第1話「受験に失敗した日、俺は雀荘にいた」

「三崎、お前の番だ」 カチンッという牌を切る音が、俺の意識を現実に引き戻した。目の前の卓には、整然と並んだ牌の壁。そして自分の手前には、無機質に並ぶ手牌。 「ああ、わりぃ」 ぼんやりしていた理由など言い訳にならない。俺は無言で牌を引き、不要な一枚を切った。 今日、俺は大学受験に失敗した。 第一志望どころか、滑り止めにしていた大学にすら引っかからなかった。悪い成績ではなかったはずだ。「もう少し勉強していれば」と言われた言葉が、まだ耳に残っている。 「三崎、志望校どうだった?」 「落ちた」 雀荘の常連である中年男性・上原さんが聞いてきた。特に親しい間柄でもないが、ここ一年ほど顔を合わせる仲だ。彼は社会人で、仕事帰りに寄ることが多いらしい。 「そりゃあ残念だったな。勉強より麻雀やってたもんな」 そう言いながら彼は笑った。別に嫌味を言っているわけじゃない。事実だからだ。俺が高校三年の間、どれだけこの雀荘「胡蝶」に入り浸っていたか。受験勉強よりも麻雀の戦術書を読み、予備校より雀荘に足を運んでいた。 リーチ、ツモ、ロン——。 あの頃は勝つことだけを求めて牌を並べていた。雀荘代を稼ぐために、少しでも高い役を狙って、無謀な待ちに入ることもあった。高校一年の時は勝率も低く、よく先輩たちに絞られたものだ。だが二年になるとコツを掴み、三年になる頃には胡蝶では名の知れた存在になっていた。 かつて熱中した麻雀にも虚しさを感じるようになったのは、いつからだろう。勝っても何も変わらない。負けても何も失わない。ただ時間だけが過ぎていく閉塞感。 「どうする? 浪人?」 対面の女子大生・美咲さんが聞いてきた。彼女もまた常連の一人で、麻雀が強い。 「どうするかな……」 心にもない返事をしながら、俺は手牌を眺めた。 ドラは九索。手牌は一向聴で、待ちとしては悪くない。この展開なら、普通なら迷わず追いかけるところだ。 「リーチ」 上家の声とともに、牌が音を立てて場に置かれる。 ついさっきまで勝率を考え、追いかけようと思ったのに、急に虚しさが襲ってきた。結局俺は、何も変わっていない。受験も失敗して、未来も見えないまま、麻雀に没頭して……。 あれだけ麻雀に情熱を注いだのに、最後には「勝ちたい」という気持ちすら薄れていた。目標を失い、情熱も失い、今の俺には何も残っていない。 「チー」 気がつけば、俺は手牌を崩していた。一向聴を維持するより、早めの上がりを取りに行こうと思ったわけでもない。ただ何となく、思考が停止していた。 上原さんが「あれ?」と首をかしげるのが見えた。確かに今の俺の打牌は不可解だ。待ちの形が良かったのに、わざわざチーして手を崩す必要はなかった。 結局その局は、他の誰かの和了で終わった。 「宗一郎、今日お前、集中してないな」 場を流すために牌をかき混ぜながら、美咲さんが言った。 「そうか?」 「そうよ。昔のお前なら、あんな中途半端な切り方しないでしょ。勝ちを狙いに行くタイプだったのに」 「……」 彼女の言葉に反論できなかった。そういえば最近、勝ちに執着しなくなっていた。麻雀は上手くなったはずなのに、勝つことへの執着は薄れていた。 俺は大学受験に失敗した。麻雀のために勉強をサボったせいだ。なのに今、麻雀にすら本気で向き合っていない自分がいる。 「今日はもういいや」 俺は席を立ち、卓を離れた。今日のトータルでの点数負けはまだ軽微だが、気分の問題だった。 「もう帰るのか? 最近すぐ帰るよな」 「また来るよ」 嘘ではなかった。でも自分でも、この雀荘にいる意味がわからなくなっていた。麻雀が好きで、勝ちたくて、そのために勉強も犠牲にしてきたはず。なのに今は……。 「……俺、もう勝ちたいとも思わなくなってたのか」 店を出て、夜の街に立つと、そんな言葉が心の中でこだました。 まだ帰りたくなかった。親に顔を合わせたら、受験の話をされるだろう。「だから言ったでしょ」と母に説教されるのも嫌だった。 信号が青に変わり、俺は横断歩道を渡り始めた。 ふと思い出したのは、さっきの手牌。あの時の待ちは悪くなかった。ドラも絡んでいたし、あのまま追いかければ、もしかすると……。 耳を突き破るようなクラクションの音。 目の前に迫る大型トラック。 「っ!」 避けようと体を動かした瞬間、視界が真っ暗になった。 意識が遠のいていく中、最後に思い浮かんだのは、あの手牌と、勝てたかもしれないという後悔。 (悪くない待ちだったかもな……) その皮肉な言葉を最後に、世界が闇に沈んだ。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第2話「転生、そして戦乱の世界へ」

白い。 そう思った瞬間、意識が鮮明になった。 俺は白い空間に立っていた。いや、立っているというより浮いているような感覚だ。体はあるようで、なく、自分自身の存在を確かに感じるのに、手足の感覚はない。 「ここは……」 声を出したつもりだが、音は空間に吸い込まれてしまうような気がした。死んだのか? そうに違いない。トラックに跳ねられた記憶が蘇る。避けきれなかったんだ。 神や仏といった存在は見当たらない。ただ漠然と、「お前は死んだ。だが別の世界で生きる機会を与えよう」という意思のようなものを感じた。 (転生……か) 俺のような凡人がなぜ転生などという特別な扱いを受けるのか疑問だったが、白い空間に浮かぶ身としては、特に文句を言う立場でもなかった。 次に意識が戻った時、俺は柔らかな寝具の上にいた。 「十五歳の誕生日、おめでとう、ソウイチロウ様」 見知らぬ少女の声。目を開けると、茶色の髪をした若い侍女が微笑んでいた。 俺はゆっくりと起き上がり、周囲を見渡した。石造りの部屋。窓から見える景色は、中世ヨーロッパを思わせる建物群。それに、自分の体は……少年のものになっていた。 不思議なのは、まるで生まれてからここまでの記憶が埋め込まれているように、この世界のことを知っていること。そして同時に、前世――日本での記憶も鮮明に残っていることだった。 「朝食が用意されています。そのあと、義兄様が剣術の稽古に誘われていましたよ」 侍女はそう言って部屋を出て行った。 脳内に流れ込む情報によると、ここはフェルトリア王国。俺はソウイチロウ・エストガードという少年で、地方貴族の養子として引き取られていた。 義父母は良くしてくれるけど、居場所がないと感じていた。それは前世と同じだ。どこか疎外感を抱えながら生きる定めなのかもしれない。 