第1話「神様と神獣との日々」
神域認定から一ヶ月が過ぎた初夏の朝、ライルは窓から差し込む柔らかな日差しで目を覚ました。隣のベッドでは銀色の毛並みが朝日に輝き、コルが丸くなって眠っている。彼の寝息は穏やかで、時折耳がピクリと動くのが可愛らしかった。
「おはよう」
キッチンからフィリスの声が聞こえた。ライルは少し驚いて身を起こした。彼女がこんなに早く起きているのは珍しい。
「おはよう、フィリス。どうしたの? 珍しく早起きだね」
フィリスは翡翠色の髪を軽く揺らしながら微笑んだ。彼女の手には、少し焦げ目のついたパンが乗った皿があった。
「村人たちに私の料理を振る舞おうと思って。神様としての威厳も大事だけど、みんなと交流を深めるのも大切でしょう?」
ライルは苦笑いを浮かべながら立ち上がった。フィリスの料理の腕前は、以前より上達したとはいえ、まだまだ発展途上だった。
「それはいいね。でも、ちょっと一緒に作らせてもらってもいい?」
「もちろん!」フィリスは明るく答えた。「私だって進歩してるのよ。見て、今朝はトーストを焦がさずに作れたわ」
彼女が得意げに掲げたパンは、確かに前回よりは焦げが少なかったが、それでも片面が真っ黒だった。ライルは優しく微笑むと、コルを起こさないように静かにキッチンへ向かった。
朝食の支度をする間、ライルは窓から村の様子を眺めた。神域認定以来、村は少しずつ変わりつつあった。家々の屋根は以前より鮮やかに輝き、農地はより豊かな緑を湛えている。何より、村人たちの表情が明るくなったように感じられた。
「正式な神域認定書が届いてから、みんな生き生きしてるよね」ライルが言うと、フィリスは自慢げに胸を張った。
「当然よ。私の神域なんだから」
その言葉とは裏腹に、彼女は熱心にライルの料理の仕方を真似しようとしていた。卵を割る手つきはぎこちなかったが、必死に覚えようとする姿勢は愛らしかった。
朝食を終えた後、三人は村へ向かった。コルは元気よく二人の前を走り回り、時々立ち止まっては振り返って催促するように鳴いた。
村の広場に着くと、既に多くの人々が日常の活動を始めていた。トムとマリィが他の子供たちと遊んでいる姿が見え、彼らはコルを見つけるとすぐに駆け寄ってきた。
「コル! 今日も遊ぼうよ!」トムが元気に叫んだ。
コルは嬉しそうに尾を振り、子供たちの周りを走り回り始めた。村の子供たちにとって、コルとの触れ合いは日々の楽しみになっていた。
「あら、おはようライル、フィリス」メリアが薬草バスケットを手に近づいてきた。「今日は何か予定があるの?」
「フィリスが村人たちに料理を振る舞いたいと言っているんだ」ライルは少し困ったように笑った。
「まあ、素敵じゃない」メリアは目を輝かせた。「でも……その前に、ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
彼女は薬草バスケットを見せた。「薬草園の柵が壊れちゃって、修理したいんだけど、一人じゃ大変で」
「もちろん手伝うよ」ライルは快く答えた。
フィリスも「私も行くわ」と言い、しかし少し不満げな表情も見せた。「でも、料理の計画はどうするの?」
「まずは柵を直して、それから料理の準備をしよう」ライルが提案すると、フィリスは渋々同意した。
メリアの薬草園に向かう途中、ガルド村長と出会った。
「おはよう、ライル、フィリス、メリア」村長は温かく挨拶した。「コルは子供たちと遊んでいるようだね」
「はい。みんなに大人気です」ライルは微笑んだ。
「神域認定以来、村全体が活気づいているよ」村長は嬉しそうに言った。「特に作物の育ちが良くなった。ライルのスキルの影響かな?」
「《天恵の地》の効果は、神域認定でさらに強まったみたいなんです」ライルは謙虚に答えた。「フィリスとの契約のおかげで」
フィリスは誇らしげにあごを上げた。「当然よ。私の神域なんだから、すべてがより豊かになるわ」
村長は笑いながら頷き、「今夜の村の集まりにも来てくれるかい?」と尋ねた。
「喜んで」ライルは答え、フィリスもうなずいた。
薬草園に着くと、確かに柵の一部が壊れていた。どうやら昨夜の風で倒れたようだ。
「これは《天恵の地》で直せるかな?」メリアが尋ねた。
ライルは柵に触れ、地面に手を置いた。「やってみるよ」
彼が集中すると、手から緑色の光が漏れ出し、地面へと広がっていった。
ユニークスキル《天恵の地》が発動しました。
【施設】:耐久度回復速度+10%、修復効率+20%
地面から木の根のような緑の光が伸び、壊れた柵へと絡みついていく。光が消えると、柵は見事に修復されていた。新しい木材が生えてきたかのように、壊れた部分が埋められていた。
「すごい!」メリアは感嘆の声を上げた。「前よりも頑丈になってる!」
フィリスは満足げに頷いた。「私の力とライルのスキルが合わさるとこうなるの。神域の恵みよ」
ライルは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。「これくらい、いつでも言ってくれればできるよ」
