ギアラ砦での勝利から三日目の朝、俺はアルヴェン将軍に呼び出された。砦内はまだ戦いの爪痕が残り、修復作業に忙しい兵士たちの姿が見える。勝利の高揚感は薄れ、新たな現実が目の前に広がっていた。
「ソウイチロウ」
作戦室に入ると、将軍は大きな地図を広げていた。その手が指す先——サンクライフ平原。砦から南へ約三日行程の広大な平原だ。
「昨夜、斥候から新たな報告が入った」将軍は厳しい表情で言った。「ラドルフ率いる帝国軍がサンクライフ平原に集結している。規模は約五千」
五千——ギアラ砦での戦いとは桁違いの数字だ。思わず息を呑む。
「そして、君にはこの平原の南端、コルム丘陵の防衛を任せたい」
将軍が指し示したのは、平原の南に位置する小さな丘陵地帯だった。平原の広大な戦場に比べれば小さな地域だが、そこは平原を見下ろす重要な高地だった。
「平原の南端、ですか?」
「そう。敵の補給路を押さえる要衝だ。ここを制する者が平原の戦いを制する」
将軍の言葉に、責任の重さを感じる。
「兵力は?」
「千名を与える。君の指揮下に置く」
これまでで最大の兵力だ。ギアラ砦では数百名だったのに、今度は千名。
「セリシアも参謀として同行する。彼女は既に準備を始めている」将軍は続けた。「また、フェリナも情報将校として同行を願い出た」
心強い仲間たちの名前に、少し安心感が広がる。
「……本当に、俺でいいんですか?」
思わず口から漏れた言葉。これほどの大任、本当に自分にできるのかという不安が胸をよぎる。
将軍は一歩近づき、俺の肩に手を置いた。
「君は『流れ』を読める。それが今、最も必要な才能だ」
その言葉に、少し自信が湧いてきた。
「わかりました。全力を尽くします」
将軍は頷き、作戦の詳細を説明し始めた。敵の予想される動き、我々の部隊配置、補給計画……。頭に入れるべき情報が次々と示される。
作戦会議が終わり、部屋を出ようとした時だった。
「ソウイチロウ」将軍が呼び止めた。「ラドルフは今回、全力で来る。ギアラでの敗北を許さない男だ」
「はい」
「彼の『魂の鎖』の力も、恐らく最大限に発揮されるだろう」
俺は黙って頷いた。ラドルフの赤い眼が脳裏に浮かぶ。あの日、一瞬だけ見た敵将の姿——圧倒的な存在感と、“流れ"を支配する異質な力。
「では、準備を始めてくれ。出発は明朝だ」
作戦室を出た俺は、急いで自分の部屋に向かった。荷物をまとめ、必要な書類を整理し、そして——ある小さな革袋を取り出す。
中から出てきたのは、小さな石の破片。タロカ牌を模して俺が自分で作った戦術ツールだ。これまでも使ってきたが、今回の戦いではさらに改良を加えたいと思っていた。
暫く石片を並べていると、ノックの音がした。
「どうぞ」
ドアが開き、セリシアが入ってきた。彼女は既に軽装の旅支度を整えており、手には地図と書類を持っていた。
「準備は進んでる?」彼女が尋ねた。
「ああ、少しずつね」俺は石片を示した。「これも改良中なんだ」
セリシアは興味深そうに近づき、石片を手に取った。
「タロカの応用ね」彼女は微笑んだ。「あなたらしいわ」
彼女の言葉に少し照れくさくなる。
「今回の敵は強大だよ」俺は真剣な表情で言った。「ギアラの比じゃない」
「そうね」セリシアも真剣な表情になった。「でも、あなたとなら勝てる」
彼女の言葉は単なる励ましではなく、確信に満ちていた。初めて会った頃の懐疑的な態度とは大違いだ。
「ラドルフの情報をもっと集めないとね」俺は言った。「彼の戦術パターンや弱点を……」
「それなら、私が役に立つわ」
ドアから別の声が聞こえた。フェリナが立っていた。
「フェリナ」俺は驚いて立ち上がった。「いつから?」
「今来たところよ」彼女は部屋に入り、大きな書類の束を広げた。「これ、ラドルフの過去の戦術記録。私なりに分析したものよ」
広げられた書類には、ラドルフの過去の戦いが克明に記録されていた。彼が採った布陣、攻撃パターン、兵の動かし方……全てが詳細に分析されている。
「すごいな」俺は感心して書類を見た。「こんなに詳しく……」
「彼に父を殺された身として、徹底的に研究してきたの」フェリナの声には強い決意が混じっていた。「今度こそ、彼を倒す」
俺とセリシアは顔を見合わせた。フェリナの復讐心は理解できるが、それが彼女を危険に導くことも懸念される。
「フェリナ」俺は優しく言った。「情報は本当にありがたい。でも、無茶はしないでくれよ」
「わかってるわ」彼女は小さく微笑んだ。「もう独りよがりの復讐じゃない。私たちの勝利のために戦う」
その言葉に安心する。ギアラでの戦いを経て、フェリナも成長したようだ。
