王都での日々が始まって一週間が経った。俺は宮殿近くの軍事施設で、若い士官たちに戦術指導をする毎日を送っていた。今日も朝から講義を終え、昼食を取るために王宮の食堂に向かっていた。
「ソウイチロウ殿!」
廊下から声がかかり、振り返ると中年の貴族風の男性が近づいてきた。彼の名はグラント伯爵、王宮の儀典長だ。この一週間で何度か顔を合わせている。
「グラント伯爵」俺は軽く礼をした。「何か?」
「明日の勲章式の件で」伯爵は嬉しそうに言った。「陛下より特別の配慮があり、あなた様には前列での着席が許されました」
ああ、明日の勲章式——王国の祝祭日に行われる恒例の式典だ。様々な功績を挙げた人々に勲章が授与される。俺は既に勲章をもらっているが、儀礼的な参列を求められていた。
「ありがとうございます」俺は丁寧に答えた。「光栄です」
伯爵は更に話を続けようとしたが、俺は少し急いでいることを伝え、礼儀正しく別れを告げた。
食堂に入ると、セリシアが既に席についていた。彼女も王宮での任務に追われる日々を送っている。
「やっと来たわね」彼女は時計を見て言った。「遅いと思ったわ」
「すまない」俺は席に着いた。「グラント伯爵に捕まって」
「儀典長?」セリシアは驚いた顔をした。「また何か儀式かしら」
「ああ、明日の勲章式の件だ」俺は少し面倒そうに言った。「前列に座れるとかなんとか」
セリシアは少し笑みを浮かべた。「栄誉ね。でも大変そう」
「正直、そういうのは苦手だよ」俺は正直に答えた。「堅苦しいし、何を話していいかわからないし」
食事が運ばれてきた。王都の食事は毎回豪華だ。今日は魚のムニエルに季節の野菜添え、それにスープとパン。戦場での粗末な食事に慣れた身には、まだ贅沢に感じる。
「今日の教練はどうだった?」セリシアが尋ねた。
「悪くないよ」俺は答えた。「若い士官たちは熱心だし、吸収も早い。特に『流れ』の概念には興味津々だった」
俺は麻雀(タロカ)で培った"読み"と"流れ"の感覚を、戦術に応用する方法を教えている。それは体系化された教えというより、感覚的なものだが、若い士官たちは意外なほど熱心に聞いてくれる。
「それは良かったわ」セリシアは嬉しそうに言った。「あなたの才能が広まっていけば、王国全体の戦力向上につながるわ」
彼女の言葉に、少し誇らしい気持ちになった。自分の経験が誰かの役に立つのは嬉しいことだ。
「君は?」俺は尋ねた。「報告書は終わった?」
「ようやく最終段階よ」セリシアは少し疲れた表情を見せた。「軍議会からの質問が途切れなくて。特に保守派の将校たちは細かいところまで突っ込んでくるの」
コルム丘陵の戦いの詳細な記録と分析——それは簡単な仕事ではない。特に保守派からの批判的な目にさらされればなおさらだ。
「大変だね」俺は共感の表情を見せた。「何か手伝えることある?」
「大丈夫」セリシアは微笑んだ。「あと少しよ。それより、あなたは?」
「俺?」
「そう」彼女は俺の顔をじっと見た。「ここでの生活に慣れた?」
その問いに、俺は少し考え込んだ。確かに王都での暮らしは物理的には快適だ。豪華な部屋、美味しい食事、清潔な服——全てが揃っている。だが、どこか落ち着かない感覚も残ったままだった。
「まあ、少しずつかな」俺は曖昧に答えた。「でも、やっぱり戦場の方が自分に合ってる気がする」
セリシアは理解したように頷いた。彼女もまた、戦場で鍛えられた参謀官。この平和な宮廷生活には馴染みにくいだろう。
食事を終え、俺たちは中庭に出た。ちょうど昼休みで、多くの宮廷人や士官たちが日光浴をしたり、談笑したりしている。
