攻は偽装……」俺は考えながら呟いた。「しかし、全くの囮というわけでもないでしょう。一定の兵力を投入して、我々の注意を引きつけている」
将軍は黙って頷いた。
「一方で」俺は続けた。「内通者と連携した王都攻略が本命。しかし、それは……」
言葉が途切れた。違和感を感じたのだ。
「もう一つあります」俺は慎重に言った。「これらは全て、さらに大きな策の一部かもしれません」
「どういう意味だ?」将軍が身を乗り出した。
「ラドルフは"流れを殺す"男」俺は説明した。「彼なら、我々の予測さえも計算に入れているはずです。南部侵攻が偽装だと気づくことも、内通者の存在を知ることも——全て彼の計算の範囲内かもしれない」
将軍の表情が厳しさを増した。
「そうか」彼は静かに言った。「三重、四重の罠か」
「可能性はあります」俺は頷いた。「だからこそ、軍中枢で全体を見る必要があると思いました」
将軍は暫く考え込み、やがて決断を下した。
「では正式に、お前を軍中枢の戦略立案部に配属する」彼は言った。「特に内通者の調査と、王都防衛計画の策定を任せたい」
「了解しました」俺は敬礼した。「全力を尽くします」
将軍は別の書類を取り出した。
「そして、セリシアについてだが」彼は言った。「彼女には調査任務を与えることにした」
「調査任務?」
「ああ」将軍は頷いた。「バイアス派の動向調査と、軍内部の不審な動きの監視だ。彼女は観察眼が鋭く、また貴族の血筋を持つため、上流社会に溶け込める」
セリシアが調査任務に志願したとは意外だった。彼女は前線での参謀任務を望んでいたはずだ。
「彼女は志願したのですか?」俺は尋ねた。
「ああ」将軍は少し複雑な表情で答えた。「昨夜、緊急事態を知らせた後、彼女から申し出があった」
昨夜——俺とセリシアが話した後のことだ。彼女は状況を知って、すぐに決断したのだろう。
「彼女は優秀な将校だ」将軍は言った。「この危機に、彼女の力が必要だ」
俺も同感だった。セリシアの鋭い観察眼と冷静な判断は、内通者調査に適している。
会議が終わり、俺は将軍の執務室を後にした。廊下を歩きながら、状況の重大さを噛みしめる。王国内の内通者、ラドルフの二重三重の策——この戦いは、単なる軍事衝突を超えている。
そして、セリシアの調査任務。彼女は危険な役割を引き受けたことになる。内通者を探るということは、敵の真っ只中に身を置くことだ。
俺は彼女に会って話をしなければと思った。
***
セリシアを探して王宮内を歩いていると、図書室から出てくる彼女の姿を見つけた。彼女は書類の束を抱え、何か考え込んでいるようだった。
「セリシア」俺が声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「ソウイチロウ」彼女は微笑んだ。「将軍に会ったのね」
「ああ」俺は頷いた。「全て聞いた。君が調査任務を志願したことも」
セリシアは周囲を見回し、人気のない小さな中庭に俺を誘った。そこなら誰にも聞かれずに話せる。
「昨夜、将軍から緊急連絡があったの」彼女は静かに説明した。「内通者の可能性について。そして私は、その調査を志願したわ」
「危険だぞ」俺は心配そうに言った。「内通者を探るということは……」
「わかってるわ」彼女はきっぱりと言った。「でも、誰かがやらなければならない。私には貴族の血があり、上流社会に入り込める。それに……」
彼女は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「これも、戦いの一種よ」
その言葉に、反論できなかった。確かにこれは戦いだ。剣や槍を持たなくとも、情報と洞察を武器にした戦い。
「俺は軍中枢に残ることにした」俺は言った。「王都防衛と内通者対策の戦略立案に関わる」
セリシアは満足そうに頷いた。
「良い選択ね」彼女は言った。「あなたの"流れを読む"力が、今一番必要とされているのはそこよ」
二人は暫く沈黙し、小さな中庭の噴水を眺めた。戦いの形は変わっても、二人で協力して戦うことに変わりはない。
「気をつけてね」俺は真剣に言った。「何かあったらすぐに知らせてくれ」
「ええ」セリシアも真摯な表情で頷いた。「あなたも注意して。軍内部にも内通者がいる可能性があるわ」
その警告は重要だった。軍中枢にいるということは、敵に近いということでもある。