三人で資料を広げ、作戦会議を始めた。セリシアが地図上に兵の動きを示し、フェリナがラドルフの予想される戦術を説明。俺はタロカ石を並べながら、“流れ"を可視化していく。
「コルム丘陵の地形を活かした布陣が重要ね」セリシアが言った。「敵は平原から登ってくるしかないから、高所の利を最大限に活かせる」
「でも、ラドルフは単純な正面攻撃はしないわ」フェリナが指摘した。「彼は必ず迂回路を探す。特に夜間の奇襲が得意」
「なるほど」俺は頷き、タロカ石を動かした。「なら、彼の『魂の鎖』の届かない場所に伏兵を配置すれば……」
会議は夕方まで続いた。夕食の時間が近づき、三人は一旦休憩することにした。
「では、夕食後にまた集まりましょう」セリシアが言った。「出発の細かい段取りを決めないと」
三人が部屋を出ようとしたとき、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。
「報告! 敵軍の動きに変化が!」
息を切らした伝令兵が走ってきた。俺たちは急いで作戦室に向かった。
作戦室には既にアルヴェン将軍と数名の高官が集まっていた。彼らは新たに届いた地図を囲み、険しい表情で何かを議論している。
「何があったんですか?」俺が尋ねた。
将軍は俺たちに気づき、手招きした。
「ラドルフが予想より早く動き出した」将軍は言った。「彼らは既に平原の北端に到達している」
地図を見ると、確かに敵軍の位置が大幅に前進していた。予定より少なくとも二日は早い。
「これでは、コルム丘陵に部隊を展開する時間が……」セリシアが懸念を示した。
「そうだ」将軍は厳しい表情で頷いた。「出発を早める必要がある。今夜中に出発できるか?」
俺は一瞬考え、決断した。
「できます。すぐに準備を指示します」
「頼む」将軍は安堵の表情を見せた。「先遣隊として五百名を先に送る。残りの五百は明朝に続く」
会議は短時間で終了し、俺たちは急いで準備を始めた。千名もの兵を動かすのは容易ではないが、皆が緊張感を持って動いてくれた。
夜が更けて間もなく、先遣隊は出発の準備を整えた。月明かりの下、五百名の兵士が静かに行進を始める。
俺は馬に乗り、先頭に立った。セリシアとフェリナも同行する。残りの部隊はシバタ大尉が率いて朝に出発することになっていた。
「行くぞ」俺は静かに命じた。
砦の大門が開き、部隊は静かに夜の道へと進んでいった。運命の戦場へ向かう道中、俺は空を見上げた。満月が道を照らし、まるで先行きを示すかのようだ。
(ラドルフ——今度こそ決着をつけよう)
心の中でそう誓いながら、俺は部隊を率いて南へと進んだ。
***
二日間の行軍の末、コルム丘陵が見えてきた。平原の南に連なる緩やかな丘の連なりは、平原を見下ろす天然の要塞のようだった。
「到着するのが早くて良かった」セリシアが安堵の表情で言った。「敵はまだ平原の北部にいるようね」
確かに、北方には敵の姿は見えない。しかし、遠くに上がる埃の雲が、大軍の存在を示唆していた。
「すぐに布陣を始めましょう」俺は命じた。「時間が限られている」
部隊は丘陵の要所に展開し始めた。高台に見張りを置き、斜面には防御施設を構築。俺はセリシアと共に丘の最高地点に立ち、全体を見渡した。
「地形は我々に有利ね」セリシアが地図と現地を照らし合わせながら言った。「敵は下から登ってくるしかない」
「ああ」俺は頷いた。「だが、安心はできない。ラドルフのことだ、必ず奇策を用いてくる」
その時、フェリナが駆け上がってきた。彼女の表情には緊張が見えた。
「斥候からの報告よ」彼女は息を切らしながら言った。「敵軍の先遣隊が平原の中央部に到達したわ。約千名」
予想より早い動きだ。敵はかなりの速度で接近している。
「こちらはまだ準備が整っていない」セリシアが眉をひそめた。「シバタ大尉の部隊も到着していないわ」
俺は丘を見下ろし、今ある兵力で何ができるか考えた。五百名で千名の敵を迎え撃つ——厳しい戦いになる。
「一つ提案があります」
若い将校が近づいてきた。アルノー少尉、若くして才を認められた戦術家だ。
「何だ?」俺が尋ねた。
「敵の先遣隊を足止めする小部隊を送り出してはどうでしょう」彼は言った。「丘陵の北の小川があります。あそこで布陣すれば、少ない兵力でも時間稼ぎができます」
俺は地図を確認した。確かに、丘陵の約5キロ北に小さな川が流れている。狭い渡河点は防衛に適した場所だ。
「良い案だ」俺は頷いた。「少尉、百名を率いて向かってくれ。敵を遅らせるんだ、無理な戦いはするな」
