三日目の朝、砦内は穏やかな空気に包まれていた。昨日の勝利で兵士たちの士気は高く、食堂では朗らかな会話が飛び交っている。

 俺は早めに目を覚まし、朝食をとりながら今日の作戦について考えていた。昨日の勝利は大きいが、油断はできない。ラドルフは必ず新たな策を練ってくるはずだ。

「おはよう、ソウイチロウ」

 セリシアが俺の向かいに座った。彼女も早起きのようだ。

「おはよう」俺は答えた。「よく眠れた?」

「ええ」彼女は頷いた。「昨日の勝利で少し安心したわ。でも、今日も気を抜けないでしょうね」

「そうだね」俺は同意した。「敵の様子は?」

「まだ陣を維持しているわ」セリシアは言った。「特に大きな動きは見られないけど、何かを準備しているようね」

 二人で朝食を終え、作戦室に向かった。そこにはすでにシバタ大尉とグレイスン大佐がいた。

「おはよう」大尉が声をかけた。「今日の作戦の確認だ」

 地図を囲み、防衛体制の最終確認をする。昨日の経験から、伏兵の配置をさらに工夫し、敵の新たな動きにも対応できるようにした。

「敵は昨日の失敗から学んでいるはずだ」大佐が言った。「同じ罠には二度とかからないだろう」

「はい」俺は頷いた。「だから、今日は別の戦術を用意しています」

 俺が考えた新たな戦術は、敵の攻撃を受け止めつつ、徐々に消耗させるというものだ。砦の強みを最大限に活かし、時間をかけて敵の士気と体力を削る。

 説明を終えると、フェリナが部屋に入ってきた。彼女の表情には緊張が見えた。

「報告があります」彼女は言った。「敵陣に変化が見られます」

「どんな?」大尉が尋ねた。

「昨夜、増援が到着したようです」フェリナは答えた。「約200名。さらに、陣形も変更されています」

 これは予想外の展開だった。敵の増援とは。

「詳細は?」俺が尋ねた。

「北側から来たようです」フェリナは言った。「装備から見て、騎兵隊と弓兵が主体のようです」

 新たな敵の増援。これで彼らの戦力は再び1000を超える。対して我々は昨日の戦いで損失を出し、約650名ほどだ。

「さらに」フェリナは続けた。「敵陣に新たな旗が立ちました。バイアス家の紋章です」

 その名前に、一瞬息を呑んだ。バイアス家——ルナン平原の演習試験で出会ったバイアス伯爵の家だ。

「バイアス伯爵の部隊か……」シバタ大尉の表情が厳しくなった。「これは単なる軍事行動ではなくなってきたな」

「どういうことですか?」俺は尋ねた。

「バイアス伯爵は軍内の保守派領袖だ」大尉は説明した。「彼が私兵を送り込んだということは、この戦いに政治的な意図があるということだ」

 政治的な意図——それは俺にとっては未知の領域だった。前世でも現世でも、政治的な駆け引きには関わったことがない。

「詳しく教えてください」俺は真剣に頼んだ。

 大尉はため息をついて説明し始めた。

「バイアス伯爵は若手の台頭を快く思っていない」彼は言った。「特に君のような、従来の序列を無視して重要なポストに就いた者をね」

 なるほど。あの演習試験も、今回の増援も、全て俺を失脚させるための動きだったのか。

「では、この戦いに負ければ……」

「君の評価は地に落ちる」大尉はきっぱりと言った。「それだけでなく、アルヴェン将軍の立場も危うくなる」

 事態は思った以上に複雑だった。単なる軍事的な勝敗だけでなく、王国の内政にまで影響する戦いなのだ。

「でも」俺は決意を固めた。「それでも、勝つしかありませんね」

「その通りだ」大尉は頷いた。「勝てば全てが解決する。今は目の前の敵に集中しよう」

 会議を終え、各自が持ち場に向かった。俺は砦の高所から敵陣を観察した。確かに、昨日よりも大きくなっている。そして、赤い旗の隣に新たな旗——おそらくバイアス家の紋章だろう。

(これは内政問題にまで発展しているのか……)