「養子か……前世も、こっちも、居場所がない点では一緒か」 そう呟きながら、俺は着替えを済ませ、城塞のような館の食堂へ向かった。 *** 「はっ!」 鋭い掛け声とともに、木刀が空を切る。 「ソウイチロウ! そのような腰の入らない振りでは、本当の戦場では一瞬で命を落とすぞ!」 厳しい声で叱責したのは、俺の義兄・レイナード。彼は二十歳で、すでに騎士団の一員として名を馳せていた。今日は休暇で帰宅しており、「弟の鍛錬を」と稽古をつけてくれている。 「すみません、レイナード兄様」 兄様なんて呼び方は本来の俺なら恥ずかしいと思うのだが、この世界では普通のことだ。俺は再び木刀を構えたが、足が滑って転んでしまった。 周囲から笑い声が上がる。同じ領地の貴族の子弟たちが見学に来ており、彼らの目には俺の姿は滑稽に映ったのだろう。 「まただよ」 内心でつぶやく。 「俺には、勝てる戦場がない」 この世界では魔法も使えず、剣の腕も振るわない。乗馬の才能もなく、特別な出自でもない。俺にあるのは前世の記憶だけ。そして麻雀で培った「読み」の感覚。でもそんなもの、この世界では何の役にも立たない。 稽古が終わると、レイナードは俺に近づいてきた。 「気にするな、ソウイチロウ。誰もがすべてを得意になれるわけではない」 彼は優しい兄だった。騎士としての誇りも高く、領民からの尊敬も厚い。そんな彼が、何もできない俺を庇うように言葉をかけてくれる。 「役に立たなくてもいい。お前は我が家の一員だ」 彼の言葉に少しだけ救われた気がした。俺は小さく微笑み、「ありがとう」と呟いた。 レイナード兄は俺を心配そうに見つめた。「何も出来なくても、お前は我が家の一員だ」彼の言葉に少しだけ救われた気がした。この世界にも、俺を気にかけてくれる人がいる。それだけでも、前世よりはましかもしれない。 *** 夕食時、館の食堂は普段より賑やかだった。近隣の貴族や騎士たちが集まり、最近の情勢について議論していた。 「北方の国境線での小競り合いは激化している。王都からの使者によれば、軍の増強も検討されているそうだ」 「エストレナ帝国の膨張主義は止まらん。我々の領地も危険だ」 「若者たちの徴用も増えるだろうな。レイナード、お前も出陣することになるだろう」 俺は黙って食事を続けながら、会話に耳を傾けていた。この世界は戦乱の時代。フェルトリア王国とエストレナ帝国の緊張関係は高まるばかりだった。 「勝てば、意味がある……それだけでいいかもな」 ふとそんな考えが頭をよぎった。前世では勝つことに執着しなくなっていた俺。だが、この世界は勝敗がはっきりしている。勝てば生き残り、敗ければ死ぬ。あるいは国が滅びる。その単純明快さに、どこか安心感すら覚えた。 明日は近隣の貴族の館で社交の集いがある。レイナードに連れられて俺も参加することになっている。 「まぁ、養子の俺に何ができるわけでもないけどな……」 そう呟きながら、俺は窓の外に広がる夜空を見上げた。別の世界で、別の人生。どこかで「勝てる場所」はあるのだろうか。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第3話「タロカという遊戯」

ニコラス男爵の館は、エストガード家より少し規模が大きく、装飾も華やかだった。俺たち一行が到着すると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。 「ソウイチロウ、社交の場では極力目立たないようにな」 レイナード兄は小声で忠告した。俺が剣術の才能に欠けることは周知の事実。地方貴族の中でも、エストガード家の「出来の悪い養子」として知られていた。 「わかってる」 俺は静かに頷いた。目立たないのは得意だ。前世でも、麻雀以外では目立つことはなかった。 広間の一角では、年配の貴族たちが熱心に何かをしていた。テーブルに向かい、何やら四角い板状のものを並べている。好奇心に負け、俺は近づいてみた。 「ほう、これは見事なタロカだ」 「今夜は勝負に出たかったのだが、運が向いていないようだな」 貴族たちの会話が聞こえてくる。テーブルには「タロカ」と呼ばれる木製の牌が並べられていた。それぞれに様々な紋章や数字が刻まれている。 「タロカか……」 一瞥しただけで、俺の脳が活性化した。配牌、組み合わせ、読み合い——どこか麻雀を思わせる。牌の種類は異なるが、いくつかの牌を並べて役を作る点は共通しているようだ。 「おや、若い衆も興味があるのかね?」 年配の貴族が気づいて声をかけてきた。 「はい、少し」 「タロカは我々貴族の遊戯じゃ。運と頭脳を競う、高貴な遊びだ」 貴族は誇らしげに説明した。周囲の者たちも、少し賭けをしながらタロカを楽しんでいるようだった。 「一局いかがかね? エストガード家の養子殿」 別の貴族が言った。その眼差しには、やや侮蔑の色が混じっていた。おそらく簡単に勝てる相手と思っているのだろう。 「……お願いします」 俺は座を勧められるままに着席した。ルールを簡単に説明された。タロカは五種の紋章と十三の数で構成され、特定の組み合わせに価値がある。手番では牌を一枚引き、不要な牌を一枚捨てる。特定の役が揃えば「タロ」と宣言し、勝負が決まる。 タロカは五種の紋章と十三の数で構成される。『星』『炎』『龍』『風』『月』の紋章と、1から13までの数字を組み合わせた牌を使う。特定の役——『星天の刻』や『龍炎の業』などの組み合わせに高い価値がある。麻雀でいう役満のような存在だ。手番では牌を一枚引き、不要な牌を一枚捨てる。特定の役が揃えば『タロ』と宣言し、勝負が決まる。 (これ、麻雀とドンジャラを混ぜたような……) 牌を配られ、俺は自分の手牌を見た。たった十三枚の牌だが、その中から最適な組み合わせを見出す感覚。これこそ、前世で何度も味わった感覚だった。 「若造が相手では面白くないな」 「教えながら打とうではないか」 貴族たちは余裕綽々としていた。しかし、俺の頭の中ではすでに計算が始まっていた。場の雰囲気、相手の表情の変化、牌を切る速度——すべての情報が意味を持つ。 数巡後、俺は静かに声を上げた。 「タロ」 牌を開示すると、場が静まり返った。 「こ、これは……『星天の刻』!」 「初心者がこの役を? 偶然か?」 相手の貴族は信じられないという顔をしていた。俺が出した役は、かなり希少な組み合わせだったらしい。 しかし俺には、それが偶然でないことがわかっていた。相手の捨て牌の傾向から、持っている牌をある程度予測。そして自分が狙うべき組み合わせを見極めた結果だった。 