「ソウイチロウ見習い補佐官!」

 執務室のドアが勢いよく開き、ドーソン少佐が現れた。俺は慌てて立ち上がる。

「はっ!」

 とりあえず敬礼のマネをしてみたが、どうやら形が違ったらしい。ドーソン少佐は眉をひそめた。

「敬礼の仕方も知らないのか。まったく……」

 北方軍総司令部での勤務が始まって3日目。相変わらず、少佐は俺に対して冷たい態度を崩さなかった。

「すみません。これから覚えます」

「今日は書庫の整理を手伝え。それから将軍への朝の報告書を配達しろ」

「はい、少佐」

 少佐は書類の束を机に置くと、ため息をついて部屋を出て行った。

(雑用係か……まあ、しょうがないか)

 俺は諦めの心境で書類を整理し始めた。期待していた「戦術家としての第一歩」なんて夢のまた夢。ここ数日は雑用ばかりで、とても補佐官見習いという仕事には思えない。

 午前中いっぱいを書庫の整理に費やした後、昼食のために食堂に向かう。廊下で、若い士官たちがこちらを見て小声で話しているのが聞こえた。

「あれが噂の"坊ちゃん補佐官"か?」
「将軍のお気に入りらしいな」
「何も知らない子供に何ができるっていうんだ」
「親の七光りだろ」

(七光りじゃないんだけどな……)

 心の中でつぶやきながらも、表面上は気にしていない素振りで歩き続ける。これも3日目にして慣れてきた光景だ。

 食堂では、相変わらず一人で食事を取ることになった。クラウスおじさんは今日は別の任務で外出中らしい。テーブルの端に座り、スープとパンを黙々と食べる。

「隣、いいかな?」

 突然声がかかり、顔を上げるとセリシアが立っていた。軍服姿の彼女は、相変わらず凛々しい。

「どうぞ」

 彼女は俺の向かいに座り、トレイを置いた。周囲から視線が集まるのを感じる。セリシア少尉が「坊ちゃん補佐官」と一緒に食事をするなんて、珍しい光景なのだろう。

「調子はどう?」

「まあ、順応してるところかな」

 セリシアはスープをすすりながら、小声で言った。

「みんな最初は敵意を向けるものよ。気にしないこと」

「ああ……気づいてた?」

「見ればわかるわ」彼女は冷静に答えた。「でも、将軍があなたを選んだのには理由がある。あなた自身が証明すればいいだけよ」

「そう簡単にいくかな……」

「……明日、戦術会議があるわ。あなたも参加することになってる」

「え? 本当に?」

「ええ。第一歩のチャンスよ。準備しておきなさい」

 セリシアは食事を終えると、さっと立ち上がった。

「頑張りなさい、ソウイチロウ」

 そう言って彼女は去っていった。残された俺は、少し心が軽くなった気がした。

 ***

 午後、司令部の廊下を行き来しながら、俺は伝令業務をこなしていた。書類を届けたり、口頭での伝言を運んだり。シンプルな仕事だが、面白いことに気づいた。

(あれ? この伝令のルート、何か法則性があるな)

 何度も同じ場所を行き来していると、情報の流れが見えてきた。誰から誰へ、どんな内容が、どのタイミングで伝わるのか。

「これって……麻雀の"河"を読むのと似てるな」

 前世で麻雀をやっていた時、他のプレイヤーの捨て牌(河)から手の内を読むのが得意だった。この伝令ルートも、情報の流れという点では似ている。

「なるほど……だからこの時間には補給部からの報告が来て、次に情報部へ行くのか」

 頭の中で情報の流れを整理していくと、軍の組織がどう動いているのか、少しずつ見えてきた。誰が重要な情報を持っていて、誰がそれを必要としているのか。命令はどこから発せられ、どのように伝達されるのか。

「面白いな……」

 夕方になり、将軍への最後の報告書を届けた後、執務室に戻る。そこでセリシアと鉢合わせた。

「何をしていたの?」

「伝令業務」

「伝令? それだけ?」

「うん……でも、面白いことに気づいたんだ」

 セリシアは首を傾げた。

「何に?」

「情報の流れにパターンがあるんだ。例えば、北部国境の報告は常に午前中に来て、そこから30分以内に参謀本部と補給部に伝わる。でも先に参謀本部に行くと、その後の動きが変わるんだ」

 彼女は驚いたような表情になった。

「ほかにも、ハーゲン大佐からの伝令は必ずバッカス中佐を経由して参謀部に伝わるけど、バッカス中佐がいないときは直接ドーソン少佐に行く」

「あなた……たった3日でそんなことまで観察していたの?」

「まあ、何度も行き来してるうちに気になったから」

 セリシアは少し考え込むように俺を見た。

「それを紙に書き出してみて」

「いいよ」

 執務室の机に向かい、俺は頭の中にある情報の流れを図式化していった。線と矢印で繋がれた複雑な図が完成する。

「こんな感じかな」

 セリシアは黙って図を見つめた。

「これは……情報伝達図?」

「うん。伝令ルートだけじゃなくて、時間帯や優先順位、内容によって変わる流れも入れてみた」

「こんな風に整理できるなんて……」

 彼女は感心したような、戸惑ったような複雑な表情をしている。

「これ、明日の会議に持っていくといいわ」

「本当に? 役に立つ?」

「ええ。北方軍の情報伝達の効率化は、将軍の関心事の一つよ」

 セリシアは図を丁寧に丸めて、俺に返した。

「明日、9時から大会議室。遅れないように」

 彼女はそう言って部屋を出て行った。残された俺は、少し希望が見えた気がした。

(やっぱり俺、こういうの得意なのかもな)

