真っ白な空間。

 そんな言葉でしか表現できない場所で、俺は目を覚ました。床も天井も壁もない。ただ、白い何かに包まれている感覚。

「ここは……どこだ?」

 声を出したつもりだけど、自分の声が聞こえない。耳がおかしいのか、それとも声が出ていないのか。わからない。

 最後に覚えているのは、交差点でトラックに跳ねられたこと。痛みはなかった気がする。一瞬の出来事だった。ってことは、これが死後の世界ってやつなのか?

「天国? 地獄?」

 どちらにしても、神様とか閻魔様とかが出てきて審判するんじゃないのか? そんな漫画や小説でよくあるパターンを期待してみたけど、結局誰も出てこなかった。

(まぁ、麻雀に青春捧げて大学落ちた程度じゃ、神様も相手にしてくれないか)

 なんて自嘲していると、ぼんやりとした映像が浮かんできた。まるで古いテレビの砂嵐がだんだんクリアになってくるような感じで。

 映像の中の俺は赤ん坊になっていた。どうやら、これが異世界転生ってやつらしい。転生先は「フェルトリア王国」という国の辺境地域。亡くなった親戚の子を引き取ったという設定で、地方貴族のエストガード家の養子になるらしい。

(おい、これ完全に漫画の設定じゃねえか……)

 でもまあ、大学落ちて行き場のなかった俺には、これはこれでありがたい話なのかもしれない。

「折角だし、今度は真面目にやってみっか」

 白い空間の中で、そう決意した。

 ***

「ソウイチロウ! 起きなさい、もう朝よ!」

 厚手のカーテンが勢いよく開けられ、まぶしい光が部屋に差し込んできた。木のベッドの上で、俺は顔をしかめながら目を開ける。

「んー……わかったよ、起きる……」

 ベッドから這い出るようにして体を起こす。窓際には女性が立っている。エストガード家の使用人、ミーナだ。四十代くらいの、いかにも母親然とした雰囲気の女性。俺が物心ついた頃からずっと世話をしてくれている。

「今日は何の日か覚えてる?」

 ミーナが期待を込めた笑顔を向けてくる。

「え? ああ、そうか……俺の15歳の誕生日か」

「そうよ! おめでとう、ソウイチロウ。貴族の子どもとしては、今日から一人前として扱われる大切な日なのよ」

 ミーナは嬉しそうに話しながら、用意しておいた服を取り出し始めた。

 俺の名前はソウイチロウ・エストガード。まぁ、前世の三崎宗一郎をそのまま持ってきた感じだけど。

 そう、実は今日まで、前世の記憶は断片的にしか思い出せなかった。でも、伝説によれば15歳の誕生日に全ての記憶が戻ってくるとか何とか……って言われていた気がする。

 そして、起きたばかりの今、すべての記憶が鮮明に甦っていることに気づいた。受験に失敗したこと、麻雀に明け暮れた日々、そして交通事故で死んだこと。すべてが、まるで昨日のことのように思い出せる。

「ありがとう、ミーナ」

 着替えながら考える。15年間、この世界で生きてきて、俺は前世と同じく、あまり目立たない子だった。養子だからという理由もあるけど、それ以上に、何をやってもあまり上手くいかない。武芸も学問も中の下くらい。取り柄と言えば、まじめに努力することくらい。

(情けねぇな、二度目の人生でも平凡かよ)

 でも、そんな自分を受け入れてくれるのがエストガード家の良いところだ。特に義兄のハーバートは、俺にはいつも優しかった。

「ソウイチロウ! 早く食堂に来なさい。みんな待ってるわよ」

 ミーナの声で我に返る。急いで支度して、食堂へと向かった。

 ***

 エストガード家の食堂は、それほど豪華ではないけれど、居心地のいい場所だった。テーブルの上には焼きたてのパンや蜂蜜、チーズなどが並んでいる。家長である義父のグレン、義母のリアーナ、そして義兄のハーバートがすでに席についていた。

「おはよう、ソウイチロウ。誕生日おめでとう」

 義父のグレンが穏やかな笑顔で言った。50代半ばくらいの、髭の似合う男性だ。

「ありがとうございます、父上」

 少し緊張した面持ちで席に着く。

「15歳か……もう立派な青年だな」

 義兄のハーバートが言った。22歳の彼は、将来この家を継ぐ人物だ。容姿端麗で、剣術も学問も優れた、まさに理想的な貴族の息子。

「ハーバートほどじゃないですけどね」

 自嘲気味に言うと、ハーバートは笑いながら首を横に振った。

「比べることはないさ。それに、今日はお前の日だ。さあ、これを開けてみろ」

 テーブルの下から、長方形の箱を取り出して渡してくれた。丁寧に包装された贈り物だ。

「これは……」

 開けてみると、中には上質な革で作られた手帳と、美しい装飾が施された羽ペンのセットが入っていた。

「お前、日記をつけるのが好きだったろう? 使ってくれたら嬉しい」

 幼い頃から、俺は日記をつける習慣があった。それは前世の趣味ではなく、この世界で生まれてから自然と身についたものだった。何をやっても人より劣る自分を客観的に見つめる方法だったのかもしれない。