「もう一局、頼む」 先ほどまで俺を見下していた貴族が、今度は真剣な表情で言った。周囲にも人が集まり始めていた。 二局目も、三局目も。俺は勝った。技術というより、「場」を読む感覚が研ぎ澄まされていた。他のプレイヤーの心理パターン、牌の流れ——すべてが麻雀で鍛えた「読み」に通じていた。 「……これ、なんか懐かしいな」 対局の合間、そんな思いが胸をよぎった。 「まだ"打ちたい"と思ってる自分がいる」 麻雀に飽きていたはずの俺が、このタロカに対して湧き上がる情熱を感じていた。前世で最後に見た手牌を思い出す。あの時は「勝ちたい」と思えなかった。でも今は違う。勝ちたい。もっと打ちたい。 「あの少年、ただ者ではないな」 「エストガード家の養子が、こんな才能を?」 周囲がざわめき始めていた。貴族たちの視線が俺に集まる。その中には、単なる好奇心だけでなく、計算高い打算も混じっていた。 レイナード兄が近づいてきて、小声で言った。 「ソウイチロウ、お前、一体何をしているんだ?」 「タロカをやってるだけだよ」 「目立たないようにと言ったはずだが……」 彼は困惑した表情を見せたが、その眼差しには驚きと誇らしさも垣間見えた。 「まあいい。ただ、貴族の世界は複雑だ。才能を見せれば見せるほど、利用しようとする者も現れる」 彼の警告は的確だったが、その時の俺には届かなかった。俺はただ、この感覚に酔いしれていた。「読み」が活きる場所。「流れ」を感じられる場所。「勝負」ができる場所——。 ここに、俺の"戦場"があったのだ。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第4話「将軍との一局」

「将軍アルヴェン閣下が到着されました!」 館の執事の声が響き渡ると、広間の空気が一変した。貴族たちは慌ただしく整列し、敬意を表する態勢を整える。 俺は静かに後方へ下がった。ニコラス男爵の遊戯会が始まって三日目。タロカの腕前が評判になり、今日はさらに多くの貴族たちが集まっていた。だが将軍の訪問は想定外だったようで、主催者も慌てている。 噂では、アルヴェン将軍は以前から若い才能の発掘に熱心だという。王国の将来を見据え、可能性ある若者を軍に取り込もうとしているのだ。 「我が館へようこそ、アルヴェン閣下」 ニコラス男爵が深々と頭を下げる中、堂々とした体格の中年男性が入ってきた。フェルトリア王国北方軍の総司令官、アルヴェン・グランツ将軍。軍の英雄として名高く、戦場での戦術眼は王国一と言われている。 「やむを得ない用件で近隣に来ていた。噂に聞くタロカの集いがあると聞き、少しの間お邪魔させてもらおうと思ってな」 将軍の声は低く、しかし広間全体に届くほど響いた。 「光栄です! ぜひお楽しみください」 ニコラス男爵は喜びを隠せない様子で、最上の席を用意させた。アルヴェン将軍は館内を見渡し、タロカが行われているテーブルに目を留めた。 しかし、男爵の側近の一人が「将軍はタロカの集いについて予め耳にしていたようだ」と小声で話しているのが聞こえた。 「誰か相手をしてくれる者はいるか?」 一瞬、広間が静まり返った。将軍との対局は名誉なことだが、彼の戦術眼はタロカにも表れるという。負ければ恥をかくことになる。 「この少年はどうだ? この数日、無敗と聞いたが」 将軍の視線が俺に向けられた。周囲からどよめきが起こる。 「あ、あの者は……エストガード家の養子でして」 ニコラス男爵が慌てて説明し始めたが、将軍は手を上げて遮った。 「身分は関係ない。タロカに才のある者と打ちたいのだ」 俺は緊張しながらも、静かに前に出た。 「ソウイチロウ・エストガードと申します。光栄です、将軍閣下」 アルヴェンは頷き、席に着くよう促した。広間の人々が見守る中、俺たちの一局が始まった。 最初の配牌で、将軍はにやりと笑った。良い手が入ったのだろう。 「若いな。何歳だ?」 「十五になったばかりです」 「タロカを始めて長いのか?」 「いいえ、この集いで初めて知りました」 その答えに、将軍は眉を上げた。 「たった三日でこの腕前とは」 彼は余裕の表情で牌を操作する。確かに手慣れた動きだ。だが俺は相手の捨て牌の順番、微妙な表情の変化から、彼の手牌を読み始めていた。 (龍の紋章に四と八……炎の紋章に六と九……彼は「龍炎の業」を狙っている) 俺は静かに自分の手を組み立てながら、相手の動きを観察し続けた。 数巡後、将軍の動きが変わった。彼の表情に自信が見える。紋章の揃う「竜炎の業」が完成に近づいているのだろう。 しかし、俺はある牌を切った。 将軍の表情が微かに歪んだ。 (この反応……俺の読みは当たっていた) 俺が切った牌は、将軍が欲しがっていた牌だった。彼は「龍炎の業」を完成させるため、最後の一枚を待っていた。だが俺はそれを見抜き、あえて捨てたのだ。 「ほう……」 将軍が低く呟いた。それまでの子ども扱いする態度が消え、真剣な眼差しになっていた。 その後の展開は、緊張感に満ちたものとなった。俺は将軍の「待ち」を読みながら、自分の手も組み立てていく。相手の牌を拾わせず、かつ自分の完成を急ぐ——。それは麻雀の対局そのものだった。 「タロ」 俺は静かに宣言し、手牌を開示した。「星天の刻」と「風月の詩」の複合役。かなり難しい組み合わせだった。 広間が静まり返った。将軍の手には「龍炎の業」が一歩手前まで完成していた。 アルヴェンは額に汗を浮かべ、しばらく俺の手牌を見つめていた。 「見事だ」 彼はついに口を開いた。 「私が待っていた牌を見抜き、封じた。単なる運ではない」 将軍は立ち上がり、俺を見下ろした。 「この才は、戦場でこそ活きる」 その言葉に、広間がざわめいた。フェルトリア王国北方軍の総司令官が、一地方貴族の養子を認めたのだ。 席を立つ将軍を見送りながら、俺は小さく微笑んだ。 「“戦"か……賭け甲斐がありそうだな」 あの日、雀荘で感じた空虚さ。最後の手牌で感じた未練。それらが今、この異世界で新たな形を見出そうとしていた。 将軍が去った後も、貴族たちの視線が俺に集まっていた。彼らの目には、昨日までとは違う色が宿っていた。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第5話「軍に拾われた少年」

