第11話「神様と神獣との始まりの一日」 朝の畑で女神フィリスと出会ってから、ライルの頭の中は混乱していた。契約を交わし、自分のスキル《天恵の地》の存在を知った喜びと驚きが入り混じる中、現実的な問題が浮上してきた。 「えっと……フィリス、これからどうしよう」 ライルは困惑した表情で尋ねた。フィリスは首を傾げ、深緑の瞳でライルを見つめる。 「どうするとは?」 「いや、その……フィリスをどこに……」 「え? もちろんあんたの家に住むんじゃないの?」フィリスは首を傾げ、キョトンとした表情で聞き返した。 フィリスの言葉に、ライルは思わず口をぽかんと開けた。確かに、長い間封印されていた神様を畑に立たせておくわけにはいかない。かといって、村人たちに「畑から神様が出てきました」と言っても信じてもらえるだろうか。 「わかったよ。とりあえず家に戻ろう」 コルが嬉しそうに鳴き、二人の間を駆け回る。畑を出るとき、ライルは周囲を慎重に見回した。幸い、朝早かったせいか人影はない。 「フィリス、少し……その……目立つから」 純白の神官のような衣装に、翡翠色の長い髪。どう見ても普通の村人には見えない。 「隠れる必要があるの?」 「いえ、その……村の人たちに神様が現れたと知られると、大騒ぎになると思うんだ」 フィリスは少し考え込み、頬を膨らませてから頷いた。 「ふーん、秘密ってやつね。ま、任せて!」 彼女がくるりと回転すると、衣装が微かに光を放ち、一般的な村の女性が着るような質素な服に変わった。髪の色も少し暗めの緑色になり、長さも肩までに短くなった。 「どう? これならバレないわよね?」フィリスは少し照れくさそうに、両手を広げてクルリと一回転してみせた。 「え……! すごいね。魔法なの?」 「ううん、私の力の一部よ」フィリスは少し得意げに胸を張った。「正直、今はまだ完全な力を取り戻してないから、これくらいしかできないんだけどね」 その姿なら、村から来た親戚か何かと言っても違和感はない。ライルはほっと息をついた。 「じゃあ、行こうか」 「新しいお家、楽しみだわ!」フィリスが明るく言った。 *** 家に着くと、ライルは急いで部屋の中を片付け始めた。もともと小さく質素な家だが、一人暮らしの男の部屋だけに散らかっている。 「ごめんね、こんな狭いところで……」 フィリスは静かに部屋を見回し、「気にしない気にしない」と微笑んだ。その仕草にはどこか品があり、小さな家の中でも不思議な存在感を放っていた。 「それにしても、人間の住まいってこんなものなのね」 「いや、もっと立派な家もあるよ。ここは村の端にある、半ば廃屋だったところだから……」 「なるほど。でも、悪くはないわ。地脈の流れを感じられるもの」 フィリスが床を軽く踏むと、足元から微かな光が広がった。コルも嬉しそうに床の上を走り回り、時々くるくると回転して毛皮を光らせる。 「コル、落ち着きなさい」 フィリスの声にコルは一瞬止まったが、すぐにまた走り始めた。その様子にライルは思わず笑みがこぼれた。 「ライル、笑っているわね」 「あ、ごめん。コルが嬉しそうで……」 「謝ることはないわ。コルも長い間、自由に走り回れなかったからね」 フィリスの表情が少し和らいだ。 「それで、ライル。人間は何を食べるの?」 「え? フィリスは食べ物が必要なの?」 「もちろんよ。神といえども、この世界で形を持つ以上は栄養が必要なの。特に今は力が弱っているからね」 ライルは慌てて食料庫を確認したが、そこにあるのは質素な保存食と少しの野菜だけだった。 「ごめん、あまり用意がなくて……」 「何度も謝るんじゃないの。そんなに好き嫌いとかしないわよ」 フィリスが言うので、ライルは簡単な朝食の準備を始めた。まず鍋に水を入れ、昨日収穫した根菜類を切り、塩と保存してあった干し肉を加える。 「何を作っているの?」 フィリスが興味深そうに覗き込む。その顔が近すぎて、ライルは少し慌てた。 「え、えっと……簡単なシチューだよ。王都にいた頃は料理係もやっていたから、基本的なものなら作れるんだ」 鍋の中で具材が煮えはじめ、いい香りが部屋に広がった。フィリスが目を細め、深く息を吸い込む。 「いい匂いね」 コルも香りに誘われて寄ってきて、前足で立ち上がり鍋を覗き込もうとした。 「コル、熱いから危ないよ」 ライルがコルを優しく抱き上げると、ふわふわの毛皮が手に心地よく触れた。想像以上にやわらかく、温かい。 「コルの毛は特別なのよ」フィリスが言った。「触れる者の心を癒す力があるの。神獣の証だわね」 確かに、コルを抱いているだけで心が落ち着く。疲れが抜けていくような、不思議な感覚だった。ライルはコルの頭を優しく撫で、耳の後ろを軽く掻いてやった。コルは気持ちよさそうに目を細め、小さな声で鳴いた。 「喜んでいるようね」フィリスが微笑んだ。「コルはあんたを気に入っているわ」 シチューが出来上がり、ライルは三つの器に分けた。コルの分は少し冷まして床に置いた。 「いただきます」 ライルが言うと、フィリスも真似て「いただきます」と言った。スプーンを使う様子が少しぎこちない。 「フィリス、スプーンの使い方は……」 「心配しないで。かつて人間と交わっていた頃の記憶はあるわ。ただ、久しぶりだからね」 フィリスが一口食べると、その表情が一変した。 「こ、これは……!」 「まずい?」 「いや、素晴らしいわ! 人間の料理とはこれほど味わい深いものなのね」 フィリスの目が輝き、驚くほど早い速度でシチューを平らげた。食べ終わると、器を持ち上げて「もう一杯くれない?」と言う。 ...

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第12話「神様と神獣の秘密」 朝日が差し込む窓辺で、ライルは穏やかな表情でフィリスとコルを見つめていた。神様と神獣との暮らしが始まって一週間。村での生活にも少しずつ慣れてきたところだが、彼らの素性については、まだ知らないことが多かった。 「フィリス、少し聞いてもいいかな」 朝食の後片付けを終えたフィリスは、麦わら色の髪をなびかせて振り返った。彼女は人間の女性の姿をしていたが、その瞳の奥には人知を超えた何かが宿っていた。 「ん、いいよ。あんたは私の契約者なんだから、ちょっとくらい教えてあげるわ」フィリスは優しく微笑んだ。 ライルは言葉を選びながら切り出した。 「あなたが"地の女神"だというのはわかったんだけど、他にも神様はいるの?」 フィリスは窓際の椅子に腰掛け、遠くを見るような目をした。コルも、会話の内容を察したのか、二人の間に座り、金色の瞳で交互に見つめている。 「むかしはね、七柱の神様がこの世界にいたんだよ」 フィリスの声は少し物憂げで、懐かしさを含んでいた。 「地・火・水・風・光・闇、そして時の七柱。私は地を司る神、フィリスなの」 「七柱……」ライルは呟いた。「でも、今はどこにいるの? 他の神様たちは」 フィリスの表情に影が差し、長いまつげが下を向いた。 「私以外の神様が今どこにいるのか、わからないの」彼女は小さな声で言った。「約百年前、神々は"離反"って呼ばれる出来事で姿を消しちゃったの。私も長い間、封印されてたんだよ……」 「離反?」 フィリスはゆっくりと頷き、両手を膝の上で組んだ。 「詳しい記憶があいまいなんだけど……」彼女は切ない表情で言った。「神々は何かを封印するために力を使って、そして姿を消したって記憶してるの。私はその過程で、この地に封印されちゃったみたい」 コルが小さく鳴き、フィリスの手をそっと鼻先で突いた。フィリスは微笑み、コルの頭を優しく撫でた。 「でも、なぜコルだけが先に目覚めて、僕を導いたの?」 その問いに、フィリスは柔らかな表情でコルを見つめた。 「コルは私の神獣なの。神獣は神の意志の一部が形になった存在なんだから。私が封印されていても、コルは封印の弱まりを感じて目覚めて、私を解放してくれる人を探してたんだね」彼女は優しく笑った。 コルは誇らしげに胸を張った。その仕草があまりにも人間の子どものようで、ライルは思わず笑みを浮かべた。 「コルはまだ子どもなの?」 「そうだね。神獣は成長するの。今はまだ小さいけど、力が全部戻れば、もっと大きく、そして……」 フィリスの言葉が途切れた瞬間、コルが突然立ち上がり、窓の外を見つめた。ライルも目を向けると、村の子どもたちが家の前を通り過ぎていくのが見えた。 「トムとマリィだ。でも、コルを見られたら大変だ……」 ライルが慌てる前に、コルはすでに動いていた。銀色の毛並みを持つ子狼は、見事な俊敏さで部屋の影に身を隠した。その動きは自然で、まるで長年の習慣のようだった。 