夜明け前、要塞内は緊張した空気に包まれていた。昨日の敗北から立て直すべく、早朝から指揮官たちが集まり、作戦会議が行われていた。

「現状を整理しよう」

 シバタ大尉が大きな地図を広げながら言った。作戦室には俺とセリシア、グレイスン大佐、そして数名の士官たちが集まっていた。

「昨日、北と南の前進拠点を失った。現在、敵は要塞を三方から包囲している状態だ」

 地図上に敵の位置が示される。帝国軍は要塞の周りに効率的に配置され、我々の動きを封じていた。

「敵の総数は約2000、こちらは残り約600」シバタ大尉は厳しい表情で続けた。「数の上では不利だが、要塞の壁があるかぎり持ちこたえられる」

「問題は補給だな」グレイスン大佐が言った。「このままでは一週間が限度だ」

 確かに補給は深刻な問題だ。敵に包囲された状態では、食料や医薬品、武器の補充ができない。

「ソウイチロウ補佐官」シバタ大尉が俺を見た。「君の意見を聞かせてくれ」

 全員の視線が俺に集まる。昨日の敗北で自信を失ったが、今は立ち直るしかない。

「昨日の戦いで、ラドルフの戦術の特徴が見えてきました」俺は冷静に語り始めた。「彼の軍は完全に統制されています。それは強みでもあり、弱点でもあります」

「弱点?」グレイスン大佐が眉を上げた。

「はい」俺は頷いた。「あれほど完璧な統制には限界があるはずです。フェリナ情報将校によれば、ラドルフの『支配』には範囲の制限があると」

「なるほど」シバタ大尉が理解を示した。「つまり、彼の注意を分散させれば……」

「そうです」俺は地図を指さした。「小規模な奇襲部隊を複数編成し、敵の陣地を撹乱する。彼らが混乱している間に、我々の主力が突破口を開く」

 作戦室が静まり返った。皆、俺の提案を検討している。

「危険な賭けだな」グレイスン大佐が言った。「奇襲部隊は高い確率で戻ってこれない」

「はい」俺は正直に認めた。「しかし、このまま包囲されても同じ結果です。打開策が必要です」

 シバタ大尉はしばらく考え込んでいたが、やがて決断を下した。

「採用しよう。だが、奇襲部隊は志願者のみで編成する。強制はしない」

 俺は安堵の息を吐いた。作戦が採用されたことに安心したが、同時に重い責任も感じる。この作戦で多くの命が失われる可能性もあるのだから。

「では、具体的な計画を立てよう」

 作戦の詳細が議論される中、俺はセリシアと共に奇襲部隊の編成と行動計画を練った。三つの小部隊を編成し、それぞれ別方向から敵陣に侵入。敵の注意を引く間に、主力部隊が南側から突破を試みる。

 会議が終わり、作戦の準備が始まった。俺は奇襲部隊の志願者募集に立ち会った。危険な任務だと説明したにもかかわらず、多くの兵士が名乗り出てくれた。彼らの勇気に、胸が熱くなる。

「では、作戦開始は正午だ」シバタ大尉が最終確認をした。「それまでに準備を整えよ」

「はっ!」

 全員が敬礼し、各自の持ち場に散っていった。

 ***

 準備の終わった俺は、要塞の城壁の上から敵陣を観察していた。朝日が昇り、徐々に戦場全体が明るくなっていく。敵は整然と配置され、要塞を包囲している。中央には赤い旗が見える。ラドルフの指揮所だ。