 ため息をつきながら、俺は敵の動きを見つめた。彼らはまだ攻撃の兆候を見せていない。何かを待っているのだろうか。

 そのとき、敵陣から一騎の使者が出てきた。昨日と同じく白旗を掲げ、砦に向かって進んでくる。

「また使者か」グレイスン大佐が俺の隣に立った。「何の用だろうな」

 使者が砦の前に到着し、声を張り上げた。

「砦の守備隊に告ぐ! わが軍より新たな降伏勧告である!」

 昨日と同じ文言だ。しかし、次の言葉は違った。

「本日正午までに降伏せねば、砦内の全員を処刑する! これはラドルフ総帥とバイアス伯爵の共同命令である!」

 バイアス伯爵の名が公然と出てきた。もはや隠す気もないようだ。

「当然拒否だな」大佐が言った。

「もちろんです」俺も頷いた。

 使者はしばらく待ったが、返答がないと見るや、敵陣へと引き返していった。

「正午か……」大佐が呟いた。「あと四時間だな」

 俺は砦内の防衛体制を最終確認するため、各持ち場を巡回した。兵士たちは緊張した面持ちで持ち場に就いているが、昨日の勝利で自信をつけたようだ。

「ソウイチロウ」

 巡回を終えた俺に、セリシアが声をかけた。

「どうした?」

「ちょっと話があるんだけど」彼女は少し遠慮がちに言った。「個人的なことで」

「いいよ」俺は頷いた。

 二人で人気のない物見台に上った。そこからは敵陣が見渡せる。

「実は」セリシアは静かに言った。「バイアス伯爵は私の遠縁なの」

「え?」

 予想もしなかった告白に、俺は驚いた。

「ヴェル=ライン家とバイアス家は、血縁関係があるの」彼女は続けた。「だから、この戦いは私にとっても複雑なのよ」

「そうだったのか……」

 彼女の心情を考えると、確かに難しい立場だろう。血縁の者と戦う場面に立たされているのだから。

「でも、私はあなたの味方よ」セリシアはきっぱりと言った。「バイアス伯爵の政治的な策略には与しない」

 彼女の強い意志に、心を打たれた。

「ありがとう」俺は素直に言った。「君の言葉が嬉しい」

 セリシアは少し照れたように視線をそらした。

「当然のことよ」彼女はそっけなく言ったが、頬は少し赤くなっていた。

 二人で敵陣を見つめていると、敵の中に動きが見えた。

「動き始めたわ」セリシアが双眼鏡で確認した。「予定より早いけど、攻撃態勢に入ったみたい」

 予定では正午だったはずだが、敵は待ちきれなかったのか。

「全軍に警戒を」俺は命じた。「敵が動き始めた」

 伝令が走り、砦全体に緊張が走る。兵士たちが急いで持ち場に就く音が響く。

 敵陣から角笛の音が響き、兵士たちが一斉に動き出した。昨日とは異なる陣形で、より慎重に進軍してくる。

「昨日の教訓を活かしているようだな」シバタ大尉が言った。「囮には引っかからないよう、警戒している」

 確かに、敵の動きは慎重だった。小隊ごとに連携しながら、慎重に砦に近づいてくる。

「弓兵、準備!」グレイスン大佐が命じた。

 弓兵たちが弓を構え、敵の接近を待つ。やがて、敵が射程内に入った。

「発射!」

 弓が一斉に放たれ、敵の前列に矢が降り注いだ。幾人かが倒れたが、敵の進軍は止まらない。

 敵は砦の壁の下に到達し、攻城梯子を立て始めた。昨日よりも数が多く、同時に様々な場所に梯子をかけている。

「分散攻撃か」大尉が眉をひそめた。「壁の防御が薄くなる」

「各持ち場に予備兵力を」俺は命じた。「壁を越えられた場所には即座に応援を」

 戦いが激化する中、俺は要所要所に指示を出した。敵の攻撃は昨日よりも激しく、組織的だ。特に、赤い旗の下にいる部隊の動きは完璧で、壁を次々と乗り越えてくる。

「東の壁が危険です!」伝令が報告した。「敵が壁を越えました!」

「シバタ大尉、東側への応援を!」俺は命じた。