「すごい……コルは人に見られないよう気をつけているんだね」 フィリスはにっこりと笑った。 「コルって、けっこう賢いんだから。神獣は危険を察知する能力に長けてるの。それに……」 彼女は少し恥ずかしそうに指先を組み合わせた。 「私たちの存在を隠さなきゃいけないのは、私のせいでもあるのよ。神としてまだ力が弱くて、正体を隠すための強力な魔術が使えないの」 ライルは胸の内で安堵した。彼女が「力が弱い」と言っているのは、彼には幸いなことだった。もし彼女が全盛期の神の力を持っていたら、この平穏な暮らしはなかったかもしれない。 窓の外では、村が朝の活気に包まれ始めていた。鍛冶屋からは金属を打つ音が、広場からは商人たちの声が聞こえてくる。そんな日常の音に混ざって、コルが小さく鳴いた。 「ね、フィリス。あなたはいずれ神として目覚めて、どこかへ行ってしまうの?」 ライルの問いかけに、部屋が一瞬静まり返った。コルもフィリスも、じっとライルを見つめている。 「……それは、私にもわからないのよ」 フィリスの声は静かだった。 「他の神々が何のために姿を消したのか、私が何のために封印されていたのか。その理由がわからなければ、私の使命もわからないの」 彼女はそう言って、窓から差し込む陽の光に手をかざした。 「でも、今はここにいることしかできないの。ライルのスキル《天恵の地》と私の神性は強く繋がってるのよ。あなたがいるこの村で、私の力は最も安定するの」 ライルはほっとした表情を浮かべた。彼の内なる声が囁いていた。「彼女たちが去ってしまうのではないか」という不安が、少し和らいだ気がした。 「なら、しばらくは一緒に暮らせるんだね」 「はい。それに……」フィリスは少し照れたように頬を染めた。「ここの暮らし、けっこう好きよ」 コルも同意するように鳴き、ライルの膝に前足をかけてきた。銀色の毛並みに触れると、驚くほど柔らかくて温かい。「もふもふ」という言葉が、これほどぴったりな存在はいないだろう。 ライルがコルの背中を撫でていると、突然、彼の胃が大きな音を立てた。 「あ、そうだ。お昼の準備をしないと」 彼は立ち上がり、台所に向かった。畑で採れた野菜と、市場で買ってきた肉を使って、シチューを作る予定だった。 「ライル、何を作るの?」 「野菜のシチューだよ。フィリスが好きだった味付けで」 「わあ!」フィリスの目が輝いた。「お手伝いします!」 前回、彼女が「お手伝い」した時の台所の惨状を思い出し、ライルは冷や汗を流した。 「あ、いや、大丈夫だよ。フィリスはコルと一緒に……」 言い終わる前に、フィリスはすでにエプロンを身につけ、張り切っていた。 「前回よりうまくできるから! コル、見ていてね。私の成長を!」 コルは「やれやれ」というような表情で耳を垂らし、安全な距離から二人を見守ることにした。 「じゃあ、野菜を切るところからやってみようか」 ライルは諦めたように包丁とまな板を用意した。フィリスに教えながら調理するのも、この共同生活の一部なのだろう。 フィリスは舌を少し出して集中しながら、ニンジンを切り始めた。その姿は神というより、料理を覚えたての少女のようだった。 「そうそう、もう少し均等に……あ、指を切らないように気をつけて」 「ライルは料理上手なのね。どうしてそんなに詳しいの?」 「えっと、王都にいた頃は、魔導士候補生として研究所に住み込んでたんだ。そこでは自炊が基本だったから」 フィリスは手を止め、驚いたように見上げた。 「ライルは魔導士だったの?」 「いや、『候補生』だよ。しかも……」彼は少し苦笑した。「スキルが発現しないから、『無能』だって決めつけられてね」 「ひどい!」フィリスの声が高くなった。「ライルには《天恵の地》という素晴らしいスキルがあるのに!」 「うん、でも当時は目覚めてなかったから。だからこの村に追放されたんだ」 追放という言葉を口にした瞬間、ライルは不思議な感覚に包まれた。かつての苦しみはあったが、今ではむしろ感謝していた。もしあの追放がなければ、フィリスとコルに出会うことはなかったのだから。 ...

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第13話「薬師メリアとの偶然の出会い」 朝の柔らかな光が窓から差し込み、ライルの小さな家を優しく照らしていた。テーブルでは、フィリスがじっと何かを見つめている。 「ライル、これは何?」 フィリスが指さしたのは、窓辺に置かれた小さな植物だった。細い茎に、淡い紫色の花が咲いている。 「ああ、それはセージだよ。メリアさんが昨日くれた薬草」 ライルが説明すると、フィリスは興味深そうに身を乗り出した。 「薬草? 人間の治療に使うものなのね」 「そうだよ。風邪や喉の痛みに効くんだ。メリアさんは村の薬師で、いろんな薬草に詳しいんだ」 フィリスはセージの葉に触れ、その感触を確かめた。 「ふむ、これは……地の息吹がちょっとだけ残っているわ」フィリスの表情が明るくなった。「私も薬草には興味があるの。神としては当然よね♪」 コルがテーブルの下から出てきて、フィリスの足元で小さく鳴いた。朝の日課である散歩に行きたいという合図だった。 「そうね、今日も畑の様子を見に行きましょう」フィリスは立ち上がり、堂々とした仕草で言った。 「そうだね、いい天気だし」ライルは窓の外を見た。 三人が外に出ると、畑では《天恵の地》の効果で、野菜たちが生き生きと育っていた。ジャガイモの葉は濃い緑色に輝き、ニンジンの葉もふさふさと茂っている。 「ライル、見なさい」フィリスが畑の端を指さした。「新しい芽が出ているわ」 確かに、昨日まで何もなかった場所に、小さな緑の芽が顔を出していた。 「おかしいな、ここには何も植えていないはずなのに……」 「私の力に違いないわ」フィリスは少し照れたように、でも誇らしげに微笑んだ。「地脈を通じて、眠ってた種が起きちゃったのよ。すごいでしょ?」 コルが嬉しそうにその芽の周りを駆け回り、尻尾を振る。その姿に、ライルとフィリスも自然と笑顔になった。 「ねえ、ライル」フィリスが突然真剣な表情になった。「そのメリアという人が集めている薬草、見に連れていきなさいな」 「薬草? メリアさんなら、今日も森で採集してるかもしれないけど……」 「行くわよ」フィリスの目が輝いた。「神として、この土地の植物をちゃんと知っておくのは私の務めでもあるし」 ライルは少し考え込んだ。村人の目を気にして、フィリスとコルは基本的に家の周りにとどまっていた。しかし、森なら人目も少ない。 「そうだな、行ってみようか。でも、村人に会ったら……」 「心配しなくていいの」フィリスは胸を張った。「私は親戚のフィリス、で通せばいいだけよ。変装だってばっちりだもん」 彼女は普段から村人に見られる時は、髪の色を抑えた普通の服装に変えていた。コルについては……ライルは頭を悩ませた。 「コルをどうするかな……」 コルは理解したように、素早く低い茂みに隠れ、銀色の毛並みを葉の間に紛れさせた。そして、「これでどうだ」とでも言うように、ライルを見上げた。 「なるほど、森の中なら隠れるのも上手そうだね」 「当然よ。コルは賢いのだから」フィリスは誇らしげに言った。 準備を整え、三人は森へと向かった。村を出る時は慎重に人目を避け、裏道を通って森の入り口へ。森に入ると、木漏れ日が作り出す光と影の模様が地面を彩り、鳥のさえずりが心地よく響いていた。 「なんて美しい森かしら」フィリスは深呼吸した。「このあたりは地脈の流れが素晴らしいわ。さすが私の領域ね」 コルは森の中ではすっかりくつろいだ様子で、時折小動物を追いかけたり、珍しい匂いを嗅いだりしながら、二人の周りを走り回っていた。 「コル、あまり遠くに行かないでね」 ライルが声をかけると、コルは了解したように一度鳴き、視界から離れないように気をつけていた。 「心配しすぎよ、ライル」フィリスは少し得意げに言った。「コルは私の使いなのだから、迷子になんかならないわ」 森の奥へと進むにつれ、様々な植物が目に入ってきた。フィリスは立ち止まっては、それぞれの植物に触れ、時に目を閉じて感じ取るように佇んでいた。 「この森の植物たちは、昔より少し弱っているわね」彼女はつぶやいた。「地脈の力が弱まっているせいね。神としては看過できないわ」 「地脈が弱まっている?」 「そうよ。神々が姿を消してから、世界の地脈は徐々に弱くなっているの」フィリスの表情が少し曇った。「だから、私たちみたいな存在が必要なんだと思うし……私がいなくなったら、この森だってもっと弱っちゃうもん」 フィリスの言葉に、ライルは改めて自分のスキル《天恵の地》の重要性を感じた。 