メリアは感謝の言葉を述べ、続いて薬草園の手入れを手伝ってもらった。ライルの《天恵の地》の効果で、薬草はより生き生きと育ち始めた。
作業を終えると、メリアは新鮮な薬草をいくつか摘み取り、フィリスに渡した。「これを使って料理を作ると、とても良い風味になるわよ」
「本当?」フィリスは興味深そうに薬草の香りを嗅いだ。「これを使って特別な料理を作るわ!」
三人が村の広場に戻ると、コルはまだ子供たちと遊んでいた。彼の銀色の毛は日光を受けて輝き、子供たちは順番にその柔らかな毛並みに触れていた。中にはコルの背中に乗って遊ぶ子もいて、彼はそれを嫌がる様子もなく、むしろ楽しんでいるようだった。
「コルも村の生活に馴染んでるね」ライルが笑顔で言った。
「ええ」フィリスも微笑んだ。「彼は神獣として、人々に癒しを与えることを喜びとしているの」
広場では村人たちが日常の仕事に忙しく、ライルたちに気づくと温かい挨拶を交わした。以前なら、神様である彼女に対して畏敬の念から距離を置いていたかもしれないが、今では親しみを込めて接するようになっていた。
「フィリス様、今日はどんな料理を作るんですか?」若い女性が声をかけた。
「それはね……」フィリスは少し考え込むように言った。「特別な薬草スープよ。メリアに教えてもらったの」
メリアは驚いた顔をしたが、すぐに優しく笑った。「私も手伝うわ。村の集会所の台所を使いましょう」
集会所の台所は広く、村の行事の際に使われるスペースだった。ライル、フィリス、メリアの三人は料理の準備を始めた。フィリスは張り切っているものの、包丁の扱いはまだぎこちなく、野菜を切るたびにライルが冷や冷やした。
「フィリス、ゆっくりでいいからね」ライルは優しくアドバイスした。
「分かってるわよ」フィリスは集中して答えたが、その直後に指を滑らせて小さな悲鳴を上げた。幸い、怪我はなかったが、彼女の表情はさらに真剣になった。
メリアは水を沸かし、薬草と野菜を入れていく。「このスープは、疲労回復に効果があるのよ。特に夏の暑さで疲れた体に良いわ」
香りが立ち始めると、集会所に村人たちが集まってきた。「いい匂いね」「何を作ってるの?」と好奇心いっぱいの声が聞こえる。
フィリスは少し緊張しながらも、誇らしげに「私特製の薬草スープよ!」と宣言した。
やがてスープが完成し、村人たちに振る舞われることになった。フィリスは神々しい立ち振る舞いで、自ら村人たちに給仕を始めた。最初の一杯をガルド村長に渡す時、彼女の手がわずかに震えているのをライルは見逃さなかった。
村長はスープを一口飲み、目を見開いた。「これは……素晴らしい味だ!」
彼の言葉に、周りの村人たちも期待に胸を膨らませてスープを飲み始めた。「本当に美味しい!」「体が温まるわ」と歓声が上がった。
フィリスの顔が喜びで輝いた。「本当? 気に入ってくれた?」
しかし、喜びもつかの間、彼女が作ったスープの中に、誤ってメリアが用意した別の薬草が混入していたことが判明した。数人の村人たちの顔が赤くなり始め、体が熱くなる症状が出始めた。
「あれ? どうしたの?」フィリスは困惑した。
メリアは慌てて説明した。「これは発熱薬草! 大量に摂取すると体が熱くなる作用があるの!」
村人たちはパニックに陥りそうになったが、ライルが冷静に対応した。
「大丈夫、すぐに解決するよ」
彼は《天恵の地》のスキルを使い、庭から清涼効果のある薬草を急速に成長させた。
《天恵の地》がレベルアップ!
新たな効果を獲得:【急速栽培】→特定植物の急速成長+30%
メリアはその薬草を使って、すぐに冷却効果のある飲み物を作った。「これを飲めば熱が引くわ」
村人たちは安心して飲み物を受け取り、すぐに症状が和らいだ。危機は収まり、むしろ皆で笑い話になった。
「フィリス様の料理は、本当に"熱い"ですね!」誰かが冗談を言うと、場が和やかな笑いに包まれた。
フィリスは最初こそ落ち込んだ様子だったが、村人たちの温かい反応に安心した表情を見せた。「次は絶対に成功させるわ」
夕方になり、集会所での小さな事件も解決して、村人たちはそれぞれの家路についた。ライル、フィリス、コルの三人も家に戻る途中、夕焼けに染まる村の風景を眺めていた。
「今日は大変だったね」ライルが言うと、フィリスは少し恥ずかしそうに頷いた。
「でも、みんな笑ってくれたわ。怒らなかった……」
「それが村の良いところだよ」ライルは優しく言った。「みんな温かいし、失敗も受け入れてくれる」
コルが二人の間を歩きながら、嬉しそうに尾を振っていた。彼の毛には子供たちが付けた小さな花が何輪か残っていて、夕日に照らされて美しく輝いていた。
「今度は本当に美味しい料理を作れるよう、もっと練習するわ」フィリスは決意を新たにした。「神様としてだけじゃなく、一人の……村人として」
彼女のその言葉に、ライルは心から微笑んだ。かつては神としての威厳だけを気にしていたフィリスが、今では村の一員として受け入れられたいと思っている。それは大きな変化だった。
夕焼けに染まる小さな家に帰る三人の背中は、長く伸びた影となって後ろに続いていた。神様、神獣、そして追放された青年の新しい日々は、こうして穏やかに続いていくのだった。