「何だと? あの坊ちゃん補佐官が演習で勝ったって?」
北方軍総司令部の食堂で、若い士官たちが驚いた声を上げていた。演習から二日後の朝、俺の勝利の噂はすっかり広まっていた。食事を取りながら、その会話が耳に入ってくる。
「グレイ中尉相手に勝ったらしいぞ」
「あり得ないだろ……」
「いや、本当だよ。俺の友人が審判役だったから」
小さな優越感を感じながらも、俺は黙々とパンを食べ続けた。昨日も一日中、北部国境の防衛計画の修正作業に追われていた。セリシアと一緒に、お互いの視点を組み合わせた新たな計画を立てているところだ。
「おはよう、ソウイチロウ」
テーブルの向かいに、クラウスが朝食のトレイを持って座った。
「おはよう、クラウスさん」
「世間の評判が変わりつつあるな」彼は周囲の視線を示しながら言った。
「そうみたいだね」
「当然だ。15歳で軍の演習に勝つなんて、並の才能じゃない」
彼の言葉に、少し照れくさくなる。
「でも、たまたま読みが当たっただけだよ……」
「謙虚なのはいいが、自分の才能を過小評価するのもよくない」クラウスは優しく諭した。「お前には確かな『読み』の才がある」
「ありがとう」
「それにしても」クラウスは声を落とした。「今回のことで、よからぬ目を向ける者も出てきたようだぞ」
「え?」
「ヴァイス大佐の派閥だ。彼らは将軍の方針に批判的で、お前の抜擢にも不満を持っていたんだが、今回の成功でさらに警戒を強めているらしい」
俺は首を傾げた。軍内の派閥争いについては、まだ詳しく知らない。
「なぜ? 俺はただ自分の仕事をしているだけなのに」
「若すぎる才能は、時に既存の秩序を脅かすものだからな」クラウスは意味深に言った。「特に、将軍のお気に入りとなれば」
「そんな……」
「心配するな。ただ、少し気をつけておけというだけだ」
「わかった。ありがとう」
朝食を終え、執務室に向かう途中、セリシアとすれ違った。
「おはよう、セリシア少尉」
「おはよう、ソウイチロウ」
彼女の口調は演習前よりも柔らかくなっていた。まだ完全に心を開いてはいないようだが、少なくとも敵対的ではない。
「今日も防衛計画の続きですか?」
「ええ。13時から作戦室で」
「了解です」
互いに会釈して別れる。演習での勝利は、少なくともセリシアとの関係改善にはつながったようだ。
***
「ここにヤークト小隊を配置すれば、正面と峠の両方をカバーできるわ」
セリシアは地図の上に小さな駒を置いた。作戦室で二人、防衛計画の最終調整を行っていた。
「うん、いいね。そうすれば機動力も確保できる」
夕方までかかるだろうと思っていた作業も、二人で協力したおかげでスムーズに進んでいた。セリシアの論理的思考と俺の直感的読みが、意外と相性が良いことがわかってきた。
「あの……一つ聞いていい?」セリシアが突然話題を変えた。
「なに?」
「あなたの『読み』はどこから来るの?」
予想していた質問だったが、答えに窮する。前世で麻雀をやっていたとは言えないし、かといって適当な嘘をつくのも気が引ける。
「難しいな……これは天性のものかな」
「そう簡単に信じられないわ」彼女は真剣な目で俺を見た。「あなたの分析には、論理的根拠がないように見えて、実は筋が通っている」
「そう?」
「ええ。演習の時も、敵の行動パターンを読み取っていた。単なる直感ではないわ」
彼女の鋭い観察眼に少し驚く。
「まあ……似たようなゲームで鍛えたのかもしれない」
「タロカのこと?」
「ああ、そうだね」
セリシアはしばらく考え込んだ後、頷いた。
「タロカで培った読みが、戦術に応用できるとは……面白いわね」
「将軍も言ってたじゃないか。『タロカの才は戦場でこそ活きる』って」
「確かに」彼女は少し笑みを浮かべた。「あなたの『読み』は、私の論理的分析では見えない部分を捉えている気がする」
「君の分析も素晴らしいよ。僕一人じゃ、あんな詳細な防衛計画は立てられなかった」
互いを認め合うような会話に、少し気恥ずかしくなる。