「承知しました」少尉は敬礼し、急いで下っていった。
残る四百名で丘陵の防衛態勢を固める。時間との勝負だ——シバタ大尉の部隊が到着するまで持ちこたえなければならない。
午後になり、北の小川から煙が上がった。戦闘が始まったようだ。
「少尉の部隊が交戦を始めたわ」フェリナが報告した。「敵の先遣隊は予想通り千名ほど。ラドルフの姿はないようね」
「敵の動きは?」俺が尋ねた。
「小川の渡河を試みているけど、少尉の部隊が善戦しているわ」フェリナが答えた。「でも、いつまで持つかわからない」
俺は北を見つめ、タロカ石を手のひらに載せた。石に刻まれた模様を指でなぞりながら、“流れ"を感じようとする。敵の動き、時間の経過、兵の疲労——全てが複雑に絡み合う戦場の"流れ"を読み取ろうとした。
(まだ本当の敵は来ていない……これは序章に過ぎない)
夕方、小川からの報告が入った。アルノー少尉の部隊は敵の渡河を半日遅らせたが、敵の圧倒的な数に押され、撤退を始めたという。
「少尉の部隊に感謝を伝えてくれ」俺は伝令に言った。「彼らの働きのおかげで、こちらの準備が進んだ」
夜になり、丘陵の防衛線はほぼ整った。塹壕が掘られ、簡易な防壁が設置され、兵士たちは配置についた。そんな中、南からの騒がしい音が聞こえてきた。
「シバタ大尉の部隊だ!」
歓声が上がる。後続の五百名が予定より早く到着したのだ。
シバタ大尉は疲れた様子ながらも、力強く馬から降りた。
「強行軍で来たぞ」彼は言った。「将軍からの指示で、予定を前倒しにした」
「本当にありがとうございます」俺は深く頭を下げた。「これで戦力が整いました」
大尉は周囲を見渡し、防衛線を確認した。
「よく準備したな」彼は満足そうに頷いた。「敵の状況は?」
「先遣隊約千名が小川を渡り、こちらに向かっています」セリシアが報告した。「本隊はまだ北部にいるようです」
「ラドルフは?」
「まだ確認できていません」フェリナが答えた。「恐らく本隊と共にいるでしょう」
そのとき、北の空に異様な光が見えた。赤い光が夜空を焦がすように広がっている。
「あれは……」セリシアが息を呑んだ。
「魔導の光」シバタ大尉が厳しい表情で言った。「禁忌の魔術の前触れだ」
フェリナの顔が青ざめた。
「ラドルフの『魂の鎖』——最大規模で発動されたわ」
俺たちは言葉もなく、その赤い光を見つめた。ラドルフの禁忌の魔術——兵士たちの精神を支配し、完璧な軍団に作り変える恐るべき力。その力が今、全開で発動されている。
「彼は本気だな」俺は静かに言った。「全力で来る」
「ああ」大尉も頷いた。「明日は厳しい戦いになるぞ」
俺は再びタロカ石を握り締めた。“流れ"を感じようとする。しかし、北の赤い光に阻まれるように、何かがぼやけている。
(ラドルフ——彼の力は"流れ"を支配するものか)
その夜、俺は眠れなかった。野営地のテントで横になりながら、明日の戦いに思いを巡らせた。敵の数は優勢、そしてラドルフの「魂の鎖」の力も最大限に発揮される。勝機はあるのか——。
テントの入口が開き、シルエットが現れた。
「眠れないの?」セリシアの声だった。
「ああ、少し」俺は起き上がった。「明日のことを考えてたんだ」
彼女はテントに入り、ランプの灯りで照らされた俺の顔を見た。
「心配してるの?」
「正直、ああ」俺は認めた。「敵は強大だし、ラドルフの力も未知数だ」
セリシアは微笑んだ。その表情には不思議な自信があった。
「でも、あなたには我々がいるわ」彼女は静かに言った。「私も、フェリナも、シバタ大尉も、そして千名の兵士たち」
その言葉に、少し心が軽くなった気がした。
「そうだな」俺は微笑んだ。「一人じゃない」
「それに」セリシアは真剣な表情になった。「私はあなたの"読み"を信じてる。あなたなら、ラドルフの"流れ"を破ることができる」
彼女の確信に満ちた言葉が、俺の中の何かを呼び覚ました。そうだ——俺には"読み"がある。麻雀で培った、流れを読む力。それはラドルフの力とは異なるが、決して劣るものではない。
「ありがとう」俺は心から言った。「明日、全力で戦うよ」
セリシアは頷き、立ち上がった。
「おやすみなさい」彼女は言い残して出ていった。
彼女が去った後も、俺はしばらく起きていた。タロカ石を並べ、戦場の"流れ"を推測する。そして、ふと思いついた新たな戦術を紙に書き留めた。
(これが俺の"一手"だ)
夜が深まる中、北の空の赤い光はますます強くなっていた。そして明日、俺たちは史上最大の戦いに挑むことになる。赤眼の魔将ラドルフとの、真の決戦が始まろうとしていた。