第13話「温泉開き」
数日にわたる清掃作業がようやく終わり、温泉施設の開湯式が行われることになった。真夏の朝、日が昇り始めた頃から、村人たちが次々と東の丘の洞窟へと集まってきた。
ライルは前日まで《天恵の地》を使って温泉施設の最終調整を行っていた。床の石の隙間を埋め、浴槽の縁を滑らかにし、湯の流れをよりスムーズにする工夫をしたのだ。その成果もあり、今朝の温泉は完璧な状態で村人たちを迎える準備ができていた。
「ライル、本当にご苦労様」ガルド村長が声をかけてきた。「君のおかげで古い温泉が蘇ったよ」
「いえ、皆さんの協力があってこそです」ライルは謙遜しながら答えた。
洞窟の入り口は、以前よりもずっと広く開かれ、石段も修復されていた。入り口の上部には「東の湯」と書かれた木の看板が掛けられ、その脇には村人たちが作った紅白の飾りが風にそよいでいた。
フィリスとコルも早くから来ていた。フィリスは今日のために特別に髪を結い上げ、シンプルな白い服を着ていた。彼女は興奮した様子で、時折石造りの壁に手を触れては懐かしむような表情を浮かべていた。
「ついに開湯の日ね」フィリスはライルに近づいて言った。「長い眠りから目覚めた温泉が、また人々に恵みをもたらす日が来たわ」
コルは施設の周りを走り回り、時折立ち止まっては来る人々に尾を振って挨拶していた。彼の銀色の毛は朝日を受けて輝き、見る者の目を和ませた。
村人たちはそれぞれタオルや着替えを持参し、開湯を今か今かと待っていた。子供たちは特に興奮した様子で、トムとマリィは「温泉ってどんな感じなんだろう?」「熱くないかな?」と小声で話し合っていた。
時間になると、ガルド村長が入口に立ち、声高らかに宣言した。
「皆さん、本日より我が村の『東の湯』の利用を開始します! 長年眠っていたこの施設が、皆さんの疲れを癒す場所となることを願っています」
拍手と歓声が上がり、村人たちの顔には喜びが溢れていた。
「では、最初の入浴者として、この温泉を発見してくれたライル君、フィリスさん、そしてメリアさんにお願いしたいと思います」
そう言われて三人は前に進み出た。コルはライルの足元にぴったりとくっついていたが、水が苦手な彼は入口で待つことになっていた。
「コル、少し待っていてね」ライルが優しく言うと、コルは少し残念そうに、しかし従順に頷いた。
洞窟内部に入ると、数日前とは比べものにならないほど清潔で整然とした空間が広がっていた。壁に取り付けられた松明の灯りが温かく揺らめき、中央から湧き出る温泉の湯気が幻想的な雰囲気を作り出している。
メリアの指導のもと、浴場は男湯と女湯に簡易的な仕切りが設けられていた。木と布でできた仕切りは決して豪華ではなかったが、実用的で村の資源を無駄にしない工夫が感じられた。
「それでは、ごゆっくり」村長が言うと、ライルは男湯へ、フィリスとメリアは女湯へと向かった。
ライルが男湯に入ると、湯船からは柔らかな湯気が立ち上っていた。彼は慎重に足を湯に浸し、その温かさを確かめてから徐々に体全体を沈めていった。
「あぁ……」思わず声が漏れる。水温は熱すぎず温かすぎず、絶妙な具合だった。さらに、湯には微かな鉱物の香りがあり、体の芯まで温まる感覚があった。
一方、女湯ではフィリスが湯に足を浸した瞬間、大きな声を上げた。
「これは神の恵み!」
その声は仕切りを超えて男湯まで聞こえてきた。ライルは思わず微笑む。フィリスらしい大げさな反応だ。
しばらくして最初の入浴者が出てくると、次の村人たちが入れ替わりで温泉に入っていった。出てきた人々の表情は一様に満足げで、肌は湯の温もりで赤く染まり、目は穏やかな幸福感に満ちていた。
「ああ、腰の痛みが和らいだようだ」年配の男性が言った。
「肌がすべすべになるわね」若い女性が手の甲を撫でながら喜んでいた。
