王都の朝は静かに始まる。窓から差し込む柔らかな日差しに目を覚ました俺は、しばらくベッドの中で天井を見つめていた。柔らかすぎるマットレス、絹のようなシーツ、豪華な部屋の調度品——未だに現実感が湧かない。

 昨日の謁見式と授章式。「王国戦術師」「戦術の神子」の称号。あれは本当に俺に起きたことなのだろうか。まるで誰か別の人間の人生を生きているような感覚だった。

「はぁ……」

 深いため息をつきながら起き上がる。今日は将軍との会議がある。次の任務について、だ。休む間もなく、また戦場へ赴くのだろうか。

 身支度を整えていると、ノックの音がした。

「どうぞ」

 ドアが開き、シバタ大尉が入ってきた。

「おはよう、ソウイチロウ」大尉は元気な声で言った。「もう目が覚めたか」

「ええ」俺は頷いた。「朝食はこれから」

 大尉は部屋を見回し、少し笑みを浮かべた。

「豪華な部屋だな。落ち着かないだろう?」

「まさにその通りです」俺は正直に答えた。「野営地のテントの方がまだ居心地がいいくらいです」

 大尉は大きく笑った。その笑い声に、少し緊張が解けた気がする。

「分かるぞ」彼は言った。「私も最初は慣れなかった。戦場から宮廷への移行は、新たな戦いのようなものだ」

 その言葉に共感する。確かに、政治の世界は戦場とは違った意味で緊張を強いられる。

「将軍との会議は?」俺は尋ねた。

「朝食後、第三作戦室だ」大尉は答えた。「セリシアも来る」

 その後、大尉は昨夜の宴会での評判を教えてくれた。貴族たちの間では俺の話題で持ちきりだったという。若くして王国戦術師の称号を得た初の人物として、好奇の目で見られていたようだ。