 事態は徐々に悪化していった。敵は数の優位を活かし、砦の複数箇所から侵入を試みている。我々の兵力では全てに対応しきれない。

「西側も破られました!」別の伝令が報告した。

 戦況を整理するため、俺は一度塔に上った。そこから見渡すと、敵は確かに砦内の複数箇所に侵入していた。このままでは、砦の防衛線が保てない。

「新たな戦術が必要だ」俺は決断した。

 急いで作戦室に戻り、地図を広げる。現状を確認し、新たな防衛線を考える。

「中庭を中心に内側の防衛線を構築」俺は指示した。「外周は諦め、内部で敵を迎え撃つ」

 グレイスン大佐は一瞬躊躇ったが、すぐに頷いた。

「理にかなっている」彼は言った。「外周全てを守るのは不可能だ。中央に集中した方が効率的だ」

 新たな指示が出され、兵士たちは中庭を中心とした内側の防衛線に集結し始めた。外周はある程度諦め、敵を内部に引き込んで対処する作戦だ。

 これは危険な賭けだが、現状では最善の策だと判断した。

 戦いは激しさを増していった。敵は次々と砦内に侵入し、中庭での激戦が始まる。しかし、集中した我々の兵力は強く、侵入してきた敵を次々と撃退していく。

「効果があります!」セリシアが報告した。「敵の進攻が鈍っています!」

 確かに、敵の勢いは少し弱まったように見える。しかし、まだ安心はできない。敵の数は我々を上回っており、消耗戦では不利だ。

 そのとき、北側から騒がしい声が聞こえた。

「援軍だ! 王都からの援軍が来た!」

 驚きの声に、俺は北の塔に駆け上った。そこから見ると、確かに王国軍の旗を掲げた一団が急速に接近してきていた。

「本当に援軍だ!」俺は喜びの声を上げた。

 援軍は約300名ほどの騎兵部隊で、敵の後方から迅速に接近している。敵陣も動揺し、急いで対応しようとしている様子が見える。

「この機に反撃だ!」シバタ大尉が命じた。「敵が動揺している今こそ好機だ!」

 砦内の兵力が一斉に反撃に転じた。内部に侵入していた敵兵は包囲され、外部からの援軍もなく苦戦を強いられる。

 戦況は一気に我々に有利に傾いた。援軍の到着と、集中した反撃の前に、敵は混乱し始めている。

 そして、敵陣から角笛の音が響いた。撤退の合図だ。

「敵が撤退します!」フェリナが報告した。

 敵軍は急いで撤退を始めた。砦内に残された兵士たちは投降するか、最後まで戦って倒れるかの選択を迫られる。

 戦いは日暮れまで続いたが、結果は明確だった。三日目の戦い、我々の勝利だ。

 ***

 夕方、援軍の指揮官——レフィン准将と会見した。

「よく来てくれた」シバタ大尉が握手を交わした。「ちょうど良いタイミングだった」

「将軍の命令でな」准将は笑った。「『ギアラ砦は重要拠点、必ず援護せよ』とな」

 アルヴェン将軍は俺たちの状況を心配し、事前に援軍を手配していたのだ。その配慮に感謝の念を抱いた。

「敵は?」准将が尋ねた。

「撤退して陣を敷き直したようです」フェリナが報告した。「しかし、バイアス伯爵の旗が消えました」

「伯爵が引き上げたか」准将は興味深そうに言った。「恐らく、政治的な意図は達成できないと判断したのだろう」

 一方で、ラドルフの赤い旗はまだ残っている。彼はまだ諦めていないようだ。

「伯爵の態度は何を意味するのでしょう?」俺は准将に尋ねた。

「おそらく」准将は考え込むように言った。「砦を奪取できないと判断し、政治的な勝負を降りたのだろう。バイアス伯爵は実利主義者だからな」

 政治的な勝負——俺にはまだ完全には理解できない世界だ。しかし、今日の勝利でそれは回避できたようだ。

「今後の作戦は?」准将が尋ねた。

「明日、最終決戦になるでしょう」俺は答えた。「ラドルフはバイアス伯爵が去った今、全力で攻めてくるはずです」

