第4話「お風呂問題」
七月に入り、村はいよいよ夏の暑さが本格化していた。朝から照りつける太陽の下、ライルは畑作業を終え、汗だくになって家に戻ってきた。玄関を開けると、リビングのソファで扇子を使って涼んでいるフィリスの姿が見えた。彼女も暑さに参っている様子で、髪を高く結い上げ、できるだけ薄着になっていた。
「ただいま」ライルは疲れた声で言った。
「おかえり」フィリスは顔を上げ、ライルの汗だくの姿を見て眉をひそめた。「まあ、ずいぶん汗をかいているわね」
「うん、今日は特に暑かったから」ライルは額の汗を拭いながら答えた。「早く体を洗いたいな」
コルも暑そうに床に横たわり、舌を出して荒い息をしていた。彼の銀色の毛も暑さで少し湿っているように見えた。
「コルも暑そうだね」ライルが言うと、フィリスは心配そうにコルを見た。
「そうね……この暑さは私も苦手だわ。神とはいえ、この体は人間と同じように暑さを感じるもの」
ライルは水を一杯飲み、少し落ち着いてから「村の共同浴場に行ってくるよ」と言った。
村には小さな共同浴場があり、村人たちは交代で使用していた。特に暑い夏の日には、多くの村人が体を清めに訪れる。
「私も行くわ」フィリスは立ち上がった。「この暑さでは神の威厳も保てないわ」
コルも二人の言葉を聞いて起き上がった。しかし、彼は「自分は行かない」と言いたげに、首を横に振った。
「コルは水が嫌いだもんね」ライルは笑って言った。「家で留守番していてくれる?」
コルは喜んで頷いた。
ライルとフィリスは着替えとタオルを持って共同浴場へ向かった。村の中央近くにある石造りの建物で、男湯と女湯に分かれている。しかし、建物の前に着くと、二人は驚いた。入口には長い列ができており、多くの村人が順番を待っていたのだ。
「こんなに混んでるの?」フィリスは驚いた顔で言った。
近くにいたメリアが二人に気づき、声をかけてきた。「あら、ライル、フィリス。お風呂に来たの?」
「うん、でも随分混んでるね」ライルは列を見ながら答えた。
「ええ、この暑さで皆一斉に来てるのよ」メリアは説明した。「特に今日は井戸水の温度が上がっているから、少し冷えるまで使えない浴槽もあって……」
フィリスは不満げな表情を浮かべた。「私が神様だって知っていながら、列に並ばせるの?」
メリアは困ったように笑った。「神様だからって順番を抜かしたら、皆に不公平でしょ?」
フィリスは口をとがらせたが、反論できなかった。二人は仕方なく列の最後に並んだ。
炎天下の中、列はなかなか進まなかった。ライルは汗を拭きながら、「やっぱり自分の家にお風呂があれば便利だよね」とつぶやいた。
「ええ、本当にそうね」フィリスは強く同意した。「神の体に相応しい入浴環境がないなんて……」
そんな会話をしている間も、列はゆっくりとしか進まなかった。ようやく建物の入口に近づいたとき、中から出てきたドリアンに出会った。
「おう、ライル、フィリス様」ドリアンは元気よく挨拶した。「お風呂に来たのか?」
「ええ、でもこんなに混んでるなんて思わなかったわ」フィリスは不満そうに答えた。
ドリアンは首を掻きながら「そうだな……最近は暑いから、毎日こんな感じだよ」と言った。
ライルはふと思いついて尋ねた。「ドリアンさん、もし家にお風呂を作るとしたら、難しいですか?」
ドリアンは少し考えてから答えた。「難しくはないが、材料と時間がかかるな。特に湯を沸かす釜や、水をためる桶の作成が手間だ」
「そうですか……」ライルは少し残念そうに言った。
「でも」ドリアンは明るく続けた。「お前の《天恵の地》のスキルがあれば、もっと簡単にできるかもしれないぞ。土や木を操作して自然な形の浴槽を作れないか?」
ライルの目が輝いた。「それはいい考えですね!」
フィリスも興味を示した。「それなら私の力も使えるわ。地の女神として、湯を湧かす熱源くらい用意できるもの」
ドリアンは笑った。「そうか、それなら明日にでも相談に乗るよ。今日はとりあえず、共同浴場で我慢するんだな」
二人が再び列に並ぶと、話題は自家風呂の可能性に移っていた。
「自分の家にお風呂があれば、毎日好きな時に入れるわね」フィリスは夢見るような表情で言った。「しかも他の人を気にせず、ゆっくりと……」
「僕も畑仕事の後にすぐ入れるのはいいな」ライルも想像を膨らませた。
ようやく二人の番になり、それぞれ男湯と女湯に入った。しかし、予想通り浴場は混雑しており、ゆっくり浸かることはできなかった。それでも、体を清めることができただけでも暑さが少し和らいだ気がした。
お風呂から出た後、二人は涼しくなった夕方の空気を感じながら家に戻った。
「やっぱり自分の家にお風呂があればいいよね」ライルが言うと、フィリスは強く頷いた。
「絶対に作るわ。神様が列に並ぶなんてあってはならないわ」
家に戻ると、コルが涼しい床に寝転がって彼らを待っていた。二人が戻ってきたのを見て、尾を振って出迎えた。
「ただいま、コル」ライルが挨拶すると、コルは嬉しそうに鳴いた。しかし、彼はライルとフィリスの匂いを嗅ぐと、少し顔をしかめた。石鹸の匂いが嫌いなようだ。
夕食後、三人はポーチに出て、夕涼みをすることにした。空は徐々に色を変え、赤から紫、そして深い藍色へと移り変わっていった。風もようやく涼しくなり、心地よく肌を撫でていく。
「明日、ドリアンさんに相談してみよう」ライルは星空を見上げながら言った。「自分たちの家に自分たちだけのお風呂があれば、本当に便利だね」
「コルは入らないでしょうけどね」フィリスは笑いながら、コルの頭を撫でた。コルは「そんなことはお断りだ」と言いたげに、小さく唸った。
その夜、ライルは寝る前にノートに簡単な風呂のデザインを描いてみた。地面を掘って自然石で囲った浴槽、木製の蓋、そして湯を沸かす仕組み……。イメージを膨らませるうちに、彼の目はますます輝いていった。
「何を描いているの?」フィリスがライルの肩越しに覗き込んだ。
「お風呂のアイデアだよ」ライルは嬉しそうに説明した。「《天恵の地》で地面を整え、自然石を配置して……」
フィリスも興味深そうに見入り、「ここにはこんな石を置いた方がいいわ」「湯を沸かす仕組みはこうしましょう」と次々に意見を出した。二人はすっかり計画に夢中になり、夜更けまで話し合った。
コルはそんな二人を見て、あくびをしながら丸くなって眠りについた。彼にとって、お風呂は興味のない話題だったが、二人が楽しそうにしているのを見るのは嫌いではないようだった。
窓の外では満月が明るく輝き、村の静かな夜を優しく照らしていた。暑さの中にも、ささやかな幸せと未来への希望が感じられる、そんな夏の夜だった。