「特にお嬢様方は興味津々だったぞ」大尉はからかうように言った。「若き天才戦術家に憧れる乙女は多い」

「冗談でしょう」俺は呆れた表情で答えた。

「冗談じゃない」大尉は真面目な顔になった。「既に何人かの貴族から婚姻の打診があったほどだ」

 その言葉に、俺は思わず咳き込んだ。

「な、何を言ってるんですか! 俺はまだ……」

 実年齢ではなく、この世界での俺は18歳。確かに結婚適齢期ではあるが、そんなことを考える余裕など全くなかった。

「心配するな」大尉は笑った。「将軍がすべて断っている。軍務を優先させるためにな」

 それは安心したが、同時に複雑な気持ちになった。俺の人生は既に自分の手を離れ、軍と王国の所有物になりつつあるようだ。

 大尉と別れ、俺は食堂へと向かった。そこにはセリシアの姿があった。彼女は窓際のテーブルに座り、何かの書類に目を通していた。

「おはよう」俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。

「おはよう」彼女も笑顔で返した。「よく眠れた?」

「まあね」俺は彼女の向かいに座った。「豪華すぎて落ち着かなかったけど」

 食事が運ばれてきた。野菜たっぷりのオムレツ、焼きたてのパン、新鮮なフルーツ——戦場での粗末な食事と比べれば、まるで夢のようだ。

「フェリナの様子は?」食事をしながら俺は尋ねた。

「今朝見舞いに行ったわ」セリシアは答えた。「順調に回復してるみたい。でも、まだしばらくは安静にしてないといけないって」

 それは良いニュースだった。フェリナの傷は思ったより深く、一時は生命の危険もあったほどだ。彼女が回復に向かっていることが何よりも嬉しい。

「将軍との会議、緊張する?」セリシアが俺の表情を見て尋ねた。

「少しね」俺は正直に答えた。「次の任務がどんなものか……」

「私も気になる」彼女は少し声を落とした。「コルム丘陵での戦いは終わったけど、ラドルフとの戦いはまだ続くでしょうね」

 彼女の言葉に、俺は静かに頷いた。赤眼の魔将ラドルフ。あの強大な敵は簡単に諦めるタイプではない。次の戦いはもっと熾烈なものになるだろう。

 朝食を終え、俺たちは第三作戦室へと向かった。王宮の西翼にある軍事施設だ。兵士たちが行き交い、緊張感のある空気が漂っている。

 作戦室に入ると、アルヴェン将軍が既に待っていた。彼は大きな地図の前に立ち、何かを考え込んでいる様子だった。

「やあ、来たか」将軍は俺たちに気づくと微笑んだ。「座ってくれ」

 俺とセリシアは指定された席に座った。テーブルには様々な書類や地図が広げられている。

「まず、コルム丘陵の戦いについて総括しよう」将軍は言った。「君たちの戦術は見事だった。特に『見えない一手』の作戦は、戦争史に残るだろう」

 その言葉に、少し恥ずかしくなった。

「運も味方してくれました」俺は控えめに言った。

「運?」将軍は眉を上げた。「運を味方につけるのも才能の一つだ。君の判断力と洞察力が、勝利をもたらした」

 そこまで言われると、もう反論する余地はない。ただ黙って頭を下げるしかなかった。

「さて、本題だ」将軍は表情を引き締めた。「次の任務について話そう」

 俺とセリシアは身を乗り出した。

「君をいったん王都に留めておきたい」

 予想外の言葉に、俺は驚いた。

「王都に、ですか?」

「ああ」将軍は頷いた。「二つの理由がある。一つは君の休息のため。短期間に何度も激戦を経験した。心身を休める必要がある」

 確かに、俺は疲れていた。コルム丘陵の戦いだけでなく、その前のギアラ砦、サンガード要塞と、連戦続きだった。しかし、休息の必要性は感じつつも、それが主な理由とは思えなかった。

「もう一つの理由は?」俺は尋ねた。

 将軍は少し躊躇ったが、やがて口を開いた。

「政治的な理由だ」彼は静かに言った。「昨夜の宴会でも気づいただろう。君の急速な台頭に対して、反感を持つ者たちもいる」

 バイアス伯爵の冷たい視線が脳裏に浮かんだ。

「保守派の貴族たちは、若い将官の昇進に批判的だ」将軍は続けた。「特に君のように、従来の序列を飛び越えて重要な地位を得た者には」

「つまり」セリシアが口を挟んだ。「ソウイチロウを王都に留め、政治的な基盤を固めるということ?」

「その通りだ」将軍は頷いた。「彼の才能を潰させるわけにはいかない。一時的に表舞台から退き、内部での立場を固める。それが最善だと判断した」

 俺は複雑な思いで黙り込んだ。戦場から離れるのは本意ではないが、将軍の言うことには理があった。いくら戦場で功績を挙げても、内部の支持がなければ長くは続かない。

「では、俺は何をすれば?」俺は尋ねた。

「王宮での軍事教練と、作戦立案だ」将軍は答えた。「若い士官たちに君の戦術を教え、また、今後の戦略について意見を求めたい」

 教官か——それも悪くない。自分の経験を若い士官たちに伝えることで、王国軍全体の戦力向上に貢献できる。

「わかりました」俺は頷いた。「将軍のご判断に従います」

「良い決断だ」将軍は満足そうに言った。「そして、セリシア」

「はい」彼女はきびきびと答えた。

「君は王宮への報告任務を任せたい」将軍は言った。「コルム丘陵の詳細な戦術分析を、軍議会に提出するんだ」

 セリシアも頷いた。「承知しました」

 会議はさらに続き、細かな指示や今後の予定が伝えられた。俺の軍事教練は三日後から始まり、当面は王都近郊の軍事施設で行われるという。

 会議が終わり、将軍が退室した後、俺とセリシアは部屋に残った。

「複雑だね」俺は窓の外を見ながら呟いた。「戦場には戻れないなんて」

「一時的よ」セリシアは優しく言った。「あなたの才能は必ず必要とされる時が来る」

 彼女の言葉に少し慰められる思いがした。

「それに」彼女は続けた。「王都にいれば、フェリナの回復も見守れるじゃない」

 それは確かに良い点だった。フェリナの回復を見届けることができる。

「そうだね」俺は少し明るい表情になった。「積極的に考えよう」

 二人で作戦室を出ると、廊下で若い士官が俺に声をかけてきた。

「ソウイチロウ様」彼は敬意を込めて頭を下げた。「失礼ですが、お時間よろしいでしょうか」

「何かな?」俺は少し戸惑いながら答えた。「ソウイチロウで大丈夫だよ」

 士官は少し緊張した様子で、一枚の紙を差し出した。

「これは士官学校の生徒たちからの質問状です」彼は言った。「もしお時間があれば、コルム丘陵での戦術についてご教示いただければ……」

 想定外の依頼に、俺は一瞬困惑したが、すぐに微笑んだ。

「もちろん」俺は紙を受け取った。「喜んで協力するよ」

 士官は嬉しそうに顔を輝かせ、何度も頭を下げて去っていった。

「人気者ね」セリシアが少し面白そうに言った。

「やめてよ」俺は苦笑した。「慣れないんだから」

 二人で廊下を歩きながら、俺はふと気づいた。この状況は前世では考えられないものだった。麻雀に明け暮れ、大学受験に失敗した落ちこぼれが、今や若い士官たちの憧れの存在になっているなんて。