「王命により、ソウイチロウ・エストガード殿を北方軍補佐官見習いとして召喚する」 エストガード家の門前で、金色の刺繍が施された軍の正装を身につけた使者が厳かに宣言した。三日前のタロカの集いから数日後のことだった。 父——養父であるハロルド卿の顔色が変わった。隣で母が小さく息を飲む音が聞こえる。 「これは何かの間違いではありませんか? 息子はまだ十五歳です。軍務に就く年齢ではありません」 ハロルド卿が怪訝な表情で問いかけた。使者は淡々と続ける。 「アルヴェン将軍の直々の指名です。戦術的才覚が認められたとのこと。明後日までに、北方軍本部への出立準備をお願いいたします」 公文書が手渡され、使者は礼をして去っていった。 門を閉めると、家族全員の視線が俺に集まった。 「一体何があったんだ、ソウイチロウ?」 父の声には困惑と心配が混じっていた。 「ニコラス男爵の館でのタロカの集いで、たまたまアルヴェン将軍と対局したんだ。それだけだよ」 「タロカの腕前で軍に? それはあり得ない」 レイナード兄が疑わしげに言った。 「将軍は『この才は戦場でこそ活きる』と言っていた。多分、タロカでの読みが戦術に応用できると思ったんだろう」 部屋に重い沈黙が流れた。北方軍は対エストレナ帝国の最前線。戦争が起これば、最も危険な場所になる。 「断るわけにはいかない。王命だからな」 父が溜息をついた。彼は領地を統治する身。王に逆らうことはできない。 「心配するな、父上、母上。補佐官見習いは実戦に出ることはほとんどない。書類仕事が主だろう」 レイナード兄が慰めるように言った。彼自身も騎士として王国に仕えているため、軍の内情をよく知っている。 「それに、アルヴェン将軍は慕われている人物だ。命令は厳しいが、部下を大切にする」 母は涙を浮かべながらも、小さく頷いた。 *** 翌日から出立準備が始まった。貴族の子息として最低限の装備と服、そして身分を示す紋章入りの小物など。 出立の準備をしながら、俺は従者たちに一人ずつ挨拶をして回った。正式な養子となってからずっと支えてくれた彼らへの感謝を伝えたかったのだ。一人一人に声をかけ、時に冗談を交わし、時に真剣に感謝を告げる。「坊ちゃんは心が優しいね」と老従者が涙ぐんだのを見て、俺もまた感傷的な気分になった。 俺は窓辺に座り、タロカの牌を眺めていた。ニコラス男爵からの贈り物だ。「才能を伸ばすように」との言葉とともに送られてきた。 (軍の補佐官見習いか……) 不安と期待が入り混じる。前世で大学すら行けなかった俺が、この世界では十五歳にして軍の要職に就くことになるなんて。 「未知の世界だな」 独り言を呟いていると、ノックの音がした。 「入って」 扉が開き、レイナード兄が入ってきた。彼は明後日に俺を北方軍本部まで護衛することになっていた。 「準備は順調か?」 「ああ、問題ない」 彼は腰を下ろし、しばらく黙っていた。 「実は忠告がある」 真剣な表情で、兄が口を開いた。 「軍の世界は、貴族社会以上に厳しい。特に、君のような……若く、特殊な経歴を持つ者には冷たい」 彼の言葉に頷く。想像はついていた。 「多くの将校たちは軍学校で苦労して階級を上げてきた。そこへ十五歳の『将軍のお気に入り』が入ってくるんだ。反感を買うのは避けられない」 「わかってる。覚悟はしてる」 「それでも行くのか?」 レイナード兄の問いに、俺は静かに答えた。 「行くさ。ここにいても、俺に何ができる? 剣は振るえず、馬も乗りこなせない。でもタロカなら——」 「タロカと戦場は違う」 「かもしれないし、違わないかもしれない。でも、『読み』があれば、何か役に立てるかもしれない」 兄は深く溜息をついた後、立ち上がった。 「わかった。明後日、万全の準備で行こう」 *** 出立の日。エストガード家の前には小さな馬車が用意されていた。家族との別れを済ませ、荷物を積み込む。 「気をつけるんだぞ、ソウイチロウ」 父が肩を叩いた。母は涙を堪えながら、「手紙を待ってるわ」と言った。 馬車に乗り込もうとした時、一人の老兵が近づいてきた。エストガード家に長く仕えている古参の兵士だ。 「坊ちゃん、これを」 老兵は小さな木箱を差し出した。開けると、中には古いが手入れの行き届いたタロカの牌が入っていた。 「昔、戦場で使っていたものです。『勝負運』があるんで、お守りに」 「ありがとう」 「あんたの『牌』は、もう捨てられねぇよ」 老兵はそう呟き、下がっていった。その言葉の意味を考えながら、俺は馬車に乗り込んだ。 北方軍本部へ向かう道中、窓から見える景色は美しかった。だが俺の頭の中は、これから始まる新たな「勝負」でいっぱいだった。 将軍から任命書を手渡される瞬間を想像する。それは恐怖でもあり、期待でもあった。 「ようやく、俺に合う"卓"が来たかもしれないな」 そう独白しながら、俺は北へと向かう馬車の揺れに身を任せた。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第6話「軍の空気は冷たい」

「あれが噂の神童か?」 「冗談だろう? あんな子供が何をできるというんだ」 「将軍のお気に入りだからな……」 北方軍本部の廊下を歩くたび、こうした囁き声が聞こえてくる。俺の正式な肩書は「北方軍司令部補佐官見習い」。アルヴェン将軍直々の指名とはいえ、十五歳の少年が軍の中枢に配属されたことは前例がなく、当然のように物議を醸していた。 「エストガード殿、これらの書類を整理してください。終わったら、あちらの古文書庫の目録を作成してください」 任務を言い渡したのは、俺の直属の上官である中年の中佐。彼の表情からは「こんな雑用しかさせられない」という不満が透けて見えた。 「承知しました」 俺は静かに頷き、作業に取り掛かった。軍に来て一週間。与えられる仕事はこうした雑用ばかりだ。戦術を学ばせるでもなく、会議に参加させるでもなく、ひたすら書類の整理や使い走り。将軍のお気に入りとは言え、実務では完全に蔑ろにされていた。 「どうせ貴族の子息だろう。すぐに飽きて実家に帰るさ」 俺がそばを通るたび、士官たちは露骨に嘲笑う。彼らの多くは下級貴族か平民から実力で這い上がってきた者たち。軍学校で厳しい訓練を受け、実戦で功績を挙げて現在の地位を得た者ばかりだ。そんな彼らからすれば、タロカの腕前だけで配属された少年など、到底認められるはずもない。 (勝負の匂いがしないな、この場所は……) 書類を整理しながら、俺は内心でつぶやいた。将軍と対局した時の緊張感、真剣勝負の空気——そんなものはここにはなかった。ただ義務と日常、そして権力争いがあるだけ。 だが、無為に過ごすつもりはなかった。 俺は書類を整理しながら、軍の構造を観察していた。