「敵影なし。予定通り補給部隊は通過しました」

 朝の報告会で、斥候役の兵が報告を終えた。陽が昇ってから数時間、谷間の補給路に敵の姿はなく、守るべき我が軍の補給部隊は無事に通過した。これだけ聞けば、任務は順調に進んでいるように思える。

「よし、引き続き警戒を怠るな」

 シバタ大尉はテントの中で地図を見ながら指示を出す。俺たち参謀はその周りに集まっていた。ドーソン少佐は満足げな表情で、セリシアは冷静に状況を分析している。

「どうやら、帝国軍は今日は動かないようですね」ドーソン少佐が言った。

「いえ、まだわかりません」セリシアは慎重に言った。「彼らが本当に補給路を狙っているなら、今後も警戒が必要です」

「同感だ」シバタ大尉は頷いた。

 全員が冷静に状況を見ているようだが、俺の胸の内はモヤモヤしていた。昨日からの違和感がますます強くなっている。

「あの……」

 勇気を出して口を開いた。

「何かあるのか、ソウイチロウ補佐官?」シバタ大尉が促した。

「はい。やはり、この状況には違和感があります」

「また始まったか」ドーソン少佐が小さく舌打ちした。

「具体的に何が?」シバタ大尉は真摯に尋ねた。

「敵は一切姿を見せていません。通常、補給路を狙うなら、偵察くらいは出してくるはずです」

「単に、我々の警戒が厳重だからかもしれんぞ」ドーソン少佐が言った。

「それもあるかもしれません。ですが……」俺は自分の感覚を言葉にしようと努めた。「もう一つの可能性として、彼らはそもそもここを狙っていないのかもしれません」

「では、どこを狙っているというのだ?」

「わかりません。ただ……」

 俺は麻雀で培った感覚を思い出していた。相手の捨て牌から手の内を読み、次の一手を予測する。今、目の前で起きていることは、まるで相手が意図的に作り出しているパターンのように感じる。

「山の向こう側を調べてみる必要があると思います」

「山の向こう? あそこは我々の管轄外だ」ドーソン少佐が眉をひそめた。

「そうですが、もし敵が迂回して……」

「補佐官」シバタ大尉が遮った。「君の懸念はわかるが、今の我々の任務は補給路の防衛だ。根拠のない推測で兵力を分散させるわけにはいかない」

「でも……」

「十分な警戒は続けるが、任務の範囲内でだ」

 シバタ大尉の言葉は優しいが、断固としている。これ以上は聞き入れてもらえないだろう。

「……わかりました」

 諦めて下がる俺の背中に、ドーソン少佐の冷ややかな視線を感じた。あの人は最初から俺を信用していない。仕方ないことだが、それでも胸が痛む。

 テントを出ると、セリシアが追いかけてきた。

「ソウイチロウ」

「ああ、セリシア少尉」

「あなたの懸念、私にも少しは理解できるわ」彼女は小声で言った。

「本当に?」

「ええ。帝国軍の動きが少し不自然なのは確かよ。でも……」

「でも?」

「軍には命令系統があるの。シバタ大尉の決断に従うしかないわ」

 彼女の表情には、少しだけ申し訳なさが見えた。

「わかってる。責めてるわけじゃないよ」

「それならいいけど」セリシアは少し安心したように見えた。「これが軍というものよ。個人の直感だけでは動けない」

「そうだね……」

 彼女は軽く頷いて去っていった。後に残された俺は、山の方を見上げた。

(あっちに何かある……そんな気がするんだけどな)

