「不合格です。残念ながら」
真っ白な用紙に書かれたその二文字を見ても、なぜか実感が湧かなかった。あぁ、俺、落ちたんだ。でも、意外にも心は平静のままだった。
「そっか」
スマホの画面を消して、俺——三崎宗一郎はポケットにそれを滑り込ませた。大学の受験発表サイト。名前が載っていないことを確認するために五回くらい更新したけど、結果は変わらなかった。
高校三年間、麻雀に明け暮れた結果がこれだ。
「まぁ、そうなるよな」
自分でも笑っちゃうくらい、あっさり受け入れてる自分がいる。予備校の模試でもギリギリの判定だったし、何より一番勉強すべき時期に雀荘に入り浸ってた。毎日放課後は決まって同じ場所。家に帰らず、駅前の「麻雀荘 天和」に直行する日々。受験勉強? それは家でやるはずだった時間に片付けるつもりだったけど、結局は麻雀の点数計算や役の組み合わせを考えることに頭を使ってた。
親に連絡するべきだろうか。でも、なんて言えばいいんだ? 「やっぱり落ちました、すみません」? そんな言葉、口から出せる気がしない。
「……雀荘に行くか」
足が勝手に、いつもの道を歩き始めていた。
***
「おー、宗一郎じゃねぇか。今日も早いな」
店内に入ると、マスターの塚本さんがにやりと笑った。五十代くらいの、少し腹の出た好々爺といった風貌の男性だ。この店の常連になって一年半。もう顔なじみどころか、俺のことを「若手有望株」なんて呼んでくれてる。
「あぁ、マスター。今日は用事が早く終わってさ」
受験に落ちたこと、言わなかった。ちょっと恥ずかしかったからだ。だって、高校卒業後の進路について聞かれたとき、「いい大学行って、ちゃんとした会社に就職するんだ」なんて言っちゃったし。
「おう、来たか! 今日こそは俺が貴様を打ち負かしてくれる!」
一番奥の卓から、デカい声が響いた。週末の常連、「暴れん坊」の愛称で呼ばれる中村さんだ。会社員らしいけど、やたらと熱くなるタイプ。対局中の掛け声も半端なく、店内の空気を一変させる特技の持ち主。
「中村さん、まだ仕事終わってないんじゃないの?」
「今日は半休だ! 麻雀のためならば仕事も投げ捨てる! それが漢ってもんだろ!」
はいはい、そうですか。どう考えても不健全な生き方だけど、俺が言える立場じゃないんだよな。だって俺、受験勉強より麻雀を選んだ結果、大学に落ちたんだから。
「じゃあ、一卓お願いします」
マスターに卓代を払って、席に着く。すでに二人の常連が座っていて、俺で三人目。あともう一人来れば卓が埋まる。
「よろしく」
簡単に挨拶を交わし、俺たちは牌を並べ始めた。カチャカチャという音。この音が好きだった。勉強してる時も、この音が頭の中で鳴り響いてた。微妙な重みと、指に伝わる感触。ああ、ここが俺の居場所だったんだよな。
学校じゃなくて。家でもなくて。この卓の上が。
***
「リーチ、一発、ドラドラで跳満!」
中村さんの高笑いが店内に響き渡る。大きな手で牌をバァンと倒す音がダイナミックだ。
「うわー、またやられた」
対面の梅野さんが肩を落とす。四十代くらいの、いかにも公務員といった風情の男性だ。
いつの間にか四人目の客も来て、もう二局目が終わろうとしていた。
俺はというと、トップを取ったり、親を続けたりしていたのに、なぜかいまいち熱が入らない。昔なら、絶対こんなことはなかった。牌を握る指には力が入らず、勝っても「ああ、勝ったか」程度の感想しか浮かばない。
「宗一郎、最近冴えないな。受験の結果でも気にしてんのか?」
マスターが通りがけに声をかけてきた。鋭いなぁ、さすが人の表情を見るプロだ。
「まあ、そんなとこです」
曖昧に答えると、中村さんが大きな声で割り込んできた。
「なんだ、不合格だったのか?」
思わず顔が熱くなる。言いたくなかったわけじゃないけど、こうやって大声で言われると少し恥ずかしい。
「あー、まあ……そうなりました」
「そりゃあな! 毎日雀荘に来てちゃ受かるわけねぇだろ!」
中村さんの言葉に、なぜか笑みがこぼれた。その通りだ。自分でもわかってた。
「他にも受けてるとこあるの?」と梅野さんが優しく尋ねてくる。
「いや、滑り止めも受かんなかったんで……もうダメっすね」
雀卓の空気が少し重くなる。でも、俺自身はそれほど落ち込んでいなかった。むしろ、スッキリした感じさえあった。
「まぁ、来年また挑戦するか、専門学校でも考えるか……」
少し考え込むふりをしたけど、実はもう諦めていた。心のどこかで、俺の青春は麻雀に捧げたものだってわかってた。そして、それは取り返せない。
「よし! 次局、俺の親だ! 宗一郎、お前にトドメを刺してやる!」
中村さんの声で雀卓に活気が戻る。さすがだな、この人は。
***
三局目、俺は一度も和了れないまま、オーラス親番を迎えていた。
「ツモ!」
中村さんが声を張り上げる。またしても彼の和了だ。この人、今日は調子がいいな。
「はいはい、降参ですよ」と苦笑いを浮かべながら、俺は点棒を払った。
「宗一郎、以前だったらこんな負け方せんかったぞ?」
マスターが横から声をかけてくる。
「そうですかね?」
「あぁ、昔のお前なら悔しがったな。何が足りなかったか、どう打てば良かったか、一人で考え込んでたもんだ」
そうだったな、確かに。一年前の俺は負けるたびに悔しがって、次は勝つぞって燃えてた。麻雀の本を読み漁って、プロの戦術を研究して、卓に戻ってきた。
(……俺、もう勝ちたいとも思わなくなってたのか)
なんだか虚しい気持ちになる。受験に失敗したことより、この感覚の方がずっと寂しかった。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
点棒を清算して、席を立つ。外はもう暗くなり始めていた。
「また明日来いよ!」
中村さんの声が背中に追いかけてくる。明日か……そうだな、明日も来るかもしれない。だって、他に行くところがないから。
***
雀荘を出て、いつもの道を歩く。頭の中では、最後の一局の手牌が浮かんでいた。
4筒を引いて1シャンテン。9萬を切るか、3筒を切るか。
9萬を切れば、チートイツ待ち。3筒なら、平和狙い。
俺は9萬を切った。でも、結局誰かが先に和了って、一枚も引けなかった。
(悪くない待ちだったかもな)
そんなことを考えながら、いつもの交差点を渡り始めた。ふと左を見ると、猛スピードで車が近づいてくるのが見えた。
「あ」
一瞬だけ、目が合った気がした。ドライバーの慌てた表情。
雀荘のマスター、中村さん、梅野さん、それから高校の友達や家族の顔が走馬灯のように頭をよぎる。
(ああ、これが最後か……)
痛みを感じる間もなく、世界が暗転した。