誰がいつ報告に来るのか、どの部署がどう連携しているのか、各士官がどんな癖を持っているのか——。 「これは伝令兵が毎朝八時に届ける緊急連絡用の書類。この赤い紐で縛られたものは、北部国境からの報告書で、緑の紐は東部。十時には参謀長が必ず確認する」 こうした軍の動きのパターンは、タロカの牌の流れに似ていた。誰がどの情報を持ち、どこで処理し、どう流れていくか——それを把握することで、全体の動きが見えてくる。 「あの少年、黙々と働いているな」 「珍しく不平も言わず……貴族の坊ちゃんにしては粘り強いかもしれん」 一週間が二週間になり、俺への視線も少しずつ変わり始めていた。雑用を投げつけても文句一つ言わず、むしろ丁寧にこなしていく姿に、一部の士官は驚きを隠せないようだった。 午後、俺は軍の伝令兵が行き交う中央通路に佇んでいた。そこは本部の各所へと情報が流れていく要所。様々な人間が行き交い、情報も交差する。 「お前、エストガードだな?」 声をかけてきたのは、年配の伝令兵長だった。 「はい、そうです」 「何をしている?」 「伝令のルートを観察しています」 素直に答えると、伝令兵長は笑った。 「へえ、物珍しいな。若い士官たちはみな地図や戦術に夢中で、こんな地味な仕事に関心を持つやつはいない」 「伝令は軍の血管みたいなものですよね。情報がどう流れるか、それが戦の命運も左右する」 伝令兵長は意外そうな表情をした後、少し顔を近づけた。 「よく見ているな。実はな、伝令のルートには法則がある。緊急度によって優先順位が変わり、それぞれの部署への伝達手順も決まっている」 彼は簡単に伝令システムの仕組みを説明してくれた。俺は熱心に聞き入った。 「ありがとうございます。とても参考になります」 「何に参考になるんだ?」 「牌の流れを読むのと似ているんです。誰がどの情報を持ち、どう動くか——それを知れば、全体の動きが見えてくる」 伝令兵長は不思議そうな表情をしたが、「面白い考え方だ」と頷いた。 そして三週間目。俺は軍の内部構造をかなり把握していた。誰が重要な決定権を持ち、誰が実務を動かしているのか。公式の序列と実質的な力関係の違い。命令系統のボトルネック——。 「この軍、読める」 俺は小さく呟いた。表面上は混沌としているようでも、そこには明確なパターンがあった。それを読み解くのは、タロカや麻雀の「流れ」を読むのと何ら変わらない。 「勝負の匂いがしないな、この場所は……だが、動きは読める」 かつて麻雀荘で感じた「勝負」の味わいはなくとも、この場所には新たな「読み」の楽しさがあった。それに気づいた時、俺の表情が少し変わったのかもしれない。 兵士や伝令たちとの関係を築きつつあるとはいえ、軍内での孤立感は依然として強かった。だが、前世では麻雀しか頼れるものがなかった俺が、この世界では少しずつ人間関係を構築していく手応えを感じていた。『読み』だけでなく、『繋がり』も大事なのかもしれない。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第7話「才女参謀との出会い」

「エストガード殿、今日の戦術会議に同席するように」 朝の書類整理中、参謀長の副官から突然の指示が下った。俺は一瞬、耳を疑った。 「私が、戦術会議に?」 「将軍の命令だ。十時から司令部中央会議室だ。遅れるな」 副官は素っ気なく言い残すと、踵を返して去っていった。 軍に来て一ヶ月。ようやく雑用以外の任務が与えられる。しかも戦術会議——軍の中枢機能そのものだ。 (何かあったのか?) 伝令書類から得た情報によると、北部国境で小規模な衝突が発生している。エストレナ帝国との小競り合いだ。それほど深刻な状況ではないが、軍は警戒態勢を強めていた。 定刻より少し早く、俺は会議室に向かった。部屋に入ると、すでに十数名の高級将校が集まっていた。各自が地図や書類を広げ、小声で議論している。俺が入室すると、一瞬、部屋の空気が凍りついた。 「あの子供が何のために?」 「将軍の気まぐれだろう」 あからさまな侮蔑の囁きが聞こえる。俺は何も言わず、端の席に静かに着いた。 そこへ、一人の女性将校が入ってきた。銀色の髪を厳しく後ろで束ね、鋭い眼差しを持つ、二十歳前後の美しい女性。軍服の肩章から少佐の階級だとわかる。 セリシア・ヴェル=ラインの名は、軍内でも知られていた。名門軍人貴族の出であり、若くして参謀として頭角を現した才女。彼女について「冷静すぎる」「感情より論理を優先する」といった評判も耳にしていた。 彼女が部屋に入ると、先ほどまで俺に向けられていた視線が一斉に彼女に集まった。尊敬と警戒が入り混じったような奇妙な雰囲気。 「セリシア少佐、久しぶりだな」 「東部国境での任務はどうだった?」 彼女——セリシアは短く頷いただけで、淡々と自分の席に着いた。常に片手に小さな水晶のような装置を持ち、時折それに何かを記録しているようだった。 彼女の存在感は、年齢や階級以上のものがあった。そしてその秘密を、俺はすぐに知ることになる。 「起立!」 副官の号令とともに全員が立ち上がると、アルヴェン将軍が入室してきた。一ヶ月ぶりの再会だ。将軍は俺に一瞬目をやり、小さく頷いただけで、すぐに会議を始めた。 「現在の北部国境情勢について、参謀長から報告を」 参謀長が地図を示しながら、エストレナ帝国軍の動きと北方軍の現状配備を説明した。帝国軍はまだ本格的な侵攻の準備はしていないが、小規模な偵察部隊が頻繁に国境を越えて挑発行為を繰り返しているという。 「このままでは士気に関わる。反撃すべきだ」 「いや、罠かもしれん。大軍を動かす口実を作らせるべきではない」 将校たちの間で議論が白熱する中、将軍は静かに耳を傾けていた。そして場が少し落ち着いたところで、意外な人物を指名した。 「セリシア、東部国境から戻ったばかりだが、北部の状況についての見解は?」 彼女は立ち上がり、手元の水晶を軽く輝かせた。すると空中に細かい数値と図表が浮かび上がる。魔導記録石の投影機能だ。 「過去三ヶ月の帝国軍の動きを分析すると、彼らは系統的な偵察パターンを持っています。第三中隊の報告によれば、彼らは常に同じ時間帯に現れ、同様の動きをしています」 彼女の分析は明確で論理的だった。装置から次々と示される情報をもとに、帝国軍の真の意図を推測していく。 「彼らの目的は単なる挑発ではなく、我が軍の対応パターンを記録することです。同じ挑発に対して常に同じ反応をすれば、実戦での我々の動きを予測されます」 セリシアの提案は斬新だった。