しばらく歩いていると、前方から草を分ける音が聞こえてきた。ライルは立ち止まり、コルに警戒するよう目配せした。コルはすぐに茂みに身を隠した。 「何の音?」フィリスも立ち止まり、耳を澄ました。 草むらから現れたのは、薬草籠を持ったメリアだった。 「あら、ライルさん!」 メリアは驚いた表情でライルに気づき、そしてすぐにフィリスにも目を向けた。 「こんにちは。あなたは……?」 「ああ、メリアさん、こちらは僕の親戚のフィリスです」ライルは少し緊張した声で言った。「薬草に興味があって、見に来たんです」 「まあ、そうでしたか」メリアは笑顔でフィリスに手を差し出した。「はじめまして、村の薬師のメリアです」 「お会いできて光栄です」フィリスは丁寧にお辞儀をした。彼女は村人の前では慎重に振る舞おうとしていた。「ライルからあなたの薬草の知識はすばらしいと聞いているわ」 メリアはフィリスに親しげに話しかけ、二人はすぐに薬草の話題で盛り上がり始めた。ライルはほっとして、周囲を見回した。コルはどこに隠れたのだろう。 「この青い花は解熱作用があって、それからこの根は胃の調子を整えるのに……」 メリアが熱心に説明する中、突然、茂みが動いた。ライルの心臓が飛び上がる。 「あら、何かしら?」 メリアが茂みに気づき、近づいていく。ライルは焦ったが、止める理由も思いつかず、ただ見守るしかなかった。フィリスは少し緊張した表情で茂みを見つめていた。 茂みが再び動き、そこからコルの銀色の頭が覗いた。 「あっ!」 メリアが小さく悲鳴を上げた。コルは驚いて完全に姿を現し、その銀色の毛並みが陽光を受けて輝いた。 「これは……銀の守り手!?」 メリアは目を見開いて立ちすくんだ。コルも動かず、メリアをじっと見つめている。 「メリアさん、落ち着いて」ライルは急いで二人の間に立った。「これはコルです。怖くありません」 「こ、これが村で噂の……」メリアの目は輝きに満ちていた。「こんなに近くで見るのは初めて……」 フィリスはライルを見つめ、静かに頷いた。信頼できる人に真実を伝える時が来たのかもしれない。 「コル、こっちにおいで」フィリスは優しく命じた。コルは素直にフィリスの元へ戻り、彼女の隣に立った。 「メリアさん、実は話があるんです」ライルは決心した表情で言った。「でも、ここだけの秘密にしてもらえますか?」 メリアは興味津々の表情で頷いた。コルはゆっくりとメリアに近づき、彼女の手の匂いを嗅いだ。 「もふもふ……」思わずメリアがつぶやくと、コルは少し体を傾けた。「触っても大丈夫?」 「ええ、コルは友好的ですから」 ...

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第14話「料理と交流の始まり」 メリアとの森での出会いから数日が経ち、ライルの家では朝からにぎやかな声が響いていた。 「この葉はミントというのか。香りが素晴らしいな」 フィリスがテーブルに広げられた様々な薬草を一つずつ手に取り、匂いを確かめている。メリアが持ってきた薬草のコレクションだった。 「ええ、お茶にしても美味しいし、料理の香り付けにも使えるのよ」 メリアは微笑みながら説明した。森での出来事以来、彼女は頻繁にライルの家を訪れるようになり、フィリスとコルの秘密を守りながら、彼らの村での生活をサポートしていた。 コルはテーブルの下で丸くなり、時折顔を上げては会話を聞いているようだった。その様子に、メリアは思わず微笑む。 「コルはいつ見ても可愛いわね」 ライルは窓際で、朝の畑を見つめていた。《天恵の地》の効果で、野菜たちは驚くほど速く育っている。 「ライルさん、そろそろ収穫できる野菜もあるんじゃないかしら?」 メリアの言葉に、ライルは頷いた。 「うん、特にレタスとラディッシュはもう食べられそうだ。それに、野生化していたハーブも育ってきたよ」 フィリスが興味深そうに話に加わった。 「ライルの畑の野菜は、私の力と《天恵の地》の相乗効果だからね。絶対に美味しいに決まってるわ」 「それなら……」メリアが目を輝かせた。「村の人たちに振る舞ってみるのはどうかしら?」 「村の人たちに?」 「ええ。ライルさんの栽培した野菜で料理を作って、みんなに食べてもらうの。それが村に溶け込むいい機会になるわ」 ライルは少し考え込んだ。確かに、まだ村での交流は限られていた。ガルド村長や数人の村人とは会話を交わすようになったが、多くの人とはまだよそよそしい関係だった。 「いいアイデアだね。でも、どんな料理がいいかな?」 「シンプルで、みんなが喜びそうなもの……」メリアが考える間、フィリスが突然立ち上がった。 「ねえ、鍋ってどうかしら?」フィリスは目を輝かせて提案した。 「鍋?」 「そうよ! ライルが作ってくれる野菜のシチュー、私、すごく大好きなんだから!」フィリスは両手を胸の前で組み、幸せそうな表情で言った。「あの温かさと、野菜の甘みが溶け出した味は、きっと皆も喜ぶはずだわ」 メリアが手を叩いた。 「素晴らしいアイデアよ! この村では『鍋会』という習慣があるの。皆で持ち寄りで鍋を囲む集まりで、特に寒い季節に人気なんだけど、新鮮な野菜があれば季節外れでも喜ばれるわ」 ライルも笑顔になった。 「それなら、早速準備を始めよう。まずは収穫からだね」 四人は畑に出た。朝露がまだ残る野菜たちが、太陽の光を受けて輝いている。ライルがレタスの状態を確認していると、メリアが驚いた声を上げた。 「これ、普通のレタスより大きいわ! それに、葉の色も鮮やかね」 確かに、ライルの畑のレタスは普通の1.5倍ほどの大きさで、葉は濃い緑色をしていた。 「《天恵の地》のおかげだ」ライルは少し照れながら言った。「でも、味はどうかな……」 一枚の葉を千切って口に入れると、驚くほど甘みがあり、みずみずしさが口いっぱいに広がった。 「おいしい!」 メリアも試食して目を見開いた。 「これは特別よ! こんなレタス、市場でも高値がつくわ」 フィリスは地面に手を当て、目を閉じていた。 「畑全体に地脈のエネルギーが行き渡っているわ。ライルのスキルがさらに成長しているようね。さすが私の契約者だわ」 実際、ライルも最近、スキルの効果が強まっていることを感じていた。視界に浮かぶログにも変化があった。 《天恵の地》熟練度が上昇しました。 地脈との同調率:25%(+10%) 【対象範囲】:半径10m(+5m) 新効果:作物栄養価+15% 収穫を続けていると、コルが突然耳をピンと立てた。村の方から子どもたちの声が聞こえてきた。 「トムとマリィかな?」 確かに、道を歩いてくる子どもたちの姿が見えた。コルはすぐに身を隠そうとしたが、メリアが静かに声をかけた。 「大丈夫よ、コル。あの子たちは秘密を守れるわ。それに、『銀の守り手』としてなら、村では既に噂になっているし」 ライルとフィリスは視線を交わし、頷いた。子どもたちが近づいてくると、ライルは手を振った。 「おはよう、トム、マリィ」 「ライルさん、おはよう!」トムが元気よく答えた。「メリアさんもいる!」 マリィは少し恥ずかしそうに笑顔を見せた。そして、彼女の目がコルに止まった瞬間、大きく見開かれた。 「あっ! 銀色の……」 「シーッ」メリアが優しく指を唇に当てた。「これは秘密よ」 子どもたちは興奮した様子で頷いた。ライルは二人に近づき、小さな声で説明した。 「これはコル、僕の大切な友達だよ。でも、村のみんなには言わないでね」 「約束する!」トムが胸を張った。「僕たち、秘密を守れるよ」 マリィはコルに近づきたそうに足踏みしていた。フィリスが優しく頷くと、コルはゆっくりとマリィの方へ歩み寄った。 「さわっても……いい?」マリィの声は小さく震えていた。 コルは答える代わりに、自ら彼女の手に頭を擦り寄せた。マリィの顔に喜びの表情が広がる。 「もふもふ……」彼女はうっとりとした声でつぶやいた。 トムも興味津々でコルに手を伸ばし、すぐに二人の子どもたちとコルの間には不思議な親密さが生まれた。コルは嬉しそうに二人の周りを走り回り、時には小さなジャンプをして見せた。 「コルも嬉しそうね」メリアが微笑んだ。「子どもたちと遊ぶのは初めてかしら」 「ああ」フィリスは懐かしそうに見つめていた。「神獣は子どもの純粋な心に惹かれるものよ。古来より神話にも記されているわ」 ライルはその様子を見ながら、鍋会の計画を更に具体的に考え始めた。 「トム、マリィ、聞いてほしいことがあるんだ」ライルが子どもたちに声をかけた。「村の人たちを招いて、鍋会をしようと思うんだけど、どう思う?」 ...

