夜の野営地は、沈黙に包まれていた。戦いは一時休止し、兵士たちは明日に備えて休息を取っている。だが、その空気は重く、喪失感に満ちていた。
俺は医務室のテントで、負傷者のリストを手に取っていた。今日の戦いで100名以上の兵が失われ、さらに多くの負傷者が出た。その名簿を読み上げる手が、微かに震えている。
「スタークス、重傷、右腕切断……」
「ウィリス、中傷、腹部裂傷……」
「ホーガン、重傷、肺に矢、危篤……」
一つ一つの名前が、心に重くのしかかる。彼らは俺の作戦で傷ついた。その責任は、俺にある。
「まだ起きていたのね」
テントの入り口が開き、セリシアが入ってきた。彼女の表情は疲れていたが、それでも冷静さを保っていた。
「ああ」俺は名簿から顔を上げずに答えた。「負傷者のリストを確認してるんだ」
セリシアは黙って俺の隣に座った。
「自分を責めてるのね」
鋭い指摘に、少し身を縮めた。
「当然だよ」俺は静かに言った。「俺の作戦で、皆が傷ついた。カイルたちは……戻ってこなかった」
セリシアはしばらく黙っていたが、やがて優しく言った。
「これも戦争よ」
その言葉に、思わず顔を上げた。
「戦争では、誰かが命令を下し、それに従って兵士たちが戦う」彼女は冷静に説明した。「そして必ず、犠牲は出る。それが避けられないことは、軍人なら誰もが知っている」
「でも……」
「カイルたちは、任務を理解した上で志願したのよ」セリシアは俺の目をまっすぐ見た。「彼らは英雄として死んだ。多くの仲間を救うために」
その言葉で胸が熱くなった。確かに彼らは勇敢だった。そして、彼らの犠牲があったからこそ、主力部隊の大半が帰還できた。
「それでも……」
俺の言葉が途切れた時、医務室の奥から呻き声が聞こえた。重傷を負った兵士の一人だろう。その痛みを和らげようと、衛生兵が動く音が聞こえる。
「本当の責任は、ラドルフにあるわ」セリシアは静かに言った。「彼が攻めてこなければ、こんな戦いにはならなかった」
確かにその通りだ。しかし、それで俺の心の重荷が軽くなるわけではない。
「ソウイチロウ」セリシアの声が少し柔らかくなった。「あなたはまだ若い。戦場の現実に直面するのは、いつだって辛いものよ」
彼女の言葉に、少し救われた気がした。セリシアは普段厳しいが、今夜は優しかった。彼女もまた、この戦いの重さを感じているのだろう。
「ありがとう」俺は素直に言った。「少し気が楽になったよ」
セリシアは小さく微笑んだ。
「明日も戦いは続くわ」彼女は立ち上がった。「少しでも休んだ方がいいわよ」
「そうだね」
セリシアはテントを出て行った。残された俺は、まだ手元の名簿を見つめていた。最後のページには、戦死者のリストがある。そこにはカイルの名前も記されていた。
「カイル・ブランデル、戦死……」
俺は声に出して読み、深く息を吐いた。これが現実だ。彼は戻ってこない。二度と冗談を言い合うことも、共に酒を飲むこともない。
テントを出ると、夜空には無数の星が輝いていた。美しい光景だが、今の俺には虚しさしか感じられない。夜風が肌を刺すように冷たい。
ふと見ると、要塞の片隅に小さな明かりが見えた。誰かいるのだろうか。気になって足を向けると、そこにはフェリナが一人、小さな蝋燭を前に座っていた。
「フェリナ?」
彼女は振り返り、俺を見上げた。目が赤くなっていた。泣いていたのだろうか。
「ソウイチロウ……」
「すまない、邪魔したかな」
「いいえ」彼女は小さく首を振った。「ちょうどいいわ。少し話をしたかったの」
俺は彼女の隣に座った。蝋燭の明かりが揺れる中、彼女の横顔が浮かび上がっていた。
「これは、私の国の弔いの仕方よ」フェリナは蝋燭を見つめながら言った。「命を落とした者のために、光を灯す……彼らの魂が闇に迷わないように」
「美しい習慣だね」
俺も蝋燭を見つめた。その小さな炎が、夜風にかすかに揺れている。
「今日の戦いで、私の同胞も何人か命を落としたわ」フェリナは静かに言った。「帝国軍として戦っていた彼らだけど、それでも同じ国の出身……」