敵の偵察に対し、毎回異なる対応をするという戦術。予測不能な動きで敵の情報収集を無効化するという発想だ。 「理論的には正しいが、現場の混乱を招くぞ」 ある大佐が反論した。 「下級将校や兵士たちは、明確で一貫した命令を必要としている。毎回異なる対応では混乱し、士気が下がる」 セリシアは冷静に反論する。 「それは短期的な問題です。長期的に見れば、敵に予測されない軍こそが強いのです」 議論は白熱した。俺は黙って観察していたが、ある違和感を覚えていた。 (彼女の理論は完璧だが、何か足りない……) セリシアの戦術は論理的に正しい。だが、そこには「人間」という要素が欠けているように思えた。 彼女の眼差しには冷たさがあったが、その奥に何か——使命感や孤独さのようなものも垣間見えた気がした。論理に生きる彼女の内面には、何があるのだろう。 「エストガード殿」 突然、将軍が俺の名を呼んだ。 「はい」 「君はタロカの対局者として、この状況をどう見る?」 一瞬、部屋中の視線が俺に集まった。多くは「何を言い出すんだ」という軽蔑の眼差し。セリシアも冷ややかな目で俺を見ていた。 「私はセリシア少佐の分析に異論はありません。しかし、補足したい点があります」 俺は席を立ち、ゆっくりと話し始めた。 「タロカでは、相手の読みを外すために牌を変則的に切ることがあります。それは理論的には正しい戦術です」 セリシアは僅かに眉を上げた。 「しかし、そのような変則的な動きは、時に自分自身の流れも崩してしまう。人間は機械ではなく、常に論理的に動けるわけではありません」 俺は別の提案をした。変則的な対応をするのは良いが、それを徐々に段階的に変えていくこと。兵士たちにも理解させながら、少しずつ対応パターンを変化させる方法だ。 「それでは敵に読まれるリスクが残る」 セリシアが即座に反論した。 「はい、短期的にはそうです。しかし、兵士たちの混乱が少なければ、より正確に命令を実行できます。理論と実践のバランスが重要なのではないでしょうか」 会議室が静まり返った。若造の提案に、将校たちは半信半疑の表情だ。 「面白い視点だ」 将軍がようやく口を開いた。 「セリシアの理論と、エストガードの実践感覚。両方に価値がある」 そして驚くべき指示を出した。 「両方の案を準備せよ。二つの対応策を競わせて、より効果的な方を実戦に採用する」 会議終了後、俺はセリシアに近づいた。 「初めまして、ソウイチロウ・エストガードです」 彼女は冷たい目で俺を見た。 「セリシア・ヴェル=ライン。私の案に異を唱えるとは、大胆ね」 「異を唱えたわけではありません。ただ、違う視点から見ただけです」 「そう」 彼女は俺を値踏みするように見つめた後、小さく呟いた。 「タロカの戦術家か。興味深いわ」 そう言うと、彼女は踵を返して歩き去った。 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第8話「模擬戦、開戦」

「セリシア少佐の案を採用する」 戦術会議から三日後、北部国境対応について最終決定が下された。敵の偵察に対し、完全に予測不能なパターンで対応するという彼女の案だ。 俺は特に落胆はしなかった。自分の意見が通らないことは最初から織り込み済みだった。セリシアの案は論理的に完璧で、理論上は確かに最適解。しかし、「理論と現場の乖離」という問題を懸念していた俺は、内心では違和感を覚えたままだった。 「あなたの時間はまだ来ていない」 会議室を出るとき、セリシアが小声でそう告げた。皮肉なのか、励ましなのか判断しかねる言葉だった。 北部国境への命令伝達が始まり、俺は再び書類整理という日常に戻った。しかし、今回の戦術会議参加により、軍内での立場はわずかながら変化していた。 「エストガード殿、これらの書類を向こうの会議室へ」 と言いながらも、士官たちの目には以前ほどの軽蔑の色がない。むしろ、「どんな人間なのか」という好奇心すら感じられるようになった。 その夜、俺は宿舎の小さな机で北部国境の地図を広げていた。部屋の隅には、老兵から貰ったタロカの牌が並べられている。 「敵の偵察隊は、常にこの三つのルートから侵入している……」 一つの地点から別の地点への移動時間、警備兵の配置、伝令の速度——俺はこれまで集めた情報をもとに、敵の動きを推測していた。そして、妙な違和感が拭えなかった。 「この偵察、何かおかしい……」 偵察パターンが規則的すぎるのだ。まるで、あえて自分たちの動きを予測させようとしているかのように。 まるで麻雀で相手の手牌を読むように、敵の動きを先読みしていた。「リャンメン待ち」のように二方向から攻められる位置が伏兵の定石だろうか。なら、この丘陵だが。 「もし彼らが、我々の『予測不能な対応』そのものを予測しているとしたら?」 この仮説が頭をよぎった瞬間、俺は北部国境のある地点に注目した。地図上では小さな森に囲まれた谷間——警備が手薄になりがちな場所だ。 「ここに伏兵を置くのが自然な流れだ……」 その夜、俺は報告書を作成した。自分の仮説と、それに基づく警戒案を記したものだ。翌朝、迷った末にそれを参謀長の副官に提出した。 「エストガードからの提案?」 副官は訝しげな表情を見せたが、一応書類を受け取った。もっとも、実際に読まれることはないだろうと俺も思っていた。 数日後、北部国境からの報告が届き始めた。セリシアの戦術は予定通り実行され、帝国軍の偵察隊は毎回異なる対応に遭遇し、混乱しているという。表面上は成功しているように見えた。 ところが、一週間後の夕刻、異変が起きた。 「緊急報告! 北部国境、シルバーリッジ付近で帝国軍部隊を発見!」 伝令が駆け込んできたのは、ちょうど俺が書類部屋で作業していた時だった。シルバーリッジ——俺が警戒すべきと報告した、あの谷間の近くだ。 「規模は?」 「約二個小隊、重装備です!」 通常の偵察隊よりはるかに大きな部隊。これは明らかに、単なる情報収集ではない。 軍本部は一気に緊張感に包まれた。各部署から将校たちが司令室に集まり、対応を協議し始める。俺もその場に呼ばれた。 「帝国軍は我々の変則的対応パターンを逆手に取った」 セリシアが率直に状況を分析していた。彼女の表情には焦りはなく、ただ冷静に事実を受け止めている。 「予測不能な動きをするという『予測可能な方針』を利用されたのだ」 参謀長が厳しい口調で指摘した。セリシアへの批判というよりは、自分たちの判断への反省だった。 俺は静かに地図を見つめていた。現在の北部国境警備隊の配置と、帝国軍の推定位置。 