「準備はできたわ」

 背後からセリシアの声がした。彼女は昨日より冷静な表情をしていた。

「ありがとう」俺は振り返って言った。「奇襲部隊は?」

「全て整っています」彼女は報告した。「各20名、計60名が準備完了です」

 60名の勇敢な兵士たち。彼らは自分たちの命を賭けて、突破口を開こうとしている。

「主力突破部隊は?」

「シバタ大尉が直接指揮します」彼女は言った。「約200名で編成されています」

 残りの兵力は要塞の防衛に残る。綱渡りのような作戦だが、これしか打開策はない。

「セリシア」俺は少し言いづらそうに切り出した。「昨日は、俺の判断が甘かった。北の拠点を失ったのは俺の責任だ」

 セリシアは少し驚いた表情をしたが、すぐに柔らかな目で俺を見た。

「誰にでもミスはあるわ」彼女は優しく言った。「それに、ラドルフは尋常な相手じゃない。誰が指揮していても、似たような結果になったと思うわ」

 彼女の言葉に少し救われた気がした。

「ありがとう」俺は微笑んで言った。「でも、今日は絶対に勝つ。昨日の敗北を取り返すために」

「ええ」セリシアも決意を込めて頷いた。「私も全力で支援するわ」

 二人で戦場を見つめていると、フェリナが近づいてきた。

「そろそろ時間です」彼女は緊張した面持ちで言った。「奇襲部隊が出発準備を整えています」

「わかった」俺は頷いた。「行こう」

 三人で城壁を降り、中庭に集まった奇襲部隊の兵士たちのもとへ向かった。彼らは軽装備で、素早く移動できるよう準備している。その表情には緊張と決意が混じっていた。

 シバタ大尉が彼らに最後の訓示を行っていた。

「諸君の勇気に敬意を表する」大尉は厳かに言った。「任務は単純だ。敵陣に侵入し、できるだけ混乱を起こせ。我々の主力が突破口を開くために必要な時間を稼ぐのだ」

 兵士たちは固く頷いた。

「できれば全員の生還を望む」大尉は続けた。「だが、それが困難なことも承知している。諸君の名は、王国の歴史に刻まれるだろう」

 厳粛な空気が流れる中、俺も彼らに向かって一言述べた。

「皆さんの勇気に感謝します」俺は心を込めて言った。「今日の作戦は俺が立案しました。皆さんの命を預かる責任を、重く受け止めています」

 兵士たちの目に力が宿るのを感じた。

「敵は強いですが、必ず弱点があります」俺は続けた。「ラドルフの『支配』には限界がある。その隙を突けば、必ず勝機はあります」

 最後の挨拶が終わり、奇襲部隊は三手に分かれて要塞の秘密の出口から出発していった。彼らは敵に気づかれないよう、慎重に動く。作戦の成否は彼らの手にかかっている。

「これで第一段階は完了だ」シバタ大尉が言った。「あとは時間との勝負だな」

 俺たちは城壁に戻り、事態の推移を見守った。奇襲部隊は要塞の周囲の茂みや起伏を利用して、敵陣へと近づいていく。

 約一時間後、北側で最初の動きがあった。突如として敵陣に混乱が生じ、黒煙が上がった。

「始まったか!」シバタ大尉が双眼鏡で確認した。「北の奇襲部隊が動いたぞ!」

 続いて東、そして西からも同様の混乱が発生した。奇襲部隊が敵陣の補給車両や武器庫に火を放ったようだ。

「よし、敵が動いた!」大尉が喜びの声を上げた。「南側の敵が手薄になった!」

 計画通り、敵は三方向からの奇襲に対応するため、兵力を分散させた。南側の包囲網が薄くなったのが見える。

「主力突破部隊、出撃!」

 シバタ大尉の命令で、200名の主力部隊が要塞の南門から一斉に出撃した。彼らは敵の薄くなった包囲網を突破し、脱出路を確保しようとしている。

「行けっ!」

 思わず声が漏れた。作戦は今のところ順調だ。敵は混乱し、我々の主力が突破しようとしている。

 しかし、その時だった。

 中央の赤い旗の下で、一つの動きがあった。赤い甲冑に身を包んだ騎士が前に出て、何かの合図を出した。

「あれはラドルフ!」セリシアが声を上げた。

 その合図を受け、敵軍の動きが一変した。混乱していたはずの兵士たちが、突如として整然と動き始めた。そして、予想外の動きとして、彼らの一部が南側に向かって走り始めた。