「では、この計画で将軍に報告しましょうか」
「うん、そうしよう」
二人で資料をまとめ、廊下に出ると、ドーソン少佐が立っていた。どうやら、しばらく外で聞いていたようだ。
「ドーソン少佐、何かご用でしょうか?」セリシアが敬礼しながら尋ねた。
「いや……将軍が計画の進捗を確認したいそうだ」
少佐の態度はまだ冷たいが、演習前よりはマシになった気がする。
「ちょうど完成したところです」俺は答えた。「今から報告に行くところでした」
「そうか……」少佐は少し考え込むように俺を見た。「演習の件は……よくやった」
渋々ながらも褒め言葉? 驚きのあまり言葉に詰まる。
「あ、ありがとうございます」
「調子に乗るなよ。一度の成功に過ぎない」
そう言い残して、少佐は立ち去った。
「珍しいわね」セリシアが小声で言った。「ドーソン少佐があなたを認めるなんて」
「ほんの少しだけどね」
「それでも進歩よ」
二人で将軍の執務室に向かった。
***
「見事だ」
アルヴェン将軍は二人の提出した防衛計画に目を通し、満足げに頷いた。
「二人の視点が見事に融合している」
「ありがとうございます」二人は同時に答えた。
「これを北部国境の全防衛線に適用する」将軍は決断を下した。「セリシア少尉、指示書を作成してくれ」
「はっ!」
「ソウイチロウ補佐官、君は明日から情報分析チームの一員となる」
「情報分析チームですか?」
これは予想外だった。情報分析チームは敵の動向を予測する重要な部署で、通常は経験豊富な参謀たちが務める。
「そうだ。君の『読み』の才能を活かす場所だ」
「光栄です! 頑張ります!」
「期待しているぞ」
将軍の執務室を出た後、セリシアが小さく笑った。
「おめでとう。情報分析チームは重要な部署よ」
「ありがとう。でも、不安もあるよ……」
「大丈夫」彼女は珍しく優しい口調で言った。「あなたの才能は本物だから」
その言葉に、少し勇気づけられた。
***
翌朝、俺は情報分析チームの部屋に向かった。小さな部屋だが、壁には様々な地図が貼られ、書類が山積みになっている。
「おや、新しい仲間か」
中年の男性が振り返った。ロルフ大尉という階級章をつけている。
「ソウイチロウ・エストガード見習い補佐官です。今日からお世話になります」
「ああ、噂の坊ちゃん補佐官か」彼は意外にも友好的に笑った。「演習で大活躍したそうじゃないか」
「はい……」
「とにかく、腕前は実際に見せてもらおう。ここに最新の偵察報告がある。これを分析してみてくれ」
彼は大量の書類を俺の前に置いた。さまざまな地域からの報告、目撃情報、物資の移動など、雑多な情報の山だ。
「はい、やってみます」
机に向かい、書類を整理し始める。情報の海から、パターンを見つけ出す作業。麻雀で言えば、配牌から役を組み立てる瞬間のようなものだ。
数時間後、俺は一つの仮説を立てていた。
「ロルフ大尉、報告があります」
「おお、早いな。どうだ?」
「エストレナ帝国は、東部境界線での小競り合いを増やしています。しかし、これは囮だと思われます」
「ほう? なぜそう思う?」
「東部での動きが急に活発化した一方で、北西部の要所から精鋭部隊が引き抜かれています。通常、大規模作戦の準備であれば、逆に増強するはずです」
「続けろ」
「それに、東部での攻撃は規則的すぎる。3日に一度、同じ時間帯に。これは注意を引くための行動パターンだと思います」
ロルフ大尉は感心したように眉を上げた。
「君の読みでは、本当の標的はどこだ?」
「西部の穀倉地帯です。収穫期が近づいており、この時期に食料源を奪えば、冬を前に我々の補給に打撃を与えられます」
「なるほど……」
ロルフ大尉は地図を見つめ、しばらく考え込んだ。
「単なる推測ではなく、根拠はあるのか?」
「はい」俺は情報を整理した資料を見せた。「西部国境付近の村で、見慣れない商人の出入りが増えています。これは偵察の可能性が高い。また、近隣の帝国領から戦備の整った部隊が消えたという報告もあります」