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第15話「初めての鍋会」 鍋会の日、ライルの家の前は朝から準備で忙しかった。村人たちがやってくる前に、庭をきれいに整え、長テーブルを設置し、大きな鍋を用意しなければならない。 「フィリス、その机はもう少し左に」 ライルの指示に従って、フィリスは力強く机を動かした。神としての彼女の力は、日常の些細な作業でも役立っていた。 「これでいい感じかしら?」フィリスは少し頬を膨らませながら、首を傾げて尋ねた。 「うん、完璧だよ」 庭の片隅では、メリアがハーブを小さな花瓶に活けていた。テーブルの装飾用だ。コルは興奮した様子で庭を駆け回り、時々近づいてきては準備の様子を確認していた。 「コル、お客さんが来る前には森に隠れておくんだよ。トムとマリィが合図したら出ておいでね」 コルは理解したように、一度だけ鳴いて返事をした。 ライルは畑から最後の野菜を収穫し、籠いっぱいに抱えて戻ってきた。レタス、ニンジン、タマネギ、カブ、そして様々なハーブ。どれも《天恵の地》の効果で、色鮮やかで大きく育っていた。 「素晴らしい収穫ね」メリアが感嘆の声を上げた。「これだけあれば、村人全員が驚くわ」 フィリスは野菜を見て、満足げに微笑んだ。 「ライルの力が詰まってる野菜だもの。きっと元気になるに決まってるわ」 準備が進む中、ライルは少し緊張し始めていた。村人たちとこんなに親しく交流するのは初めてだ。追放されてきた身として、本当に受け入れてもらえるのだろうか。 フィリスがライルの表情に気づき、そっと近づいた。 「心配いらないわよ」彼女は優しく微笑みながら尋ねた。 「少しね」ライルは正直に答えた。「王都では『無能』と呼ばれていたから……」 「も〜……気にすることないでしょ」フィリスは真剣な表情になり、小さな拳でライルの胸を軽く叩いた。「今のライルは《天恵の地》の持ち主で、この村にとって大切な存在なんだから。それに……私にとっても、大事な契約者なんだから……」 その言葉に、ライルは少し勇気づけられた。 昼過ぎ、メリアは自分の家に戻り、着替えと追加の食材を取りに行った。ライルとフィリスは最後の準備として、大きな鍋に水を張り、火を起こす準備をした。 「フィリス、今日の変装はどうする?」 「心配するなかれ」フィリスは微笑んだ。「完璧な姿で村人たちに会いましょう」 彼女は軽く手を翳すと、純白の神官衣装が、村の女性がよく着る質素な服に変わった。翡翠色の長い髪も、肩までの栗色に変化した。 「どうかしら? これでバッチリでしょ?」 ライルは頷いたが、少し気になることがあった。 「フィリス、前回村長に会った時と髪の色が違うよ」 「え?」フィリスは驚いて、自分の髪を見た。「以前は何色だったの?」 「麦わら色だったよ」 「くっ……」フィリスは苦笑した。「変装って、意外と細かいところが難しいのよ……」 慌てて髪の色を修正するフィリスの姿に、ライルは思わず笑ってしまった。神様も完璧ではないのだ。 「大丈夫、『髪を染めた』って言えばいいさ」 その後、フィリスは変装の練習をして、「親戚のフィリス」としての立ち振る舞いを確認した。人間の女性として自然に見える動きや表情を意識している。 「私は遠い街から来た、ライルの従姉妹。故郷のことや、村の印象などを聞かれたら、このように答えるわ……」 フィリスが一生懸命に練習する姿を見て、ライルは微笑まずにいられなかった。 やがてメリアが戻ってきた。彼女は村から最新の情報をもたらした。 「村のみんな、とても楽しみにしているわ。特にガルド村長は『新しい村人を歓迎する良い機会だ』と言っていたわ」 その言葉に、ライルの心は少し軽くなった。 午後4時頃、最初の村人たちが姿を見せ始めた。ガルド村長が先頭に立ち、数人の年配者と共にゆっくりと近づいてくる。 「よく来てくれました、村長さん」ライルは深々と頭を下げた。 「いやいや、こちらこそ招いてくれてありがとう」ガルドは温かく微笑んだ。「村に来てからずっと畑を耕している姿を見ていたよ。その成果を見せてくれるんだろう?」 「はい、ささやかですが……」 続いて、村の他の人々も集まってきた。鍛冶屋のドリアン、パン屋のマーサ、羊飼いのクリフ、そして子どもたちを含む多くの家族。誰もが何かしらの食材や皿を持参していた。 「みなさん、今日は来てくれてありがとうございます」ライルは緊張しながらも、はっきりとした声で言った。「僕はライル・アッシュフォード。この村に来てまだ日が浅いですが、皆さんとより親しくなれたらと思い、この鍋会を開くことにしました」 村人たちは温かい拍手で応えた。 「それから、こちらは親戚のフィリスです。しばらくこの村に滞在しています」 フィリスは優雅にお辞儀をした。 「みなさんに会えて嬉しいわ」 村人たちはフィリスに好奇心いっぱいの視線を向け、特に女性たちは彼女を取り囲んで質問を始めた。フィリスは少し戸惑いながらも、練習通りに人間らしく振る舞っていた。 メリアは手際よく食材の準備を進め、ライルは大きな鍋に火を入れた。 「ライルさん、これが噂の野菜かい?」ドリアンが野菜籠を覗き込んで言った。「見事だな。どうやって育てたんだ?」 「えっと、土壌が良かったのと、毎日丁寧に世話をしたからかな」 ライルは本当の理由——《天恵の地》のスキルと地の女神の力——を言うわけにはいかなかった。 鍋に出汁が沸き始め、ライルが切った野菜を入れていくと、香りが辺りに広がった。村人たちは期待に満ちた表情で見守っている。 「いい匂いだね!」トムが嬉しそうに言った。「早く食べたいな」 マリィはライルに近づき、小さな声で尋ねた。 「コルは……?」 「もうすぐ来るよ」ライルはウインクした。「合図を送ってごらん」 トムとマリィは互いに頷き、森の方向に向かって小さな笛を吹いた。それは子どもたちの間で使われる合図だった。 しばらくすると、村人の一人が指さした。 「あれは! 銀の守り手!」 森の縁に、コルの銀色の姿が見えた。太陽の光を受けて毛並みが輝き、幻想的な雰囲気を纏っている。村人たちは驚きと畏敬の念で見つめた。 「なんて美しい……」 「伝説の生き物が見られるなんて……」 子どもたちは喜びのあまり飛び跳ねていた。コルは少しだけ姿を見せ、そして静かに森の中へと消えていった。 「これは吉兆だ」ガルド村長が厳かに言った。「銀の守り手が現れる村には、豊かな実りが訪れると言われている」 村人たちは興奮して話し合い、祝福された雰囲気が広がった。ライルとフィリス、メリアは視線を交わし、小さく微笑んだ。 やがて鍋が煮え、最初の取り分けが始まった。ライルの育てた野菜の味に、村人たちから驚きの声が上がる。 「なんて甘いニンジンだ!」 ...