 麻雀で鍛えた「読み」の感覚が、意外なところで役立つかもしれない。それを思うと、少し楽しみになってきた。

 ***

 翌朝、俺は緊張しながら大会議室に向かった。正装をきちんと整え、昨日作った情報伝達図も持っている。

「おはよう、ソウイチロウ」

 クラウスが廊下で声をかけてきた。

「おはようございます、クラウスさん」

「今日が初めての戦術会議だそうだな。緊張してるか?」

「はい、少し……」

「大丈夫だ。最初は黙って見ているだけでいい。焦ることはない」

 彼の言葉に少し安心する。

「ありがとうございます」

 大会議室の前に来ると、すでに多くの士官たちが集まっていた。ドーソン少佐、セリシア、そして見知らぬ高位の将校たちも。皆が俺を見ると、小声で何かを話し始めた。

「あれが例の坊ちゃん?」
「将軍のご機嫌取りの道具だろ」
「何の実績もないのに、こんな重要な会議に……」

 聞こえるように言っているのだろう。俺は平静を装って、会議室に入った。部屋の中央には大きな円卓があり、壁には詳細な地図が掲げられている。

「ソウイチロウ」

 セリシアが声をかけてきた。

「こちらの席に座って」

 円卓の端に近い席を指示された。どうやら、序列的に一番下の位置らしい。当然といえば当然だ。

「ありがとう」

 席に着き、しばらく待っていると、ドアが開き、アルヴェン将軍が入ってきた。全員が立ち上がり、敬礼する。俺も慌てて真似をした。

「諸君、着席せよ」

 将軍の一声で、全員が席に戻る。

「では、北部国境の状況から報告を始めよう」

 会議が始まり、各担当者から次々と報告が上がる。エストレナ帝国との国境付近での小競り合い、補給線の状況、部隊の配置など。俺は黙って聞きながら、頭の中で状況を整理していった。

「ソウイチロウ見習い補佐官」

 突然、将軍が俺の名を呼んだ。一瞬で部屋が静まり返り、全員の視線が俺に集中する。

「は、はい!」

「君に課した伝令業務から、何か気づいたことはあるか?」

 この質問は想定外だった。しかし、ここが自分を示すチャンスだと思い、俺は立ち上がった。

「はい。情報の流れにパターンがあることに気づきました」

「ほう、具体的に」

「これが私が作成した情報伝達図です」

 持参した図を広げる。周囲からは失笑や呆れた表情も見えたが、気にせず説明を続けた。

「北部国境からの報告は常に午前中に来て、そこから30分以内に参謀本部と補給部に伝わります。ただ、優先順位によって情報の質が変わることがあります」

 将軍は興味深そうに図を覗き込んだ。

「例えば?」

「補給部へ先に情報が行くと、それは通常の定例報告です。しかし、参謀本部へ先に行くと、戦術的な重要性を持つ情報であることが多いです。また、バッカス中佐を経由する情報は……」

 俺は気づいたパターンを次々と説明していった。周囲の士官たちの表情が少しずつ変わっていく。最初は懐疑的だったのが、徐々に驚きや関心に変わっていった。

「見事だ」将軍は満足げに頷いた。「たった3日でこれだけの観察ができるとは」

「ありがとうございます」

「このパターンの中で、非効率だと思う点はあるか?」

「はい」俺は少し考えてから答えた。「東部国境からの情報が必ず三か所を経由する点です。情報の伝達に平均して45分かかっていますが、直接参謀本部に送ることで20分以上短縮できると思います」

「なるほど」将軍は深く頷いた。「ドーソン少佐、この提案について検討してくれ」

「はっ」ドーソン少佐は渋々ながらも敬礼した。

「それでは会議を続けよう」

 俺は席に戻り、安堵のため息をこっそりついた。会議室の雰囲気が少し変わったことを感じる。完全に受け入れられたわけではないが、少なくとも「ただの坊ちゃん」ではないと認識されたようだ。

 ***

 会議終了後、廊下に出ると、セリシアが近づいてきた。

「よくやったわ」

「ありがとう……緊張した」

「でも印象は残せたわね。特に情報伝達のパターン分析は鋭かった」

 素直な褒め言葉に、少し照れる。

「これで少し認めてもらえるかな?」

「一度だけじゃダメよ。継続的に結果を出さないと」

「厳しいな……」

「この軍では、それが現実よ」

 彼女はそう言って歩き出した。俺も後に続く。

「ところでソウイチロウ、あなたはそういう……パターンを読むのが得意なの?」

「まあ、前から好きだったかな」

 麻雀での経験は言えないので、曖昧に答えておく。

「勘ではなく、ちゃんと論理的に考えているのね」

「うん、そうだと思う」

「興味深いわ」セリシアは真剣な表情で言った。「明日からは、実際の情報分析を始めましょう。私が指導するわ」

「本当に?」

「ええ。将軍の命令でもあるわ」

 彼女の口調は相変わらず公式的だが、少し親しみを感じた。

「ありがとう、セリシア」

「セリシア少尉と呼びなさい、公務中は」

「あ、すみません。セリシア少尉」

 彼女はわずかに口角を上げた。

「頑張りなさい、見習い補佐官」

 そう言って彼女は去っていった。

(今日は良い一歩を踏み出せたかな)

 執務室に戻る途中、何人かの士官たちが会釈をしてきたことに気づいた。完全に受け入れられたわけではないが、少なくとも「勝負の匂いがしないな、この場所は……だが、動きは読める」と感じていた状況から一歩前進したようだ。

 この軍という"卓"で、俺は少しずつ自分の牌を並べ始めていた。