朝靄が立ち込める中、サンガード要塞の東側高台に立ち、俺は双眼鏡で前方を観察していた。今日から大規模な防衛作戦が始まる。帝国軍の動きはまだないが、情報によれば彼らは既にレイクバレーを出発し、こちらに向かっているという。

「準備はいいか?」

 背後からシバタ大尉の声がした。

「はい」俺は振り返って答えた。「各拠点への伝令も済ませました」

「よし」大尉は頷いた。「初めての大規模戦だが、臆することはない。これまでと同じように」

「わかっています」

 言葉では強がっても、正直、緊張していた。これまでの任務は小規模なものばかり。今回は要塞全体の防衛という大きな責任がある。しかも相手は評判高い「赤眼の魔将」ラドルフだ。

「セリシアはどこだ?」

「西側の観測ポイントにいます」俺は答えた。「フェリナもそこで情報収集中です」

 シバタ大尉は頷き、要塞の方を見た。サンガード要塞は東部国境の要所で、石造りの巨大な城壁と複数の塔、そして広大な中庭を持つ。約500名の兵士が配備され、我々のほか、グレイスン大佐率いる部隊も駐留している。

「あの子に頼りすぎるなよ」シバタ大尉が突然言った。

「え?」

「フェリナだ」彼は真剣な表情で言った。「彼女のラドルフに関する情報は貴重だが、彼女自身もラドルフに対して客観性を失っている可能性がある」

「何か因縁があるんですか?」

「詳細は知らん」大尉は首を振った。「だが、彼女の眼に憎しみを見た。個人的な恨みがあるようだ」

 フェリナとラドルフ……二人の間に何があったのだろう。昨日、彼女から詳しい話を聞こうとしたが、彼女は大事な部分を語りたがらなかった。

「そろそろラーティス准尉が偵察から戻るはずだ」シバタ大尉が言った。「彼の報告を聞いてから次の手を考えよう」

「はい」

 ラーティス准尉は優秀な斥候で、今朝早くに敵の動きを確認するため派遣された。彼の報告は作戦の第一歩となる。

 シバタ大尉が去った後、俺は再び双眼鏡で前方を観察した。朝靄の向こうには広大な草原が広がっている。そこを敵が進軍してくるはずだ。

(どんな手を打ってくるんだろう……)

 不安と期待が入り混じる感情。初めての大規模戦での役割は重大だ。ここで結果を出せば、俺の地位はさらに確固たるものになる。しかし、失敗すれば……。

「ソウイチロウ!」

 声の方を振り返ると、セリシアが急いでやってきた。

「どうした?」

「ラーティス准尉が戻ってきたわ」彼女は息を切らせて言った。「作戦室に集合よ」

 二人で急いで要塞内の作戦室に向かった。そこにはシバタ大尉、グレイスン大佐、そして汗と土にまみれたラーティス准尉がいた。

「報告します」ラーティス准尉は緊張した面持ちで言った。「敵軍はレイクバレーを出発し、現在シルバーウッド森を抜けて進軍中です。予想では正午頃に前線に到達するでしょう」