子供たちも楽しそうに湯に浸かり、時折はしゃぎ声を上げていた。トムとマリィは最初は恐る恐るだったが、すぐに湯の気持ちよさに笑顔を見せていた。
ライルは温泉から出ると、外でコルと合流した。コルは主人の帰りを心待ちにしていたようで、ライルの姿を見ると尾を激しく振って喜びを表した。
「コル、待たせてごめんね」ライルはコルの頭を撫でた。「温泉、とても気持ちいいよ」
コルは興味深そうにライルの手の匂いを嗅ぎ、温泉の香りに少し首を傾げた。その仕草があまりにも愛らしく、ライルは思わず笑みがこぼれた。
フィリスも女湯から出てきて、二人の元に加わった。彼女の頬は湯の熱で桜色に染まり、目は生き生きと輝いていた。
「ライル、あれは本当に素晴らしいわ!」フィリスは両手を広げて言った。「私が眠っていた間に、人間たちはこんな素敵なものを作り出していたのね」
「フィリスこそ、この温泉を甦らせてくれたんだ」ライルは微笑んだ。「君がいなければ、仕掛けを動かすことはできなかった」
フィリスは少し照れたように髪を掻き上げた。
時間が経つにつれ、全ての村人が入浴を終え、洞窟の前の開けた場所に集まり始めた。みんな湯上がりの爽快感に満ちた表情で、自然と会話が弾んでいた。メリアが用意した温かいハーブティーが配られ、湯上がりの体を優しく温めた。
「これからは毎日通いたいね」若い男性が言った。
「私の腰痛が本当に楽になったわ」年配の女性が嬉しそうに語る。「これは本物の薬湯ね」
ライル、フィリス、コルは少し離れた場所で、村人たちの様子を見守っていた。ライルの手には温かいハーブティーの入った木製のカップ、フィリスも同じものを手に持ち、時折香りを楽しむように鼻を近づけていた。コルはライルの足元で丸くなり、二人の会話に耳を傾けているようだった。
「みんな本当に喜んでいるね」ライルは言った。
「そうね。神の恵みが人々に届いて、私も嬉しいわ」フィリスは満足げに頷いた。
ガルド村長が二人に近づいてきた。「二人とも、本当にありがとう。この温泉のおかげで、村に新たな活力が生まれそうだ」
「どういたしまして」ライルは謙虚に答えた。「村の皆さんが喜んでくれるなら、それだけで嬉しいです」
「これからこの温泉をどう活用していくか、考えていかなければならないな」村長は遠くを見るような目をした。「例えば、利用する曜日や時間を決めたり、維持管理の当番を決めたり」
「それは良いですね」ライルは頷いた。「みんなで大切に使っていけば、長く恵みを受けられますから」
その頃、他の村人たちも少しずつ温泉の今後について語り合い始めていた。
「定期的に清掃当番を決めるべきだわ」メリアが提案していた。
「入浴料を少しだけ取って、維持費に充てるのはどうだろう」ドリアンが現実的な意見を出した。
「近隣の村の人たちにも知らせるべきかしら」若い女性が言った。
こうした会話が、湯上がりの爽快感と共に、洞窟の前の空間を温かく満たしていた。
ライルは村人たちの様子を見ながら、心の中で満足感を覚えた。彼が王都から追放され、この村にやってきてから、少しずつではあるが確実に村は変わってきている。今回の温泉発見も、彼の《天恵の地》のスキルが間接的に導いたものだ。
フィリスが静かにライルの肩に手を置いた。「あなたは本当に村に恵みをもたらす人ね」
「それはフィリスも同じだよ」ライルは微笑んだ。
コルが二人の間で満足げに寝そべり、時折尾を振って嬉しさを表現していた。彼の銀色の毛は太陽の光を受けて輝き、見る者の心を和ませる。
東の丘を吹き抜ける夏の風は、湯上がりの体に心地よく感じられた。遠くからは鳥のさえずりが聞こえ、村人たちの笑い声と会話が溶け合い、この日の思い出を一層鮮やかに彩っていた。村に新たな宝物が加わった日。それは確かに、ライルたちの小さな冒険の、予想外だが素晴らしい結果だった。