コルム丘陵の夜は冷たかった。平原からの風が吹き上げ、野営地のテントを揺らす。俺は指揮官テントで地図を広げ、明日の戦いに備えて最後の作戦会議を開いていた。
「敵は夜明けと共に全軍で攻めてくるでしょう」
シバタ大尉が地図上の敵軍位置を指さす。夕方の斥候報告によれば、敵の本隊も平原中央部に到達し、先遣隊と合流したという。総勢約五千——我々の五倍の兵力だ。
「正面からの攻撃だけでなく、側面からも必ず来るわ」
フェリナが丘陵の東西を指す。斜面は急ではあるが、訓練された兵士なら登れないことはない。
「そうですね」俺は頷いた。「おそらく東西からの迂回も計画しているでしょう。ラドルフならなおさら」
地図を見つめる顔々は疲れを隠せない。特にセリシアは昨夜からほとんど休んでおらず、目の下にクマができていた。それでも彼女は集中力を切らさず、緻密な防衛計画を立てていた。
「東の斜面にはカレン隊長の部隊を、西にはバルト隊長の部隊を配置します」セリシアが言った。「どちらも200名ずつ。機動力のある兵で構成し、必要に応じて互いに応援できるようにしましょう」
その提案は理にかなっていた。限られた兵力で広い範囲をカバーするには、機動力が鍵となる。
「残る600名は正面防衛だな」シバタ大尉が頷いた。「丘の頂上部と中腹の2ラインに分けて配置する」
議論は細部に及び、夜も更けていった。兵士たちの配置、伝令の経路、予備兵力の使い方——あらゆる可能性を想定して計画を練る。
俺はタロカ石を並べながら、敵の動きを予測していた。“流れ"を読む——それが俺の武器であり、強みだ。ラドルフの「魂の鎖」が"流れを殺す"力なら、俺の"読み"はそれを超える必要がある。
「ソウイチロウ」
シバタ大尉の声で我に返る。どうやら少し考え込んでいたようだ。
「すまない」俺は頭を振った。「少し考え事を……」
「無理もない」大尉は優しく言った。「今夜は早めに休め。明日に備えて体力を温存するんだ」
会議は夜半過ぎに終了した。明日の布陣が決まり、各隊長に指示が伝えられる。フェリナもシバタ大尉も自分のテントに引き上げていった。
テントに残ったのは俺とセリシアだけだ。彼女は最後の報告書に目を通していた。疲労で肩が下がり、ペンを持つ手が小刻みに震えている。
「セリシア」俺は声をかけた。「もう休もう。これ以上無理しても仕方ない」
彼女は顔を上げ、疲れた目で俺を見た。
「でも、まだ確認していない計算が……」
「明日の朝でいい」俺は言った。「君も体を休めないと」
セリシアは一瞬抵抗しようとしたが、やがて諦めたように溜息をついた。
「そうね……少し休むわ」
彼女がペンを置いたとき、ふらりと体が傾いた。俺は慌てて彼女の肩を支えた。
「大丈夫か?」
「ええ……ちょっとめまいが」セリシアは弱々しく笑った。「少し仮眠を取ればすぐに良くなるわ」
俺は彼女の様子を心配した。無理を重ねすぎたのだろう。
「俺のテントで休んだらどうだ?」俺は提案した。「ここより少し広いし、静かだから」
本来なら司令官用のテントは一番広いはずだが、今回の急な出陣で俺のテントが通常より大きく割り当てられていた。
「ありがとう」セリシアは素直に頷いた。「少しだけお借りするわ」
二人で中央テントを出ると、静かな夜の野営地が広がっていた。兵士たちの多くは既に眠りについており、焚き火の番人だけが静かに夜を見守っている。北の空には依然として赤い光が見え、不吉な予感を掻き立てた。
「明日……勝てると思う?」
テントに向かう途中、セリシアが小さな声で尋ねた。普段の彼女らしからぬ弱気な問いに、少し驚く。
「勝つよ」俺は迷わず答えた。「必ず」
その言葉に、セリシアは一瞬だけ微笑んだ。疲れた顔に浮かんだその笑みが、妙に胸に染みた。
「そうね」彼女は静かに言った。「あなたが言うなら、そうなんでしょう」
俺のテントに着くと、中は予想以上に簡素だった。野戦用の寝床が一つ、簡易な机と椅子、それに荷物が少々——それだけだ。
