第25話「エピローグ:のんびりとした日々の始まり」

 神域認定から一週間が経った穏やかな朝、ライルは畑で野菜の手入れをしていた。《天恵の地》のスキルと彼の手作業が融合した結果、畑は見事なまでに豊かな実りを見せ始めていた。

 契約の儀式以降、彼のスキルはさらに力を増していた。彼が土に触れると、指先から緑の光が広がり、土の中に浸透していく。すると、野菜たちが目に見えて生き生きとし始める——その様子は今でも彼を驚かせるものだった。

「もう慣れたかと思ったけど、まだ不思議な感じがするな」ライルは独り言を呟いた。

 あの日、レイナ査察官とジェイクは村を後にした。レイナは約束通り、一か月以内に正式な神域認定書を持って戻ってくるという。ジェイクは最後まで不機嫌そうだったが、少なくとも露骨な嫌がらせはなくなっていた。

 「ライル~!」

 振り返ると、メリアが嬉しそうな顔で走ってくるのが見えた。彼女の両手には、何か紙のようなものが握られている。

「あのね、王都からの連絡が来たの!」メリアは息を切らせながら言った。「神域認定に伴う特別な種子と農法の資料が送られてくるんですって!」

「本当? もう効果が出始めているんだね」

「ええ! それだけじゃないの」彼女は興奮気味に続けた。「神域に住む私たちは、王都の大図書館の農業部門を無料で利用できるようになるんですって。新しい作物や栽培方法の情報が手に入るわ!」

 ライルは嬉しそうに微笑んだ。追放された身から、今や王都の施設を利用する権利を得るとは——人生は本当に予想できないものだ。

「それと」メリアはさらに声を落として続けた。「村長が村の全体計画を考えているの。神域としての発展計画よ。今日の夕方、君の家で少人数で話し合いがあるわ」

「僕の家で?」

「ええ、フィリスとコルも交えたいからって。もちろん、私たちは彼女の正体を知ってるけど、村の全員が知っているわけじゃないもの」

 メリアは立ち去る前に、ライルの畑を見渡して感嘆の声を上げた。「本当に素晴らしい畑ね。村中があなたの野菜を欲しがっているわ」

 昼食時、ライルは収穫したての野菜を持って家に戻った。玄関を開けると、心地よい香りが漂ってきた。フィリスが料理をしているようだ。

「ただいま」ライルが声をかけると、フィリスが台所から顔を出した。

「おかえり」彼女は微笑んだ。「見て。ドリアンが持ってきた新しい調理器具で料理してるの」

 フィリスの料理の腕は、最初の頃と比べると格段に上達していた。彼女は地の女神でありながら、人間の日常を楽しみ、学ぶことに喜びを見出しているようだった。

 コルは暖炉の前でまどろんでいたが、ライルの帰宅に気づくと、尾を振りながら駆け寄ってきた。その銀色の毛並みは太陽の光を浴びて輝いている。

「今日は村長たちが夕方に来るらしいよ」ライルは二人に伝えた。「神域としての村の発展計画について話し合うんだって」

「そう」フィリスは少し考え込む表情を見せた。「村の発展ね……私の力がもっと戻れば、もっと手助けできるのだけど」

「焦ることはないよ」ライルは優しく言った。「ここまでだって十分すごいじゃないか。それに、ゆっくりと成長していくのが村の良さだと思うんだ」

 昼食を終えた後、三人は家の前の小さな庭で寛いでいた。夏の日差しは暑すぎず、心地よい風が時折吹き抜ける。フィリスは村の子どもたちが作ってくれた花冠を嬉しそうに頭に載せていた。

「ねえ、ライル」フィリスが突然言った。「村の東側の丘の下に、何かあるのを感じるの」

「東側の丘? あそこは岩場が多くて、あまり人が行かない場所だよね」

「ええ。地脈の流れが変わっているのよ。何か空洞があるような……」

 コルもフィリスの言葉に反応し、耳をピクリと動かした。彼もまた何かを感じているようだった。

「いつか探検してみる?」ライルは興味を示した。

「ええ、でも急ぐことはないわ」フィリスは微笑んだ。「これから長い時間があるもの」

 午後、ライルは村の中を歩いて回った。神域認定以来、村の景観は微妙に変化していた。木々はより緑豊かに、花々はより鮮やかに咲き誇り、全体的に生命力が満ちているように感じられる。