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第16話「畑の奇跡的成長」 朝露が輝く早朝、ライルは畑に立ち、目の前の光景に息を呑んだ。昨日までとは明らかに違う。作物の葉は一回り大きく、色も鮮やかな緑に変わっている。小さなトマトの実がついた茎は、まるで一晩で数センチ伸びたかのようだった。 「これが《天恵の地》の力……」 ライルが心の中で呟いた瞬間、足元の土が僅かに光を放った。その光は一瞬で消えたが、確かに何かが起きている証拠だった。彼は膝をつき、手のひらを土に押し当てた。土の感触はいつもより柔らかく、何かエネルギーが満ちているかのようだった。 「ライル、朝ごはんよ〜。さっさと食べに来なさい」 フィリスの声がして振り返ると、彼女は小さな籠を持って畑の入り口に立っていた。その姿は神々しさを宿しつつも、どこか人間らしい親しみやすさがあった。 「フィリス、見てみて。昨日よりずっと成長してる」 フィリスは畑に踏み入り、作物たちを眺めた。彼女の足元を通る土も、微かに輝きを放った。 「うん、すっごく元気ね。あんたのスキルがちゃんと届いてるってわけね」 彼女が野菜の葉に触れると、その葉はより一層鮮やかな緑色に変わった。まるで応えるかのように、葉が風もないのに揺れる。 「私の力も……ちょっとずつ戻ってきてるみたい。でも、まだまだだわ〜」フィリスは少し寂しそうに呟いた。 二人が畑の様子を確認していると、銀色の毛並みが目に入った。コルが畑の中を走り回り、時々立ち止まっては地面の匂いを嗅いでいる。彼の足跡には微かな金色の光が残り、その光は地面に吸収されていった。 「コルも力を取り戻しつつあるんだね」 ライルがそう言うと、コルは嬉しそうに鳴き、二人の元へ駆け寄ってきた。その体から放たれる柔らかな温もりは、心地よく安心感をもたらした。 「さて、朝ごはんにしよう。今日はメリアさんからもらったパンと、昨日取れたハーブのスープよ」 三人は縁側に腰かけ、朝の光を浴びながら食事を始めた。パンの香ばしい香りとハーブの爽やかな風味が混ざり合い、シンプルながらも心温まる朝食だった。コルも小さな木の皿から、彼用のスープを舐めている。 「うん、おいしい!」フィリスは目を輝かせた。「ライルの料理、日ごとにレベルアップしてない? 神の舌を持つ私が保証するわ」 「そうかな? 同じレシピなんだけど……」 「これも《天恵の地》の力……ってやつかしら? 地脈の加護を受けた食材は特別なのよ」 フィリスの発言に、ライルは考え込んだ。確かに、同じ材料でも以前より味わい深く感じる。もしかしたら、畑の土や水、そして育つ作物すべてに彼のスキルが影響しているのかもしれない。 朝食を終え、ライルが皿を片付けていると、畑の方から人の声がした。 「おや、ライルさん! おはよう!」 声の主は村の老農夫ジョナスだった。彼の横には数名の村人たちがいて、みな畑の方を興味深そうに見ている。 「ジョナスさん、皆さん、おはようございます」 ライルは彼らに近づき、挨拶した。コルは人々を見るとすぐさま家の中へと逃げ込み、フィリスも少し距離を置いて様子を見ていた。 「これはすごいねえ」ジョナスは感嘆の声を上げた。「一週間前に見た時より、ずっと立派になってる。こんなに早く成長するなんて、見たことないよ」 「そうですか?」ライルは少し照れながらも、誇らしさを感じた。 「ええ、本当に珍しい。うちの畑なら、こんな生育具合になるのに、あと二週間はかかるよ」 ジョナスの隣にいた女性が、トマトの葉に触れた。 「みずみずしくて、元気があるわ。病気の影も見えないわね」 「土の様子も違う」別の男性が地面を指さした。「こんなにふかふかした黒土は、何年も耕さないと出来ないはずだが……」 村人たちがあれこれと畑を観察する中、ライルはフィリスと目を合わせた。彼女は微笑んで小さく頷いた。二人だけの秘密——《天恵の地》の力が、この畑を特別なものにしていることを。 畑を見に来た村人は次第に増え、皆がライルの畑の不思議な成長ぶりに驚きの声を上げた。中には子供たちも混じり、彼らは生い茂った葉の間を走り回って遊んでいる。 「ライルさーん!」トムが元気よく駆け寄ってきた。「すごいよ! 畑が魔法みたいに大きくなってる!」 彼の妹マリィも、恥ずかしそうに小さく頷いている。 「うん、びっくりしたよ」ライルは子供たちの頭を優しく撫でた。 「ねえねえ、この赤いのって、もうすぐ食べられるの?」トムが小さなトマトの実を指さした。 「うん、もう少ししたら。甘くておいしいトマトになりそうだよ」 「食べたい!」トムが目を輝かせた。 マリィは静かに畑を見つめ、小さな声で言った。「きれい……お花みたい……」 彼女の言葉に、ライルは作物たちをあらためて見渡した。確かに、朝日を浴びた葉は宝石のように輝き、全体が生命の喜びに満ちているようだった。 村人たちは次第に日課のために散っていったが、ライルの畑の評判は村中に広がっていった。昼過ぎには村長のガルドまでやってきて、感心した様子で畑を見学していった。 「神秘的だねえ」ガルドは帰り際にライルの肩を叩いた。「君が来てから、村にいいことが増えた気がするよ。これからが楽しみだ」 夕方、ライルは畑の中央に立ち、一日の変化を確認していた。朝と比べても、さらに作物は成長している。特に、彼が最も声をかけていたトマトの茎は、既に支柱が必要なほど大きくなっていた。 「ほんとに不思議ね……。あんたのスキル、私が予想していたよりずっと優れてるわ」フィリスが隣に立って言った。 「うん……」ライルは手のひらを見つめた。「でも、王都では全く発現しなかった。なぜだろう」 「地脈の流れってやつよ。都会には強い地脈が流れてないの。大勢の人が住んでて、魔力を消費するから……でも、ここは違う。豊かな自然と強い地脈があるから、あんたのスキルが輝けるってわけね」 ライルはフィリスの言葉を噛みしめながら、畑全体を見渡した。王都では無能と呼ばれた自分が、ここでは特別な力を発揮できる。それは皮肉であると同時に、不思議な安堵感をもたらした。 「明日は支柱を立てないとね」ライルは呟いた。「成長が早すぎて、茎が折れてしまいそうだから」 夕日が畑を赤く染める中、ライル、フィリス、そしてコルの三人は満足げに今日の成果を眺めていた。村人たちの驚きの声が、ライルの胸に小さな自信を灯していた。 コルが何かを感じ取ったように耳をピクリと動かした瞬間、風が吹き、畑全体がゆっくりと揺れた。その動きはまるで畑自体が呼吸をしているかのようだった。 これが《天恵の地》の力——ライルの新しい人生の始まりだった。

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第17話「水路整備と村の発展」 朝の光が村を包み込む頃、ライルは村の中央広場に立っていた。数日前から頭の中で形になり始めた計画を、今日は村長のガルドに相談するつもりだった。 「ライル、おはよう」ガルドが広場の掃除をしながら声をかけてきた。「朝から何か用かい?」 「はい、ガルドさん。相談があって」ライルは一呼吸置いてから続けた。「村の水路について考えていたんです」 「水路?」ガルドは箒を持つ手を止めた。 「はい。北からの水の流れが、村の東側に偏っているように感じまして。西側の畑は水不足ぎみなのではないでしょうか」 ガルドは眉を上げ、感心したように頷いた。「よく気がついたね。確かに西側は水が少ない。特に乾季には苦労するんだ」 「新しい水路を作れば、水の供給がもっと均等になるんじゃないかと思って」 ライルはポケットから取り出した紙を広げた。そこには村の簡単な地図と、彼が考えた新しい水路の経路が描かれていた。 「なるほど」ガルドは地図をじっくりと見た。「これは良い案だね。でも、労力が必要だ。小さな村だから、人手が足りるかどうか……」 「それなら、私も手伝いますよ」 振り返ると、メリアが立っていた。畑の評判を聞いて、彼女も興味を持ったようだ。 「メリアさん、おはようございます」 「おはよう、ライル。村の水路整備なら、みんな協力すると思うわ。特に西側の農家は喜ぶでしょうね」 ガルドは考え込むように顎髭をなでた。「そうだね。村の共同作業として進めましょう。今週末に村民集会を開いて、みんなに相談してみよう」 ライルの胸が高鳴った。彼の提案が村の役に立つかもしれない。王都では無能扱いされた彼が、ここでは村を改善する知恵を評価されている。その違いに、彼は小さな喜びを感じた。 *** 二日後、村民集会が開かれた。広場の中央に大きなテーブルが設置され、村人たちが集まってきた。ライルも少し緊張しながら、テーブルの近くに立っていた。 「みなさん、今日はライル君から提案があります」ガルドが集会を始めた。「村の水路整備についてです」 ライルは緊張しながらも、計画を説明した。北からの水の流れを西側にも効率よく引くための水路計画。地形を利用し、最小限の労力で最大限の効果を得る設計。魔導師養成院で学んだ流体理論がここで役立つとは思わなかった。 「なるほど」老農夫のジョナスが頷いた。「確かに西側は水不足だ。特に夏場は厳しい」 「でも、誰が掘るんだ?」別の農夫が尋ねた。「収穫の準備で忙しいというのに」 「みんなで少しずつやればいいじゃないか」村の大工マカラが言った。「一日に少しずつでも、続ければ完成する」 意見が飛び交う中、ライルは村人たちの表情を観察していた。懐疑的な顔もあれば、期待に満ちた顔もある。そんな中、一人の年配の女性が立ち上がった。 「私は賛成よ」彼女はしっかりとした声で言った。「私の畑は西側で、毎年水不足に悩まされてきた。少し労力を使っても、長い目で見れば村全体の利益になる」 その言葉をきっかけに、賛同の声が増えていった。最終的に、村人たちは水路整備を共同作業として進めることに合意した。 「よーし、決まりだ!」ガルドは満足げに手を叩いた。「明日から作業を始めよう。出られる人は朝、北の入り口に集合だ」 集会が終わると、ライルはガルドから肩を叩かれた。 「いい提案をありがとう。君のような若い頭脳は村にとって貴重だよ」 「いえ……」ライルは照れながらも嬉しさを隠せなかった。 *** 翌朝、予想以上に多くの村人が集まった。男性だけでなく、女性や年配者、さらには子供たちまで、皆が何かしらの道具を持って来ていた。トムとマリィも小さなバケツを持って、はしゃいでいる。 「こんなに大勢……」ライルは驚いた。 「みんな、水は大切だからね」メリアは微笑んだ。「それに、あなたの畑の評判も関係してるわ」 「え?」 「あんなに作物が育つなら、私たちの畑でも同じことができるんじゃないかって。みんな期待してるのよ」 ライルは言葉に詰まった。