「あの森の中に、もう一隊潜んでいる可能性があります」 俺が口を開くと、全員の視線が集まった。 「根拠は?」 参謀長が問うた。 「これまでの偵察パターンと、今回の侵入経路を照らし合わせると、あの谷間を迂回する形の伏兵が考えられます。実は一週間前に同様の懸念を報告書で——」 「あの報告書か」 副官が割り込んだ。 「確かに受け取った。しかし、十五歳の見習いの仮説に過ぎないと判断した」 場の空気が険悪になる。セリシアは俺を見つめ、そして参謀長に向き直った。 「今から対応するとしたら?」 「警備隊への増援は間に合わない。すでに日没間近だ」 俺は深く息を吸い、思い切って提案した。 「少数の部隊に、あの森の近くで篝火を焚かせてください。通常の巡回パターンを装いながら」 「どういう意図だ?」 「もし伏兵がいれば、彼らは我々の警戒態勢が変わっていないと判断するでしょう。そして、予定通り夜襲を仕掛けてくる」 「しかし、それでは味方が危険ではないか」 「篝火の近くには人を置かず、少し離れた場所に配置します。帝国軍が篝火を襲った瞬間、包囲する」 場が静まり返った。若造の奇策に、誰も即座に賛同できないようだった。 「私が責任を持ちましょう」 意外な声がセリシアから上がった。 「この案を実行し、結果を検証します。小規模な部隊で対応可能ですし、リスクも限定的です」 参謀長は少し考え、最終的に頷いた。 「良かろう。セリシア少佐、指揮を執れ。エストガードも同行せよ」 「私が、ですか?」 「君の仮説だ。責任を取るのは当然だろう」 予想外の展開に戸惑いつつも、俺は頷いた。 *** 翌日の夜明け前、俺とセリシアは北部国境に近い前線基地に到着していた。緊急伝令により、前夜の篝火作戦は実行されていた。 「報告です!」 駆け込んできた伝令兵の表情に明るさがあった。 「作戦成功! 帝国軍の伏兵部隊を捕捉し、完全に撃退しました!」 セリシアは驚いたように俺を見た。 「あなたの読みは当たっていた」 俺は安堵の溜息をついた。タロカの卓で相手の手を読むように、戦場の「流れ」を読む——それが実際に通用したのだ。 「……やっぱり俺、こういうのが好きなんだな」 ...

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第9話「評価の芽」

「この度の成功は、私の戦術指導の賜物です」 北部国境での勝利から二日後、前線基地での報告会でグレイ中佐はそう宣言していた。彼は軍規上の指揮官であり、当然ながら功績を自分のものにしようとしていた。 「篝火作戦も私の発案。若きエストガード殿はその実行を補佐してくれました」 俺は黙って立っていた。実際には篝火作戦は自分の案で、グレイ中佐は深夜の伝令を受け取り、ただ「やってみろ」と言っただけだった。だが、軍の上下関係では当然の流れ。俺は特に不満も感じなかった。 「伏兵の存在を示唆したのは、エストガード殿ではありませんでしたか?」 意外な人物からの質問。第三中隊の若い少尉だった。彼は作戦に参加した部隊の一員で、すべての経緯を知っていた。 グレイ中佐は表情を強張らせた。 「もちろん、エストガード殿の観察力も評価に値します。しかし、最終判断を下したのは私です」 「しかし、伏兵の位置まで正確に予測したのは彼ではありませんか? あれがなければ、我々は包囲される危険もあったのです」 少尉の言葉に、他の兵士たちも頷き始めた。前線の兵士たちにとって、命を守ってくれた戦術は単なる名声争いではなく、切実な問題だった。 「確かに彼は見立てをしました。しかし、それは私の戦術判断あってこそ——」 「私はエストガード殿と直接伝令を交わしました」 今度は中隊長が発言した。 「彼から送られてきた伝令には、伏兵の推定位置と、篝火による囮作戦の詳細な指示がありました。グレイ中佐の命令書にそれらの内容はなかったはずです」 場の空気が変わった。軍では階級が重んじられるが、同時に実戦での真実も無視できない。兵士たちの命を守った策が誰のものかは、彼らにとって重要だったのだ。 グレイ中佐は言葉に詰まり、報告会は微妙な空気のまま終了した。 基地を出て、軍本部に戻る馬車の中。俺とセリシアは窓の外の景色を黙って眺めていた。 「あなたは不満を言わなかったわね」 長い沈黙を破って、彼女が口を開いた。 「軍では当たり前のことでしょう。それに、結果として帝国軍の伏兵を撃退できたなら、それでいい」 「功名心がないのね」 「ないわけじゃない。でも、『勝った』という事実は変わらないから」 セリシアは魔導記録石を取り出し、何かを記録し始めた。 「あの石で何を記録しているんですか?」 「戦術判断の過程、結果、検証——すべてを記録している」 彼女は石を見せてくれた。その中には、これまでの作戦の詳細な分析と結果が細かく記録されていた。 「客観的な記録を残すことで、次の戦術に活かす。それが私のやり方よ」 「論理的ですね」 「理論に基づかない戦術など、単なる偶然に頼るギャンブルよ」 俺は小さく笑った。 「でも、戦場には論理だけでは説明できない『流れ』があるんじゃないですか?」 「流れ?」 「はい。人間の心理、場の空気、タイミング——タロカでも、ただ役を揃えるだけじゃなく、相手の心を読む必要があります」 彼女は少し考え込んだ様子だった。 「私はあなたの行動を記録石で再検証したわ」 「え?」 「あなたが伏兵の位置を予測した根拠。最初は単なる直感かと思ったけど、違った」 セリシアは記録石を操作し、俺の行動分析を示した。 「あなたは敵の偵察パターンを分析し、彼らの心理を読み、最も合理的な伏兵位置を導き出していた。それは偶然ではなく、一種の論理だった」 俺は驚いた。それは麻雀でいう「筋」を読む感覚に近く、自分でもそこまで明確には分析していなかったのに、セリシアは俺の思考プロセスを解析していたのだ。 「私はあなたを……再評価する必要があるかもしれないわ」 その言葉に、俺は小さく頷いた。 *** 軍本部に戻ると、アルヴェン将軍から直接呼び出しがあった。セリシアと共に司令室に向かう。 「よくやった、エストガード」 将軍は満足げな表情で言った。 「セリシアから詳細な報告を受けた。君の戦術眼は、私が期待した通りだ」 「ありがとうございます」 「将軍」セリシアが前に出た。「彼の判断は単なる偶然や直感ではありません。私の記録石による分析では、明確な論理的思考パターンが確認できました」 将軍は頷いた。 「そう、戦術としての『読み』だな。