 村人たちも変わった。彼らの表情には新たな誇りと希望が宿っていた。王国から認められた特別な場所に住んでいるという自覚が、皆の歩みに自信を与えているようだった。

 ライルが村の広場を通りかかると、トムとマリィが駆け寄ってきた。

「ライルさん! コルはどこ?」トムが尋ねた。

「家で休んでるよ」

「今度、一緒に森に行ってもいい?」マリィが少し恥ずかしそうに聞いた。「お父さんが言うには、神域の森には特別な花が咲くんだって」

「もちろん、いつか一緒に行こう」ライルは子どもたちの頭を優しく撫でた。

 トムが急に思い出したように言った。「そうだ! 村長が言ってたよ。村の東の丘の下に洞窟があるかもしれないって! おじいちゃんが子どもの頃に見たことがあるんだって」

「洞窟?」ライルは驚いた。フィリスの感覚は正しかったようだ。

「うん! でも長い間、入口が見つからなくなっちゃったんだって」トムは目を輝かせて言った。「でもね、神域になったからって、地面が少し動いたみたいで、村長が調査隊を作るって言ってたよ!」

 子どもたちが去った後、ライルはその話について考えていた。東の丘の下の洞窟——何があるのだろう? 古い遺跡? それとも単なる天然の洞窟? いずれにせよ、探検する価値はありそうだ。

 夕方、約束通り、ガルド村長とメリア、そして鍛冶屋のドリアンがライルの家を訪れた。テーブルの周りに集まり、フィリスが入れた茶を飲みながら、話し合いが始まった。

「まず、神域認定についてもう一度お礼を言わせてくれ」ガルド村長は真摯に言った。「君たちのおかげで、村は新たな道を歩み始めている」

 ライルとフィリスは謙虚に頷いた。コルはテーブルの下で村長の足元に寄り添っていた。

「さて、神域としての村の発展計画だが」ガルドは続けた。「二つの主要なプロジェクトを考えている。一つは東の丘の洞窟の調査。もう一つは、村の市場の設立だ」

「市場ですか?」ライルは興味を示した。

「ああ」ドリアンが説明を引き継いだ。「神域として認められた今、他の村からも人が訪れるようになるだろう。定期的な市場があれば、交易が活発になり、村も豊かになる。特に君の野菜は大きな目玉商品になるはずだ」

「それに」メリアが加えた。「バスランが次に来るとき、村の市場計画について相談したいと言っていたわ。彼の経験は貴重よ」

 フィリスが興味深そうに尋ねた。「東の丘の洞窟については、何か伝説はあるのですか?」

「実はね」ガルドは声を落として言った。「村の古い言い伝えでは、その洞窟は『温かい水が湧き出る場所』だと言われている。いわゆる温泉ってやつかもしれない」

「温泉?」ライルは驚いた。「本当ですか?」

「確かではない」ガルドは肩をすくめた。「ただの噂かもしれないし、古い鉱山跡かもしれない。だが、調査する価値はあると思うんだ」

 話し合いは夜遅くまで続いた。市場の配置、洞窟調査のための準備、そして神域としての村の新たな規則などについて。フィリスも神域の管理について貴重な意見を提供した。

 ガルドたちが帰った後、ライル、フィリス、コルは暖炉の前に座り、静かに語り合った。

「温泉か……」ライルは火を見つめながら言った。「もし本当なら、素晴らしいね」

「ええ」フィリスも頷いた。「温泉は地脈の力が強い場所に湧き出ることが多いわ。神域になったことで、その力が目覚めたのかもしれないわね」

 コルは二人の会話を聞きながら、満足げに尾を振っていた。

「不思議だね」ライルは静かに言った。「王都から追放されて、何もかも失ったと思った。でも今は、こんなにたくさんのものを得ている」

「運命は予測できないものよ」フィリスは優しく微笑んだ。「私だって、長い封印から解放されて、こんな日々が来るとは思わなかった」

 彼女はライルの手を取り、静かに言った。「契約の儀式以来、私の力は徐々に戻りつつあるわ。でも同時に、人としての感情も強くなってきている。神としての私と、今ここにいる私——どちらも大切な自分の一部なのね」

 ライルはその手を優しく握り返した。「どちらのフィリスも、僕たちにとって大切だよ」

 コルもその言葉に同意するように、二人の間に割り込んできた。三人は笑いながら、コルの柔らかな毛並みを撫でた。

 窓の外では、満月が村を優しく照らしていた。神域となった村は、月光の下で微かに輝いているようにも見える。

 翌朝、ライルは早起きして畑に出た。朝日が昇り始め、露が草の上で輝いている。彼は深呼吸し、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 村では、すでに活動が始まっていた。ドリアンの鍛冶屋からは金属を打つ音が聞こえ、パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。子どもたちは元気に走り回り、年配の村人たちは縁側で朝の茶を楽しんでいる。