「あそこを見て」セリシアが小声で言った。
彼女の視線の先には、派手な装いの若い貴族たちのグループがいた。彼らは俺たちの方をちらちらと見ながら、何か話している。
「俺のことかな?」俺は少し居心地悪そうに言った。
「間違いないわ」セリシアは冷静に分析した。「あれは名家の若い貴族たち。新たな『戦術の神子』に興味津々みたいね」
俺は少し顔をしかめた。王都に来てから、そういう視線を感じることが多い。好奇の目、羨望の目、時には敵意の目——様々な感情が俺に向けられている。
「やれやれ」俺は溜息をついた。「俺は神じゃない。ただの"勝負師"だ」
その言葉は心の底から出てきた。麻雀(タロカ)で培った「読み」を活かしてるだけなのに、なぜこんなに大げさに扱われるのか。
「でも、あなたは特別よ」セリシアは静かに言った。「一般の人には理解できない才能を持っている」
特別か——それは前世では考えられなかった言葉だ。大学受験に失敗し、麻雀に明け暮れる日々。「特別」どころか、「普通以下」と思われていた。
そんな俺が、今や「戦術の神子」と称される存在になっている。人生とは皮肉なものだ。
「行きましょう」セリシアが手を引いた。「次の予定があるでしょう?」
「ああ」俺は我に返った。「午後は上級士官との戦術会議だ」
二人で中庭を後にし、それぞれの持ち場に向かった。セリシアは軍議会への報告書を仕上げるため、俺は戦術会議のために軍事施設へと足を運ぶ。
***
その日の夕方、俺は予定されていた貴族の招待会に出席していた。王宮の大広間で開かれたその会には、多くの高官や貴族が集まっていた。俺はアルヴェン将軍の隣に立ち、次々と挨拶に来る人々に応対していた。
「ソウイチロウ殿、コルム丘陵の戦術はまさに神業でしたな」
「あなたほどの若き才能は百年に一人と言われています」
「我が家の息子も軍に入れましたが、ぜひご指導を」
様々な言葉が向けられる中、俺は礼儀正しく、しかし控えめに応じていた。時に将軍が助け舟を出してくれることもあり、何とか場をしのいでいた。
「疲れただろう」会の中盤、将軍が小声で俺に言った。「少し休んでもいいぞ」
「大丈夫です」俺は微笑みを保ちながら答えた。「将軍のおかげで助かっています」
しかし、内心では確かに疲労を感じていた。笑顔を作り、社交辞令を繰り返す——それは戦場での緊張とは別種の疲れを生む。
しばらくして、一人の中年男性が近づいてきた。華やかな服装と高慢な態度から、高位の貴族だとわかる。
「ソウイチロウ殿」彼は形式的に頭を下げた。「お初にお目にかかります。ヴァリウス侯爵と申します」
「侯爵閣下」俺は丁寧に応じた。「お会いできて光栄です」
アルヴェン将軍が少し緊張した表情になったのを、俺は見逃さなかった。この侯爵は何か重要な人物のようだ。
「コルム丘陵での勝利、誠に見事でした」侯爵は言った。「王国の英雄となられましたな」
「ありがとうございます」俺は謙虚に答えた。「しかし、あれは全兵士の尽力の賜物です」
侯爵は含み笑いを浮かべた。
「謙虚ですな」彼は言った。「さて、一つご提案があります」
侯爵は少し声を落とし、続けた。
「私には年頃の娘がおります。彼女は教養高く、淑女としての嗜みも完璧。ソウイチロウ殿のような若き英雄との縁組みは、双方にとって有益かと」
その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。婚姻話? それも初対面でいきなり?