彼女の声には悲しみが滲んでいた。敵として戦う同胞を想う気持ち、それはどれほど複雑なものだろう。
「戦争は残酷だね」俺は呟いた。
「ええ」フェリナは頷いた。「そして、ラドルフはその残酷さを極限まで突き詰めた男よ。彼は兵士を駒としか見ていない。消費可能な資源として」
フェリナの声に憎しみが混じる。彼女とラドルフの因縁は、想像以上に深いのかもしれない。
「あなたは違うわ」突然、彼女が俺を見つめた。「あなたは兵士たちの命を大切にしている。だからこそ、今こうして苦しんでいる」
「フェリナ……」
「忘れないでほしい」彼女は真剣な眼差しで言った。「あなたのような指揮官が必要なの。死者を悼み、生きる者の命を大切にする人が」
彼女の言葉が心に沁みた。そうだ、俺は忘れてはいけない。カイルたちの死も、傷ついた兵士たちの痛みも。それを心に刻み、次の戦いに活かさなければ。
「ありがとう」俺は心から言った。「君の言葉に、少し勇気をもらえたよ」
フェリナは小さく微笑んだ。その微笑みには悲しみが混じっていたが、それでも美しかった。
「それと……」彼女は言いにくそうに続けた。「ラドルフについて、もう少し話せることがあるわ」
「え?」
「彼の『赤い目』は、単なる異形ではないの」フェリナは蝋燭の炎を見つめながら言った。「それは禁忌の魔術の結果よ。『魂の鎖』と呼ばれる古代の術だと言われている」
「魂の鎖?」
「兵士たちの精神を部分的に支配する力」彼女は静かに説明した。「完全な洗脳ではなく、恐怖と服従を植え付ける術だと言われているわ」
そんな力があるのか。それなら、あの異様な統制も説明がつく。
「でも、その力には代償があるはず」フェリナは続けた。「限界があるわ。全ての兵を同時に支配することはできないし、効果も永続ではない」
「それが弱点か……」
「弱点を突くためには、もっと情報が必要ね」フェリナは決意を込めて言った。「私、明日の戦いでもっとラドルフを観察するわ」
「危険だよ」俺は心配した。「彼は君を知っているかもしれない」
「大丈夫、直接戦場には出ないから」彼女は少し微笑んだ。「でも、情報なしでは彼には勝てないわ」
確かにその通りだ。ラドルフという男を倒すには、彼の弱点を知る必要がある。
「わかった」俺は頷いた。「でも、無理はするなよ」
二人は再び蝋燭の炎を見つめた。小さな光だが、この暗い夜に希望を感じさせる。
「フェリナ」俺は静かに言った。「俺も、その弔いに参加してもいいかな」
彼女は少し驚いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「もちろん」
彼女は別の蝋燭を取り出し、俺に手渡した。俺はそれに火を灯し、カイルたちのために祈りを捧げた。
彼らの犠牲を無駄にしないために、俺たちは勝たなければならない。そのためには、ラドルフの「魂の鎖」を断ち切る方法を見つけなければ。
***
翌朝、俺は早くに目を覚ました。昨夜は遅くまで起きていたにもかかわらず、不思議と体が軽い。新たな決意が、俺を動かしているのかもしれない。
作戦室に向かうと、すでにシバタ大尉とグレイスン大佐が話し合っていた。
「おはよう、ソウイチロウ」大尉が声をかけた。
「おはようございます」俺は敬礼した。「今日の作戦はどうなりますか?」
二人は互いに顔を見合わせた。
「実は」グレイスン大佐が口を開いた。「昨夜、援軍の連絡があった。王都から第三軍団が派遣され、明日には到着する見込みだ」
それは朗報だった。援軍があれば、戦況は一変する。
「つまり」シバタ大尉が続けた。「今日は持ちこたえることが最優先だ。明日の援軍到着まで、要塞を守り抜く」
俺は頷いた。
「では、今日は完全防御ですね」
「そうだ」大尉は言った。「徹底的に要塞の防衛を固める。敵の攻撃は激しくなるだろう。ラドルフも、援軍の到着を察知している可能性がある」