 ***

 昼を過ぎ、陽が傾き始めた頃、俺は一人で丘の上から周囲を観察していた。双眼鏡で谷間や遠くの山を見ても、特に変わった様子はない。

「まだ気にしてるんですか?」

 振り返ると、カイルが立っていた。

「ああ……なんとなくね」

「補佐官殿の『読み』ですか?」

「そう言われると照れるけど……そんな感じかな」

 カイルは隣に座った。

「俺、信じてますよ」

「え?」

「前回の偵察任務でも、補佐官殿の読みは的中しました。だから今回も」

「ありがとう」素直にお礼を言う。「でも、シバタ大尉は……」

「大尉は大尉で、全体のことを考えなきゃいけないんです」カイルは優しく言った。「でも僕ら下っ端は、もう少し自由に動けますよ」

「どういう意味?」

 カイルは小声で言った。

「俺が所属する第三小隊は、今夜の見張り担当なんです。もし補佐官殿が何か指示があれば……」

 彼の言葉に、俺は驚いた。まさか、カイルが協力してくれるとは。

「本当に?」

「はい。もちろん、大きなことはできませんが、少し見張りの範囲を広げるくらいなら……」

 俺はしばらく考えた。正規の命令に反するようなことはできない。だが、読みが確かなら、何らかの備えは必要だ。

「わかった。少し頼みたいことがある」

 二人で小声で話し合い、夜の警戒について計画を立てた。

 ***

 夕方の報告会でも、敵の動きは報告されなかった。

「予定通り、明日も補給部隊が通過する」シバタ大尉が言った。「引き続き警戒を怠るな」

「補佐官殿の懸念は杞憂だったようだな」ドーソン少佐が皮肉っぽく言った。

 俺は黙って頷いた。反論しても仕方ない。ただ、胸の内の違和感は消えていなかった。

「今夜の警戒担当は第三小隊だ」シバタ大尉が続けた。「カイル二等兵、隊を率いて頼むぞ」

「はっ!」カイルはきびきびと敬礼した。

 報告会が終わり、兵士たちは夕食の準備や次の日の準備を始めた。俺は自分のテントに戻り、地図を広げた。麻雀での経験を思い出しながら、敵ならどう動くかを考える。

(もし敵が本当に補給路を狙うなら、こんな露骨な動きはしない……)

 丘の上の我々の陣地から見れば、谷間の補給路は丸見えだ。ここを通るなら、必ず発見される。あまりにも分かりやすすぎる。

(もし別の目的があるなら……)

 山の向こう側。そこには何があるのだろう? 地図を見ると、小さな村がいくつかある。特に軍事的な価値はないようだが……。

「ソウイチロウ」

 テントのフラップが開き、セリシアが顔を出した。

「あ、セリシア少尉」

「まだ考え込んでるの?」

「うん……どうしても気になって」

 彼女はため息をついて中に入ってきた。

「あなたのような直感派と一緒に仕事をするのは難しいわ」

「ごめん……」

「でも」彼女は少し声を落とした。「あなたの読みが外れたことはないから、少し気になってるの」

 俺は驚いて顔を上げた。セリシアまでもが、少しは俺の読みを信じてくれているのか。

「何か……見つけた?」彼女が尋ねた。

「まだ……でも」俺は正直に答えた。「山の向こうが気になる」

「そこを調べるのは難しいわ」

「わかってる。だから……」

 言いかけて口をつぐんだ。カイルとの計画は誰にも言わない方がいい。セリシアでさえも、立場上、報告せざるを得なくなるだろう。

「だから?」

「なんでもない。もう少し考えてみるよ」

 セリシアは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。

「わかったわ。でも、無理はしないで」

 彼女はそう言い残して出て行った。

(セリシアも少しは気にしてるんだな……)

 少し心強く感じつつも、今夜の計画に思いを巡らせた。

 ***

「この位置でいいでしょうか、補佐官殿」

 夜の闇の中、カイルが小声で尋ねた。彼の第三小隊の兵士3名と共に、俺たちは陣営から少し離れた、山の斜面に位置していた。公式には「警戒範囲の拡大」という名目だが、実質的には俺の懸念を確かめるための行動だ。

「ああ、ここでいい」

 月明かりがほとんどない暗い夜。星明かりだけが、かすかに周囲を照らしている。

「補佐官殿、本当にここに敵が来ると?」

 兵士の一人が不安そうに尋ねた。

「確証はない……でも、可能性はある」

 正直に答えた。根拠のない自信を見せるより、正直な方がいい。

「それでも、この位置からなら万一の場合にも早く陣営に戻れる」

 兵士たちは頷いた。俺が命じたのは、山の斜面に沿って、通常の警戒範囲よりも少し広く見張りを置くことだ。さらに、いくつかの場所に「囮」を設置した。焚き火の残りを移動させ、人がいるように見せかける小さな策だ。

「兵の動きがある場合、すぐに報告する。決して無茶な行動はしないように」

「了解しました」

 カイルと兵士たちは所定の位置に散らばっていった。俺も自分の担当位置につき、双眼鏡で暗闇を見つめる。

 時間がゆっくりと過ぎていく。周囲は静まり返り、虫の声だけが聞こえる。

(やっぱり杞憂だったのかな……)

 そう思い始めた頃、かすかな物音が聞こえた。

 馬の蹄の音。しかも複数。

 俺は身を低くし、音のする方向を見た。山の斜面の向こう側から、黒い影が動いているのが見える。

(来た……!)