 ライルの畑にも変化があった。昨日まで芽も出ていなかった種が、今朝には小さな新芽を出していた。《天恵の地》の力が、より強く働いているのだろう。

 畑の手入れを終えると、フィリスとコルも起きてきた。三人で朝食を取りながら、これからの計画を話し合う。

「今日は東の丘に行ってみようか」ライルは提案した。「フィリスが感じた場所を確認してみたい」

「いいわね」フィリスは頷いた。「私も気になっていたの」

 朝食の後、三人は東の丘に向かった。村を出て少し歩くと、丘の緩やかな斜面が見えてくる。岩場が多く、草木は少ないが、《天恵の地》の影響か、以前より緑が増えているように見えた。

 丘の斜面を登り始めると、コルが急に前方に走り出した。何かを見つけたようだ。

「コル、待って!」

 ライルとフィリスは彼の後を追った。コルは丘の中腹で立ち止まり、地面を掘り始めていた。その場所に来ると、確かに地面から温かい空気が漏れているのが感じられた。

「ここね……」フィリスは膝をついて地面に手を当てた。「地脈の流れが強い。そして、下には確かに空洞がある」

 ライルも地面に触れてみた。確かに温かい。そして、うっすらと水の音のようなものも聞こえるような気がした。

「村長の話は本当だったみたいだね」ライルは興奮気味に言った。「ここに本当に温泉があるのかも」

 コルは尾を振りながら、二人の反応を楽しそうに見ていた。

「村に戻って、この発見を伝えよう」フィリスは立ち上がりながら言った。「でも今すぐ調査するのではなく、しっかり準備してからにしましょう」

 三人が村に戻ると、ちょうどガルド村長が村の広場で何人かの村人と話していた。ライルたちの姿を見ると、村長は手を振った。

「おはよう。今朝は東の丘に行ってきたのかい?」

「はい」ライルは興奮した様子で答えた。「村長さん、洞窟の入口かもしれない場所を見つけました。温かい空気が漏れていて、水の音も聞こえるような……」

 ガルドの顔に笑みが広がった。「やはり! 伝説は本当だったんだな。これは素晴らしい発見だ」

 彼は村人たちに向き直り、声を上げた。「皆さん、東の丘の洞窟の場所が見つかったようだ! 数日中に調査隊を組織しよう!」

 村人たちの間に喜びの声が広がった。新たな発見への期待が、村全体を活気づけているようだった。

 その日の午後、ライルは再び畑で作業していた。今度は将来の市場用の野菜を植える準備をしていた。この瞬間、彼は心から満足していた。彼には《天恵の地》という特別なスキルがあり、フィリスとコルという大切な家族がいて、そして村という新しい故郷がある。

 追放されたときには想像もできなかった幸せな生活。そして、これからも新たな発見と冒険が待っているのだ。

 夕暮れ時、ライルは仕事を終え、家に戻った。フィリスとコルが暖かく迎えてくれる。夕食のテーブルには、村人たちからの贈り物——新鮮なパンや蜂蜜、手作りのチーズなど——が並んでいた。

「村の人たちは本当に親切ね」フィリスは微笑みながら言った。

「ああ」ライルも満足げに頷いた。「この村に来て本当に良かった」

 コルも嬉しそうに鳴き、二人の足元で丸くなった。

 窓の外では、夕日が村を金色に染め、徐々に夜の帳が下りていく。明日は新たな一日が始まる。洞窟の調査、市場の計画、そして神域としての村の発展——彼らの前には多くの可能性が広がっていた。

 しかし急ぐ必要はない。この穏やかな生活の中で、一日一日を大切に過ごしていけばいい。

 ライルは窓から見える風景を見つめながら、静かに微笑んだ。

「のんびり生きていくことにしよう」

 フィリスとコルはその言葉に、心から同意するように、それぞれの方法で応えた。

 こうして、追放された王都の「無能」と呼ばれた若者、封印から解放された地の女神、そして神秘的な銀色の神獣——三人の新たな物語が、辺境の村でゆっくりと、しかし確かに紡がれていくのだった。

               *    *    *

 夏の風が、物語の続きを優しく運んでいく——。

               第一巻 完