タロカでの才能と同じものだ」 将軍は机の上の地図を指さした。 「エストガード、君の才能はこれからますます必要になるだろう。帝国の動きが活発化している。次は小さな偵察ではなく、もっと大きな動きがあるかもしれん」 俺は身が引き締まる思いだった。 「セリシア、君は彼の成長を見守ってくれ。論理と直感、理論と実践——両方を持つ参謀こそ、真の戦略家になる」 「はい、将軍」 セリシアは敬礼した。彼女の表情からは、以前のような冷たさが消えていた。 司令室を出た後、セリシアが俺に向き直った。 「あなたの思考を完全に理解したわけではないわ」 「わかってます」 「でも……あなたの『読み』には、確かに戦術としての価値がある」 それは彼女なりの和解の言葉だったのかもしれない。 「“流れ"ってやつも、言葉にすれば通じるのかもな」 俺はそう呟いた。当初は軍でも居場所がないと感じていたが、今日、初めて自分の才能が認められた気がした。 それは勝ちきれなかった前世の麻雀卓とも、うまく使えなかった才能とも、何か違う形で繋がっているような感覚だった。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人

第10話「この軍、読める」

北部国境作戦から一週間が経ち、俺の軍内での立場は目に見えて変化していた。以前の「将軍のお気に入りの子供」から、「戦術的センスを持つ補佐官見習い」へと評価が変わりつつあった。 書類仕事は相変わらず多かったが、今は単なる雑用ではなく、情報整理という重要な役割として任されるようになっていた。特にアルヴェン将軍直属の「特別情報分析班」に配属され、帝国軍の動向報告を中心に分析する任務が与えられた。 「これは先週のクリフサイド地域の偵察報告、こちらは一ヶ月前の同地域の状況。比較すると、帝国軍の兵站線がわずかに南にシフトしている」 俺は手元の地図に印をつけながら、情報を整理していた。 「エストガード殿、ここの物資輸送量の変化にも注目すべきだと思います」 隣で作業していたのは若い参謀補。以前は俺を無視していた彼も、今では対等に意見を交わすようになっていた。 「ありがとう。確かにこの変化は意味深ですね」 俺はタロカの牌を机の上に並べるように、情報を空間的に配置していった。誰がどの情報を持ち、どの部署で何が判断され、どう命令が流れるか——。その「流れ」を掴むことで、帝国軍の動きの背後にある意図が見えてくる。 「伝令部からの報告では、この三日間で国境付近の帝国軍の動きが15%増加しています」 伝令兵長が資料を持ってきた。彼とは北部国境作戦以来、良好な関係を築いていた。 「ありがとう。これを見ると、彼らは何かの準備をしているようですね」 「同感だ。特に東側の山岳地帯への物資の流れが不自然だ」 俺は情報の断片を組み合わせ、「流れ」を読み取っていく。それは麻雀で培った「読み」そのものだった。 正午近く、セリシアが情報分析室に姿を現した。 「エストガード、進捗は?」 「はい、いくつか気になるパターンを発見しました」 俺は地図を広げ、帝国軍の動きのパターンを説明した。彼女は魔導記録石で俺の分析を記録しながら、時折質問を投げかける。 「この結論に至った根拠は?」 「まず、物資輸送の変化。次に、伝令の頻度。そして兵の配置変更——これらを総合すると、彼らは数週間以内に何らかの作戦を計画していると考えられます」 セリシアは頷き、自分の分析結果と照合を始めた。 「私も同様の結論に達していたわ。だが、あなたは情報の『関連性』を見つけるのが速い」 「ありがとうございます」 「あなた、軍の内部でも情報の流れを観察しているわね?」 彼女の鋭い指摘に、俺は少し驚いた。 「気づいていたんですか」 「あなたはいつも、誰がどのように情報を扱うか観察している。伝令兵の動き、参謀たちの反応、命令の伝達方法——」 セリシアは少し身を乗り出して言った。 「あなた、戦場じゃなくても読み合ってるのね」 「そうですね。情報の流れ方、人の動き方——すべてが『牌譜』のようなものです」 「牌譜?」 「タロカの一局の記録です。誰がどの牌を切り、どう動いたか——それを読むことで、次の一手が見えてくる」 セリシアは少し考え込んだ様子だった。 「軍という組織自体を一つの『卓』として見ているのね」 「正確には、『情報の流れる場』として見ています。誰がどの情報を持ち、どう処理し、どこに伝えるか——その流れを読むことで、全体の動きが見えてきます」 「それは参謀として貴重な視点ね」 セリシアが敬意を込めて言った。以前のような警戒心はなく、純粋な専門家としての評価だった。 「タロカの卓でも戦場でも、情報を読む本質は変わらないんだ。勝てるなら場所は問わないさ」 俺は軽く肩をすくめてそう返した。セリシアは小さく笑い、頷いた。 *** その日の夕方、アルヴェン将軍から全参謀への緊急会議の招集があった。会議室に入ると、将軍は厳しい表情でいた。 「諸君、帝国の動きが活発化している。我々の分析によれば、彼らは近々、国境地帯のキブルト村付近で何らかの軍事行動を起こす可能性が高い」 地図上で示された地点は、俺とセリシアが分析で警戒すべきと指摘していた場所だった。 「現地に偵察部隊を派遣し、状況を確認する。セリシア少佐、君にこの任務を任せたい」 「承知しました、将軍」 セリシアは頷いた。 「エストガード」 将軍が俺を指名した。 「君もセリシア少佐に同行せよ。君の『読み』が役立つかもしれん」 「はい、将軍」 視線を感じて横を見ると、セリシアが俺を見ていた。彼女の表情には、かつての冷たさはなく、むしろ期待のようなものが浮かんでいた。 会議後、俺は自室に戻り、出発の準備を始めた。老兵から貰ったタロカの牌を小さな布袋に収め、情報分析のノートをまとめる。 「次任務として、小規模な実戦部隊への同行命令が下る」 そこに書かれた言葉に、俺は微笑んだ。これが初めての実戦任務。偵察といえども、本物の戦場だ。 「今度は、本物の"勝負"か」 俺は窓の外に広がる夕暮れの空を見上げた。軍に来て二ヶ月。最初は居場所がないと感じた場所で、今は自分の才能が認められつつある。 前世では麻雀の対局で「読み」を働かせ、この世界では戦場で「読み」を活かす。同じ才能でも、使い方次第でこうも違うものになる。前世では誰の役にも立たなかった特技が、ここでは人の命を救う力になる。その事実に、静かな充実感を覚えた。 そして次の任務で、本当の意味での「戦」が始まる。

2025-03-27 00:00 · 折口詠人