「寝床を使ってくれ」俺は言った。「俺は床でいい」
セリシアは困ったように眉を寄せた。
「でも、それじゃあなたが……」
「気にするな」俺は笑った。「麻雀合宿で床に寝た経験は山ほどあるさ」
前世の記憶が無意識に口をついて出た。セリシアはきょとんとした顔をしたが、特に追及せずに頷いた。
「でも」彼女は寝床を見て言った。「一人用にしては広いわね。仮眠程度なら……二人で使えるんじゃない?」
その提案に、俺は思わず顔が熱くなるのを感じた。狭い寝床で隣り合って寝るなんて……。
「いや、それは……」
「別に変な意味じゃないわよ」セリシアは少し赤くなりながらも冷静に言った。「戦場では効率が大事でしょう。それに、うつらうつらするだけだから」
彼女の言い分は理にかなっていた。確かに戦場では不必要な遠慮をする余裕はない。それに、彼女の体調が心配だったし……。
「わかった」俺は渋々同意した。「でも、ちゃんと休めるか?」
「大丈夫よ」セリシアは言った。「お互い背中合わせにすれば問題ないわ」
二人は装備を一部だけ外し、寝床に横になった。予想通り狭く、背中と背中がくっつきそうになる。お互いぎこちなく体を固くして、できるだけ触れないよう気を遣う。
「おやすみ」俺は小さく言った。
「おやすみなさい」セリシアも静かに応じた。
テントの中は静寂に包まれた。外では夜風が吹き、時折兵士の足音や遠くの馬の嘶きが聞こえる。俺は天井を見つめながら、明日の戦いについて考えていた。
隣のセリシアの呼吸が次第に整ってきた。彼女はやはり疲れていたのだろう、すぐに眠りについたようだ。俺も目を閉じ、休もうとする。
時間が過ぎ、俺もうとうとし始めた。半分眠りかけていた時、無意識に体を動かしたのだろう。手が何かに触れた感触がする——柔らかく、なめらかな感触。
はっと目を開けると、俺の手はセリシアの髪に触れていた。いつの間にか彼女は仰向けになっていたようで、長い銀色の髪が寝床に広がっていた。
慌てて手を引こうとしたとき、セリシアの目が開いた。
「……何をしてるの?」
彼女の声は眠たげでありながらも、明らかに緊張していた。
「す、すまない」俺は慌てて謝った。「寝返りを打った時に、無意識に……」
言葉が途切れる。どう説明していいかわからない。
セリシアはしばらく俺を見つめていた。月明かりがテントの隙間から差し込み、彼女の顔を青白く照らしている。
「……戦場で髪を触るなんて、無神経ね」
彼女は低く呟いた。その声には非難めいたものが感じられたが、同時に奇妙な柔らかさもあった。
「本当にすまない」俺は再び謝った。「俺が床に移るよ」
「いいわ」セリシアは言った。「動かないで。せっかく温まったのに、また冷えるだけよ」
彼女は背を向け、再び横になった。その横顔は、月明かりの中でわずかに赤みを帯びていたように見えた。
(こういうの、タロカにはなかったな……)
思わず心の中で苦笑する。麻雀やタロカのルールにはない状況だ。こんな気まずい空気の流れは、どう"読む"べきなのか——。
しばらくの間、気まずい沈黙が続いた。二人とも寝たふりをしているが、明らかに眠れていない。
「……ソウイチロウ」
突然、セリシアが小さな声で呼んだ。
「何?」
「明日の戦い」彼女はまだ背を向けたままだった。「本当に勝てる?」
彼女の声には不安が混じっていた。普段は冷静で理性的な参謀が、今夜は珍しく弱さを見せている。
「勝つよ」俺は静かに答えた。「俺たちには君がいる。優秀な参謀官が」
「でも、敵は五倍の兵力よ」彼女の声が震えた。「数字だけで見れば、勝ち目はない」
「数だけが戦いを決めるわけじゃない」俺は言った。「地形、戦術、そして何より——俺たちには君がいる」
セリシアはゆっくりと体を反転させ、俺と向かい合った。彼女の目は月明かりを反射して、不思議な光を放っていた。
「なぜそんなに私を信じるの?」彼女は真剣な表情で尋ねた。