「まさか……奇襲を予測していたのか?」シバタ大尉は顔色を変えた。

 そのようだった。ラドルフは我々の作戦を読み、事前に対策を講じていたのだ。奇襲部隊による混乱も、南側への突破も、全て想定内だったかのように。

「主力部隊が敵に挟まれる!」フェリナが叫んだ。

 そうなれば全滅は避けられない。急いで撤退の合図を送らなければ。

「撤退信号を!」俺は叫んだ。

 合図の角笛が鳴り響き、主力部隊に伝わった。彼らは戦闘を中断し、急いで要塞に戻り始めた。

 しかし、ラドルフの部隊は素早く動き、撤退路を塞ごうとしている。

「このままでは全員が戻れない……」

 俺の心に絶望が忍び寄る。作戦は失敗した。それどころか、貴重な兵力を失うことになる。全て俺の判断ミスだ。

 そのとき、北側から異変が起きた。奇襲部隊のはずが、予想以上の混乱を引き起こしている。黒煙が激しく上がり、敵兵が散り散りになって逃げている。

「あれは……」

 シバタ大尉が双眼鏡を向け直した。

「カイルだ! 彼が指揮してる!」

 カイルと彼の小隊が、予定以上の成果を上げている。彼らは敵の弾薬庫を爆破したようだ。これにより、敵の北側陣営が大混乱に陥っていた。

 ラドルフもこの予想外の事態に対応せざるを得なくなった。彼は部隊の一部を北に向かわせ、主力部隊への圧力が一時的に弱まった。

「チャンスだ!」シバタ大尉が判断した。「騎兵隊を出せ! 主力部隊の撤退を援護する!」

 残りの騎兵約50名が要塞から出撃し、主力部隊の退路を確保するために敵と交戦した。

 俺は城壁から必死に戦況を見つめていた。僅かな隙を突いて、主力部隊が少しずつ要塞に戻ってくる。と同時に、奇襲部隊のいくつかも敵を振り切って戻り始めた。

「祈るしかない……」

 セリシアが俺の隣で小さく呟いた。彼女の表情には緊張と祈りが混じっていた。

 時間との戦いが続いた。日が傾き始める頃、ようやく主力部隊の大半と、奇襲部隊の一部が要塞に戻った。しかし、まだ戻らない者も多い。特にカイルの小隊の姿が見えない。

「カイルたちは?」俺は心配そうに尋ねた。

「まだ戻っていない」シバタ大尉の声は重かった。「彼らは最も遠く、そして危険な位置にいる」

 夕暮れが近づき、最後の兵士たちが要塞に戻ってきた。だが、カイルの小隊はついに戻らなかった。

「彼らは……」

 言葉にならない苦しみが込み上げてきた。カイルは俺の友人だった。そして彼の小隊の兵士たちも、皆顔見知りだった。

「作戦は部分的に成功した」シバタ大尉が静かに言った。「多くの兵を失ったが、完全な壊滅は避けられた」

 それでも、俺の心は重かった。この作戦を立案したのは自分だ。多くの命が失われたのも、自分の責任だ。

「全体の損失は?」

「約100名」シバタ大尉が答えた。「主力部隊が約50名、奇襲部隊が約50名……カイルの小隊20名全員を含む」

 100名……戦場でこれほどの犠牲を目の当たりにするのは初めてだった。それも、俺の判断によるものだ。

「ソウイチロウ」大尉が俺の肩に手を置いた。「自分を責めるな。これが戦争だ」

 大尉の慰めの言葉も、心の痛みを和らげることはできなかった。

 ***

 夜、要塞内は静まり返っていた。明日に備えて早めに休む者、負傷者の看護に当たる者、亡くなった仲間を弔う者……。

 俺は一人、要塞の最上部にある見張り台に立っていた。星空の下、敵陣の灯火を見つめながら、今日の戦いを振り返る。

 ラドルフの戦術は予想を超えていた。彼は俺たちの作戦を完全に見抜き、対策を講じていた。そして、予想外の事態にも素早く対応した。

(流れを読む戦術が通じない恐怖……)

 俺の「読み」の才能は、今まで多くの勝利をもたらしてきた。しかし、ラドルフを前にしては無力に等しい。彼は「流れ」そのものを支配し、創り出す男なのだから。

「ここにいたのね」

 階段を上がってくる足音と共に、フェリナの声がした。

「フェリナ……」

 彼女は俺の隣に立ち、共に夜空を見上げた。

「カイルたちのことを考えてるの?」

「ああ」俺は素直に認めた。「彼らは俺の作戦で命を落とした」

「彼らは英雄よ」フェリナは静かに言った。「その犠牲があったから、多くの命が救われたんだから」

 それでも、自己嫌悪が消えることはなかった。

「あのラドルフという男は……」俺は言葉を選びながら言った。「本当に人間なのか? あの赤い目は……」

「彼は人間よ」フェリナの声は冷たかった。「だからこそ、恐ろしい。禁忌の魔術で力を得た、人間の姿をした怪物」

 フェリナの目に憎しみの炎が燃えているのを感じた。

「父上は……彼に殺されたの?」

 俺の質問に、彼女は一瞬動揺したが、やがて小さく頷いた。

「直接手を下したわけじゃないわ」彼女の声は震えていた。「でも、父上は彼の証言で反逆罪に問われ、処刑された。家族は離散し、私は捕虜として連れてこられた」

「すまない……辛い記憶を」

「いいの」彼女は顔を上げた。「だからこそ、私は彼を倒したいの。そのために情報を集め、弱点を探している」

 フェリナの決意に、少し勇気をもらった気がした。個人的な悲劇を乗り越え、前を向いて戦う彼女の姿は美しかった。

「俺も負けるわけにはいかないな」俺は小さく微笑んだ。「ラドルフに、そして自分の弱さにも」

 二人は暫く黙って夜空を見上げていた。

「明日も戦いは続くわ」フェリナがやがて言った。「備えた方がいいわよ」

「ああ、そうだな」

 フェリナが去った後も、俺は見張り台に残った。遠くに見える敵陣の中心、赤い旗の下にラドルフがいる。あの赤い目を持つ男は、今も俺たちの次の一手を読んでいるのかもしれない。

(俺の『読み』が通じないなら、どうすればいい?)

 答えは見つからなかったが、一つだけ確かなことがあった。このままでは勝てない。新たな戦術、新たな視点が必要だ。

 北の方を見ると、今日の戦場だった場所が薄暗く見える。カイルと彼の小隊が散った場所だ。

「俺が必ず、あんたたちの分まで戦ってみせるよ」

 星空に向かって誓いを立てた。

 この日、俺は初めて本当の戦争を知った。勝利の栄光だけでなく、敗北の苦さと、責任の重さを身をもって感じた。そして、「赤眼の魔将」ラドルフという、強大な敵の存在も。

 これからの戦いはさらに厳しくなるだろう。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。カイルたちの犠牲を無駄にしないためにも、俺は強くならなければならない。

 新たな決意を胸に、俺は静かに見張り台を降りた。明日に備えて、少しでも休まなければ。