朝靄の中、俺は要塞の最上階にある見張り台に立っていた。援軍の到着で戦況は一変し、三日目の今日は敵の姿が見えない。どうやら、昨夜のうちに帝国軍は撤退したようだ。
これは勝利と言えるのだろうか。確かに、要塞は守り切った。しかし、多くの命が失われた。カイルをはじめとする仲間たちは帰らぬ人となった。
「ここにいたか」
背後から落ち着いた声がした。振り返ると、アルヴェン将軍が立っていた。昨日の援軍と共に、将軍自ら前線に来ていたのだ。
「将軍!」
慌てて敬礼した。
「休めて良い」将軍は穏やかに言った。「朝から何を考えている?」
「はい……」俺は少し躊躇いながら答えた。「戦いの振り返りを」
将軍は頷き、俺の隣に立って遠くを見た。朝日が徐々に靄を晴らし、戦場となった平原が見えてきた。
「報告は受けた」将軍はゆっくりと言った。「君の判断と働きは、要塞防衛に大きく貢献した」
「いえ……」俺は言葉に詰まった。「私は多くの失敗をしました。北の拠点は陥落し、カイルたちは……」
将軍は静かに俺の言葉を遮った。
「戦場の責任は最終的に私にある」彼は言った。「そして、戦いにはいつも犠牲が伴う。それは避けられないことだ」
将軍の言葉には重みがあった。彼は何十もの戦場を経験してきたのだろう。その背中には、数え切れないほどの決断と、失われた命の重さが乗っているように感じられた。
「とはいえ」将軍は続けた。「君は初めて本当の試練に直面したのだろう。ラドルフは並の指揮官ではない」
「はい……」
俺は素直に認めた。ラドルフの前では、俺の「読み」は完全に通用しなかった。それは、前世でも現世でも初めての経験だった。
「ソウイチロウ」将軍が真剣な眼差しで俺を見た。「読みは万能ではない」
その言葉に、胸に痛みを感じた。将軍は続けた。
「君の才能は確かだ。その『読み』の力は、多くの戦いで勝利をもたらした。だが、それだけでは足りない場合もある」
「では、どうすれば……」
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」将軍は古い格言を引用した。「君はラドルフを知った。そして、己の限界も知った。次はその先だ」
将軍の言葉に、わずかな希望を感じた。確かに、俺は敗北したが、その敗北から学ぶことができる。ラドルフの戦術、「魂の鎖」の限界、そして自分の「読み」の弱さも。
「君の読みは、流れを捉える力だ」将軍は続けた。「だが、ラドルフは流れそのものを支配しようとする。では、君はどうすべきか」
俺は考え込んだ。将軍の問いかけには深い意味がある。
「読みが通じないなら……」俺はゆっくりと言葉を紡いだ。「自分が流れを創るしかありません」
将軍の顔に小さな微笑みが浮かんだ。
「その通りだ」彼は頷いた。「読むだけでなく、創ることも必要だ。受け身ではなく、能動的に流れを作り出すのだ」
その言葉に、新たな視点が開けたような気がした。前世での麻雀でも、単に相手の手を読むだけでなく、自分の手を最大限に活かす戦略が必要だった。同じことが、この戦場でも言えるのだ。
「これからどうするつもりだ?」将軍が尋ねた。
「ラドルフとの戦いは、まだ終わっていないですよね?」
「ああ」将軍は厳しい表情になった。「彼は撤退したが、諦めてはいない。恐らく次の戦場で待ち構えているだろう」
「ならば」俺は決意を固めた。「もっと彼について学び、次の戦いに備えます。そして、今度は勝ちます」
将軍は満足げに頷いた。
「良い心構えだ」彼は言った。「では、今日は少し休め。明日から新たな準備が始まる」
将軍が去った後も、俺は長い間、朝の光に照らされる平原を見つめていた。ラドルフとの戦いは始まったばかりだ。次は、もっと準備して臨まなければならない。
***
午後、俺は要塞の中庭で一人、小石を並べていた。それぞれの石には印をつけ、兵士や騎兵、弓兵などを表している。これをタロカの牌に見立てて、戦術を組み立てる練習だ。
「また変わったことをしているのね」