「理由なんていらないだろ?」俺は率直に答えた。「これまでの戦いで、君の価値は十分証明されてる。俺は君を信じてる、それだけだ」
セリシアの目が少し潤んだように見えた。
「ありがとう」彼女は小さく言った。「私もあなたを信じてる」
その言葉に、胸が温かくなった。いつの間にか、俺たちはこんなに強い信頼関係を築いていたのだ。最初は敵対していたのに。
「少し、眠れそう」セリシアは目を閉じた。「おやすみなさい」
「おやすみ」
今度は本当に、二人とも眠りに落ちていった。
***
目を覚ましたのは夜明け前だった。テントの中は薄暗く、外からは兵士たちが動き始める音が聞こえる。
寝床を見ると、セリシアはもういなかった。彼女はいつの間にか起き出し、おそらく準備を始めているのだろう。
俺も急いで起き上がり、装備を整えた。戦いの日だ——油断はできない。
テントを出ると、野営地は既に活気づいていた。兵士たちが武具を整え、軽い食事をとり、それぞれの持ち場に向かっている。
司令テントに向かうと、そこにはセリシア、フェリナ、シバタ大尉が既に集まっていた。彼らは大きな地図を囲み、最後の作戦確認をしているところだった。
「おはよう」俺が声をかけると、皆が振り向いた。
「おはよう」シバタ大尉が答えた。「準備は整っている。兵も配置に就きつつある」
セリシアは俺と目を合わせ、軽く頷いた。彼女の表情からは、昨夜の弱さは消え、いつもの冷静な参謀の顔に戻っていた。
「北の様子は?」俺はフェリナに尋ねた。
「敵は夜明けと共に動き出すわ」彼女は答えた。「斥候の報告では、彼らは既に行進隊形を取っている」
そして、予想通り北の空の赤い光は一層強くなっていた。
「ラドルフの『魂の鎖』も最大限に発動されているようね」フェリナが言葉を続けた。「彼らは完全に支配されている状態よ」
俺は北を見つめ、タロカ石を握り締めた。“流れ"を感じようとする——敵の動き、彼らの意図、そして勝機。
「全軍に伝えてくれ」俺は決断した。「持ち場に就くよう。戦いは間もなく始まる」
命令が伝えられ、各部隊が指定の位置に向かっていった。俺たち指揮部も丘の頂上に位置する指揮所に移動する。そこからは平原全体が見渡せ、戦況を把握するのに最適な場所だった。
頂上に立ち、北を見渡すと、恐ろしい光景が広がっていた。平原を埋め尽くす敵兵の大海。赤と黒の軍旗が風になびき、整然と前進してくる兵士たちの姿。その規模は圧倒的で、それだけで恐怖を感じさせる。
「あれが……ラドルフの軍か」
シバタ大尉も息を呑んだ。「これほどの規模とは……」
敵軍の中央部、最も高い赤い旗の下に、一人の騎士の姿が見える。赤い鎧を身にまとい、黒馬に乗ったその姿——間違いなくラドルフ・ゼヴァルドだ。
「彼が来た」フェリナの声が震えた。「赤眼の魔将が」
ラドルフの姿を見て、俺は昨日の夜に考えた戦術を思い出した。敵の"流れ"を読み、そして変える。彼の「魂の鎖」に対抗するには、予測不能の動きが必要だ。
「皆に伝えてくれ」俺は静かに言った。「『光の矢』作戦を実行する」
それは昨夜、俺が考えた奇策だった。ラドルフの予想を覆し、彼の「魂の鎖」の効果を最小限に抑える作戦。危険ではあるが、勝機があるとすればそれしかない。
セリシアは一瞬驚いたが、すぐに理解したように頷いた。
「伝えます」彼女は言った。「各隊長に指示を」
伝令兵たちが走り出し、作戦の細部が各部隊に伝えられていく。
そして、敵陣から角笛の音が響いた。開戦の合図だ。
ラドルフの軍が一斉に動き出した。整然とした行進で、彼らは丘陵に向かって進撃してくる。それは機械のような正確さで、恐ろしいほど統制のとれた動きだった。
「来るぞ!」シバタ大尉が声を上げた。
俺はタロカ石を握り締め、“読み"の力を最大限に発揮しようとしていた。
「ラドルフ……今度こそ、決着をつける」
心の中でそう誓いながら、俺は戦いの火蓋が切られるのを見つめていた。
コルム丘陵の戦い——それは俺にとって最大の挑戦となり、そして運命を大きく変える戦いとなるはずだった。