《天恵の地》のスキルのことは言えないが、確かに水路が整備されれば、村全体の作物の生育も改善するはずだ。 ガルドの合図で、作業が始まった。まずは水路の経路に沿って印をつけ、その後で実際の掘削作業に入る。男性たちが鍬や鋤で土を掘り、女性や子供たちが小さなバケツで土を運び出していく。 ライルも鍬を手に取り、先頭に立って掘り進めた。王都では決してなかったような充実感が彼を満たしていく。皆が一緒に汗を流し、村を良くするために働いている——そんな連帯感は、彼にとって新鮮で温かいものだった。 昼頃、村の女性たちが昼食を運んできた。シンプルながらも心のこもった食事が、疲れた体に染み渡る。 「ライルさん、水が流れたら、もっと野菜が育つかな?」トムが目を輝かせて尋ねた。 「きっとそうなるよ」ライルは優しく笑った。「水があれば、畑はもっと元気になるからね」 マリィは黙って頷き、小さな手でライルの腕を引っ張った。「あのね……」彼女は小さな声で言った。「銀色の子……また見たよ」 「コル?」ライルは思わず口にしてから、慌てて言い直した。「あ、銀色の狐のこと?」 マリィは静かに頷いた。「うん……森の端で見てた……私たちのこと」 ライルは遠くの森の方を見たが、コルの姿は見えなかった。おそらく人が多いのを見て、隠れているのだろう。家に残ってもらうよう言ったのに、心配してついてきたのかもしれない。 午後の作業も順調に進み、日が傾き始める頃には、計画の約四分の一ほどの水路が完成していた。予想以上の進捗に、村人たちの表情も明るい。 「みんな、今日はご苦労様」ガルドが作業の終了を告げた。「明日も続けよう。来られる人は来てくれ」 村人たちが三々五々帰路につく中、ライルは完成した水路の一部を眺めていた。まだ水は流れていないが、数日後には北からの水がここを通り、西側の畑を潤すことになる。 「ライル!」 メリアが駆け寄ってきた。「急いで! コルが!」 「え?」 「森の入り口で子供たちと遊んでるわ。村人に見られる前に連れ戻さないと」 ライルは慌てて森の方へ走った。確かに、森の入り口近くでコルが数人の子供たちに囲まれていた。トムとマリィを含む子供たちは、コルのふわふわの毛に触れ、歓声を上げている。コルも嬉しそうに鳴いて、尻尾を振っていた。 「コル!」ライルは小声で呼びかけた。 コルは顔を上げ、ライルを見ると、少し申し訳なさそうな表情をした。 「すごいね! 銀の守り手が遊んでくれたよ!」トムが興奮した様子で言った。 「もふもふ……気持ちいい……」マリィも珍しく表情を緩めていた。 「子供たちと遊んでたの?」 「うん!」トムが元気よく答えた。「僕たちが水を運んでたら、突然現れたんだ! それで、触らせてくれたんだよ!」 コルは誇らしげに胸を張った。普段は人前に姿を現さないのに、子供たちには心を開いたようだ。 「そうか……でも、他の大人たちには内緒だよ」ライルは子供たちに優しく言った。「コル……じゃなくて、銀の守り手は神秘的な存在だから、みんなにバレちゃうと、もう来てくれなくなるかもしれないよ」 「わかった!」子供たちは口に指を当てて、秘密を守ることを約束した。 コルに目配せして、家に戻るよう促したライルは、子供たちと一緒に村へと帰った。 *** 夕食時、ライル、フィリス、コルの三人は今日の出来事を振り返っていた。 「もうちょっとで大変なことになるとこだったじゃない」フィリスは偉そうに言った。「でも、子供たちと仲良くなれたのは、まあ悪くないわね」 ...

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第18話「行商人バスランとの出会い」 市の日を迎えたウィロウ村は、いつもより活気に満ちていた。月に二度だけ、近隣の村々から商人たちが集まり、村の広場で市が開かれる特別な日だ。 「フィリス、コル、今日は人が多いから、家でおとなしくしていてね」ライルは二人に言い聞かせた。「特にコル、子供たちに会いたいだろうけど、ダメだからね」 コルは不満そうな鳴き声を上げたが、結局は従うしぐさを見せた。フィリスも微笑んで頷き、「行ってらっしゃい。ちゃんと楽しんでくるのよ」と見送ってくれた。 村の広場に向かうと、既に多くの屋台が並び、人々で賑わっていた。見知らぬ顔も多く、近隣の村から買い物客も訪れているようだ。新鮮な野菜、手作りの布製品、鍛冶屋の道具、珍しい調味料……様々な品物が所狭しと並んでいる。 「ライルさん!」 メリアが手を振っていた。彼女は薬草の屋台の前にいた。 「メリアさん、おはようございます」 「市の日は楽しいでしょう?」メリアは笑顔で言った。「特に今日は、有名な行商人のバスランが来ているのよ」 「バスランさん?」 「遠い国々を旅する行商人よ。珍しい種や道具、時には異国の話も持ってくるの」メリアは目を輝かせた。「私も彼から珍しい薬草の種をもらったことがあるわ」 メリアに教えられた方向に進むと、広場の端に一際目立つ色鮮やかな屋台があった。赤と金の布で覆われたその屋台の前には、既に人だかりができていた。 ライルが人々の間から屋台を覗き込むと、そこには個性的な風貌の男性がいた。褐色の肌に白髪交じりの髭、そして身に着けているのは王都でも見たことがないような刺繍の施された衣装。 「さあさあ、珍しい種や道具はいかがかな?」男性は陽気な声で呼びかけていた。「この種は砂漠の国から持ってきたもの。乾燥に強く、甘い実をつける不思議な植物だよ!」 村人たちはその話に聞き入り、次々と商品を手に取っていた。 ライルが興味深そうに見ていると、男性と目が合った。 「おや、新しい顔だね」男性は屋台の上から身を乗り出した。「君は?」 「ライルです。以前王都にいましたが、最近この村に来ました」 「王都か!」男性は目を輝かせた。「私もたまに行くよ。バスランと言う。世界中を旅する行商人さ」 バスランは手を差し伸べ、ライルと握手を交わした。その手には長年の旅による硬い皮と、様々な経験を物語る傷があった。 「何か特別なものをお探しかな?」バスランは陽気に尋ねた。 「実は、畑を始めたばかりなんです。何か良い種や道具があれば……」 「畑師か!」バスランは声を上げた。「それなら、こちらはどうだ」 彼は屋台の下から小さな布袋を取り出した。中には見たこともない形と色の種が入っている。 「これは遠い東の国から持ってきた野菜の種だ。寒さにも暑さにも強く、味は絶品。『月光野菜』と呼ばれているよ」 ライルは興味深そうに種を手に取った。《天恵の地》のスキルがあれば、この珍しい種も育てられるかもしれない。 「いくらですか?」 「通常なら銀貨三枚だが……」バスランはライルをじっと見つめた。「君は目が澄んでいる。良い畑師になりそうだ。銀貨一枚でいいよ」 思いがけない値引きに、ライルは驚いた。「ありがとうございます」 種を購入した後も、バスランはライルに様々な国の話を聞かせてくれた。砂漠の国での水の貴重さ、東の国の階段状の田んぼ、南の島々で育つ甘い果物の話……。その話は、王都の学院でも聞いたことのないような、生きた知識に満ちていた。 「バスランさんは色々な場所を見てきたんですね」ライルは感心した。 「旅は最高の学びだよ」バスランは微笑んだ。「さて、他に何か欲しいものはあるかい?」 ライルは屋台の品物を見渡した。様々な種、珍しい調味料、手作りの農具……どれも魅力的だったが、特に目を引いたのは一組の木製の小さな彫刻だった。 「これは?」 「ああ、それは東の国の護り神の像だよ」バスランは説明した。「土地と作物を守る神様と、その使いとされる獣の像さ」 ライルは息を呑んだ。その像はどこかフィリスとコルを思わせる姿をしていた。女神の像は優雅で神々しく、獣の像は小さいながらも力強さを感じさせる。 「これください」 ライルはためらうことなく言った。フィリスとコルへの贈り物に完璧だと思った。 「良い目を持っているね」バスランは満足げに頷いた。「これも特別価格で。銀貨二枚でいいよ」 取引を終え、ライルがバスランの屋台を離れようとしたとき、突然の騒ぎが起こった。 「あ! 銀色の狐だ!」誰かが叫んだ。 ライルは慌てて声のする方を見た。広場の端、森に近い場所で、コルが姿を現していたのだ。好奇心に負けて家を抜け出してきたらしい。周囲の人々が驚きの声を上げ、何人かが近づこうとしている。 「まずい……」 ライルは人々の間をすり抜け、コルの方へと急いだ。コルも人々に気づき、慌てて逃げようとしたが、興味を持った子供たちに囲まれてしまった。 「コル!」ライルは小声で呼びかけた。 コルはライルを見つけると、安堵の表情を見せたが、周囲の視線に怯えている様子だった。 「みんな、あまり近づかないで」ライルは集まった人々に言った。「驚かせると逃げてしまうよ」 「これが噂の銀の守り手か」バスランが人々の後ろから声をかけた。「美しい生き物だ……」 バスランの落ち着いた声に、人々も少し静かになった。ライルはその隙にコルに近づき、そっと抱き上げた。コルはライルの胸に身を寄せ、震えている。 「ごめんね、怖かったね」ライルは小声でコルに語りかけた。 「ライルさん、その子と知り合いなのか?」村の誰かが尋ねた。 「ええ、時々畑に来てくれるんです」ライルは答えた。「臆病なので、家に連れて帰りますね」 人々はまだ興味津々の様子だったが、コルが怯えているのを見て、道を空けてくれた。ライルはコルを抱えたまま、急いで家に向かった。 *** 「もう、心配したわ」 家に戻ると、フィリスが心配そうな顔で迎えてくれた。 「コルが突然いなくなって……」 「大丈夫、無事だったよ」ライルはコルを床に降ろした。「でも、市で大騒ぎになっちゃった」 コルは申し訳なさそうに鳴き、床に頭を伏せた。 「怒ってないよ」ライルは優しく言った。「でも、あんなに人が多いところは危ないからね」 フィリスはコルの頭を撫でながら、「外の世界が気になるのはわかるけど、もうちょっと隠れるの上手にならなきゃね」と諭した。 緊張から解放されたせいか、三人はクスクスと笑い始めた。コルの隠れる技術の話題で盛り上がり、フィリスが「よーし、今度から隠れんぼの特訓よ!」と提案すると、コルは元気を取り戻して尻尾を振った。 「そうだ、プレゼントがあるよ」 ライルは市で買った小さな像を取り出した。 「わぁ……すごい。これ、なんだか私たちっぽいかも」とフィリスは息を呑んだ。 「東の国の護り神の像だって。土地と作物を守る神様と、その使いなんだって」 フィリスは女神の像を、コルは獣の像をじっと見つめた。どこか懐かしさを感じているようだった。 「ありがと、ライル。……すっごく嬉しい。大事にするね」とフィリスは柔らかく微笑んだ。 コルも嬉しそうに鳴き、像の周りをぐるぐると回った。 ...