セリシアの声がして、俺は顔を上げた。彼女は好奇心に満ちた表情で俺の作業を見ていた。
「ああ」俺は笑った。「タロカの感覚で戦術を考えてみようと思ってね」
「面白いわね」彼女は隣に座った。「説明してくれる?」
「これは我々の兵力」俺は白い石を指した。「そしてこれが敵」黒い石を示す。「これを牌のゲームだと考えると、どんな『役』を作れるかが勝負になる」
「なるほど」セリシアは興味深そうに頷いた。「それで、いい『役』は思いついた?」
「まだだよ」俺は正直に答えた。「ラドルフの『魂の鎖』をどう崩すかが課題だ」
セリシアは真剣な表情になった。
「フェリナから聞いたわ」彼女は言った。「彼の力には限界があるって」
「そう」俺は頷いた。「彼から離れるほど、効果は弱まる。そして、日没後に特別な儀式を行うらしい」
「それが弱点ね」
「でも、それだけでは不十分だ」俺は石を動かしながら言った。「彼の戦術は完璧に近い。我々が次に何をするか、常に先読みしているように見える」
「だから、予測できない動きをする必要があるわけね」セリシアは鋭く指摘した。
「その通り」俺は笑った。「君はやっぱり頭がいいな」
セリシアは少し照れたように視線をそらした。
「単なる論理的思考よ」彼女はそっけなく言ったが、頬が少し赤くなっていた。
二人でしばらく石を動かし、様々な戦術パターンを試してみる。
「ところで」セリシアが不意に口を開いた。「フェリナとラドルフの間に何かあるみたいね」
「ああ」俺は慎重に言葉を選んだ。「彼女の父親が、ラドルフによって陥れられたらしい」
「そう……」セリシアの表情が曇った。「彼女にとっては単なる戦争じゃないのね」
「彼女は強いよ」俺は言った。「あんな過去を抱えながらも、冷静に情報を集め、分析している」
「ええ」セリシアは同意した。「彼女は尊敬に値する」
会話が途切れ、二人はまた石を動かし始めた。しばらくして、セリシアが立ち上がった。
「夕食の時間ね」彼女は言った。「食べに行かない?」
「ああ、もう少ししたら行くよ」
セリシアは軽く会釈して去っていった。残された俺は、石の配置を見つめながら考えを巡らせた。
(ラドルフは「流れを殺す」者……)
彼の戦術は、まさに流れそのものを支配する。自然な流れを殺し、自分の思い通りに状況を作り出す。それに対抗するには、俺も同じように能動的にならなければならない。
俺はポケットからタロカの牌を取り出した。戦場に持ち出すのは不謹慎かもしれないが、この牌を見るとどこか落ち着く。前世での麻雀牌に似た安心感がある。
牌を並べ、様々な「役」を作りながら、俺は戦術を練った。ラドルフに対抗する方法、「魂の鎖」を断ち切る方法。
日が落ち、中庭が暗くなり始めると、フェリナが近づいてきた。
「まだ考えてるの?」彼女は優しく声をかけた。
「ああ」俺は顔を上げた。「何か新しい情報はある?」
「ええ」フェリナは隣に座った。「ラドルフは西方、ギアラ砦に向かったらしいわ」
「ギアラ砦?」
「要衝よ」彼女は説明した。「あそこを押さえられれば、西部全域が危険になる」
新たな戦場が見えてきた。次の戦いはギアラ砦となるのだろう。
「それと」フェリナは声を低くした。「あなたに任務が下る可能性が高いわ」
「俺に?」俺は驚いた。「でも、俺は失敗したんだ」
「将軍はあなたを信頼している」フェリナは真剣な眼差しで言った。「今回の敗北で、あなたはより強くなると判断しているのよ」
将軍の言葉を思い出す。「読みは万能ではない」――しかし、その先があるはずだ。
「わかった」俺は決意を込めて言った。「準備をするよ」
フェリナは微笑み、立ち上がった。
「夕食の時間だわ」彼女は言った。「一緒に行かない?」
「ああ、行こう」
牌をしまい、石を片付けて、俺たちは食堂へと向かった。途中、夕焼けの空を見上げると、赤く染まる雲が印象的だった。
(赤眼の魔将——)
もう恐れはない。ただ、次の戦いへの決意だけがある。