「兵力は?」グレイスン大佐が尋ねた。

「少なくとも2000。騎兵、歩兵、弓兵がバランスよく配置されています」

「2000……」グレイスン大佐は眉をひそめた。「こちらは約800だ。厳しい戦いになるな」

「編成の特徴は?」シバタ大尉が尋ねた。

「異様なほど整然としています」ラーティス准尉は言った。「進軍中なのに一切の乱れがない。まるで一つの生き物のようです」

 まさにフェリナが言っていた通りだ。ラドルフ率いる軍は通常の軍隊とは違う。

「ラドルフの姿は?」俺が尋ねた。

「確認できませんでした」准尉は首を振った。「ただ、中央に赤い軍旗があり、そこに指揮部があると思われます」

 シバタ大尉とグレイスン大佐は地図を広げ、防衛計画を確認し始めた。

「要塞の正面に主力を配置」グレイスン大佐が言った。「北と南の小拠点にも各100名ずつ配備済みだ」

「敵の接近経路は?」シバタ大尉が尋ねた。

「主に中央ルートです」ラーティス准尉が答えた。「ただ、小部隊が北側にも展開している様子が見られました」

「北側の小拠点が狙われるかもしれないな」

 俺は地図を見ながら考えた。通常なら、敵は圧倒的な兵力を活かして正面突破を狙うはずだ。しかし、ラドルフならば……。

「大尉」俺は慎重に言った。「敵の中央部隊は囮かもしれません。本当の攻撃は北か南から」

「可能性はあるな」シバタ大尉は考え込んだ。「グレイスン大佐、北側小拠点への増援は可能か?」

「今すぐに50名ほど送れる」大佐は答えた。「だが、これ以上は要塞の防衛が薄くなる」

「では、とりあえず50名の増援を」シバタ大尉は決断した。「そして……」

 作戦の詳細が決められていく。俺とセリシアも意見を出し、敵の動きを予測しながら最善の防衛策を練った。準備が整い、各自が持ち場に向かう時が来た。

「ソウイチロウ」シバタ大尉が呼んだ。「お前は北の小拠点の指揮を任せる。セリシアも同行だ」

「はっ!」

 重要な役割を任されたことに、緊張と責任感が高まる。

「敵の動きを見て、適切に対応せよ」大尉は真剣な表情で言った。「だが、無謀な判断はするな。必要なら本隊に援軍を要請しろ」

「わかりました」

 俺とセリシアは北の小拠点に向かう準備を始めた。約150名の兵を率いることになる。

 ***

 北の小拠点は要塞から約1キロ離れた丘の上にある石造りの砦だ。本来は見張り台として建てられたものだが、今は防衛拠点として機能している。

 俺たちが到着すると、すでに100名の兵士が配備されており、要塞からの増援50名も合流した。俺は速やかに指揮を執り、防衛体制を整えた。

「北側の森を警戒して」俺は指示を出した。「敵が来るとしたら、あの森を抜けてくるはずだ」

 セリシアは砦の上から双眼鏡で周囲を観察している。

「まだ敵影なし」彼女が報告した。「でも、鳥の様子が変だわ」

「鳥?」

「ええ」彼女は森を指差した。「通常、あの辺りには小鳥がたくさんいるのに、今日は静かすぎる」

 鋭い観察眼だ。確かに、普段なら鳥のさえずりが聞こえるはずの森が、今日は異様に静かだった。

「敵が潜んでいる可能性があるな」

 俺は警戒を強化するよう命じた。弓兵を砦の上に配置し、騎兵部隊は緊急出動の態勢を整えた。

 正午が近づくにつれ、緊張が高まる。要塞の方角から遠くの喧騒が聞こえ始めた。どうやら本隊への攻撃が始まったようだ。

「始まったか……」セリシアが呟いた。

 俺は砦の壁を登り、要塞の方を見た。遠くで戦闘の様子が見える。帝国軍の旗が風になびき、戦いの音が断片的に届く。

 そのとき、北側の森から微かな動きが見えた。

「敵だ!」俺は叫んだ。「全員、戦闘態勢!」

 森から帝国軍の一部隊が姿を現した。黒と赤の軍服に身を包んだ兵士たち。その数、およそ300。こちらの倍だ。

「弓兵、構えろ!」セリシアが命じた。

 弓兵たちが弓を構え、敵の接近を待つ。敵は整然と進軍してくる。その動きには無駄がなく、まるで一つの生き物のように連携している。

「なんて統制……」セリシアが驚きの声を上げた。

 確かに異様だ。普通の軍隊なら、進軍中にも兵士同士の会話や多少の乱れがあるはずだ。しかし彼らは完全な沈黙の中、幾何学的な精度で進んでくる。

「この距離なら、射程内だ」俺は判断した。「発射!」

 弓兵たちが一斉に矢を放った。空を切る矢の音と共に、敵陣の前列に矢が降り注ぐ。何人かが倒れたが、敵の進軍に乱れはない。倒れた兵士の隙間を埋めるように、後列の兵が整然と前進する。