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第19話「村の評判が広がる日々」 市の日から数日が経ち、ライルの畑と「銀の守り手」の噂は村中に広がっていた。朝の光が差し込む窓辺で、ライルはフィリスとコルと一緒に朝食をとりながら、昨日村で聞いた話を伝えていた。 「村の人たちが僕の野菜を欲しがってるみたいなんだ」ライルは少し照れたような表情で言った。「メリアさんが『注文が入っている』って教えてくれたよ」 フィリスは得意げに顎をしゃくった。「当然でしょ。あんたのスキルと私の力が合わさった野菜なんだから、普通のものとは違うわ」 コルも嬉しそうに鳴き、テーブルの上を軽快に駆け回った。 「でも、どのくらい提供できるかな……畑はそんなに広くないし」ライルは考え込む。 「必要な分だけ育てればいいのよ」フィリスは口の端に付いたパン屑を指で拭いながら言った。「《天恵の地》なら、育つ速度も通常より速いんだから」 朝食を終えると、ライルは畑の様子を確認するために外に出た。朝露に濡れた野菜たちは、昨日よりもさらに成長していた。ライルが地面に手を触れると、かすかな光が指先から広がり、土の中へと吸い込まれていく。 「ライル君! おはよう!」 振り返ると、村のパン屋マーサが手を振っていた。彼女は50代半ばの温かみのある女性で、村一番の評判を持つパン屋を営んでいる。 「マーサさん、おはようございます」 「あのね、お願いがあるの」マーサは少し興奮した様子で言った。「あなたの野菜、特にあの立派なニンジンとカブを分けてもらえないかしら? 野菜パンを作りたいの」 「もちろんですよ」ライルは笑顔で答えた。「どのくらい必要ですか?」 「そうねぇ……まずは10本ずつくらいかしら」 ライルは畑に行き、最も立派なニンジンとカブを選んで抜いた。《天恵の地》の影響で、どれも鮮やかな色合いと完璧な形をしている。 「こんなに立派なの!」マーサは野菜を受け取ると、目を丸くした。「これで作ったパンは特別なものになりそう! お代はもちろん払うわよ」 「いえ、必要ありません」ライルは首を振った。「先日の鍋会でいただいたパンのお礼です」 「そうはいかないわ」マーサは小さな袋を取り出した。「これは特別な小麦粉よ。王都からも注文が来るほどの品質なの。これで何か焼いてごらん」 マーサが帰った後、フィリスが家から出てきた。 「人気者ね」彼女は微笑んだ。「でも、農作物で村人と交換するのって、なんだか本当の村人になった感じがしない?」 ライルは空を見上げ、深呼吸した。「王都では考えられなかったな……」 その日、ライルのもとには次々と村人たちが訪れた。 まず、鍛冶屋のドリアンが昼前にやってきた。彼は屈強な体格に似合わず優しい声で、畑作業に適した新しい道具を見せてくれた。 「あんたの畑を見て思いついたんだ」ドリアンは手作りの小型シャベルを差し出した。「細かい作業にはこれが便利だぜ」 「すごい!」ライルはその道具の精巧さに感嘆した。「こんな繊細な作りの道具を見たことがない」 「へへ」ドリアンは頬を掻いた。「俺に野菜をちょっと分けてくれるなら、あんたにプレゼントだ」 取引が成立し、ドリアンが立ち去った後、今度は村の年配女性ソフィアがやってきた。彼女は村で最も古い伝統を守る人物として尊敬されている。 「ライル坊や、聞いたよ。あんたの畑の作物は特別なんだって?」 「そんなことないですよ……」ライルは謙遜した。 「隠さなくていいよ」ソフィアは優しく微笑んだ。「この村には昔から言い伝えがあるんだよ。『大地の恵みを呼び寄せる者が現れる』ってね」 ライルは息を呑んだ。それはまさに《天恵の地》のことのようだ。 「あの銀色の生き物も、きっと何かの前触れさ」ソフィアは続けた。「ところで、この古い種を持ってきたんだけど、あんたの畑なら育つかもしれないと思ってね」 彼女が差し出したのは、小さな布袋に入った見慣れない形の種だった。 「何の種ですか?」 「昔この村で育てられていた『星の実』って果物さ。何十年も前に育たなくなっちゃってね」 ライルは感謝して種を受け取った。《天恵の地》なら、絶えた種でも蘇らせられるかもしれない。 午後になると、子供たちの姿が見えた。トムとマリィを先頭に、何人かの子供たちがライルの家に向かって走ってくる。 「ライルさーん!」トムは元気いっぱいに呼びかけた。「銀色のもふもふさんに会いたいです!」 コルはドアの陰からその様子を見ていた。ライルが子供たちを見ると、コルにも目配せをした。 「今日は特別だよ」ライルは小声で言った。「子供たちだけなら、少しだけ会っても良いかな」 コルはしばらく考えるようにじっとしていたが、やがて静かに玄関から出てきた。子供たちはその姿に大興奮した。 「本当にいた!」 「もふもふだ!」 コルは慎重に子供たちに近づき、マリィの前で立ち止まった。マリィはおそるおそる手を伸ばし、コルの毛に触れた。 「やわらかい……」彼女の顔に珍しい笑顔が浮かんだ。 子供たちは順番にコルの毛に触れ、歓声を上げた。コルも徐々にリラックスし、子供たちの間を歩き回り始めた。 「銀の守り手がライルさんと友達だなんて、すごいな」トムは目を輝かせて言った。 「秘密だよ」ライルは子供たちに念を押した。「大人たちには内緒だからね」 子供たちは一斉に頷き、「約束する!」と口々に言った。 その光景を見ていたフィリスは、家の窓から優しい表情でそれを見守っていた。 夕方、ライルが市場に野菜を届けに行くと、そこで偶然バスランと再会した。 「おや、畑師のライル!」バスランは陽気に手を振った。「評判を聞いたよ。君の野菜が村で一番美味しいとか」 「そんなことないですよ」ライルは照れ隠しに頭を掻いた。 「謙遜するねぇ」バスランは笑った。「それに、銀色の守り手が君に懐いているという噂も聞いたよ」 ライルは驚いて目を丸くした。「え? 誰から?」 「子供たちは秘密を守れないものさ」バスランはウインクした。「安心したまえ。私は旅人だ。村の秘密を外に漏らすようなことはしない」 二人は共に歩きながら、ライルの畑や村のことについて語り合った。 「実は明日、もう一度君の家に寄りたいんだ」バスランは真剣な表情になった。「あの銀色の守り手に、もう一度会えたら嬉しい。何か贈り物も用意した」 「コルのために?」思わず名前が出てしまった。 「コル? そんな名前なのか」バスランは微笑んだ。「素敵な名前だね。私の故郷では、銀色の獣は幸運の象徴なんだ」 翌朝、約束通りバスランがライルの家を訪れた。彼は小さな包みを持っていた。 「おはよう、ライル。そして……」バスランは家の中を見回した。「コルくんもいるかな?」 フィリスが変装した姿で現れ、「おはようございます、バスランさん」と挨拶した。バスランはフィリスにも丁寧に会釈をした。 コルは最初は警戒していたが、バスランの優しい声に誘われて、少しずつ近づいてきた。 「やあ、コルくん」バスランは膝をついて、包みを開けた。「これは遠い国で見つけた特別なブラシだよ。毛並みを整えるのに最高なんだ」 ...