「侯爵閣下」アルヴェン将軍が間に入った。「ソウイチロウ殿は現在、軍務に専念しております。個人的な事柄は後日改めて」
将軍の機転に、俺は内心で感謝した。
「そうですか」侯爵は少し不満そうに言った。「ではまた改めて」
侯爵が去った後、将軍が小声で言った。
「すまなかったな。彼は政治的な力を持つ侯爵だ。婚姻を通じて君を自分の陣営に取り込もうとしている」
「ありがとうございます」俺は本当に感謝していた。「でも、驚きました。こんな話が来るなんて」
「珍しくないぞ」将軍は少し苦笑した。「君は今や『戦術の神子』だ。多くの貴族が君との縁組みを望んでいる」
その言葉に、俺は困惑した。婚姻を通じた政治的な駆け引き——それは前世でも聞いたことはあったが、まさか自分が対象になるとは思ってもみなかった。
会が終わり、俺は疲れた様子で自室に戻った。今日一日、様々な人に会い、話をし、応対する——それは戦場での緊張感とは全く違う種類の疲労を生む。
部屋に入り、豪華な装飾を見渡す。絹のカーテン、彫刻が施された家具、柔らかなベッド——全てが贅沢だ。だが、どこか居心地が悪い。
窓から王都の夜景を眺めると、多くの明かりが街を彩っていた。遠くの民家から宮殿の周りまで、王都は夜も活気に満ちている。
しかし、俺はその群衆の中で一人、視線を落として歩いているような気分だった。「戦術の神子」という称号、貴族たちからの注目、婚姻話——全てが現実感のない出来事のように思える。
俺はポケットからタロカ石を取り出し、手のひらに載せた。この小さな石こそが、全ての始まりだった。タロカ(麻雀)の"読み"が俺を「神子」に変えた。
(神子なんかじゃない)
俺は心の中で呟いた。
(俺は神じゃない。ただの"勝負師"だ)
その思いは本心だった。俺は特別な存在ではない。ただ、前世で培った麻雀の感覚を活かしているだけだ。「流れ」を読み、一手先を予測する——それが「神業」と呼ばれるのは、なんとも皮肉なことだ。
ノックの音がして、ドアが開いた。シバタ大尉が入ってきた。
「やあ、疲れただろう」大尉は俺の表情を見て言った。「貴族の会は大変だったな」
「まあね」俺は少し笑った。「でも、何とかなりました」
大尉は部屋を見回し、窓際の椅子に座った。
「明日の勲章式の後、将軍が会議を開くそうだ」彼は言った。「君とセリシア、それに私も呼ばれている」
「何かあったんですか?」俺は少し心配になった。
「具体的には聞いていないが」大尉は肩をすくめた。「恐らく次の任務についてだろう」
次の任務——その言葉に、俺の心が少し躍った。王都での生活も悪くはないが、やはり戦場こそが俺の居場所だと感じていた。
「わかりました」俺は頷いた。「楽しみにしています」
大尉は少し笑みを浮かべた。
「王都の生活には合わないか?」
「いえ」俺は少し言葉を選んだ。「快適ですが、何か……違和感があるんです」
「わかるぞ」大尉は共感するように頷いた。「私も最初はそうだった。華やかな宮廷生活より、兵士たちと共にある戦場の方が居心地がいいと」
その言葉に、俺は安心した。自分だけが感じている違和感ではないのだ。
「ところで」大尉が少し声を落とした。「侯爵の娘との縁談、断ったそうだな」
その話題に、俺は苦笑した。
「将軍が助けてくれました」俺は正直に答えた。「俺には政治的な駆け引きは難しすぎます」
「賢明だ」大尉は頷いた。「バイアス派に近い侯爵だからな。婚姻を通じて君を取り込もうとしているのだろう」
バイアス派——これまでにも聞いた名前だ。保守派の領袖で、若手の台頭に批判的な勢力。俺のような「異端の戦術家」が台頭することを快く思っていない連中だ。
「気をつけます」俺は真剣に言った。
大尉はさらに今後の王都での動き方についてアドバイスをくれた。誰と親しくすべきか、誰に警戒すべきか——王都の政治は複雑で、一歩間違えば命取りになることもある。
話が終わり、大尉が去った後、俺は再び窓辺に立った。王都の夜景はますます華やかになり、宮殿前の広場では明日の勲章式の準備が進められている。
そんな光景を俺は少し離れた場所から眺めていた。「戦術の神子」と呼ばれる存在になった今も、どこか部外者のような感覚がある。まるで誰か別の人間の人生を借りて生きているような、そんな感覚だ。
タロカ石を握り締め、俺は静かに夜空を見上げた。明日はまた新たな一日。「神子」としての役割を演じながらも、本当の自分を見失わないよう、気をつけなければならない。
そう誓いながら、俺はベッドに横になった。明日の勲章式、そして将軍との会議——新たな展開が待っているかもしれない。
少しずつ眠りに落ちる中、俺の心は既に次の戦場を夢見ていた。