「え……!? ソウイチロウが軍に?」
朝食のテーブルで、ハーバートは驚きの声を上げた。アルヴェン将軍の訪問から3日後、王都からの使者が届けた書状が読み上げられていた。
「そうだ」義父のグレンは厳かな面持ちで頷いた。「王命により、ソウイチロウは北方軍の補佐官見習いに任命された」
テーブルに沈黙が落ちる。俺は自分の耳を疑った。王命? つまり国王陛下の命令で俺が軍に入るというのか? 一度のタロカ対局で、そこまでの話になるとは思ってもみなかった。
「具体的には、どういう……?」
言葉を選びながら尋ねる俺に、義母のリアーナが答えた。
「来週から北方軍総司令部に勤務することになるそうよ。アルヴェン将軍の直属の補佐官見習いとして」
「こんなに急に決まるものなのか?」ハーバートが首を傾げた。
「それだけ、切迫した状況なのだろう」グレンは重々しく言った。「エストレナ帝国との緊張は高まる一方だ。おそらく将軍は、ソウイチロウの才能を一刻も早く活用したいのだろう」
リアーナの目には明らかな心配の色が浮かんでいる。「でも、まだ15歳なのに……」
「戦場には行かせない、と約束してくれたそうだ」グレンがリアーナの手を優しく握った。「少なくとも当面は、司令部での参謀業務が中心になるとのことだ」
ハーバートが俺に向き直った。「どうだ、ソウイチロウ。正直な気持ちは?」
みんなの視線が俺に集まる。胸の内は複雑だった。前世では大学に落ちてしまった駄目な高校生。この世界でも、剣も振れない、魔法も使えない、取り柄のない貴族の養子。それが突然、国の命運を左右するかもしれない重要なポジションに抜擢されるとは。
「正直、不安はあります」
率直に答えた。
「でも……自分にできることがあるなら、やってみたいです」
「そうか」グレンは深く頷いた。「エストガード家の一員として、王国に貢献することは誇りだ。だが、無理はするな。何かあれば、いつでも家に戻っておいで」
「ありがとう、父上」
「わたしは……」リアーナは言葉に詰まったが、すぐに微笑んだ。「あなたを信じているわ。でも、しっかり食事をして、体を大事にするのよ」
「はい、母上」
「ふう、まさか弟が先に軍に入るとはな」ハーバートは苦笑した。「負けてられないな。俺も近々、騎士団の選抜試験を受けるつもりだ」
「兄さんも?」
「ああ。この状況では、エストガード家からも誰かが国に仕えるべきだろう」
家族の誇らしげな表情を見て、俺は深く決意を固めた。前世での失敗を繰り返さない。自分の才能を、今度こそ活かす道を見つけた。
***
「えっと……ここが北方軍総司令部?」
俺は馬車から降り、目の前の巨大な建物を見上げた。灰色の石造りの要塞のような建物で、フェルトリア王国北方軍の軍旗がはためいている。
「ソウイチロウ様、こちらへどうぞ」
出迎えの兵士に導かれ、俺は緊張しながら建物の中へと足を踏み入れた。正装に身を包み、エストガード家から持ってきた荷物は最小限だ。当面はここで寝泊まりすることになるという。
「将軍がお待ちです」
長い廊下を歩いていくと、途中ですれ違う兵士や士官たちの視線を感じた。好奇の目もあれば、明らかに冷ややかな目もある。
(俺のことを噂してるんだな……)
15歳の少年が補佐官見習いになるというのは、よほど異例なことらしい。耳に入ってくる囁きが、そのことを物語っていた。
「あれが噂の坊ちゃんか?」
「将軍のお気に入りらしいぜ」
「何の経験もない子供が、何をできるっていうんだ」
小さな声で交わされる会話に、俺は肩身の狭い思いをした。まあ、仕方ない。実績もないのに、いきなりこんな立場になったんだから。
(まただな、居場所のない感じ)
前世の高校でも、麻雀にのめり込んでいた俺は少し浮いた存在だった。この世界でも、どうやら最初から孤立しそうだ。
「ここです」
兵士が大きな扉の前で立ち止まり、ノックをした。
「どうぞ」
中から将軍の声がして、扉が開けられた。
***
「やあ、来たか! ソウイチロウ」
アルヴェン将軍は大きな書斎のような部屋で、俺を迎えた。壁には地図がいくつも貼られ、机の上には書類や模型が散らばっている。
「将軍、ご指名いただき光栄です」
緊張しながらも、礼儀正しく挨拶をする。
「堅苦しくするな」将軍は笑った。「これからは毎日顔を合わせるのだからな」
「はい……」