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第20話「魔獣情報と村の不安」 朝露が輝く穏やかな朝、ライルは畑の作業に集中していた。春から初夏へと移り変わる季節の中、作物たちは《天恵の地》の恩恵を受け、すくすくと育っている。トマトはすでに赤い実をつけ始め、レタスは見事な大きさに成長していた。 コルも畑の中を元気に駆け回り、時々立ち止まっては地面の匂いを嗅いでいる。その姿を見てライルは微笑んだ。 「ライル! ライル!」 突然の声に振り返ると、メリアが息を切らせて駆けてきた。いつもの明るさがなく、表情には焦りの色が浮かんでいる。 「メリアさん、どうしたんですか?」 「大変なの」メリアは息を整えながら言った。「北の村から連絡があったの。グレイウルフの群れが現れたって」 「グレイウルフ?」ライルは初めて聞く言葉に首を傾げた。 「魔獣よ」メリアの表情は真剣だった。「普通のオオカミより大きくて凶暴で、魔力を帯びた獣。かつてこの地域にも出没したことがあるんだけど、長い間姿を見せなかった。でも今、北の森で目撃されたって……村長が緊急会議を開くって」 コルがその話を聞いたのか、急に立ち止まり、耳をピンと立てた。その金色の瞳には警戒の色が浮かんでいる。 「会議はいつですか?」 「午後よ。村の広場で。ライルも来てほしいの」メリアは言った。「あなたは王都にいたから、魔獣に関する知識もあるでしょう?」 実際には、ライルは魔導士養成院で理論は学んだものの、実際の魔獣に対処した経験はなかった。しかし、何か協力できるかもしれない。 「わかりました。行きます」 メリアが去った後、ライルは急いで家に戻った。フィリスに状況を説明すると、彼女は思いがけず真剣な表情になった。 「グレイウルフ……そう、確かに危険ね」フィリスは窓の外を見つめながら言った。「大地の力を汚染するタイプの魔獣よ。私の力が戻っていれば……」 彼女は言葉を切った。まだ完全に力を取り戻せていないフィリスにとって、魔獣の対処は難しいようだ。 コルは床の上で丸くなり、小さな鳴き声を上げた。どこか不安げな様子だ。 「大丈夫、コル」ライルはその頭を撫でた。「一緒に村を守ろう」 午後、村の広場は多くの村人で埋め尽くされていた。ガルド村長を中心に、老若男女が集まり、緊張した空気が漂っていた。ライルも人々の中に混ざり、静かに話を聞いた。 「皆さん、静かに」ガルド村長が声を上げた。「北の村から使者が来ています。彼の話を聞きましょう」 前に立ったのは疲れた様子の若い男性だった。彼の服は埃と汗で汚れ、長旅の痕跡が見て取れる。 「私はタル。北の谷間の村から来ました」彼は少し震える声で言った。「三日前、我が村の牧草地で羊が襲われました。そして昨夜、村の外れの家が襲撃されたのです。幸い人的被害はありませんでしたが……」 タルは一息ついてから続けた。 「村の猟師たちが足跡を追ったところ、それがグレイウルフの群れだと確認できました。五、六匹はいるようです。そして……彼らはこちらの方向に向かっていました」 村人たちの間に不安の声が広がった。 「グレイウルフが人里に下りてくるなんて、何十年ぶりだろう」 「子供たちが危ない」 「作物も家畜も守らないと」 ガルド村長が再び皆を静かにさせた。 「恐れることはありません。私たちは以前にも魔獣の襲撃を乗り越えてきました。今回も準備をすれば大丈夫です」 村長はまず、村の周囲の見回りを強化すること、夜間の移動を控えること、そして子供たちを夕方以降は家の中に留めることを提案した。それから、防衛策について議論が始まった。 ライルは議論を聞きながら、少し考え込んでいた。《天恵の地》のスキルはもともと防衛能力はないが、何か応用できることはないだろうか。 そんな考えに耽っていると、突然ガルド村長に名前を呼ばれた。 「ライル君、王都からの知識を何か提供できることはないかな?」 すべての視線が一斉にライルに注がれた。彼は少し緊張しながらも立ち上がった。 「はい、魔導士養成院で魔獣について学んだことがあります」ライルは真剣に答えた。「グレイウルフは群れで行動し、主に夜間に活動します。彼らは通常の動物よりも賢く、単純な罠には引っかかりません」 村人たちは静かにライルの言葉に耳を傾けていた。 「でも、彼らには二つの弱点があります。一つは、強い光に弱いこと。もう一つは、特定のハーブの香りを嫌うことです。メレンラビアというハーブを知っていますか?」 メリアが手を上げた。「知ってるわ! 谷間に少し生えてるわね。薬用にも使うわ」 「そのハーブで作った煙を村の周囲に焚くと、グレイウルフは近づきにくくなります」ライルは説明した。「それから、村の入り口には深い溝を掘り、その中に松明を立てておくと効果的です」 ガルド村長は感心した様子で頷いた。「素晴らしい提案だ、ライル君。皆さん、今日から準備を始めましょう。若い男性たちは溝掘りを、女性たちはハーブの収集を手伝ってください」 会議が終わり、村人たちが散会し始めたとき、ガルド村長がライルの肩に手を置いた。 「良い知識を共有してくれてありがとう。実は他にも相談したいことがある。今夜、私の家に来てくれないか?」 「はい、もちろんです」ライルは頷いた。 家に戻ると、フィリスとコルが待ち構えていた。 「どうだった?」フィリスは身を乗り出して尋ねた。 「村全体が緊張してる」ライルは状況を説明した。「グレイウルフがこの村を襲う可能性があるんだ」 コルが不安げな鳴き声を上げた。窓辺に駆け寄り、外を見つめるその姿には何か違和感があった。 「コル、何か感じてるの?」ライルが尋ねると、コルはゆっくりと頷いた。 「コルは神獣だから、普通の動物より感覚が鋭いのね」フィリスは思案げに言った。「もしかしたら、魔獣の気配を感じ取っているのかもしれないわ」 夕方、ライルはガルド村長の家を訪れた。村長の家は村の中心部にあり、二階建ての頑丈な造りをしている。中に招き入れられると、そこには村の年長者数人も集まっていた。 「来てくれてありがとう、ライル君」ガルド村長は彼を丁寧に椅子に案内した。「実は、魔獣対策についてさらに詳しく聞きたいんだ」 ライルは知っている限りの情報を共有した。グレイウルフの行動パターン、弱点、そして効果的な防衛策について。年長者たちは真剣に耳を傾け、時折質問を投げかけた。 話が一段落したとき、ガルドが意外な質問をした。 「ところで、ライル君。最近村で目撃された銀色の生き物について、何か知っていることはないかな?」 ライルは一瞬息を呑んだ。コルのことを聞かれているのは明らかだ。 「銀色の生き物、ですか?」 「ああ」ガルドはゆっくりと頷いた。「昔からこの村には『銀の守り手』という伝説があってね。魔獣が近づくと現れ、村を守ってくれるという生き物だ。最近、何人かの村人が見たと言っている」 ライルは慎重に言葉を選んだ。「僕も畑で何度か見かけました。でも近づくと逃げてしまって……」 「そうか」ガルドは意味深げに微笑んだ。「その生き物が村を守ってくれるという伝説は本当かもしれないね。君の畑によく現れるなら、ぜひ村のためにその子の力を借りたいものだ」 ライルが家に戻ったのは、夜も更けた頃だった。フィリスとコルは起きて待っていた。 「皆、協力的だったよ」ライルは疲れた表情で報告した。「明日から村の防衛策を始めるんだ。溝を掘ったり、ハーブを集めたり……」 「私も手伝えることがあれば言ってね」フィリスは真剣な表情で言った。「私の力はまだ完全ではないけど、地脈を少し感じることはできるわ」 コルは窓辺から離れようとせず、外を見つめ続けていた。その姿に、ライルは近づいて肩に手を置いた。 「コル、何か感じてるんだね」 コルはゆっくりと振り返り、金色の瞳でライルをじっと見た。その瞳には不安と、同時に決意のようなものが浮かんでいた。 「一緒に村を守ろう」ライルは優しく言った。「君は『銀の守り手』なんだから」 ...

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