 心臓が高鳴る。やはり、俺の読みは当たっていた。敵は補給路ではなく、山を迂回して別の場所を目指していたのだ。

 兵士の一人が這うようにして近づいてきた。

「補佐官殿、敵兵です。約20名、山の向こうへ向かっています」

「わかった。カイルを呼んでくれ」

 すぐにカイルが現れた。

「指示を」

「まず、一人が陣営に戻って報告しろ。残りは敵の動きを観察する。ただし、決して敵と交戦はしないように」

「了解」

 カイルは素早く指示を出し、一人の兵士が陣営へと走っていった。残された俺たちは、敵の動きを注視した。

 黒装束の兵士たち。明らかに帝国軍の精鋭部隊だ。彼らは慎重に山の斜面を移動し、俺たちの陣営を大きく迂回している。

「どこへ行くつもりだ……」

 その時、敵兵の一団が突然立ち止まった。彼らは何かを見つけたようだ。

「囮だ」カイルが小声で言った。

 俺の設置した「囮」の一つを発見したようだ。敵兵たちは混乱し、互いに何かを話し合っている。

「完璧だ」カイルは小さく笑った。「彼らは囮に気を取られて、本当の我々に気づいていない」

 敵兵たちは警戒を強め、動きを止めた。このまま引き返すかもしれない。

 そのとき、陣営の方から緊急の警報が鳴り響いた。

「発見されたか!」

 敵兵たちはすぐに態勢を変え、馬に飛び乗った。彼らは山を下り、陣営に向かって突進し始めた。

「急いで陣営に戻れ!」俺は命じた。

 カイルと兵士たちと共に、斜面を駆け下りる。陣営では既に戦闘が始まっていた。

 シバタ大尉の声が響く。

「全員、防衛位置につけ! 敵は南西から接近中!」

 兵士たちが慌ただしく動き回り、防衛線を形成する。俺たちも合流し、状況を報告した。

「大尉! 敵は山を迂回していました! 約20名です!」

 シバタ大尉は驚いた顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「よくやった、ソウイチロウ! お前の警戒のおかげで早期発見できた!」

 戦闘が始まった。帝国軍は二方向から攻撃してきたが、俺たちは既に準備ができていた。俺の「囮」作戦で時間を稼いだことで、陣営の防衛体制を整えることができたのだ。

「セリシア、左翼を固めろ!」シバタ大尉が命じた。

「はっ!」

 セリシアが素早く左側の防衛を指揮する。ドーソン少佐も右側で兵を率いている。

 戦闘は激しかったが、短時間で決着がついた。敵の奇襲は失敗し、帝国軍は撤退を始めた。

「追撃するか?」ドーソン少佐が尋ねた。

「いや、今は防衛を固めよ。敵はまだ周辺にいるかもしれない」シバタ大尉は冷静に判断した。

 戦闘が終わり、被害状況が報告された。我が軍は軽傷者3名のみ。敵は数名が倒れ、残りは撤退した。

「補佐官殿のおかげです」カイルが俺の肩を叩いた。「あなたの読みがなければ、完全な不意打ちを食らっていました」

「そうだな」シバタ大尉も近づいてきた。「お前の直感は確かだった。よくやった」

「ありがとうございます」

 内心では、安堵と少しの高揚感が入り混じっていた。読みが当たり、被害を最小限に抑えられたことへの安堵。そして、麻雀で培った感覚が実戦で役に立ったという喜び。

「山の向こうには何があるんだ?」シバタ大尉が尋ねた。

「地図によれば、小さな村があります」セリシアが答えた。「ですが、軍事的価値は……」

「いや、あるはずだ」シバタ大尉は言った。「奴らが命を賭して攻めてきた理由がある」

「明日、偵察隊を出しましょう」ドーソン少佐が提案した。「山の向こうの様子を確認するために」

「ああ、そうしよう」

 戦闘後の片付けが始まった。怪我人の手当て、陣営の修復、警戒体制の強化。全てが素早く、効率的に進む。

 俺は少し離れた場所で、夜空を見上げていた。

「やっぱり俺、こういうのが好きなんだな」

 小さくつぶやいた言葉に、自分でも少し驚いた。緊張と恐怖はあったが、それ以上に、読みが的中したときの達成感。卓上の麻雀でなく、実際の戦場で自分の才能が活きる感覚。それは前世では決して味わえなかったものだった。

「ソウイチロウ」

 セリシアが近づいてきた。

「ああ、セリシア少尉」

「……見事だったわ」彼女は素直に言った。「あなたの読みは正確だった」

「ありがとう」

「でも」彼女は厳しい顔になった。「命令系統を無視した行動は危険よ。今回は結果オーライだったけど」

「わかってる」俺は素直に認めた。「でも、読みを信じなきゃいけないときもあるんだ」

「……そうね」彼女は少し表情を緩めた。「あなたの才能は特別だから」

 セリシアからの称賛は珍しい。少し照れくさくなる。

「明日は忙しくなるわ」彼女は話題を変えた。「偵察の結果でさらなる作戦が必要になるかもしれない」

「うん、準備はできてる」

「じゃあ、少し休んだ方がいいわ」

「そうだね」

 彼女が去った後も、俺は少し夜空を見上げていた。

 前世では大学受験に失敗し、麻雀しか取り柄のない駄目な高校生だった。それが今、軍の一員として戦い、人々を守る役割を果たしている。

 不思議な巡り合わせだが、やっと自分の居場所が見つかったような気がした。