第10話「出てきたのは温泉」

 フィリスが床に刻まれた文字を見つめながら言った。「これは……湧水の施設よ」

 ライルとメリアは意外な言葉に驚きの表情を浮かべた。

「湧水の施設?」ライルは聞き返した。「神殿とか、古代遺跡じゃなくて?」

 フィリスは台座に再び両手を置き、目を閉じて集中した。「この場所は、神の時代に作られたのは確かだけど……目的は神聖な湧水を人々に分け与えるためのものだったのよ」

 コルが興奮したように台座の周りを走り回り、特定の場所で足を使って何かを掻き始めた。ライルが松明を近づけると、台座の縁に沿って、細かな凹凸のある操作パネルのようなものが見えた。

「これは何だろう?」ライルは興味深そうに近づいた。「何か起動装置のようにも見えるね」

 フィリスはコルが指し示す場所に注目し、そこに両手を置いた。「これを動かせば……」

 彼女が凹凸のある部分に手を滑らせると、突然、カチリという乾いた音が空間に響いた。それに続いて、石と石がこすれ合うような重々しい音が広間全体に広がる。

「何か動いてる!」メリアは驚いて後ずさった。

 中央の台座から微かな振動が伝わり、放射状に広がる床の溝がわずかに光を放ち始めた。その光は薄い青色で、水の中に浮かぶ蛍のようだった。

 次の瞬間、台座の中央部分がゆっくりと開き始めた。まるで巨大な石の花が開くように、中央部分が複数のセクションに分かれて広がっていく。その下からは、湯気とともに水の音が聞こえ始めた。

「これは……」ライルは驚きのあまり言葉を失った。

 台座の中央部分が完全に開くと、そこには小さな泉が現れた。透明な水が地中から湧き上がり、台座の開いた部分を満たし始める。水は徐々に溢れ出し、放射状の溝を伝って床全体に広がっていった。

 湧き上がる水は驚くほど透明で、松明の光を受けて美しく輝いていた。そしてほのかな湯気が立ち上り、心地よい湿り気が広間全体に広がった。

「温かい……」メリアは溝に流れた水に指先を浸し、驚いた表情を見せた。「これは温泉!」

 フィリスは満足げな笑みを浮かべていた。「そう、温泉よ。古代の人々が神の恵みとして大切にしていた湧水ね」

 ライルは指を水に入れてみた。確かに体温よりやや高い温度で、不思議と心地よかった。「温かいね。でも熱すぎない」

 コルも好奇心から水に前足を浸してみたが、温かさに驚いて一度後ずさり、その後また慎重に近づいた。その戸惑う様子があまりにも愛らしく、三人は思わず微笑んだ。

 水は溝を通って床全体に広がり、やがて広間の端にある排水口のような場所に集まっていった。水の流れに乗って、湯気が幻想的に立ち上り、松明の光を通して不思議な陰影を作り出している。

「少し匂いがするね」ライルは鼻を鳴らした。「硫黄のような……」

「温泉特有の匂いね」メリアは頷いた。「確かにこれは天然の温泉よ」

 広間全体が湯気に包まれ始め、その湿った温かさは肌に心地よく感じられた。長い時間閉じられていた施設が、今再び活気を取り戻したかのようだった。

 しかし、ライルの表情には少しの失望の色も混じっていた。「てっきり、もっと神秘的な遺跡か何かかと思ったんだけど……ただの温泉施設だったんだね」

 フィリスは彼の肩に優しく手を置いた。「『ただの』温泉じゃないわ。これは神の時代から続く、特別な泉よ」

「そうよ」メリアも興奮した様子で言った。「温泉には薬効があるって知ってる? 村の患者たちの治療にも使えるかもしれないわ」

 ライルも次第に気持ちを切り替え始めた。「確かに、これは村にとって大切な発見かもしれないね。それに……」彼は湧き上がる透明な水を見つめた。「とても美しい」

 水は台座から絶え間なく湧き出し続け、その透明度は驚くほどだった。底に敷き詰められた石も、水を通して鮮明に見えるほどだ。水面に映る松明の光が揺らめき、天井に幻想的な光の模様を作り出していた。

 コルはすっかり水に慣れ、今では小さな溝に沿って走り回り、時折前足で水をはねかける遊びを始めていた。その姿は、まるで子供のように無邪気で、広間に明るい笑いをもたらした。