 全員が同意し、明日の作戦が議論された。援軍を加えて約950名となった我々の兵力は、敵とほぼ互角になった。これで勝機が見えてきた。

 会議が終わり、兵士たちは休息に入った。今夜は援軍の到着もあって、食堂は特に賑やかだった。

 俺は疲れもあり、少し早めに席を立った。今日の戦いは消耗が激しく、明日の最終決戦に備えて休息が必要だ。

 砦の裏手に設置された野営地の簡易浴場に向かう。戦の最中に贅沢を言うつもりはないが、明日の戦いに備えて体を清めておきたい。

 浴場は兵士たちの疲れを癒すため、簡易的に設けられたものだ。大きな桶に熱湯を入れ、簡素なテントで囲ったような施設だが、それでも戦場では貴重な休息場所となる。

 テントに近づき、中に人がいないことを確認してから入る。湯気の立ち上る湯桶が置かれ、心地よい温かさが感じられた。

 俺は疲れた体を湯に沈め、今日の戦いを振り返る。政治的な駆け引き、内政の影……軍事だけでなく、様々な要素が絡み合う戦いだったことを実感する。

 そんな考えに耽っていると、テントの入口が開く音がした。

「あれ? 誰か入ってるの?」

 女性の声——フェリナの声だった!

 俺は思わず湯桶に身を沈め、声を殺した。彼女はテントの外から声をかけている。まだ中には入っていない。

「すまない! 俺だ、ソウイチロウ!」俺は慌てて声を上げた。

「え? ソウイチロウ?」

 フェリナの声には驚きが混じっていた。

「今使ってるんだ、ごめん」俺は言った。「すぐ出るから」

 しかし、テントの隙間から彼女の姿が見え始めた。どうやら、俺の言葉を聞く前に入ってきてしまったようだ。

 フェリナは湯の中の俺を見て、一瞬動きを止めた。彼女は既に上着を脱ぎ、薄い下着姿だった。

 二人は互いを見つめ、言葉を失った。

「……覗いたら殺す」

 フェリナの声は低く、しかし殺気を含んでいた。彼女は素早くテントに入り、湯桶の反対側に立った。

「い、いや、俺は別に覗くつもりじゃ……」

「黙って背を向けなさい」彼女は命令した。「そして出て行きなさい」

 俺は急いで背を向け、湯から出ようとした。しかしその瞬間、フェリナが湯に入る音がした。

「この状況、どうすりゃいいんだ……」

 俺は困惑して呟いた。背中越しに湯の動く音が聞こえる。フェリナは入浴を始めたようだ。

「出て行かないの?」彼女の声には不思議な余裕が感じられた。

「あ、ああ……今すぐ」

 俺は背を向けたまま服を手に取り、急いで身につけようとした。

「焦らなくていいわよ」フェリナの声が少し柔らかくなった。「どうせ明日は命懸けの戦いなんだし、こんな些細なことで気にしてもしょうがないでしょ」

 その言葉に、少し緊張が解けた。振り返ることはできないが、彼女の声には妙な諦めと開放感が混じっていた。

「そ、そうか?」俺は戸惑いながら答えた。

「ええ」湯の音が聞こえる。「それに、私たちはもう何度も命を分け合ってきたじゃない。こんなことで慌てるなんて、おかしくない?」

 彼女の言葉には理があった。確かに俺たちは何度も危険な戦場を共にしてきた。それに比べれば、入浴の鉢合わせなど些細なことかもしれない。

「そうだな……」俺は少し落ち着いてきた。「でも、やっぱり出ていくよ。お休み」

「ソウイチロウ」

 出ようとする俺に、フェリナが声をかけた。

「何?」

「明日……気をつけて」彼女の声には真摯な感情が込められていた。「あなたが負けるのは見たくないから」

 その言葉に、胸が温かくなった。

「ああ、約束する」俺は答えた。「明日も勝つよ、みんなのために」

 テントを出た後も、フェリナの言葉が心に残った。彼女との絆は、こうした非常事態の中で確かに深まっていた。

 そして、明日はいよいよ最終決戦。ラドルフとの決着をつける日だ。

 俺は星空を見上げながら、部屋に戻った。明日の勝利を、心に誓いながら。