「もう一度!」

 再び矢が放たれ、さらに敵兵が倒れた。しかし、彼らの進軍は止まらない。

「これは……」セリシアの声に緊張が走る。「通常の反応じゃない」

 普通なら、弓の攻撃を受ければ一時的に退却するか、散開するはずだ。しかし、彼らは淡々と前進を続ける。

「彼らも弓を構えている!」ある兵士が叫んだ。

 敵の弓兵が弓を引く。まるで機械のような正確さで、全員が同時に動作する。

「伏せろ!」

 俺の叫びと同時に、矢の雨が砦に降り注いだ。いくつかの矢が砦の壁に突き刺さり、数人の兵士が倒れた。

「応射しろ!」セリシアが命じた。

 弓の応酬が続く中、敵は着実に近づいてきた。もうすぐ砦の下まで来る。

「接近戦の準備を!」俺は命じた。「騎兵隊、待機!」

 兵士たちが刀や槍を構え、壁の上や入口に集まる。敵が砦の下に到達し、梯子を立て始めた。

「迎撃準備!」

 壁を登ろうとする敵兵に対し、兵士たちが石や槍で応戦する。激しい接近戦が始まった。

 その時、東側から別の動きが見えた。

「東からも敵が!」セリシアが叫んだ。

 遠くを見ると、別の部隊が東側から接近していた。

「くっ、挟撃か!」

 俺は素早く判断を迫られた。北と東の二方向からの攻撃に、現在の兵力では持ちこたえられない。

「本隊に援軍要請だ!」俺は伝令役の兵士に命じた。「急げ!」

 伝令が馬に飛び乗り、要塞へと走り去った。残された我々は必死に砦を防衛する。

 激しい戦闘が続く中、俺は敵の動きを観察していた。彼らの攻撃にはパターンがある。まるで事前に計画されたかのような正確さだ。

「流れが見えない……」俺は呟いた。「……空気が死んでる」

 普通の戦場には「流れ」がある。戦況の変化、士気の上下、指揮官の判断……それらが複雑に絡み合い、読み合いの中で勝負が決まる。

 しかし、この戦場には流れがない。敵は機械のように淡々と行動し、こちらの反応を予測して動いている。まるで……全てが計算済みのように。

「ソウイチロウ!」セリシアが叫んだ。「西側の壁が持ちそうにない!」

 西側を見ると、敵兵が壁を乗り越え始めていた。

「そこに兵を回せ!」

 戦況は刻一刻と悪化していく。援軍はまだ来ない。

 突然、敵の部隊に変化が見られた。中央に位置する騎馬の一人が赤い旗を上げた。それを合図に、敵兵が一斉に新たな陣形へと変化した。

「あれは……」

 その人物をよく見ると、他の兵士とは違う装束を身につけていた。黒と赤の豪華な鎧に身を包み、顔は兜で隠されている。しかし、兜の隙間から赤く光るものが見えた。

「赤い目……あれがラドルフか!」

 俺の叫びに、セリシアが双眼鏡で確認した。

「間違いないわ」彼女の声が震えていた。「帝国軍の戦術総監、ラドルフ・ゼヴァルド……」

 ラドルフの指示のもと、敵軍は完全に陣形を変え、攻撃の焦点を東側に集中させた。彼らの動きには無駄がなく、まるで一人の人間が操る駒のようだ。

「こちらの兵力配置を見抜かれている」セリシアが焦りの色を見せた。「東側が手薄なのを知っているわ」

 その通りだ。俺たちは北側からの攻撃に対応するため、東側の守りを薄くしていた。ラドルフはそれを見抜き、東側に集中攻撃を仕掛けてきたのだ。

「東側に兵を回せ! 急げ!」

 命令を出したが、時すでに遅し。東側の壁が破られ、敵兵が砦内になだれ込んできた。

 砦内での激しい戦闘が始まった。兵士たちは勇敢に戦うが、敵の数と組織力に圧倒されていく。

「このままでは持ちこたえられない」セリシアが叫んだ。「撤退するべきよ!」

 俺も同じ結論に達していた。これ以上ここにとどまれば全滅する。

「撤退信号を!」俺は命じた。「要塞に向かって撤退する!」

 角笛が鳴り響き、撤退の合図が出された。兵士たちは戦いながら後退し始める。

 俺はセリシアを護衛しながら、兵士たちの撤退を指揮した。砦の南側にある秘密の脱出路を通り、少しずつ撤退していく。

 砦を離れ、丘を下る途中、俺は振り返った。砦は敵に占拠され、赤い旗が掲げられていた。そして、丘の上に立つラドルフの姿が見えた。

 彼は動かず、ただこちらを見ている。距離があるため表情は見えないが、その赤い目だけが夕陽に照らされて輝いていた。

 俺は不思議な感覚に襲われた。まるで、彼が俺を見つめているかのように。

(これは"読み合い"じゃない、“支配"だ……)