「……なるほど」
ロルフ大尉はしばらく俺の分析を読み込んだ後、突然立ち上がった。
「この分析を将軍に報告する。君も来なさい」
「はい!」
心臓が高鳴る。初めての正式な情報分析が、このまま将軍に届くとは。
***
「西部穀倉地帯への攻撃……」
将軍は俺の分析を聞き、深く考え込んだ。
「確かに我が軍が最も警戒を怠っている場所だ」
「情報部の正式な報告では、東部国境への集中が指摘されていますが」ドーソン少佐が反論した。
「ソウイチロウ補佐官の分析は、その矛盾点を突いている」ロルフ大尉が擁護した。「過去の例を見ても、帝国は食料源を狙うことが多い」
部屋の中で議論が続く中、俺は静かに待っていた。将軍はしばらく考えた後、決断を下した。
「西部への警戒を強化せよ。ただし、東部の防衛も怠るな。どちらが本命かはまだわからない」
「はっ!」
全員が敬礼して、解散した。廊下に出ると、セリシアが待っていた。
「聞いたわ。あなたの分析が採用されたそうね」
「まあ、一部だけど」
「素直に喜べばいいのに」彼女は笑った。「軍内での評価が着実に上がっているわよ」
「本当かな?」
「ええ。士官たちの間でも『あの少年は本物かもしれない』という声が広がっている」
「そう言ってくれると嬉しいな」
「私も……あなたの才能を認めるわ」
セリシアがそう言ったのは初めてだった。彼女の表情は真摯で、言葉に嘘はなさそうだ。
「ありがとう、セリシア」
「セリシア少尉よ、公務中は」彼女は形式的に訂正したが、口調は優しかった。
***
数日後、俺の分析は的中した。西部穀倉地帯に帝国軍の小部隊が侵入し、収穫前の畑に火を放とうとしたのだ。しかし、警戒を強化していたおかげで撃退することができた。
「見事な先読みだった」
夕刻、将軍は俺を執務室に呼び、労いの言葉をかけた。
「ありがとうございます」
「情報分析チームからの評価も高い。君の『読み』の才能は確かなものだ」
「将軍のご期待に応えられて嬉しいです」
「そこで、君に新たな任務を与えたい」
将軍は机の上の地図を指した。北方国境の別の地域だ。
「ここで小規模な偵察任務がある。敵の動向を探る重要な任務だ」
「偵察……ですか?」
「そうだ。部隊に同行し、現場で敵の動きを読んでほしい」
実際の前線に行くということか。緊張が走る。
「チームはシバタ大尉率いる精鋭部隊だ。安心して任務に当たれる」
「はい、わかりました」
一月前までは大学受験に失敗したダメ高校生だった俺が、今や軍の最前線で働くことになるとは。人生は本当に予測できない。
「出発は明後日だ。準備をしておけ」
「はっ!」
執務室を出ると、クラウスが待っていた。
「聞いたぞ、西部の件。見事な先読みだったな」
「ありがとう、クラウスさん」
「軍内での評価も上がってきている。ドーソン少佐ですら、渋々ながらも君の才能を認め始めているらしい」
「本当に?」
「ああ。『あの坊ちゃんは意外と使えるかもしれん』と言っていたそうだ」
クラウスの言葉に、少し笑ってしまう。
「それは……嬉しいような、複雑なような」
「認められるというのは、そういうものさ」クラウスは優しく肩を叩いた。「それに、将軍の目に狂いはなかったということだ」
「うん……」
「それで、次は偵察任務か」
「うん。少し緊張するよ」
「大丈夫だ。シバタ大尉は優秀な指揮官だ。彼に従っていれば問題ない」
クラウスの言葉に少し安心する。
「実地で『読み』を試す機会だな」
「そうだね……」
(本当の戦場か……まだ実感がわかないな)
任務についての説明を受けながら、俺は自分の役割について考えていた。前世では麻雀の卓しか知らなかった俺が、今は戦場で命のやり取りをする場所に行くことになる。怖いけど、同時に、自分の読みが本当に役立つのかを試したいという気持ちもあった。
「“流れ"ってやつも、言葉にすれば通じるのかもな」
小さくつぶやきながら、俺は明後日の出発に向けて準備を始めた。