「さて、早速だが仕事の説明をしよう」
将軍は机の上の地図を指差した。
「これがフェルトリア王国とエストレナ帝国の国境地帯だ。現在、ここで小競り合いが続いている」
複雑な地形が描かれた地図を眺める。山岳地帯や河川、森林など、様々な地形が入り組んでいる。
「お前の仕事は、まず情報の整理と分析だ。敵の動きを読み、次の手を予測する。タロカで見せた才能を、ここで発揮してほしい」
「はい、がんばります」
「最初は見習いとして、先輩の補佐官たちと一緒に仕事をするといい。ここが私の副官、ドーソン少佐だ」
部屋の隅で黙って立っていた中年の男性が一歩前に出た。厳格な表情の、筋肉質な男性だ。
「ドーソンです。よろしく頼む」
微妙に冷たい口調に、この人も俺の抜擢に納得していないんだろうなと感じた。
「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げると、ドーソンは形式的に頷いただけだった。
「それから、こちらは作戦参謀のセリシア・ヴェル=ライン少尉だ」
ドアから入ってきたのは、誕生日パーティーで会った金髪の少女だった。
「セリア……じゃなくて、セリシアさん?」
思わず素の反応をしてしまった。彼女は少し驚いた表情になった。
「ええ、パーティーでお会いしましたね。正式にはセリシア・ヴェル=ラインと申します。少尉として作戦参謀を務めています」
セリシアは軍服姿で、髪はきっちりとまとめられていた。パーティーの華やかなドレス姿とは違い、凛とした雰囲気を漂わせている。
(あの時のゲームの相手が、こんな立場にいたなんて)
「私が軍事教練と基本的な作戦立案の指導を担当します」セリシアは公式の口調で言った。「よろしくお願いします、エストガード見習い補佐官」
どうやら、公の場では友人関係を出さないつもりらしい。それは正しい態度だろう。
「こそよろしくお願いします」
俺も背筋を伸ばして応じた。
「よし、では早速だが、今日からお前の仕事を始めてもらう」将軍が言った。「まずは基本的な報告書の読み方から。セリシア、案内してやってくれ」
「はい、将軍」
セリシアはきびきびと敬礼し、俺に部屋を出るよう促した。
***
「ここがあなたの執務室よ」
セリシアが案内したのは、司令部の一角にある小さな部屋だった。机と椅子、本棚が置かれただけのシンプルな空間。
「ありがとう」
「これがまず読んでおくべき文書よ」
彼女は束になった書類を机の上に置いた。
「軍の基本的な組織図、報告書の様式、暗号体系の初歩……盛りだくさんね」
「全部読むの?」
「もちろん。タロカの腕前だけでは、実戦では役に立たないわ」
彼女の口調は少し厳しいが、悪意はなさそうだ。
「わかった、頑張るよ」
「……」
セリシアは何か言いかけて、ためらった様子。それから小さく吐息をついた。
「正直に言うわ。私はあなたの抜擢に最初は反対だった」
「そうだったの?」
「ええ。15歳の経験のない少年が、国の命運を左右する立場に? 冗談じゃないと思ったわ」
率直な言葉に少し傷ついたけど、理解できる気持ちだった。
「でも、将軍は譲らなかった。『彼の才能は千載一遇のものだ』と」
「そんな風に言われても、プレッシャーがかかるだけだよ」
俺は苦笑しながら答えた。セリシアの表情が少し和らいだ。
「そう思うなら、よりいっそう努力するべきね」
「そうだね」
「では、夕方にまた来るわ。それまでに少なくとも組織図と報告書の様式は理解しておいて」
セリシアはそう言って部屋を出ようとした。
「あの、一つ質問していい?」
「何かしら?」
「君はどうしてそんなに若くて少尉になれたの?」
彼女は立ち止まり、少し考えるように俺を見た。
「私は王立軍事学校を首席で卒業したの。それだけよ」
「へぇ……すごいな」
「努力の結果よ。あなたも努力するべきね」
そう言い残して、セリシアは部屋を出て行った。
(厳しいな……でも、筋が通ってる)
机に向かい、書類の山に取り掛かる。初日から山のような読み物。でも、これが戦術家への第一歩なら、しっかり取り組むしかない。
***
数時間後、頭がパンクしそうになりながらも、俺は組織図を何とか理解していた。北方軍の指揮系統、各部隊の配置、伝令のルートなど、複雑な構造だ。
「おい、君が新しい坊ちゃんか?」