 人生とは不思議なものだ。

 ***

 午後、俺はフェリナのお見舞いに行った。王宮の医務室は清潔で明るく、窓からは庭園の緑が見える。

 フェリナは窓際のベッドで休んでいた。顔色は以前より良くなっていたが、まだ完全に回復したとは言えない様子だ。

「こんにちは」俺が部屋に入ると、彼女は顔を上げた。

「ソウイチロウ」フェリナは微笑んだ。「来てくれたのね」

「元気そうだね」俺はベッドの脇の椅子に座った。「傷は?」

「良くなってきてるわ」彼女は言った。「もう痛みもほとんどないの。でも、医師が言うには、あと二週間は安静にしていなさいって」

 二週間か。それなら俺が王都に留まる間、彼女の回復を見守ることができる。

「良かった」俺は心から言った。「無理しないでね」

 フェリナは小さく笑った。「あなたこそ。昨日の授章式、大変だったでしょう?」

「ああ」俺は溜息をついた。「あんな場は苦手だよ」

「でも、英雄になったのよ」彼女はからかうように言った。「『戦術の神子』ですって?」

「やめてくれよ」俺は顔をしかめた。「そんな大げさな称号、恥ずかしいよ」

 フェリナはくすくすと笑った。その表情を見て、俺も少し緊張が解けた。

「次の任務は?」彼女が尋ねた。

「しばらく王都に留まることになった」俺は答えた。「軍事教練と作戦立案だ」

「そう」フェリナは少し驚いた様子だった。「あなたが前線から離れるなんて、珍しいわね」

「政治的な理由もあるみたいだ」俺は小声で言った。

 フェリナは理解したように頷いた。彼女は王都の政治事情にも詳しい。

「バイアス伯爵たちのことね」彼女は言った。「注意した方がいいわ。彼らは手段を選ばないから」

 その警告に、身が引き締まる思いがした。

 しばらくフェリナと世間話をした後、俺は立ち上がった。

「また来るよ」俺は言った。

「ありがとう」フェリナは微笑んだ。「あなたが来ると、退屈しないから」

 俺は医務室を後にし、王宮の庭園に出た。そこで一人、静かに歩きながら考えを整理する。

 王都に留まり、政治的な基盤を固める。将軍の判断は正しいだろう。だが、どこか落ち着かない気持ちもある。戦場こそが俺の居場所だと感じていたからかもしれない。

 庭園のベンチに座り、空を見上げる。青い空に白い雲が浮かび、平和な光景が広がっている。戦場の緊張感とは全く違う世界だ。

「勝っても、残るのは疲れだけだな」

 思わず呟いた言葉に、自分でも少し驚いた。確かに、コルム丘陵の戦いは大勝利だった。だが、今の俺の心には虚脱感や疲労感が漂っている。

 高揚感は既に消え、代わりに静かな余韻だけが残っていた。それは戦いの後の、独特の静寂のようなものだった。

 ポケットからタロカ石を取り出し、手のひらの上で転がす。この小さな石が、戦場での命運を分けた。戦術の核心となる"読み"の象徴だ。

「ソウイチロウ」

 声に振り返ると、セリシアが立っていた。

「ここにいたのね」彼女は俺の隣に座った。「何を考えてるの?」

「ん、特に何も」俺は石をポケットに戻した。「ただ少し、落ち着かなくて」

 セリシアは理解したように頷いた。

「わかるわ」彼女は静かに言った。「戦場から離れると、何か欠けているような感覚になるのよね」

 彼女の言葉が胸に沁みた。そう、それが俺の感じていた違和感だ。

「君は王宮への報告任務、大変そうだね」俺は話題を変えた。

「ええ」セリシアは少し疲れた表情を見せた。「軍議会は細かい質問ばかりで。特に保守派の将校たちからは批判的な意見も多いわ」

「すまない」俺は申し訳なさそうに言った。「俺のせいで」

「何言ってるの」彼女は首を振った。「私も戦術参謀として評価されたの。あなたのおかげよ」

 その言葉に、少し救われた気がした。

「それに」彼女は真剣な表情になった。「また、あなたの策を見たいわ」

 別れ際の言葉——それは単なる挨拶ではなく、彼女の本心だったのだろう。俺たちは共に戦場を駆け、互いの命を預け合ってきた。その絆は簡単に消えるものではない。

「ああ」俺も真摯に応じた。「必ずまた、一緒に戦場に立とう」

 二人で庭園を歩きながら、俺は少しずつ心を落ち着かせていった。確かに戦場から離れることになるが、それは一時的なものだ。この時間を使って自分を鍛え、次の戦いに備えればいい。

 夕方、俺は部屋に戻った。窓から見える王都は、夕日に照らされて美しく輝いていた。その光景は戦場とは無縁の、平和そのものだった。

 しかし、俺の心は既に次の戦いを見据えていた。ラドルフとの決着——それはまだ先のことだが、必ず訪れる運命だ。

 「戦術の神子」の称号は重いが、それを背負って進むしかない。俺はタロカ石を握り締め、静かに誓った。

 この平和を守るために、次こそは完全な勝利を。

 部屋に静けさが広がる中、俺は明日からの新たな日々に思いを馳せていた。