 言葉にならない恐怖が背筋を走る。俺の「読み」が、完全に無力化された瞬間だった。

 ***

 要塞に戻ると、そこでも激しい戦闘が繰り広げられていた。帝国軍の主力が要塞の正面から猛攻を仕掛けている。

 シバタ大尉を見つけ、俺たちは急いで報告した。

「北の拠点が陥落しました」俺は息を切らせて言った。「敵の数が多すぎて、持ちこたえられませんでした」

「南の拠点も同じだ」大尉の表情は厳しかった。「三方向からの同時攻撃……完全に読まれていたな」

 戦況は芳しくない。要塞は依然として持ちこたえているが、帝国軍の攻撃は組織的で強力だ。

「ラドルフを見ました」セリシアが報告した。「彼の指揮は……尋常ではありません」

「そうか」大尉は重々しく頷いた。「では、我々も最後の手を打つ時だな」

 シバタ大尉は作戦を変更し、要塞の防衛に全力を集中することを決めた。北と南の拠点は諦め、要塞そのものを守り抜く作戦だ。

 夕暮れまで戦闘は続いた。要塞の壁は持ちこたえ、帝国軍も日没とともに一時的に撤退した。しかし、これは一時的な休戦に過ぎない。彼らは明日、再び攻撃を仕掛けてくるだろう。

 作戦室では今日の戦況の分析と明日の作戦会議が行われていた。俺も参加したが、心はまだあの赤い目に囚われていた。

「ソウイチロウ」会議後、シバタ大尉が声をかけてきた。「今日のことを気に病むな。誰にでも敗北はある」

「いえ……」俺は言葉を選びながら答えた。「敗北そのものより、『読み』が通じなかったことが……」

 大尉は理解したように頷いた。

「ラドルフの戦術は特殊だ。彼は『読ませる』のではなく、『支配する』」

「はい」俺は苦々しく言った。「まるで、流れそのものを殺しているようでした」

「明日も厳しい戦いになるだろう」大尉は肩に手を置いた。「だが、諦めるな。彼にも弱点はあるはずだ」

 大尉の言葉に少し勇気づけられたが、心の奥底では不安が渦巻いていた。今日初めて、自分の才能の限界を感じたのだから。

 兵舎に戻る途中、フェリナと出会った。彼女は何か書類を持ち、急いでいるようだった。

「フェリナ」俺は声をかけた。

 彼女は足を止め、振り返った。その表情には悲しみと怒りが混じっていた。

「ソウイチロウ……無事で良かった」

「ありがとう」俺は少し間を置いて続けた。「ラドルフと対峙した。君の言った通りだった」

 フェリナの表情が硬くなる。

「彼と……何かあったんだろう?」俺は慎重に尋ねた。「あなたとラドルフの間に」

 フェリナは一瞬躊躇ったが、やがて小さく息を吐いた。

「彼は……私の父を反逆者として陥れた人物よ」彼女の声は震えていた。「父は無実だったのに、赤眼の魔術で心を読まれ、無理やり罪を認めさせられた」

 驚きの事実だった。フェリナとラドルフの間には、そんな深い因縁があったのか。

「すまない……聞かせてくれてありがとう」

「いいの」彼女は疲れたように微笑んだ。「あなたには知っておいてほしかった。彼がどれだけ危険な相手か」

「明日も戦いは続く」俺は言った。「何か対抗策はないだろうか」

「一つだけ」フェリナは真剣な表情になった。「彼の『支配』には限界がある。兵士全員を同時に支配することはできない。だから、複数の小規模な攻撃で彼の注意を分散させれば……」

 それは確かに一つの策だ。ラドルフの戦術の弱点を突く方法かもしれない。

「ありがとう、明日の作戦会議で提案してみる」

 フェリナは軽く頷き、去っていった。彼女の背中には悲しみと決意が感じられた。

 俺は自分の部屋に戻り、今日の戦いを振り返った。初めての敗北。そして、自分の「読み」が通用しない相手の存在。今まで勝ち続けてきた慢心が、今日の敗北でへし折られた気がする。

 だが同時に、新たな決意も生まれていた。ラドルフに対抗するには、今までの「読み」だけでは足りない。新たな戦術、新たな視点が必要だ。

 明日は、今日の敗北を糧に、より強く立ち上がってみせる。