城壁に上がると、確かに敵陣は昨日より活発に動いていた。攻城兵器が準備され、兵士たちが整列している。今日は全力で攻めてくるつもりだろう。
「準備はできています」
セリシアが近づいてきた。彼女は既に鎧を身につけ、戦闘の準備を整えていた。
「ありがとう」俺は頷いた。「今日は守りきる。明日には援軍が来る」
「そう」セリシアの表情が少し明るくなった。「それは良いニュースね」
二人で要塞の防衛体制を確認していると、突然、敵陣から角笛の音が響いた。
「来るぞ!」
グレイスン大佐の声に、全員が緊張した。敵の兵士たちが一斉に動き出し、要塞に向かって進軍を始めた。
「全軍、防衛位置につけ!」大尉が命じた。
兵士たちが慌ただしく持ち場に散っていく。俺とセリシアは東の城壁を担当することになった。
「弓兵、準備!」セリシアが命じた。
弓兵たちが弓を構え、敵の接近を待つ。敵は攻城梯子と簡易な攻城塔を持って近づいてくる。
「敵の数は?」俺は双眼鏡で確認した。
「少なくとも1000」セリシアが答えた。「昨日よりも集中しているわ」
確かに、敵は昨日よりも集中した攻撃を仕掛けてきている。おそらく彼らも、時間との戦いだと理解しているのだろう。
「射程距離に入りました!」ある兵士が叫んだ。
「発射!」
セリシアの命令で、弓兵たちが一斉に矢を放った。敵の前列に矢が降り注ぎ、多くの兵士が倒れた。しかし、後続の兵士たちは淡々と前進を続ける。
「やはり、奴らは恐怖を知らないのか……」
普通なら、これほどの犠牲に動揺するはずだ。だが、彼らは機械のように進軍を続ける。
「ラドルフの『魂の鎖』か」俺は呟いた。
敵は要塞の壁の下に到達し、攻城梯子を掛け始めた。同時に、攻城塔が前進してくる。
「塔を狙え!」俺は命じた。「塔の操縦手を倒せ!」
弓兵たちが攻城塔に矢を集中させた。何本かの矢が命中し、塔の動きが鈍った。しかし、すぐに別の兵士が代わりに立ち、塔は進み続ける。
「壁に登ってくるぞ!」兵士たちが叫んだ。
梯子を使って、敵兵が壁を登り始めた。俺たちは槍や石を使って、彼らを撃退しようとする。壁の上では激しい接近戦が始まった。
戦闘が激化する中、俺はラドルフの姿を探した。赤い旗の下、彼は騎馬に乗って戦況を見渡している。彼の指示に従い、敵軍は完璧に連携して動いていた。
(どうすれば彼の『魂の鎖』を断ち切れるのか……)
フェリナの言葉を思い出す。彼の力には限界があるはず。全ての兵を同時に支配はできない。だとすれば……。
「セリシア!」俺は叫んだ。「敵の中心部を狙おう! ラドルフの近くだ!」
「なぜ?」彼女は疑問を投げかけたが、すぐに理解したようだ。「そうか、彼の『支配』の限界を試すのね」
「そうだ」俺は頷いた。「彼の近くにいる兵ほど強く支配されているはずだ。逆に言えば、遠くにいる兵は比較的弱い支配下にある可能性がある」
セリシアは弓兵たちに新たな指示を出した。彼らは矢の集中を変え、ラドルフの周辺を狙い始めた。同時に、壁の守備も続ける。
しかし、敵の攻撃は激しさを増すばかりだった。東側の壁では、敵兵が次々と登ってきて、激しい戦闘が繰り広げられている。
「このままでは持ちこたえられない!」セリシアが叫んだ。
兵士たちは勇敢に戦うが、疲労と負傷で徐々に押されている。敵の数が多すぎるのだ。
そのとき、北側から大きな喧騒が聞こえた。
「何が起きた?」俺は兵士の一人に尋ねた。
「北側の壁が破られました!」兵士は青ざめた顔で報告した。「敵が要塞内に侵入しています!」
最悪の事態だ。このままでは要塞は陥落する。
「グレイスン大佐に連絡を!」俺は命じた。「予備兵力を北に回せ!」
連絡兵が走り去る。だが、東側の壁も危機的状況だ。このままでは、こちらも破られる。
「選択しなければならない」セリシアが俺を見た。「このままでは両方を守れない」
苦渋の決断を迫られる。北を強化すれば東が落ちる。東を守れば北からの侵入を許す。
「くっ……」