突然、声がして顔を上げると、ドアのところに年配の兵士が立っていた。
「あ、はい……ソウイチロウ・エストガードです」
「俺はクラウス。補給隊の古株だ」
白髪混じりの髭面の男性は、どこか親しみやすい雰囲気を持っていた。
「休憩の時間だぞ。食堂に案内しようと思ってな」
「ありがとうございます」
立ち上がって彼についていくと、廊下ですれ違う兵士たちの視線がまた気になった。皆、年上ばかりで、中には俺の父親くらいの年齢の人もいる。そんな人たちと対等に仕事をするなんて……。
「気にするな」クラウスが小声で言った。「最初はみんな警戒するもんだ。結果を出せば認められる」
「そうでしょうか……」
「ああ、俺も昔は似たようなもんだった。名もない田舎から来た徴兵兵だったからな」
少し安心する。少なくとも、全員が敵というわけではなさそうだ。
「食堂がここだ」
大きな部屋に案内され、そこには多くの兵士や士官が食事をしていた。俺たちが入ると、一瞬会話が途切れ、注目が集まる。
「気にするな、行くぞ」
クラウスは堂々と配膳台に向かい、俺も後に続いた。シチューとパン、それに水の入った杯。シンプルだけど、香りは悪くない。
「空いてる席に座ろう」
端の席を選び、向かい合って座る。周りからの視線は相変わらず感じるが、少しずつ元の会話に戻っていくようだった。
「う~ん、美味しい」
シチューを一口食べて、素直に感想を言った。家の料理ほど豪華ではないけれど、素朴で温かい味わいだ。
「だろう? 軍の料理は意外といけるんだ。特に北方軍は」
「クラウスさんは長いんですか? 軍は」
「そうだな、もう30年近くになる。若いころは前線にもいたが、今は後方支援だ」
「へえ……」
「だから言っておくが……」クラウスの声が少し低くなった。「お前さんのことは、皆が様子見してるんだ。大した経験もないのに、いきなり将軍直属の補佐官見習い。しかも15歳だろう?」
「はい……」
「だが、心配するな。……あんたの"牌"は、もう捨てられねぇよ」
「え?」
「将軍があんたを選んだってことは、相当の理由があるんだ。あとは、その期待に応えるだけさ」
クラウスの言葉に、なぜか勇気が湧いてきた。そうだ、自分は前世の経験も持っている。麻雀で培った読みの力がここで活きるなら、それは単なる偶然ではない。
「ありがとうございます」
食事を終え、執務室に戻る途中、窓から見える訓練場で剣術の練習をする兵士たちが目に入った。その中でセリシアが指導している姿も見える。彼女は15歳の俺と同年代なのに、すでに立派な軍人だ。
(俺も負けてられないな)
執務室に戻り、再び書類の山に向き合う。今度は暗号体系の基礎だ。
***
夕方、約束通りセリシアが戻ってきた。
「進捗はどう?」
「組織図と報告書様式は大体理解したつもりだよ。今、暗号体系の基礎を読んでるところ」
彼女は少し驚いた様子で、俺の机に近づいてきた。
「思ったより進んでるわね」
「まあ、集中すれば……」
セリシアはノートに取ったメモを見て、さらに眉を上げた。
「これは北方軍の情報伝達図? よく整理できてるわ」
「ありがとう。マッピングするとわかりやすいかなと思って」
彼女は少し考え込むように俺を見た。
「正直に言うと、私は今でもあなたを疑ってる。でも……」
「でも?」
「少なくとも、やる気はありそうね」
それは褒め言葉なのかどうかわからないけど、素直に受け取ることにした。
「明日からは実際の報告書の分析を始めましょう。夕方には将軍への報告会があるから、準備しておいて」
「わかった」
「それじゃ」
セリシアは振り返り、ドアに向かった。
「あの、セリシア」
「何?」
「パーティーのときのタロカ、また機会があったら……」
「公務中はそういう話は避けましょう」
彼女は厳しい口調で言ったが、ドアを開ける前に少し振り返った。
「でも、機会があれば……そのときは本気で挑むわ」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。俺は思わず微笑んだ。
(敵ばかりじゃなさそうだな)
夕暮れの司令部で、書類に囲まれながら、俺はこの新しい世界での第一歩を確かに踏み出していた。将軍から手渡された任命書が机の上に置かれている。それを見つめながら、俺は静かに決意を固めた。
「ようやく、俺に合う"卓"が来たかもしれないな」