「コルも喜んでるみたいね」フィリスは微笑んだ。彼女の翡翠色の髪が湯気で少しカールし始め、普段よりも柔らかな印象になっていた。

 メリアは広間の隅を探索し始めた。「ここを見て! 石の棚みたいなものがあるわ」

 ライルとフィリスが近づくと、壁際には確かに石で作られた棚のような構造物があった。時間の経過で一部が崩れていたものの、かつては何かを置くための場所だったと思われる。

「何が置いてあったんだろう?」ライルは不思議そうに尋ねた。

「おそらく水を汲むための容器や、入浴用の道具かもしれないわ」フィリスは答えた。「この施設は、温泉水を人々に分け与えるための場所だったと思うの」

 メリアは石棚の上の埃を払い、手を滑らせた。「長い間使われていなかったのね。でも、構造自体はしっかりしていて驚くわ」

 三人が棚を調べている間に、コルが再び鳴き声を上げた。振り返ると、コルは台座から少し離れた床の一部を掻いていた。

「また何か見つけたみたいだね」ライルはコルの元へ駆け寄った。

 床には小さな浮き彫りが刻まれており、人々が列を成して水を汲んでいる様子が描かれていた。その絵の隣には、水に浸かる人々の姿もあった。

「これは……この施設の使い方を示しているのかもしれないわ」メリアは言った。「温泉を飲用と入浴の両方に使っていたのね」

 フィリスは浮き彫りをじっと見つめていた。「そう。この泉の水には特別な力があると信じられていたのよ。病を癒し、活力を与える神の恵みとして」

 ライルは再び湧き出る温泉を見つめた。最初の驚きが静まり、今では別の種類の興奮がわき上がっていた。「村にとって大きな価値があるね。みんなに知らせれば、きっと喜ぶと思う」

「特に冬は、温かい湯につかれるのは貴重よね」メリアは実用的な視点から述べた。

 フィリスは台座の近くに戻り、湧き出る水に両手を浸した。「この水には地脈のエネルギーが含まれているわ。単なる温泉ではなく、大地の力が宿った特別な水よ」

 彼女が水に手を入れると、一瞬水面が微かに光ったように見えた。その光は淡く、松明の揺らめきとも取れるものだったが、三人には確かに何かを感じさせるものがあった。

「神の時代の遺物として期待していたようなものではないかもしれないけど」ライルは言った。「でも、これはこれで素晴らしい発見だね」

 メリアは頷いた。「実用的な価値も高いわ。村人の健康にも役立つし、もしかしたら近隣から人が訪れる理由にもなるかもしれないわね」

 フィリスは水から手を引き上げ、水滴を見つめながら言った。「神殿や遺跡よりも、実は人々の日常に溶け込むものの方が、時に大きな力を持つものよ」

 その言葉に、ライルは深く頷いた。確かに、壮大な遺跡や謎めいた古代文明の痕跡を期待していた部分はあった。しかし、この温泉は村の人々の生活を実際に豊かにする可能性を秘めている。それは、ある意味で彼の《天恵の地》の力と同じだった——壮大な魔法ではなく、日々の暮らしを少しずつ良くしていく力。

「じゃあ、この発見を村に持ち帰ろう」ライルは笑顔で提案した。「ガルド村長にも報告して、みんなで温泉をどう活用するか考えるといいね」

「ええ、きっと大喜びするわ」メリアは嬉しそうに言った。「特に年配の方々は、温かい湯につかれるのは体の痛みを和らげるのにも効果があるから」

 フィリスも同意した。「この温泉の恵みを村全体で共有できるようにしましょう。神々の意図も、きっとそうだったはずよ」

 コルは既に水遊びに夢中で、尾を振りながら溝の水の中を行ったり来たりしていた。その姿を見て、三人は和やかな笑顔を交わした。

 広間に立ち込める湯気の中、松明の光は温かく揺らめき、四人の影を壁に映し出していた。かつての失望は既に消え去り、代わりに新たな可能性への期待が芽生え始めていた。「ただの温泉」ではなく、村の暮らしを豊かにする貴重な発見。それは、ライルが追い求めていた「のんびりとした豊かな生活」にも繋がるものだった。

 古代の温泉施設は、何百年もの眠りから目覚め、再び人々に恵みをもたらす準備を整えていた。