その時、南側から角笛の音が響いた。敵からの新たな攻撃だろうか。壁の上から南を見ると、馬に乗った一団が近づいていた。
「あれは!」セリシアが目を見開いた。「王国軍の旗!」
驚きと喜びが湧き上がる。援軍だ! 予定より早く到着したようだ。
「援軍だ!」俺は叫んだ。「持ちこたえろ!」
その声に兵士たちも勇気づけられたようだ。彼らは新たな力を得て、敵を押し返し始めた。
援軍は素早く陣形を整え、敵の後方から攻撃を開始した。ラドルフ軍は前後から挟まれる形となり、混乱し始めた。
そして、予想通りのことが起きた。敵の中でも、ラドルフから遠い位置にいる兵士たちの間で乱れが生じ始めた。「魂の鎖」の効果が弱まっているのだろう。
「見ろ、敵が混乱している!」セリシアが指摘した。
敵の陣形が乱れ始め、一部の兵士は撤退し始めた。ラドルフの「支配」が完全ではないことが証明された瞬間だった。
ラドルフ自身も状況を理解したようだ。彼は赤い旗を下げさせ、撤退の合図を出した。帝国軍は整然と、しかし急いで撤退を始めた。
「やった!」兵士たちから歓声が上がった。
援軍の到着と敵の撤退で、要塞は守られた。負傷者は多いが、完全な敗北は免れたのだ。
俺とセリシアは急いで下に降り、援軍の指揮官と合流した。
「レイモンド中佐!」シバタ大尉が援軍の指揮官と握手を交わした。「よく来てくれた。予定より早かったな」
「強行軍でな」レイモンド中佐は笑った。「情報によれば、ここの状況が切迫していると聞いたからな」
俺たちは援軍と合流し、状況を整理した。北側から侵入した敵兵も撃退され、要塞は再び安全となった。しかし、犠牲は大きかった。今日の戦いだけでも、約50名の兵士が命を落としたという。
***
夕方、作戦室で今後の計画が話し合われた。援軍の到着で戦力バランスは大きく変わり、明日からは反撃も可能となる。
「ラドルフ軍は撤退したが、完全に去ったわけではない」レイモンド中佐が言った。「彼らは新たな陣地を築いているようだ」
「つまり、戦いはまだ続くということだな」シバタ大尉が言った。
「ああ」中佐は頷いた。「だが、今は我々に優位がある。援軍の到着で、戦力は約2000となった」
会議が終わり、俺は疲れた体を引きずるように自室に戻った。二日間の激しい戦いで、心も体も疲弊していた。
扉を開けると、意外な人物が待っていた。
「フェリナ?」
彼女は窓辺に立ち、夕陽を見つめていた。俺の声に振り返り、微笑んだ。
「無事で良かった」彼女は安堵の表情を見せた。「激しい戦いだったわね」
「ああ」俺は頷いた。「君は? 怪我はない?」
「私は直接戦ってないから大丈夫よ」彼女は言った。「それより、大切な情報を得たの」
「ラドルフについて?」
「ええ」彼女は真剣な表情になった。「今日の戦いで、彼の『魂の鎖』の限界がはっきりした。あなたの推測通り、彼から離れるほど効果は弱まるわ」
「そうか」俺は安堵した。「それなら、対策の手がかりになる」
「もう一つ」フェリナは続けた。「彼は毎日、日没後に特別な儀式を行うらしいわ。恐らく『魂の鎖』を維持するためのものね」
「儀式?」
「詳細はわからないけど」彼女は言った。「その時間が、彼の最も弱い瞬間かもしれない」
それは貴重な情報だ。敵の弱点を知ることは、勝利への第一歩だ。
「ありがとう、フェリナ」俺は心から言った。「君の情報は必ず役立てる」
彼女は小さく微笑んだ。
「カイルたちの分まで、私たちは戦わなければね」
その言葉に、胸が熱くなった。フェリナも昨夜の蝋燭の光を忘れていない。死者たちへの約束を。
「ああ、必ず」
フェリナが部屋を出た後、俺は窓から夕陽を見つめた。赤く染まる空が、「赤眼の魔将」を連想させる。
だが、もう恐れはない。ラドルフにも弱点があることがわかった。そして、俺たちには新たな力と情報がある。
昨日の敗北と犠牲を無駄にしないためにも、次は勝たなければならない。カイルたちの遺志を継ぎ、この戦いに決着をつける。
俺は静かに誓った。読みが砕けた日から、より強く立ち上がるために。