「わかった」俺は頷いた。「互いに気をつけよう」
別れ際、セリシアが不意に俺の手を取った。彼女らしくない行動に、少し驚く。
「必ず戻るわ」彼女は静かに言った。「だから、あなたも王都を守って」
その言葉に、心が温かくなった。
「約束する」俺は彼女の手をしっかりと握り返した。
セリシアが去った後、俺は中庭のベンチに座り、考えを整理した。状況は一変している。外からの敵だけでなく、内なる敵との戦いが始まろうとしている。
その午後、俺はフェリナの見舞いに行った。彼女はもうすぐ退院できるまでに回復していた。
「内通者の話は聞いたわ」フェリナは俺が入室するなり言った。「情報将校の立場から言えば、かなり前から疑惑はあったの」
「何?」俺は驚いた。「君は知っていたのか?」
「確証はなかったわ」彼女は真剣な表情で答えた。「でも、いくつかの軍事情報が敵に漏れている形跡があった。特にバイアス伯爵周辺の動きが不審だったの」
フェリナの情報は貴重だった。彼女は情報将校として、様々な情報源からデータを集めている。
「詳しく教えてくれないか?」俺は椅子に座った。
フェリナは自分が集めた情報を整理して話し始めた。バイアス伯爵の不審な動き、軍内部での反アルヴェン将軍派の活動、そして帝国との接触の痕跡。どれも決定的な証拠ではないが、総合すると内通の可能性は高い。
「特に半年前から」フェリナは言った。「伯爵の行動が変わったわ。秘密の会合が増え、不明な資金の動きもあるの」
「半年前?」俺は考え込んだ。「それって、ラドルフが前線の司令官に昇進した時期と一致するな」
フェリナは驚いたように俺を見た。
「そうね」彼女は頷いた。「確かにその頃よ」
時期の一致は偶然とは思えない。ラドルフの昇進とバイアス伯爵の行動変化——二つは繋がっているかもしれない。
「それから」フェリナはさらに続けた。「軍内部にも疑わしい動きがあるわ。特に調達部門の一部の士官たちが、重要な情報を外部に漏らしている形跡がある」
「調達部門か」俺は納得した。「兵站、補給路、物資の配置——戦略上重要な情報を扱う部署だな」
さらに話を聞くと、フェリナは独自に調査を続けてきたようだった。彼女の回復を妨げないよう、医師たちは知らぬふりをしていた。
「私も出られるようになったら」フェリナは決意を込めて言った。「調査に協力するわ。セリシアと連携して」
「大丈夫か?」俺は心配した。「まだ完全に回復してないだろ?」
「問題ないわ」彼女はきっぱりと言った。「私にも、やるべきことがある」
その決意に、俺は反論できなかった。フェリナもまた、この戦いの一員だ。
「わかった」俺は頷いた。「だが、無理はするな。命あっての調査だからな」
フェリナは微笑み、小さく頷いた。
「心配性ね」彼女はからかうように言った。「でも、ありがとう」
見舞いを終え、俺は軍事施設に向かった。新たな任務——軍中枢での戦略立案が始まる。内通者への対応、王都防衛計画、そして何よりラドルフの本当の狙いを見極めること。
施設に入ると、シバタ大尉が待っていた。
「来たか」大尉は俺を迎えた。「もう聞いたな? 内通者の件を」
「はい」俺は頷いた。「将軍から直接聞きました」
大尉は周囲を見回し、小声で言った。
「ここでの話は慎重にしろ」彼は警告した。「壁に耳あり、だ」
その警告は適切だった。内通者がいるということは、何気ない会話も漏れている可能性がある。
「了解です」俺も小声で返した。
「さあ、こっちだ」大尉は俺を奥の部屋へと案内した。「君の新しい執務室だ」
部屋に入ると、大きな地図と書類が並べられた机があった。ここが俺の新たな戦場となる。
「情報はすべてここに集約される」大尉は説明した。「君の仕事は、それらを分析し、ラドルフの真の意図を見抜くことだ」
俺は部屋を見回し、静かに頷いた。
「始めましょう」俺は決意を込めて言った。
そして、新たな戦いが始まった。敵は目に見える帝国軍だけでなく、目に見えない内通者たち。王国内部に潜む闇の声を探り、ラドルフの策を見抜く——それが俺の新たな任務だ。
「今度は敵が……味方の中ってわけか」
俺は小さく呟いた。戦いの形は変わっても、麻雀(タロカ)で培った"読み"の力が必要とされている。内なる敵を見極め、王国を守るために。
地図を広げ、情報を整理しながら、俺は静かに決意を新たにした。