「ありがとう、兄さん」

 本当に嬉しかった。こんな家族に恵まれて、俺は幸せ者だ。

 ***

 昼過ぎ、俺は領地の訓練場にいた。貴族の子供たちは、15歳になると基本的な武芸の訓練を受ける。剣術、弓術、馬術などだ。今日は俺の初めての訓練日だった。

「ハァッ!」

 木剣を振り上げて、前に踏み出す。しかし、足がもつれて派手に転倒。地面に顔から突っ込んだ。

「プッ、ハハハ! 見ろよ、養子のソウイチロウがまた転んだぞ!」

 周りから笑い声が起こる。訓練場には近隣の貴族の子息たちも集まっていて、中にはエストガード家の養子である俺を快く思っていない連中もいる。

「大丈夫か、ソウイチロウ?」

 訓練指導役の老騎士、バルトが手を差し伸べてくれた。

「はい……大丈夫です」

 埃を払いながら立ち上がる。今日に限った話じゃない。これまで何度か剣の稽古をつけてもらったことはあったけど、毎回こんな調子だった。剣は重いし、動きは鈍いし、センスがないってことだけはよくわかる。

「まあ、初日だ。気にするな」

 バルトは優しく肩を叩いて、また稽古を続けるよう促した。

「はい……」

 言われた通りに木剣を構えるけど、内心では落ち込んでいた。

(まただよ。俺には、勝てる戦場がない)

 前世では麻雀で勝負したけど、最後は勝ちたいという気持ちすら失ってしまった。この世界でも、何をやっても中途半端で、目立ったところがない。

「ソウイチロウ、それでいいぞ。基本を大事にしろ」

 バルトが励ましの言葉をかけてくれるけど、周りの失笑は止まらない。

 ***

 日が暮れて、訓練が終わった後、俺は屋敷の裏庭にある小さな池のほとりに座っていた。手には傷薬を塗った包帯。今日の訓練で手のひらが擦り切れてしまったのだ。

「ここにいたのか」

 背後からハーバートの声がした。振り返ると、彼は俺の隣に腰を下ろした。

「訓練、どうだった?」

「最悪です。見ての通り」

 包帯を見せると、ハーバートは小さく笑った。

「初めてはみんなそうさ。俺だって最初は剣を落としてばかりいたよ」

「でも兄さんは今じゃ領内一の剣士ですよね。俺には無理だ……」

 自嘲気味に言うと、ハーバートは真剣な顔になった。

「ソウイチロウ、聞いてくれ。役に立たなくてもいいんだ」

「え?」

 予想外の言葉に、思わず顔を上げた。

「エストガード家の一員として、お前は何もしなくても十分な価値がある。剣が得意でも不得意でも、それは変わらない」

 ハーバートの言葉は、まるで離れた場所から聞こえてくる風鈴の音のように、俺の心に染み込んでいった。

「兄さん……」

「ただ、もしお前が何かに挑戦したいなら、俺たちは応援する。今日からではなく、明日からでもいい。焦る必要はないんだ」

 そう言って、ハーバートは立ち上がった。

「さあ、帰ろう。夕食の時間だ」

 差し出された手を取って立ち上がる。少しだけ、救われた気がした。

「ありがとう、兄さん」

 小さな笑みがこぼれた。

 ***

 夕食の席で、義父のグレンが重大な話を切り出した。

「最近、国境付近で小競り合いが増えているらしい。エストレナ帝国の動きが活発になっていると、王都からの使者が言っていた」

 フェルトリア王国はエストレナ帝国と国境を接している。以前から領土問題で緊張関係にあったけど、最近は特に緊迫しているらしい。

「徴兵の話も出ているそうだ」とグレンは続けた。

「徴兵ですか?」ハーバートが眉をひそめる。

「ああ。貴族の家は息子を軍に送ることになるかもしれない。まだ決定ではないが、心の準備はしておいたほうがいいだろう」

 テーブルに重い空気が流れた。

「父上、僕が行きます」

 ハーバートがきっぱりと言った。

「だが、お前はこの家の跡取りだ。危険な前線に行かせるわけには……」

「いえ、むしろ貴族の長男だからこそ、率先して国に尽くすべきです」

 ハーバートの態度は毅然としていた。それを見て、なぜか俺の胸に熱いものが込み上げてきた。

(兄さんは戦場でも輝くんだろうな)

 自分もそうなれたらいいのに、と思う。でも、現実的には無理だ。俺は剣も持てない、使えない人間なんだから。

「それなら、ソウイチロウは学院に残し、学問を修めさせましょう」

 義母のリアーナが提案した。

「それがいいだろう。ソウイチロウ、お前はハーバートとは違う形で家に貢献するんだ」

 グレンの言葉に、俺は黙って頷いた。それが一番正しい判断だとは思う。でも、心のどこかで、もどかしさを感じていた。

(勝てば、意味がある。……それだけでいいかもな)

 前世で麻雀に夢中になっていた頃を思い出す。卓上の勝負なら、生まれや才能だけじゃない、読みや計算が物を言う世界だった。この世界でも、そんな自分に合った「卓」があるのだろうか。

 窓の外に広がる星空を見上げながら、15歳の俺は新しい人生の可能性を静かに考えていた。