***
翌朝、予想通り将軍から呼び出しがあった。作戦室には、シバタ大尉とセリシア、フェリナ、そして数名の士官が集まっていた。
「諸君」将軍は地図を広げながら始めた。「ラドルフ軍はギアラ砦へ向かった。我々の情報によれば、彼らは既に砦を包囲し始めている」
地図上でギアラ砦の位置が示された。山間の狭い通路を押さえる重要な拠点だ。
「現在、砦には200名ほどの我が軍がいるが、ラドルフの軍勢は約1000」将軍は冷静に状況を説明した。「このままでは砦は落ちる」
「援軍を送るべきでしょうか」ある士官が提案した。
「その通りだ」将軍は頷いた。「しかし、単なる数の勝負では、ラドルフに勝てない。我々には戦術的優位が必要だ」
将軍の視線が俺に向けられた。
「ソウイチロウ・エストガード」
「はい!」俺は背筋を伸ばした。
「君にギアラ砦の防衛任務を任せたい」
会議室が静まり返った。予想はしていたが、実際に言われると重圧を感じる。
「私に……ですか」
「そうだ」将軍は頷いた。「君は一度ラドルフと戦い、彼の戦術を知った。そして、何より『流れ』を読む力を持っている」
俺は深く息を吐いた。この任務は大きな責任を伴う。しかし、ここで退くわけにはいかない。
「わかりました」俺は決意を込めて答えた。「責任を持って任務を遂行します」
「良い」将軍は満足げに言った。「シバタ大尉、セリシア少尉、フェリナ情報将校も同行させる。彼らの力も借りるといい」
三人とも頷いた。特にセリシアの目には、強い決意が見えた。
「作戦の詳細は君に任せる」将軍は言った。「だが、一つだけ約束してほしい」
「はい?」
「無謀な犠牲は避けること」将軍の声は厳かだった。「砦が守れないと判断したら、撤退も辞さないことだ」
「わかりました」
会議が終わり、準備が始まった。援軍として約500名の兵が編成され、明日出発することになった。
俺は自室に戻り、作戦を練り始めた。紙の上に様々な戦術パターンを書き、ラドルフの動きを予測する。前回の敗北から学んだことを活かさなければならない。
夜が更けても、俺は作戦立案を続けていた。ノックの音がして、ドアを開けると、シバタ大尉が立っていた。
「まだ起きていたか」大尉は部屋に入った。
「はい」俺は敬礼した。「作戦を考えていました」
「そうか」大尉は俺の書いた紙を見た。「かなり緻密な計画だな」
「まだ足りません」俺は正直に言った。「ラドルフを打ち破るには、もっと……」
「焦るな」大尉は優しく言った。「明日からギアラに向かう途中でも考える時間はある」
大尉の言葉に、少し肩の力が抜けた。
「大尉」俺は少し躊躇いながら尋ねた。「なぜ将軍は私を選んだのでしょうか。前回、私は敗北しました」
シバタ大尉はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「将軍は若き日に、大敗を喫したことがある」彼は物語るように話し始めた。「当時、彼も君と同じく無敗の天才と呼ばれていた。だが、一人の敵将に完敗し、多くの部下を失った」
「将軍が……」
「そう」大尉は頷いた。「だが、彼はその敗北から立ち直り、より強くなった。敗北を知っている者こそが、真の勝利を掴めると、彼は信じているのだ」
将軍の背景を知り、少し救われた気持ちになった。彼も同じ道を歩み、乗り越えてきたのだ。
「ありがとうございます」俺は心から言った。「必ず結果を出します」
「ああ」大尉は微笑んだ。「期待している」
シバタ大尉が去った後、俺は窓から夜空を見上げた。無数の星が静かに瞬いている。
「もう一度打つ」俺は小さく呟いた。「打ち返すために、俺はここにいる」
前世では、麻雀で負けたら次の対局を待つだけだった。しかし、この世界での敗北は命にかかわる。だからこそ、次は絶対に勝たねばならない。
俺は決意を固め、明日の出発に備えて休むことにした。ギアラ砦での戦いは、俺の真価が問われる戦いになるだろう。読みが砕けた日から、より強く立ち上がるために。